喝采の残香と、黒い衣装 2 〜凍りつく墨の匂いと、孤独の舞台〜
2.
「その、黒い縁取りの手紙。私の名前が見えたんだけれど……」
アンナのその一言で、薄暗い廊下の時間は完全に停止した。
初老の男――おそらく劇場の支配人は、ひったくられるように手紙を奪われ、口をパクパクと金魚のように動かすことしかできないでいる。
「ち、違うんだ……!それはだな……」
アンナは無言のまま、震える手で、既に封を切った形跡のある黒い縁取りの手紙を便箋から抜き取って開いてみせた。
コロとウルは、その場から立ち去ることもできず、ただ静かにその様子を観察していた。
便箋に目を落とした瞬間。
アンナの美しい顔から、一切の血の気が引いた。
「……嘘、でしょ」
「すまんな、アンナ……これを渡そうかどうか……すまん」
「ああ、嘘よ……ねえ……」
手紙を持つ手が、ガタガタと音を立てるほど激しく震え始める。
華やかな舞台裏の喧騒が、まるで深い水底に沈んだかのように遠のいていく。
周囲の大人たちが慌てふためく足音も、遠くの客席から漏れ聞こえる開演を待つ人々のざわめきも、今の彼女には一切届いていない。
手の中の薄っぺらい紙切れ一枚が、彼女の世界のすべてを無慈悲に押し潰してしまっていた。
アンナは、叫び声一つ上げなかった。
ただ、その場にへたり込みそうになる身体を壁に預け、便箋を胸に強く押し当てただけだった。
だが、ウルの鼻には、彼女から発せられる匂いが一瞬にして変質したのがはっきりと分かった。
『……おい、コロ。なんだ、この匂いは』
ウルが怪訝そうに鼻を鳴らす。
つい先ほどまで楽屋に立ち込めていた「高級な香水」や「緊張の汗」の匂いは、完全に消え去っていた。
「……お姉さん、今、心が『真っ黒』になっちゃったみたいだ」
コロは、感情を完全に押し殺した声で呟いた。
悲しい匂いよりもずっと冷たくて、重たい。
まるで、これ以上の感情の揺れを自分自身に禁じるように、心を厚い墨で塗りつぶしてしまったような、凍りつくような匂いだった。
「ア、アンナ……!大丈夫かね!?今夜の公演は、代役を立てるか、中止に……!」
我に返った支配人が慌てて駆け寄るが、アンナはゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ。歌うわ」
「し、しかしだな……!」
「この公演のために、何ヶ月も前から準備をしてきたんだもの……」
「だが!君の顔色はまるで死人だ!そんな状態で舞台になんて……!」
「歌うのよ。私は、歌うの。……歌うしかないじゃない!!ジョシュアを失ったら……私、もう歌うことしか残っていないじゃないのッッッ……!!」
初めて感情を爆発させたアンナの金切り声が、薄暗い廊下に反響する。
彼女は支配人を突き飛ばすようにして楽屋へ戻ると、ドアを勢いよく閉ざした。
「こんなもの、遅かれ早かれだ。支配人、仕方ねえよ……」
「故郷に置いてきた恋人が……。そんな状況で病み上がりのアンナに歌わせるのは酷な話ですな……」
「とは言え、客席は超満員だ……。今更『本日は急遽、中止となりました』などと言ってみろ。我々は無事では済まんぞ……!」
「じゃあどうするってんだよ?楽屋の扉を蹴破って、アンナに『恋人の死を嘆くのは、公演が終わってからにしろ』とでも脅迫してくるか?馬鹿野郎、声さえ出りゃいいってもんじゃねえんだぞ?」
「ですよ。だって、恋人の死を知らされた直後に歌うのが、あの恋の歌ですか?支配人……いくらなんでも無理ですよ!」
「馬鹿言うな!じゃあお前が今から舞台に上がって『本日は中止です』と告げてくるか!?」
男たちの不毛な言い争いは、止む気配がない。
「……ウル。せっかくだし、私たちも少しだけ客席で見学していこうか」
『……フン。お前がそうしたいならな』
一人と一匹は、裏方たちの混乱をすり抜け、劇場の最後方――立ち見の客がひしめく暗がりに陣取った。
劇場内は、今か今かと開演を待ちわびる観客の熱気で、むせ返るような温度になっている。
天井を覆う豪奢なシャンデリアの熱と、何百という人類が発する興奮の呼気が混ざり合い、劇場内は立っているだけで汗が滲むほどの熱帯と化していた。
誰もが純粋な娯楽を求め、これから与えられる極上の歌声に酔いしれる準備を整えている。
舞台袖で一人の女性の人生が致命的に壊れたことなど想像もしていない、無邪気で残酷な熱気だった。
やがて、重厚なベルの音が鳴り響き、真紅の幕がゆっくりと上がっていく。
真っ暗な舞台の中心へと、まるで天からの裁きのように一筋の強烈な光が突き刺さる。
その暴力的なまでの眩しさの中に浮かび上がったのは、華やかな舞台にはあまりにも不釣り合いな姿だった。
ステージの中央。
眩いばかりの魔石灯のスポットライトを浴びて立っていたのは――アンナだった。
「それでも舞台に立つんだね……」
『職人――だな』
ただ、彼女の纏う衣装は、先ほど楽屋で見た煌びやかなドレスではなかった。
喪に服すような、漆黒のベルベットのドレス。
そして、青ざめた顔を隠すほどの分厚い化粧と白粉。
「……黒い衣装に着替えたんだね」
『中身が今にも弾けそうな音を立てているぞ。これじゃ歌う前に壊れてもおかしくない』
ウルの言葉通り、スポットライトの強烈な光は、彼女の影を色濃くステージに落とし、逃げ場のない孤独を強調していた。
だが、前奏が終わり、彼女が口を開いた瞬間。
――♪
劇場中の空気が、震えた。
鼓膜を震わせるというより、直接心臓を鷲掴みにされるような、生々しいまでの悲痛な響き。
吐く息の震え、音の端々に滲む隠しきれない嗚咽すらもが、計算し尽くされたかのような極上の『表現』となって観客の耳を打つ。
それは、死して喪われた恋人への絶望と、二度と叶わない約束への慟哭を、無理やり『音』へと変換したような、恐ろしくも美しい歌声だった。
「……不思議だね」
コロは氷藍色の瞳で、ステージ上のアンナを見つめる。
「あのお姉さん、今すぐにでも死んじゃいたいって匂いがしてるのに、声だけは女神様みたいに綺麗。……人類って、自分の命を削って『音』に変えることができるのかと勘違いしてしまいそう」
『……フン』
ウルは、熱狂に包まれ、涙を流しながら拍手を送る観客たちを冷ややかに一瞥した。
『観客どもは、あいつの絶望の悲鳴を「最高の表現力」だと思って喜んでいるぞ』
「だね。感無量の涙と勘違いしている」
『……あいつが心をすり減らして血を流しているのを見て、感動しているんだ。……趣味の悪い共食いだ』
ウルの冷徹な指摘の通り、観客はアンナの悲しみなど知る由もない。
彼らが消費しているのは、一人の女性の人生が崩壊していく、その刹那の美しい輝きだけだった。
拍手と喝采の嵐。
その眩しすぎるスポットライトの中心で、アンナという女性の人間としての心は、完全に焼死しようとしていた。
最愛の恋人の元へ、今すぐに飛んでいきたいという歌に乗せて――
鳴り止まない拍手と、割れんばかりの歓声の嵐。
一人と一匹は、その熱狂が最高潮に達し、アンナが漆黒のドレスのまま深く一礼をしたところで、静かに客席を後にした。
裏口から外へ出ると、濃い霧の向こう側に、ようやく港町の夜の静寂が待っていた。
カランカラン、という力ない鈴の音と共に薬草店に戻ると、奥の長椅子に横になっていた老ドワーフ――バルドが首を巡らせた。
「おお、帰ったか」
「うん。ただいま」
「……で?どうだったよ。すぐ帰ってこなかったってことは、裏からチラッと聴いてたんだろ?な?」
「うん、聴いてたよ。すごく綺麗な声だった」
コロはバルドが用意してくれていた干し肉を齧りながら、ひどく平坦な声で事実だけを告げた。
「でも、あのお姉さん……そう遠くないうちに心がダメになると思うよ」
「ん……なんでだよ?」
「本番直前にね、恋人のジョシュアとかいう人が死んだって知らせが届いたみたい」
「なっ……いででででッッッ!!!痛ぇ……な、何があったんだよ?」
「それがね、直前に黒い縁取りの手紙を受け取ってね。絶望の匂いを撒き散らしながら舞台に立っていたよ」
バルドは息を呑み、そして深く、ひどくしわがれたため息を吐いた。
「……そうか。故郷に置いてきた恋人が、たしかそんな名前だったか――」
バルドは、天井の木目を見つめながらポツリポツリと語り出した。
それは、アンナがこの港町に流れてきて間もない頃の話だった。
「――あいつ、始めのうちは本当に金がなくてな。昼間はこの薬草店で下働きをしてよ、埃にまみれ、夜は治安の悪い酒場の隅で、酔っ払い相手に歌わせてもらうような日々だった」
「……へえ」
「それでも、アンナの目はいつもキラキラと輝いていた。やがてアイツの才能が認められてな?劇場の前座で歌えるようになり、あれよあれよという間に看板歌手ってわけだ。『伝説の歌姫』なんて大層な呼ばれ方をするようになったが……」
バルドは目を閉じ、苦しそうに顔をしかめた。
「一番聴かせたかった男が死んじまったんじゃ、あの見事な喝采も、ただの呪いだな」
コロは干し肉を飲み込み、静かにウルの銀毛に寄りかかった。
華やかなスポットライトの裏にあった、泥臭い日々と、ささやかな約束。
それが一番高い場所へ登り詰めた瞬間に失われるという、人類の人生のどうしようもない「ままならなさ」。
充てがわれた部屋へと引っ込み、一人と一匹はベッドでピタリと寄り添い合うようにして横になっていた。
『……まぁ、人類の事情など、知ったことではないがな』
ウルが退屈そうにあくびをする。
コロも「そうだね」と小さく同意した。
『しかし……少し同情する気持ちも、ないでもない』
「……そうだね」
明日歩くための体力を回復すべく、静かに目を閉じた。
夜が明け、港町を覆っていた重たい霧が少しずつ晴れ始めた頃。
カランカラン。
店の鈴が鳴り、静かに扉が開いた。
早々に町から出ようとしていたコロとウル、そしてあまりの腰の痛さに、ほとんど眠れなかったと愚痴をこぼしていたバルドは、扉の方へ視線を向けた。
そこに入ってきたのは、華やかなドレスでも喪服でもなく、ひどく地味で実用的な旅装束を纏い、小さな鞄を一つだけ持ったアンナだった。
「おい……アンナ。お前……」
「バルド爺さん。昨日のお嬢ちゃんと格好いい狼さんも。昨日はお薬、ありがとう。おかげで最後まで歌いきれたわ」
彼女の目は泣き腫らしたように赤く、声も限界を超えて酷使したせいか、ひどく掠れていた。
だが、コロの鼻は、彼女から漂っていた『真っ黒な墨』の匂いが薄れ、代わりに『泣いたあとの雨上がり』のような、静かで澄んだ匂いが混じっているのを感じ取っていた。
「こいつから話は聞いたよ……」
「へへっ……うん。そういう事なんだ……」
「……ここを、出るのかい?」
「ええ。もう、ここには私の帰る場所はないから」
それから彼女は静かに微笑でみせた。
『伝説の歌姫』という玉座も、観客たちの残酷な喝采もすべて捨てて、彼女はただの一人の女性に戻ったのだ。
「それじゃあね、バルド爺さん。……そこの旅人さんたちも、改めてありがとうね」
アンナは一人と一匹にも小さく頭を下げると、朝霧の中を待つ乗合馬車の方へと、迷いのない足取りで消えていった。
「……行っちゃったね」
『喝采という名の呪いを、自分から捨てたのか』
「うん。でも、いいんじゃないかな。自分のためにお腹を空かせて、自分の足で歩くみたいだし」
薬草店でバルドに別れを告げ、一人と一匹は町の門までやってきている。
コロは遠ざかる馬車の轍の音を聞きながら、小さく伸びをした。
他人の人生の劇的な幕引きも、彼らにとってはただの通過点。
一人と一匹もまた、港町の喧騒を背に、再び実務的な旅の空の下へと歩き出す準備を始めた。
※ ※ ※
その日の夜。
深い意識の底。
真っ白な空間で、コロは女神の温かい腕の中にいた。
「とってもね、大きな『拍手の音』を捨てたお姉さんに会ったんだ」
「ええ、全部見ていたわ。コロ」
「そっか。あのお姉さんはね、死んじゃった恋人のために歌って、いっぱいの人から拍手をもらっていたのに、最後はそれを全部置いて、一人で馬車に乗って、どこかへ行っちゃった。……女神様に何かを聞きたかったはずなんだけどね、何をどう聞いたらいいのか、考えがまとまらないや」
コロの純粋な疑問に、女神は慈愛に満ちた声で優しく応える。
「ふふ……。じゃあ私が勝手に答えを言うわ」
「うん、聞きたい」
「……誰かのために自分を捧げるその瞬間。子らは神様に一番近くなるけれど……その代償は、いつだって自分自身の心なの」
「……代償」
「ええ。でも、彼女はね、自分の心を殺して『みんなの偶像』になることよりも、悲しみを抱えたまま『一人の人間』として生きることを選んだのね。……それはとても痛みを伴うけれど、同時にとても美しい選択だわ」
「……そっか。だから、あんなにスッキリした雨上がりみたいな匂いがしたんだね」
コロは女神の腕の中で、静かに頷いた。
他人の悲劇を食い物にする『喝采』の残酷さと、それを自ら手放して歩き出した人間の哀しいほどの強さ。
その両方を少しだけ理解した少女は、いつものように温かい眠りへと落ちていった。
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