魔術師の教本と、名もなき個体差 3 〜読まれない教本と、極上ステーキ〜
3.
街道のど真ん中に、巨大なワイバーンの死骸が横たわっている。
ひび割れた脳天からは未だにチリチリと黒い火花が燻り、大気を焦がすオゾンの匂いと、炭化した肉の鼻をつく悪臭が周囲に立ち込めていた。
上位種であるアッシュウルフの強烈な黒雷を浴び、文字通り即死した飛竜の姿は、馬車一台分ほどの巨大な障害物として道を塞いでいる。
「おい、御者のおっさん!街に向けて『大物討伐・回収要請』の黄色い狼煙を上げてくれ。こいつの皮と牙は高く売れる。俺たちだけで解体して運ぶにはデカすぎるからな」
「は、はいっ! すぐに!」
本職の護衛である青年がテキパキと指示を出し、御者が馬車の備品から狼煙筒を取り出して空に向けて放つ。
シュルルルッ、と黄色い煙が、血なまぐさい地上の惨状をあざ笑うかのように、真っ青な空に一筋の線を描いた。
ここから街の解体業者や兵士たちの応援が駆けつけるまで、しばらくはこの場所で待機となる。
煙が風に流れていくのを眺めながら、周囲には重苦しい静寂と、むせ返るような血の匂いが漂っている。
間近で見るワイバーンの巨体は、まさに暴力の塊だった。
鋼鉄のように硬い暗緑色の鱗、馬車を丸ごと引き裂けそうなほど太く鋭い爪。
もしウルの黒雷がなければ、間違いなくこの場にいる全員がその胃袋に収まっていたはずだ。
興奮冷めやらぬ馬たちが時折いななき、恐怖で蹄を鳴らす中、護衛の青年は油断なく周囲の森へと視線を配っている。
血の匂いに釣られて他の魔物が寄ってくる可能性もあるからだ。
「さて、と……」
護衛の青年は、ワイバーンの死骸がピクリとも動かないことを確認すると、剣の柄に手をかけたまま、御者台の近くで座り込んでいるセリアの前に立った。
「ヒッ……あ、あ、ああ……」
セリアは未だにパニックから抜け出せず、泥だらけになった教本を抱きしめたままガタガタと震えていた。
真新しかったはずのローブは尻餅をついたせいで土に汚れ、すがるように胸に抱えられた教本は、飛び散ったワイバーンの返り血を吸って無惨にページが波打っている。
「お、おかしいわ……本には……本には、あんな例外なんて……」
「おいおい嬢ちゃん。まさか本気で『本と違う』なんて言ってんのか?」
うわ言のように教本のせいにするセリアを見下ろし、青年は深く、呆れたようなため息を吐いた。
「え……?」
「生憎、魔物は教本なんて読んでくれねえんだよ。昨日火傷して気が立ってる奴もいれば、生まれつき耳が遠い奴もいる。ましてや、腹が減って死にそうな空のトカゲに、教本通りのお行儀いい反応を期待する方がどうかしてるぜ」
青年は、セリアがすがるように抱きしめている本を顎でしゃくった。
「辺境伯様の私兵になるんだろ?だったら、紙っぺらじゃなくて『目の前の敵』をしっかりと見ろよ。でなけりゃ、最初の戦場でその本を抱えたまま食われるぞ」
現場で命を張るプロからの、あまりにも身も蓋もない正論。
セリアは言い返す言葉もなく、ただ顔を真っ青にして唇を噛み締めることしかできなかった。
そんな彼女の様子を、荷台から眺めていたコロがボソリと呟いた。
「……護衛のお兄さんの言う通りだよ、お姉さん」
「あ……」
「人類に色んな人がいるようにね、魔物だって色んな魔物がいるんだよ。……人類だけが、一人一人に『性格』がある特別な生き物だと勘違いしてはいない?」
コロの氷藍色の瞳は、どこまでも冷たく、フラットだった。
「本の中の『平均値』も、その本を書いた人も、今、お姉さんの代わりに食われてはくれなかったでしょ」
「…………」
「……紙の匂いばかり追いかけてるから、足元が泥だらけなのも気づかないんだよ」
コロはそれだけ言うと、自身の拠り所だった教本ごとプライドを粉砕され、呆然とする女魔術師から視線を外し、水筒の水をあおった。
これ以上、セリアに何かを言うのは、言うだけ無駄だ。
彼女が現場のリアリズムを学んで生き残るか、本に縋ったまま死ぬかは、コロたちには何の関係もないことである。
やがて、遠くの街道から土煙を上げて、街から解体業者や兵士たちが駆けつけてきた。
そして、目の前でドロンと死んでいるワイバーンを目の当たりにて、誰もが一様に興奮の弁を口にしていた。
「こりゃあすげえ!殆ど傷のねえ、極上の素材だぞ!」
「想像の斜め上を行く綺麗な死骸だな……!」
荷馬車から降りてきた屈強な業者たちは、ワイバーンの頭部を見下ろして息を呑んだ。
「おい見ろよ、脳天だけが綺麗に消し飛んでるぜ……」
「普通の魔法や剣じゃ、こんな傷口にはならねえぞ……」
「ああ。一番高く売れる胴体の鱗も、翼の被膜も完全な無傷ときた。王都の貴族連中に持っていけば、いくら積まれるか分からねえぜ」
彼らは興奮で顔を紅潮させながら、信じられないものを見るような目で、荷台で欠伸をしているウルと、その横に座るコロを交互に見比べた。
ワイバーンという大物の死骸を前に興奮する彼らだったが、当然ながらその所有権は討伐したウルであり、そうなってくると、テイマーだと思われているコロにある。
「で、テイマーの嬢ちゃん」
「うん」
「こいつを解体して部位ごとにギルドで売れば、相当な額になるが……どうする?俺たちが街まで運ぼうか?」
「ううん、旅の途中だし、待つのも面倒だからいいや」
「いやぁ、そりゃそうやって処理も出来るが……」
「別に相場より安くなってもいいから、ここで丸ごと、即金で買い取ってほしいかな」
「えっ!? ま、丸ごと即金で!?嬢ちゃん、そりゃあ俺たちは大儲けできてありがてえが……本当にいいのか!?」
「うん。魔物討伐は本業じゃないし、本業の採取家で十分に食べて行けているからね」
コロの徹底した実務主義な提案に業者は驚愕しつつも、すぐさま馬車に積んでいた金庫を開け、手持ちの現金をかき集め、その場でずっしりと重い金貨の袋をコロに手渡した。
コロがそれを受け取ると、ジャラリ、と小気味良い金属音が鳴る。
コロはその重さを無造作に確かめつつ、斜めがけの鞄へと放り込んだ。
かくして、乗合馬車はワイバーンの死骸と解体作業で盛り上がる業者たちを街道に残し、再び目的地へと出発した。
夕刻。
馬車が目的の商業都市に到着すると、コロは抜け殻のようになっているセリアのことなど一瞥もせず、さっさと荷物をまとめてウルと共に雑踏へと消えていった。
適当に見つけた宿に部屋を取り、一息ついた一人と一匹は、夕食をとるために一階の酒場へと降りた。
扉を開けた瞬間、ローストされた獣肉の脂っこい匂いと、エール酒の甘ったるい香りが熱気と共に押し寄せてくる。
だが、今日の酒場はいつも以上に異様な活気にあふれ、ジョッキを打ち鳴らす客たちの話題はある一つの出来事で持ちきりだった。
「おい、聞いたか!?街道でワイバーンが狩られたらしいぞ!」
「ああ! しかも業者が丸ごと買い取って、もう解体所に持ち込まれたってよ!ってことは……」
「久々に『ワイバーンの極上ステーキ』にありつけるぜ!!」
客たちの興奮気味な声に、コロは目を丸くした。
「……極上ステーキ?」
『……どういうことだ。あんな腐肉のような匂いのトカゲが美味いわけがなかろう』
ウルが怪訝そうに鼻を鳴らすが、隣のテーブルに座っていた地元の商人が、自慢げに教えてくれた。
「さてはお嬢ちゃんたち、よそ者だな?」
「うん。でもワイバーンの肉なんて、堅いし臭いし、あれを食べるのは難しいんじゃないかな」
どうやらコロの回答は、地元の者の心を擽る『よそ者の模範解答』だったらしく、機嫌良さそうにカラカラと声を上げて笑い出した。
そんな周囲の様子に、コロとウルは視線を合わせて首をかしげるばかり。
「ははは、普通の街じゃあワイバーンなんて臭くて硬くて食えたもんじゃねえが、この街には特別な香草と魔法の調理法があってな。独自の香辛料で三日三晩マリネして臭みを完全に消し去り、高温の鉄板で一気に焼き上げるんだ!」
「独自の香辛料……なるほどね」
「そう!そいつを焼き上げるとな?こう、ナイフをスッと入れた瞬間……溢れ出す濃厚な肉汁と、口の中でとろけるような赤身の旨味……!あれを一度食っちまったら、そんじょそこらの牛や豚の肉なんざパサパサして食えなくなるぞ!」
商人が喉を鳴らして熱弁を振るうと、周囲の客たちも「違いない!」「早く肉が市場に出回らねえかな!」とジョッキを掲げて同調した。
「へえ、そうなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、生唾をゴクリと飲み込んだウルの黄金の瞳が、ギラリと怪しく光った。
『……おい、コロ』
「ん?どうしたの?」
『……俺は、その極上のワイバーンの肉を食ってからこの街を離れたい』
昼間、『こんな腐肉を喰らうくらいならその辺の雑草でも食う』と豪語していた誇り高きアッシュウルフの、見事なまでの手のひら返しである。
「ふふっ。極上の雑草じゃなくて良かったの?」
『うるさい。……俺が仕留めてやったのだ。味わう権利くらいはあるだろう』
バツが悪そうにそっぽを向く相棒に、コロは小さく肩をすくめた。
「はいはい、わかったよ。じゃあ、お肉が市場に出回るまで、この街で少しゆっくりしようか」
『うっかり今日の儲けを全て魔結晶に換金するなよ?』
「ははは、さすがにそんなミスはしないよ」
『食べてから換金しに行くぞ?』
「分かってるって!心配性だなぁ」
『そのステーキがいくらするのか分からんからな』
あまりに心配性なウルの姿にコロはクスッと笑い、汚れていた相棒の口元を手で拭った。
※ ※ ※
その夜。
宿屋の柔らかいベッドの上で、コロは深い微睡みの中へと落ちていった。
――ふわり、と。
埃っぽい現実の空気から一転して、鼻腔をくすぐるような甘く清らかな香りがコロを包み込む。
気がつけばコロは、真っ白な空間で女神の温かい腕の中にいた。
「おかえりなさい、私の愛おしいコロ」
「ただいま、女神様。今日ね、本の中の『正解』ばかり探してるお姉さんに会ったよ」
「ええ、見ていたわ」
女神の腕の中で、胸元に顔を擦り付けるようにして甘えるコロ。
日中の血生臭い出来事や、愚かな人類の騒音など、ここには一切届かない。
そこには、ただただ絶対的な平穏と愛だけが存在している。
女神は微笑みを浮かべたまま、コロの背中をトントンと優しく叩いている。
「……本には、お腹が空いた魔物が何を考えてるかまでは書いてなかったみたい」
「そうね。それは人類が本に認められるほど単純なことではないわ」
女神は愛おしそうにコロの銀髪を撫でながら、クスクスと楽しげに笑い声を立てた。
「言葉は便利だけど、世界の全てを本に閉じ込めることはできないわ」
「そうだね。私も無理だと思う」
「特に人類は、自分たちに都合のいいように世界を『整理』したがる生き物なの」
「うん。本を読んで勝ったつもりになるなんて……」
「ふふ……。でもね、コロ」
女神はコロの頬をそっと撫で、その氷藍色の瞳をじっと見つめた。
コロもジッと女神の黒い瞳を見つめている。
「あなたは『本に書いてない匂い』をちゃんと嗅ぎ分けられたわ」
「うん」
「……机上の空論に縋る哀れな羽虫たちと違って、私のコロは、この生々しい世界を自分の足で歩いているのね。なんて愛おしくて、誇らしいのかしら」
「凄く嬉しいけど、そんなに褒められるようなことなの?」
「ふふ、いいのよ。……ただ、少しだけ、本当に少しだけ……」
女神の甘い声の奥底に、ほんの微かな、だが絶対的な冷酷さが滲む。
「あなたの言う通り、現実の魔物たちは、あの人類の『ごっこ遊び』に付き合ってあげるほど、お行儀よくは生きていないわ。……どこかで私兵なるのなら、すぐに思い知ることになるでしょうね」
女神の底知れない微笑みに包まれながら、コロは再び温かい眠りの中へと溶けていった。
女魔術師が今後、戦場でどんな悲惨な最期を遂げようと。
それは、明日のワイバーンステーキの味に思いを馳せるコロにとっても、愛おしいコロを慈しむ女神にとっても、それは本当に知ったことではない。
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