喝采の残香と、黒い衣装 1 〜霧の港町と、沈黙の調合〜
1.
とある街道をひたすら南へ。
一人と一匹が辿り着いたのは、海から這い上がる濃い霧に包まれた港町だった。
霧は石畳を濡らして重たい光を反射させ、行き交う人々の姿をまるで幽霊のように曖昧にぼかしている。
だが、視界の悪さとは裏腹に、町は異様なほどの熱気と騒がしさに満ちていた。
どこへ行っても人、人、人。
潮の匂いに混じって、旅人たちの汗の匂いや、屋台から流れる安酒と脂の匂いが霧の中に淀んでいる。
吐く息さえ白く濁るほどの冷え込みだというのに、人々が発する異様な熱気で、路地の石畳は熱病にかかったようにじっとりと汗をかいている
すれ違う人間たちの瞳は、一様に何かを熱狂的に期待するような色を帯び、その浮き足立った無数の足音が、霧の奥で不気味な反響音を生み出していた。
「……ウル、この宿も駄目だって」
『だろうな。そんな気はしていた』
「どこもかしこも『満室』の札ばっかり」
『……フン、不愉快極まりないな。なぜこれほどの人類が、この湿気た臭い町に群がっているのだ?』
ウルは不快そうに鼻にシワを寄せ、湿っぽくなった銀毛をブルリと震わせた。
聞き耳を立てれば、人混みからは口々に「アンナ」「今夜の公演」「伝説の歌姫」などという単語が零れ落ちてくる。
どうやら、この町にある歴史ある劇場の看板歌手による、久しぶりの公演があるらしい。
「野宿でもいいけど、この霧じゃ火も熾しにくいし、何より湿っぽくて寝心地が悪そうだね」
『とは言え、仕方ないだろう』
「そうなんだけどね。とはいえ、こんな霧深い夜更けに街道を歩くのもね……」
コロがそう言って、霧の向こうにぼんやりと光る、古い薬草店の看板を見つけた。
一般的な薬草店であれば、日が暮れて暫く経ってしまえば軒先は真っ暗になるものだが、その薬草店は魔石のランタンが煌々と、暗い路地を照らし続けている。
霧の粒子に乱反射する魔石の光は、周囲の喧騒からぽつんと切り離されたように静かだった。
近づくにつれ、むせ返るような安酒や潮の悪臭を押し退けるように、乾燥した薬草や古い羊皮紙の、埃っぽくも落ち着いた匂いが漂ってくる。
「……この町の薬草店は随分と遅くまで開いているんだね」
『ん、ああ。言われてみればそうだな。色街でもあるまい』
「あれじゃないかな。伝説の歌姫だなんだって……」
『ああ。ワラワラと群がっている原因か?』
「ははは、まるで害虫みたいに言うね」
『事実だろう』
「とにかく、それの特需でもあるのかも。どうせ宛てもないし、今日のうちに薬草を売っておこうかな」
『暇だしな』
そう言って、灯りに集まる虫のように、フラフラと薬草店へと歩みを進める一人と一匹。
カランカラン、と力ない鈴の音と共に店に入ると、そこにはカウンターの裏で「く」の字に折れ曲がったまま、顔を真っ赤にして固まっている老ドワーフがいた。
よくよく見てみると、顎を伝ってぽたりと汗が床に垂れているようだ。
丸太のように太い腕は小刻みに震え、カウンターの縁を指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
息を吸うことすら恐ろしいのか、顔を紫がかるほど紅潮させ、瞬き一つせずに虚空を睨みつけるその姿は、まるで呪いを受けて固まった出来の悪い石像のようだった。
「……あ、あの、お爺さん?」
「おお……おおお、神よ……!」
『……宗教施設か?』
「入る店を間違ったみたい」
「ま、間違ってない!!どこの誰か知らんが、ここは薬草店だ!!」
老ドワーフの異様な状況に、踵を返そうとしたコロだったが、あまりの必死な様子に、さすがに足を止める。
「それで、お爺さんは一体何をしているの?」
「誰でもいい、頼む!そこの湿布薬を取ってくれ……!ギ、ギックリが……腰の雷が落ちおったわい……!」
それが、今回の『仕事』の始まりだった。
「……うん、これで痛みは引くと思うよ」
「ふぅ、ふぅ……。助かった、恩にきる」
コロに支えてもらいながらも、どうにか窮地を脱した老ドワーフが、力なく笑った。
「まさか偶然尋ねてきた小娘に、これほど洗練された調合の腕があるとはな……」
老ドワーフ――薬師のバルドは、コロがその場で調合した痛み止めを塗り込み、ようやく人心地ついた様子で深く椅子に腰掛けた。
そう、店に陳列されていた湿布薬をひと目見て、気を利かせたコロが、その場で手際よく『もっと利く湿布薬』を調合していたのだ。
店内に立ち込めていた古びた匂いを上書きするように、ツンと鼻を突く清涼な香りが弾ける。
コロの小さな手は一切の迷いなく乳棒を振るい、棚から無造作に掴み取った数種類の薬草を、あっという間に粘り気のある深緑のペーストへと変えてしまっていた。
それを腰に塗り込まれた瞬間、老ドワーフは氷を直接すり込まれたような刺激に「ひぃっ」と声を漏らしたものの、直後にじんわりと広がる熱と痛みの緩和に、思わず感嘆の息を吐いたのだった。
「しかし弱った……」
「用を足せないもんね」
「それもあるが、そうじゃない!劇場へ喉の薬の納品があるのだ」
「いつまでに?」
「それが、公演前までという約束でな……」
腰の雷は去っても、老ドワーフの受難は終わっていなかったようだ。
カウンターには、今夜の公演を控えた歌姫へ届けるはずの、特別な喉の薬の瓶が置かれたままだ。
分厚いガラスでできた手のひらサイズの小瓶の中には、琥珀色の液体がとろりと揺らめいている。
厳重に蝋で封がされ、これから小瓶が包まれるであろう上等なベルベットの布。
そこらの薬とは明らかに違う、金と手間がかけられた『特注品』であることを無言で主張していた。
コロは窓の外に目をやる。
外はもう既に日が沈んで時間が経っている。
もう約束の時間までの猶予は残されていないのは、火を見るより明らかだ。
「外では、大勢の人たちが熱病に冒されたみたいに盛り上がっていたよ」
「だろ?そうなんだよ……。だが、この腰では納屋へ行くことすらままならん。……のう、お嬢ちゃん。あっちの奥の部屋と、食料庫の干し肉やエールは好きに使っていい。その代わり、この薬を劇場の楽屋にいるアンナまで届けてはくれまいか?」
『……やれやれ。結局、使い走りか』
ウルが退屈そうにあくびを漏らす。
だが、コロにとっては悪い話ではなかった。
屋根のある寝床と、腹を満たす食料。
それが薬の一瓶を届けるだけで手に入るのなら、これほど効率の良い取引はない。
「分かった。お爺さんの代わりに、私が届けてくるよ」
「ああ、頼む!相手は劇場の看板歌手のアンナだ。今夜は特別な公演でな、楽屋口は混乱しているかもしれんが……そこの通行証を持っていけば通れるはずだ」
コロはバルドが指さしたカウンターに置いてあった、重たい真鍮製の通行証と、丁寧に封印された小瓶を受け取ると、そそくさと扉を開け、再び霧の中へと歩き出した。
薬草店の静かな空間から一歩外へ出ると、再び暴力的なまでの喧騒と湿気が一人と一匹を包み込んだ。
劇場へと続く表通りに近づくにつれ、人波はさらに密度を増していく。
着飾った貴族たちの馬車が重たい車輪の音を響かせ、それを避けようとする平民たちが石畳の泥水を跳ね上げる。
霧のせいで数歩先すらぼやけているというのに、すれ違う人々の異常な体温と、キツい香水、そして港町特有の生臭い潮の匂いが入り混じり、まるで巨大な胃袋の中に飲み込まれたかのような息苦しさがあった。
『……チッ。どいつもこいつもうるさくてかなわん』
「たしかに気分が良くはならないね」
『足を踏み潰してやりたい衝動に駆られるぞ』
「こんなところで事を起こしたら大変だよ」
『分かっているから我慢している』
人類の放つ熱気と悪臭に、ウルは不機嫌の極みといった様子でマズルにシワを寄せ、コロの歩幅に合わせて鬱陶しそうに巨大な身体を歩かせている。
霧の奥で幾つもの魔石ランプが乱反射し、まるで町全体がひとつの生き物として荒い呼吸をしているかのような、異様な熱気を放っている。
群衆の熱狂的なざわめきが波の音のように押し寄せる中、石造りの壮麗な円蓋を持つ劇場は、光と喧騒の中心に鎮座する不気味な巨人のように、静かにその姿を現し始めていた。
劇場の正面玄関には、眩いほどの魔石灯がいくつも焚き並べられ、豪奢な毛皮やドレスで着飾った人類たちが、光に群がる羽虫のように次々と吸い込まれていく。
『歌を聴くだけで、なぜ獣の皮を着込んで、あんなに臭くする必要がある?』
「さあね。でも人類ってそういうものだからね」
『フン。すぐ疲れるくせに……馬鹿だ』
だが、コロたちが向かうのはその華やかな表舞台ではない。
劇場の側面をぐるりと回り込んだ先にある、飾り気のない無骨な鉄扉。
表の光が一切届かないその薄暗い裏口には、大道具の木箱が乱雑に積まれ、華やかな劇場の『現実』としての実務的な空気を漂わせていた。
「ほらほら、私たちはあっちかな」
『……静かそうなのはいいが、あっちはあっちで掃き溜めのような臭がするな』
「表も表で臭いから、もう逃げ場はないね」
『……これだから人類どもの街は……』
すっかり尻尾がダランと垂れ下がっているウルの口から、大きなため息がこぼれ落ちる。
劇場の裏口――楽屋口は、表の熱狂とは違う、ピリピリとした裏方たちの喧騒に包まれていた。
重たい真鍮の通行証を見せ、訝しむ門番を尻目に、一人と一匹は難なく中へと足を踏み入れる。
「そこの大道具、早く袖に運べ!」
「衣装のほつれはどうなった!?」
怒号のような指示が飛び交う薄暗い廊下には、無数の小道具が散乱している。
すれ違うスタッフたちからは、焦燥感からくる酸っぱい汗と、舞台用の強い白粉の匂いが入り混じって漂ってきていた。
人ひとりがすれ違うのがやっとの狭い通路を、アッシュウルフの巨体を連れて歩くのは本来なら至難の業だ。
だが、ウルの放つ圧倒的な捕食者のプレッシャーに当てられ、血相を変えて走り回っていた裏方たちは皆、悲鳴を飲み込んで青ざめ、モーセの海割りのようにパカッと道を空けていく。
そうして裏方たちの恐怖の視線を浴びながら、迷路のような廊下を抜け、一番奥にあるひと際豪奢な扉の前に辿り着いた。
「失礼するよ。薬草店からの届け物だよ」
ノックをして中に入ると、鏡の前には煌びやかなドレスを纏った美しい女性が座っていた。
町のあちこちで名前が出ていた伝説の歌姫、アンナだ。
彼女の周りには、目が眩むような高級な香水の匂いが立ち込めている。
だが、ウルの鼻とコロの嗅覚は、その甘い香りの下から漂う『古びた劇場の埃』と、『極度の緊張による酸っぱい汗の匂い』を正確に嗅ぎ取っていた。
「あら、ありがとう。助かったわ。バルドの薬がないと、不安で――」
緊張しているのか、アンナ自身の口から語られた半年ぶりの公演の理由は、重い喉の病だったという。
アンナは震える手で小瓶を受け取ると、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
そして、目を閉じて静かに発声練習を始める。
「あー……」
それは、ただの音階の行き来でしかなかったが、コロとウルは思わず耳を奪われた。
『……ほう』
「凄く綺麗な声だね……」
まるで霧が晴れるような、透き通った圧倒的な歌声。
町中の人間が熱狂するのも頷ける、魔法のような響きだった。
喉の調子を確かめ、パァッと表情を明るくしたアンナは、鏡越しにコロを見た。
「ふふ、ありがとう。……そういえば、バルド爺さんはどうしたの?いつもなら自分で持ってくるのに」
「お爺さんはね、ぎっくり腰になっちゃったんだよ」
コロは一切の脚色なく、見たままの事実を告げた。
「夕暮れ前からついさっきまで、ずっとカウンターの裏で腰を曲げたまま固まっていたみたいでね。私たちがお店に行った時には、すごい冷や汗をかいていたよ」
「あら!そうだったの!?」
「うん。私たちがお店に入ってみたら助けを求められてね。湿布薬を調合して塗ってあげたから、あとは数日安静にするだけ」
「ふふっ、あははは!」
気の毒な老ドワーフの悲惨な状況を想像したのか、アンナは極度の緊張が解けたように声を立てて笑った。
「ふふふ、そうだったのね!じゃあ、明日の朝にでも顔を出してあげようかな」
そこへ、慌ただしいノックと共に「アンナさん、間もなく開演です!」というスタッフの声が響いた。
「それじゃあ、私たちは行くね」
「ええ。バルド爺さんによろしくね。気をつけて帰るのよ!」
コロとウルは楽屋を後にし、薄暗く狭い廊下へと出た。
そこで、数人の身なりの良い人間族の男たちが、何やら深刻そうな顔で立ち話をしている場面に出くわした。
彼らの中心にいる初老の男の手には、一通の手紙が握られている。
それは、不吉な知らせをしたためる際に用いられる『黒い縁取り』がされた手紙だった。
狭い廊下を通ろうとするコロと、巨大なアッシュウルフの姿に、話し込んでいた男たちの視線が釘付けになる。
訝しむような警戒の目に、コロは面倒くさそうに通行証を掲げてみせた。
「アンナさんへの薬を届けに来ただけだよ。もう帰るところ」
「あ、ああ……薬師の使いか。ははーん、なるほどな」
男たちはすんなり納得したようで、道を空けようと壁際に寄った。
――その、時だった。
「ねえ……」
コロたちのすぐ後ろに、いつの間にかアンナが立っていた。
開演前の挨拶にでも出ようとしたのだろうか。
彼女は、黒い縁取りの手紙を持つ男の肩に、スッと手を置いた。
「その、黒い縁取りの手紙。私の名前が見えたんだけれど……」
その瞬間、廊下の空気が、氷のように凍りついた。
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