エルフの時計と、名もなき献身 3 〜『ぱぁぱ』の涙と、彼らの箱庭〜
3.
村の出口へ差し掛かったところで、コロはふと足を止め、前を歩く大男の背中に声をかけた。
「ねえ、エルリオン」
「ん、なんだよ」
「今夜、もう一晩だけ山小屋に泊めてもらえない?」
「あ? 薬草も売ったし、もうこの村に用はねえだろ」
「実はさっきね、薬草店のおじさんから聞いたんだけど、あの山の奥には『大雨が降った後の晴れた夜』にしか魔力を帯びない希少な薬草があるらしいんだ。滅多にない好条件らしいし、今夜のうちに採取しておきたくて」
コロは自身の鞄をポンと叩き、実務的な交渉を持ちかけた。
「ああ、夜華草のことか……。たしかに金になるな」
「もちろんタダとは言わないよ。多めに採取してきて、薬草も分けてあげる。……その代わり、今日の夕飯に、さっき村の人からもらったその猪肉を少しだけウルに分けてほしいな」
肉、という単語に、退屈そうに歩いていたウルがピクリと耳を反応させた。
『肉か……!ふむ。もう街道を歩き始めるような時間ではないしな』
「ほら、ウルもやる気満々だし」
「現金なガキと犬っころだぜ……」
エルリオンは呆れたように大きなため息をついた。
しかし、薬草店でも証明された通り、コロの採取の腕は確かだ。
希少な薬草が手に入るなら、今後のポーション作りにもリィンの生活費にも大いに役立つ。
エルリオンにとっても悪い取引ではなかった。
「……チッ、勝手にしろ。ただし、俺がポーション作ってる間や、ガキが寝てる時に騒がしくしたら、肉ごと外に放り出すからな」
「交渉成立だね」
かくして、実務的な取引とウルの食い意地により、一人と一匹はもう一晩だけ、あの不器用なエルフと赤ん坊の待つ山小屋へと帰還することになった。
山小屋に戻った一人と一匹は、約束通り猪肉を使った夕食にありついた。
ウルがご機嫌で肉を平らげている間、コロは一時小屋を抜け出し、夜露に濡れて魔力を帯びた『夜華草』をしっかりと採取して戻ってきた。
深夜。
パチパチと爆ぜる焚き火の音と、ゴリゴリと薬草をすり潰す音だけが小屋の中に響いている。
コロが採ってきた夜華草を早速ポーションに加工しながら、エルリオンは呆れたように大きなため息をついた。
「……まったく、どいつもこいつも、立ち上がるまでに何年かける気だ。おかげでこのガキは、毎日毎日、床や地面を這いずり回りやがる」
エルリオンの視線の先には、夜泣きもせずに元気に床を這い回っているリィンの姿があった。
そのズボンの膝の部分はすでに擦り切れており、何度も違う布で補強された跡がある。
よく見れば、エルリオンが着ている外套のツギハギと全く同じ素材だ。
「地面をヤスリか何かだと思ってやがるのか、このガキは。俺が夜な夜な自分の服の端を切り取って、何枚無駄にしてきたと思ってんだ。本当に手間のかかるクソガキだぜ」
「でも赤ん坊なんてすぐ立つようになるでしょ」
エルリオンの手伝いをしていたコロが、手元の薬草を処理しながらそう言うと、エルリオンは大げさなため息をついてみせた。
「人間族や獣人族はそうだろうな。だかな、エルフのガキはそうはいかねえんだよ。そいつなんざ、もう2年はずっとこのままだぞ」
『たまらんな……』
「そっか、エルフは長寿だけど、赤ん坊の頃から既に差があるんだね」
「そこいらの短命種のガキだったら、今頃はチョロチョロ走り回ってるぜ。全く……」
エルリオンが悪態をつきながら、すりこぎを動かし続けていた、その時だった。
這いずり回っていたリィンが、ふとエルリオンの座る丸太の椅子の足元へと近づいた。
そして、エルリオンの分厚い外套の裾を小さな両手でギュッと掴み、プルプルと生まれたての子鹿のように震える足に力を込めたのだ。
ゆっくりと、しかし確実に。
リィンは自分の足で、山小屋の木の床をしっかりと踏みしめた。
『おい、その『手間のかかるクソガキ』が立ったぞ』
それまで焚き火の前で、火の温かさに溶かされていたように床に伏せていたウルが、ムクリと起き上がりつつそう告げた。
コロは手を止め、ジッとリィンの勇姿を眺めた。
「……ねえ、エルリオン」
『おい、気がつけ。立っているぞ』
「ねえって。手を止めて」
「あぁ?ガウガウ、ペラペラ騒ぐなっつっただろ。俺は今集中して――」
コロの呼びかけに、エルリオンが忌々しそうに振り返り、視線を落とす。
「――――ッ!?」
エルリオンの時間が止まった。
すりこぎを持った手が空中でピタリと硬直する。
パチリ、と焚き火が爆ぜる音が、不自然なほど大きく聞こえた。
エルリオンは息を呑む音すら忘れ、自分の足元でつかまり立ちをした小さな命を、まるで未知の魔物でも見るかのような、畏怖と驚愕の入り混じった瞳で凝視していた。
「あうーっ!」
得意げに笑うリィン。
エルリオンは顔を真っ赤に引き攣らせ、何か言い訳を吐き捨てようと口を開きかけた。
だが、それよりも早く。
リィンがエルリオンの外套からパッと手を離し、満面の笑みで、彼に向かって小さな両手をいっぱいに伸ばしたのだ。
そして、よたよたと、覚束ない足取りで一歩だけ前に踏み出し――
「……ぱぁ、ぱ」
たった一言。
村の人々が何度も何度もエルリオンに向けて放っていたであろう、その言葉が、二年間、ただ這い回ることしかできなかった幼子の口から、明確な形を持って紡がれた。
「…………ぁ」
エルリオンの口から、言葉にならない掠れた息が漏れた。
彼は手からすりこぎを落とし、崩れ落ちるように床へ膝をつくと、伸ばされたリィンの小さな手を、壊れ物を扱うように震える両手でそっと包み込んだ。
歴戦の戦士の分厚い手が、信じられないほど小刻みに震えている。
『……おい。さっきから、こいつの心臓の音がうるさくてかなわん』
「静かに、ウル」
コロは、呆れたように鼻を鳴らす相棒を制し、優しく目を細めた。
今のエルリオンは、リィンの小さな手を握りしめたまま、ボロボロの外套のフードを深く被り、顔を隠すように俯いている。
「……ケッ」
長い長い沈黙の後、フードの奥から、水気を帯びた震える声が響いた。
「……ようやっと、服を買い替える頻度が減るな。ったく、膝の布を何枚無駄にしやがった」
「ぱぁぱ……!」
「なんだよ。ああ、そうだよ。俺がお前のパパだよ……。これからは靴の底を無駄にすり減らすんじゃねえぞ?トゲでも刺さったら危ねえからな……」
顔を隠し、誰の目から見ても明らかな『言い訳』を吐き捨てる大男。
「愛」という言葉を口にすることは決してない。それでも、その震える背中が、この不器用なエルフの真実の全てを物語っていた。
それからしばらくして。
すっかり静寂が訪れた山小屋には、エルリオンの規則正しい寝息と、彼の太い腕にぴったりとくっついて眠るリィンの小さな寝息だけが響いていた。
パチパチと小さく爆ぜる焚き火の残り火を見つめながら、毛布にくるまったコロに、ウルが小さな唸り声で語りかけてきた。
『……おいコロ』
「ん、なに?」
『あの麓の村、お前が探している場所の条件にかなり近かったんじゃないのか?』
「まぁ……かなりいい雰囲気の村だね」
『だろう?決めないのか?』
「どうして?」
『どうしてってお前……あの男のように、お前が適当な理由をつけて村に貢献すれば、村の連中も容易くお前を受け入れただろうに。定住しないのか?』
ウルの問いかけに、コロは寝返りを打って、すっかり「パパ」の顔になって眠る大男の背中を見つめた。
「良い村だったとは思う。これは本当にそう思ってる。でもね、あそこはエルリオンとリィンちゃんの居場所だからね」
『どういうことだ』
「私が同じように薬草を採取して村に卸したりしたら、あの『パパ』の仕事を食っちゃうでしょ」
『フン。弱肉強食の世界だ、奪えばよかろう』
「エルリオン相手なら商売でも負けない自信はあるけどさ。……これからリィンちゃんが大きくなるにつれて、服やら何やら、あの不器用なパパにはもっともっとお金が必要になるんだよ」
コロは小さく肩をすくめた。
「それに、魔物だって、今以上に怖がって近寄らなくなる。ウルだったら空の魔物だって敵じゃない」
『そうだな。できれば戦いたくない類の人類だが、それでも俺のほうが強い』
「だからこそだよ。私たちが全部奪っちゃうかもしれないんだ。他人の生活の糧を奪ってまで、あそこに諸手を挙げて定住したいとは思えなかった。……ただそれだけだよ」
『……つくづく、合理的で冷たいのか、人類みたく『お優しい』のか分からんヤツだな、お前は』
「褒め言葉として受け取っておくよ。おやすみ、ウル」
そう言って静かに目を閉じる一人と一匹。
硬い床の上から、深い微睡みの中へと落ちていった。
※ ※ ※
ふわり、と。
薬草と焚き火の匂いから一転して、鼻腔をくすぐるような甘く清らかな香りがコロを包み込む。
真っ白な空間で、コロは女神の温かい腕の中にいた。
「おかえりなさい、私の愛おしいコロ」
「ただいま、女神様。今日ね、とっても嘘つきなおじさんに会ったよ。愛なんてないって言いながら、二年もずっと一人の子を抱っこして、最後には泣いちゃってた」
「ええ、見ていたわ」
女神は愛おしそうにコロの銀髪を撫でながら、クスクスと楽しげに笑い声を立てた。
「人間やエルフはね、自分の優しさに『愛』なんて名前をつけちゃうと、その重さに耐えられなくなることがあるのよ。だから、あの人はその言葉を大切にしまっておいただけなの」
「そうなんだね。……二年もハイハイに付き合うなんて、私には想像もできないや」
「ふふ。長く生きる彼らにとって、二年はほんの一瞬。でも、あの人の心臓にとっては、とっても長くて愛おしい時間だったはずよ」
女神はコロの頬をそっと撫で、その氷藍色の瞳をじっと見つめた。
「あの村は、不器用な彼らが自分の人生を懸けて見つけた、彼らだけの箱庭よ。……奪わずに通り過ぎたコロの選択は、とても賢明で美しいわ」
「ううん。ただ単に、私の居場所はあそこじゃないって思っただけだよ」
「ええ、そうね。そうしておきましょう」
クスッと笑い、コロに回していた腕に力を込めた女神。
「あなたの箱庭はまだ先にあるわ。きっと」
「うん。そうだね。そうかもしれない」
「……明日も、良い旅を。私の可愛いコロ」
女神の底知れない慈愛に包まれながら、コロは再び温かい眠りの中へと溶けていった。
※ ※ ※
翌朝。
眩いばかりの陽光が差し込む山小屋の前で、コロとウルは旅立ちの身支度を整えていた。
「おい、ガキ」
背中から声がしてコロが振り返ると、エルリオンが無造作な手つきで、コロに向かって何かをヒョイッと放り投げた。
コロが反射的に受け取ると、それは昨晩、エルリオンがコロの持ち帰った『夜華草』を使ってせっせと作っていた、最高品質のポーションだった。
「……これ、すごく高く売れるやつでしょ。いいの?」
「チッ、調合のついでだ。一本や二本減ろうが、別に生活に支障はねえよ」
相変わらずの悪態だったが、そのポーションが「万が一の時のための備え」として、どれほどの手間をかけて作られたものか、コロにはよく分かっていた。
「ありがとう、エルリオン。いざという時は遠慮なく使わせてもらうよ」
『フン。この俺がいれば、そんなもの、使う機会もないがな』
「あぁ?どうせまた可愛げのねえ憎まれ口でも叩いてんだろ」
『……本当に言葉が分からんのか?』
感の鋭すぎるエルリオンにすっかりタジタジなウル。
コロは肩を竦めながらも、相棒の頭にポンと手を乗せた。
「ウルの口が余計なことを言わなければいいだけだよ」
「はは!やっぱりな!その口が利けなくなった時のために言ってんだよ、犬っころ」
憎まれ口を叩き合う一人と一匹、そして一人の大男。
そのエルリオンの足元では、つかまり立ちを覚えたばかりのリィンが彼のズボンに必死にしがみつきながら、去りゆくコロたちに向かって手を伸ばしていた。
「あうー!ぱぁぱ!」
「ちっ、引っ張るな!……ほれ、俺のズボンが脱げる前に、さっさと行きやがれ」
エルリオンは毒づきながらも、軽々と抱き上げたリィンの柔らかな頬を太い指でそっと突ついていた。
不器用なエルフの男が「愛」という言葉を自ら口にする日が来るのか。
それはまだ誰にも分からない。
コロとウルは、村と山小屋のある方向へ一度だけ振り返り、そして再び、見知らぬ土地へと歩き出した。
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