エルフの時計と、名もなき献身 1 〜森の奥の赤ん坊と、不器用な過保護〜
1.
商業都市でのワイバーン騒動から数日後。
コロとウルは、希少な薬草を求めて、人里から離れた深い山の中へと足を踏み入れていた。
高くそびえる木々が陽の光を遮り、周囲には湿った苔と腐葉土の青臭い匂いが立ち込めている。
幾重にも重なる枝葉が空を覆い隠し、踏み出すたびに、水をたっぷり吸い込んだ黒い土がジュクジュクと嫌な音を立てる。
肌にねっとりとまとわりつくような重い湿気が、鬱蒼とした森の不気味さをより一層引き立てていた。
この辺りは、滅多なことでもない限り、人が安易に立ち入るような場所ではない。
魔物の気配も濃いこの山道で、ウルがふと足を止め、鼻先をヒクつかせた。
『……おいコロ。妙な匂いがするぞ』
「ん、妙な匂い?」
『ああ。使い込まれた古い鉄と、魔物の返り血の匂い……そこまではいい。だが、それに混じって、こんな山の中にはあるはずのない『甘ったるいミルクの匂い』が近づいてきている』
「え?動物の……いや、繁殖期ではなかったね」
『これは人類のものだ。人里で嗅ぐものだな。よく日に当てた布のような匂いもする』
スンスンと鼻を利かせているウルの背中にポンと手を置くコロ。
「にわかに信じがたいね。こんなところに赤ん坊を連れてくる人類なんて見たことはないよ」
『俺だってそう思うが、思い違いはしないぞ。たしかに感じる』
ウルの言葉通り、少し先の獣道から、ガサリと重たい足音が聞こえてきた。
そこに現れたのは、長身のエルフの男だった。
だが、物語に出てくるような美しく高貴なエルフとは程遠い。
筋骨隆々とした逞しい体躯に、顔にはいくつもの古い傷跡。
そして右手には無骨なメイスと、左手にはミスリルで打たれ、刀身が水色に光るショートソードが握られている。
長年、傭兵か何かで荒事を生業にしてきた『成れの果て』のような、人相の悪い男だ。
そして何より異様なのは、その男の背中に、不格好な布で厳重に括り付けられた『エルフの赤ん坊』がいることだった。
「ん……?なんだ、ただのガキと犬か。こんな山奥で何してやがる」
「……それはこっちのセリフだよ。こんな山奥で赤ん坊を背負って、一体何をしているの?」
その男の身なりは、何度も修繕された革や厚手の布が混ざり合い、もはや元の色が判別できないほどの継ぎ接ぎだらけだった。
上から古い外套を羽織って誤魔化しているが、ボロボロであることには変わりない。
対照的に、背中の赤ん坊は常に清潔で柔らかな布に包まれており、ウルが嗅ぎ取った『お日様とミルクの匂い』は間違いなくこの赤ん坊から発せられていた。
こびりついた魔物の血と油の匂いが染み付いた野盗のような巨躯。
その背中に、真新しい純白の繭のような布がぽつんと乗っかっている光景は、どう見ても正気の沙汰ではない。
『……血なまぐさい割に、所々に『平和な匂い』が混じってて、見てて頭が混乱しそうだ』
ウルが呆れたように鼻を鳴らすが、男は「あ?犬がなんか喚いてんな」と眉間に皺を寄せるだけで、まったく相手にしなかった。
「チッ、まあいい。俺は急いでるんだ、邪魔するなよ」
男はコロの質問には答えず、舌打ちをして再び獣道を進み始めようとした。
「……ねえ、おじさん」
同じ方向へ進むため、男の後ろを歩き始めたコロが、ふと声をかけた。
「背中のそれ、落とさないように気をつけてね。さっきから結び目が少し緩んでるよ」
「あん?当たり前だ。誰がこんな……ぅおっ!!?」
男が振り返りざまに悪態をつこうとした、その時だった。
彼が踏み出した先――前日の雨で地盤が緩んでいた山道の端が、音もなく崩れ落ちたのだ。
「あ」
『さすがに助けるか?』
一人と一匹の冷静な反応とは裏腹に、大きく体勢を崩す男。
そしてその反動で、男の背中の不格好な結び目が完全に解け、赤ん坊がふらりと宙に放り出された。
崖下へ向かって、小さな体が傾く。
「――ッ!!」
その瞬間、男の体が常人には見えないほどの速度でブレた。
それはかつて、幾多の戦場で強敵の命を刈り取ってきたであろう、獲物を仕留めるような鋭く無駄のない動きだった。
男は崖に滑り落ちる寸前で、崩れゆく土塊を置き去りにするように力任せに木の根を蹴り上げた。
バキィッ!と太い根が砕ける音と共に泥を跳ね上げ、空中で強引に身を捻る。
そして、武器を握り潰せるほどの太い丸太のような両腕で、赤ん坊をガッチリと、だがまるでガラス細工でも扱うかのようにふわりと、衝撃を与えないように柔らかく抱きとめた。
「……その必要は無かったね」
『そんじょそこらのエルフとはわけが違う、か』
「だね」
放り出した武器が辺りにドサッと落ちたのと同じタイミングで、ドサッ!と、大きな音を立てて男が背中から安全な地面に落ちる。
「……あーっ、くそったれ!!いちいちハラハラさせやがって!!」
赤ん坊に怪我がないことを確認するなり、男は激しく悪態をついた。
腕の中の赤ん坊は、あやしてもらったのかと勘違いしているのか、キャアキャアと声を上げてはしゃいでいる。
だが、コロの氷藍色の瞳は、男の顔が強敵を前にした時よりも真っ青に染まり、激しく肩で息をしているのを見逃さなかった。
「おじさん、心臓が壊れちゃうんじゃないかってくらい、すごい音してるよ」
「……う、うるせえ!死なれたら俺の後味が悪いだけだ。クソッ、手間ばかりかけさせやがって……!」
男は強弁しながらも、抱きとめた赤ん坊の背中を、不器用で大きな手で何度も何度も、確認するように撫で続けていた。
「余計なお世話だと思うけど、赤ん坊を連れて来るような場所じゃないよ」
「んな事分かってらぁ!こっちだって好きで連れ回し――」
その直後、ゴロゴロと遠くで鳴っていた雷鳴が近づいたかと思うと、頭上の葉をバチバチと叩くけたたましい音と共に、冷たい土砂降りの雨が滝のように降り出した。
むせ返るような森の青臭さが、一瞬にして冷たく重い雨の匂いへと塗り替えられ、急激に体温を奪っていく。
「チッ、ツイてねえ。……おいお前ら、風邪引きたくなきゃついてきな。俺の小屋がすぐそこだ」
赤ん坊が濡れるのを極端に嫌がった男の不器用な誘いで、コロとウルは小さな山小屋で雨宿りをさせてもらうことになった。
雨風をしのげる急ごしらえの山小屋の中には、パチパチと爆ぜる小さな焚き火の音だけが響いていた。
外の嵐が嘘のように、小屋の中は古びた木の匂いと、焚き火の煙に混じって、ほのかに甘い赤ん坊の匂いが閉じ込められていた。
継ぎ接ぎだらけの壁の隙間から差し込む風が、焚き火の光を揺らし、小屋の中に長い影を落としては、男の顔の古い瘢痕を不気味に、だが温かく浮かび上がらせている。
男は手早く赤ん坊の濡れた布を取り替え、清潔な毛布でくるんでやると、おもむろに立ち上がった。
「おい、犬っころ。そこでブルブルと水滴を撒き散らすなよ?ガキにかかって変な病気にでもかかったらたまんねえからな」
「だってさ、ウル」
濡れてしまったウルをキッと睨みつける男は、サッと赤ん坊を自分の影に隠すように背中を向けた。
『神経質過ぎると思うがな……』
「おい、お前ら。俺はちょっくらこの辺で薬草を取ってくる。……ちょっとの間でいいから、そのガキを見ていてくれ」
「え、この土砂降りの中を?」
まさかすぐに出かけるとは思っていなかったコロは、手持ちの布でウルをワシワシと拭く手を止めて、男の瞳を見つめる。
「ああ。いいか、絶対に火の粉が飛ぶような場所に寝かせるなよ。あと、床の埃を舐めねえように目を離すな。もし泣き出したら、縦じゃなくて横に、ゆっくり揺らせ。早すぎたら吐くからな。それから――」
息継ぎすら忘れたかのように、怒涛の勢いで因縁に近い注文をつけまくる男。
ただの『厄介な赤ん坊』に対する態度とは到底思えないその過保護っぷりに、コロは小さく息を吐き、自身の斜めがけの鞄を開けた。
「……あのさ、外に出る必要はないよ。この辺の薬草なら、私があらかた採取してきたから」
コロは敷物の上に、丁寧に処理された数十種類の薬草をズラリと並べてみせた。
どれも根や葉が傷まないよう完璧な状態で保管されており、ほのかに清涼感のある香りが小屋の中に広がる。
「おおっ!気が利くじゃねえか。しかも最上級の品ばかりだ」
「これで食べているからね。腕には自信があるんだ」
「こりゃ『腕に自信がある』ってほざいていい品質じゃねえかよ。村で売ってるものなんてよ、とてもじゃねえけど買う気になれねえって言うかよ……」
男は感心したように口笛を吹き、迷うことなく一番手前にある、解熱作用のある薬草『月光草』の束へと太い手を伸ばした。
「その月光草なら、一束あたり千バルカだよ。隣の星見草とセットなら、おまけして千四百バルカでいいよ」
コロはすかさず、男の太い手首をピシャリと叩いて制止し、あくまで『売り物』として立ちはだかった。
「……チッ。こんな山奥で足元を見やがって。がめついガキだ」
「そもそもその辺の薬草店じゃ買えない品質だし、中間も挟まっていないから、すごくお買い得だと思うよ」
「ちゃっかりしやがって……待ってろ」
男は忌々しそうに舌打ちをしたものの、それ以上は一切値切ろうとせず、自身のボロボロの革袋から銀貨や大銅貨を数枚取り出し、キッチリと全額をコロに支払った。
お金を受け取り、チャリンと小気味良い音を立てて鞄にしまうコロ。
「はい、たしかに。……でも、なんで今そんな薬草が必要なの?どれも即効性の強い薬草ばかりじゃない」
「あぁ?決まってんだろ。全部このガキのためだ」
「えっ?」
コロは、毛布に包まれた赤ん坊へと視線を向ける。
当の赤ん坊は、焚き火の暖かさが心地よいのか、手足をバタバタと動かしながら「きゃうきゃう」と機嫌良さそうに笑っている。
熱があるわけでも、怪我をしているわけでもない。どう見ても健康そのものだ。
ウルが恐る恐ると言った様子で、ソっと赤ん坊の顔を覗き込んだ。
『おい、病気どころか、何の問題もないぞ』
「……おじさん。その子、すごく元気そうだけど」
「…………チッ」
痛いところを突かれた男は、大きな舌打ちをしたかと思うと、ドカッと丸太の椅子に腰掛け、小刻みに貧乏ゆすりを始めた。
「……万が一の時にだ!」
「万が一?」
「急に熱を出したり、腹を壊したりされてみろ?手元に備えが無かったらクソ面倒臭えだけだろが!か、買い置きして何が悪い!」
「あー……、うん。悪くはないけどね……」
大声で強弁しながら、男はその巨体と、かつては無数の命を奪ってきたであろう分厚い手で、小さな『すり鉢』と『すりこぎ』を器用に構えた。
すり鉢を置いた棚の隣には、刃こぼれしたメイスや水色に光るショートソードが、まるでただの日用品のように無造作に立てかけられている。
その下には、泥を被った赤ん坊のズボンや、使い古されたすりこぎが転がっていた。
そして、今しがたコロから買ったばかりの薬草を、赤ん坊が飲み込みやすいように、ゴリゴリ、ゴリゴリと、それはそれは繊細で優しい手つきで擦りはじめるのだった。
『…………』
「…………」
凄みのある傭兵崩れの大男と、チマチマとしたすり鉢。
そして、「クソ面倒臭え」と悪態をつきながらも、ただただ赤ん坊の健康のためだけに薬草を粉末にする不器用な背中。
あまりにも激しすぎるギャップに、コロとウルは何も言えず、ただ黙って顔を見合わせるしかなかった。
『ぬぅ……こいつ、ヒゲを……!』
「ダメだよ、ウル。我慢して」
「おい、犬!下手な真似をするんじゃねえぞ!?引っ張られてろ」
『くそっ……なんで俺が……』
「そんな興味津々にクンクン嗅ぐからだよ」
『興味津々ではない!』
「はいはい。じゃあ私もあやすよ」
パチパチと爆ぜる薪の音と、ゴリゴリと薬草をすりつぶすすり鉢の音。
そして外から聞こえてくる、バケツを引っくり返したような雨音。
一人と一匹は、人類の赤ん坊の相手をしていた。
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