番の条件と、捕食者の静寂 3 〜無知な駆け落ちと、雷の如き獣〜
3.
乾燥した藁と古い木材の匂いが漂う、薄暗い納屋の中。
放牧地に忌避剤の悪臭が満ち、いよいよ森の奥から『賢き獲物』が姿を現すかという、極限まで張り詰めた緊張感の中。
――ギィィ……
不意に、納屋の裏手にある勝手口の扉が、ひどく間の抜けた音を立てて開いた。
「コロ、やっぱりここにいた!さっき屋敷の裏を歩いていくのが見えたのよ!」
「なんだよ、お前ら。これから大捕物なんだろ?その前にちょっと話を聞いてくれよ!」
暗闇に身を潜める一人と一匹のもとへ、足音を忍ばせることもなく入ってきたのは、目を輝かせたマークとテレサだった。
『……チッ』
鼻先まで迫っていた獲物の気配が、人間の子供たちの騒がしい足音によって一瞬だけ遠のいたのを察知し、ウルが舌打ちのような低い唸り声を漏らした。
『……邪魔者が来たな。仕方がない、俺は外の気配に集中する。コロ、お前はあの小猿どものお守りでもしていろ』
「参ったね……」
コロは暗闇の中で、誰にも聞こえないほど深くて重いため息をついた。
これから外で血みどろの殺し合いが始まるかもしれないというのに、この無知な子供たちの手前、魔物の名前を出して不用意にパニックを起こさせるわけにもいかない。
「ねえ、コロ!私たちも決心したの。さっきあなたが言ってくれた通りよ!」
「そうなんだ。で、何が『言ってくれた通り』なの?」
「あれだぜ!明日と明後日、お互いの腹を空かせない自信があれば、大人なんかに許可をもらわなくたって、番になって旅に出てもいいんだろ!?」
「そうよ!だから私たち、今夜この村を出ることにしたわ!」
声のトーンを落とす気すらない二人は、ロマンチックな駆け落ちの決意を熱っぽく語りながら、コロのそばにどっかと座り込んだ。
テレサに至っては、いかにも上等そうな革張りの手帳と羽ペンを取り出し、暗闇の中でも目を凝らしながら何かを書き留める準備までしている。
「ねえ、旅の先輩として教えて!荷物は何をまとめるべきかしら?」
「……干し肉と、水袋。あとは火打ち石と……ああ、慣れないうちは、燃えやすい火口があったほうがいいかもね……」
「まあ! 凄く実用的!マーク、聞いた?ドレスなんてやっぱり要らないのよ。さすがは旅人だわ!」
「おい、火口って、具体的には何がおすすめなんだよ?」
「え?……そうだね、別に杉の葉っぱとかでもいいんだけど、麻紐なんておすすめかな」
「分かったぜ?普段遣いでも重宝するからだろ?正解だろ!?」
「そうだね、正解だね」
「マーク!賢いわ!ますます二人でもやっていけそうよ!」
スラスラと、高級そうな手帳に『旅の心得』が書き込まれていく。
コロが鬱陶しそうに適当な単語を並べるだけで、二人は「なるほど!」「流石だな!」と勝手に解釈し、無謀な家出計画の解像度をどんどん上げていく。
絶対的な死の危険が迫る納屋の中で繰り広げられる、あまりにも平和ボケしたピクニックの計画。
コロが二度目の深いため息を吐こうとした、その時だった。
「……なんだと!?」
バンッ!!!と、開け放たれたままだった裏の勝手口に、手燭の明かりを顔の下から当てた、亡霊のように恐ろしい形相の村長と妻が立っていた。
夜になっても自室にいない娘を探し回っていた両親は、娘の無謀な宣言と、手帳に記された「具体的な旅の準備」のやり取りを、しっかりと聞いてしまったようだ。
「テ、テレサ!お前、今夜この村を出るだと!?」
「それに、なんだい、その手帳の書き込み!最近、妙に具体的な家出の話まで出てくると思えば……用心棒だかなんだか知らないけどね、アンタがテレサに余計な入れ知恵をしていたとはね……!!」
顔を真っ赤にして激昂する村長夫婦。
血相を変えた両親の登場に、マークとテレサは「ひっ……!」と短く悲鳴を上げ、青ざめて身を寄せ合う。
「あー……」
コロは、もはや訂正するのも面倒くさくなり、今日一番の大きいため息を吐いた。
窓の外では、確実に『本物の危機』が納屋のすぐそこまで迫ってきているというのに、目の前の大人たちは自分たちの権力と体面を守ることに必死になっている。
『はぁ……、あまりにもくだらん……』
「だね……」
『俺は馬鹿馬鹿しくなった』
ウルの、海よりも深い溜息に、コロも小さくため息をついた。
「ええい、ふざけた真似を!貴様のような性悪な小娘に、用心棒など頼んだのが間違いだった!報酬など一銭もやらん!今すぐこの村から出ていけェェッ!!」
「出てお行きッッッ!!!」
村長と妻が、頭に血を上らせて喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
その、瞬間だった。
――ドガァァァァァァンッ!!!!
納屋の正面の分厚い木製扉が、爆発したかのように内側から粉々に吹き飛んだ。
村長の怒鳴り声など掻き消すほどの凄まじい破壊音と共に、つい今しがたまで深い溜息をつきながらも、健気に息を潜めていたウルが、イナズマのような速度で外へと飛び出していったのだ。
「ひ、ひぃぃぃッ!?」
「きゃあああっ!!」
突然の轟音と、納屋を揺るがす圧倒的な衝撃。
舞い散る木端と土煙の中で、村長夫婦も、駆け落ちを夢見ていた子供たちも、全員が腰を抜かして床にへたり込んだ。
静まり返った納屋の中、外から聞こえてくるのは、けたたましい獣の咆哮と、肉が引き裂かれる鈍い音。
「……ウルは、真っ先に出ていったね」
コロは床の埃をパンパンと払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
そして、恐怖で震えて声も出せない一同を見下ろし、ひどく平坦な声で告げる。
「私も、報酬さえ受け取れればすぐに出ていくよ」
コロはただの事実だけを口にすると、粉々に破られた正面の扉の残骸をくぐり抜け、血の匂いが漂い始めた外の放牧地へと、ゆっくりと歩みを進めていった。
月明かりに照らされた放牧地は、忌避剤の悪臭に混じって、むせ返るような濃い血の匂いが充満していた。
「……終わったぞ。くだんの獲物はコイツのことだろう」
血の匂いと共に、忌避剤のペーストが塗られた柵の向こうから悠然と歩み出てきたのは、口の周りをべっとりと赤く染めたウルだった。
彼の足元には、体長が馬ほどもある、巨大で凶悪な『剣歯虎』の死骸が転がっている。
『少し頭の回る魔物だったが、所詮は多少動けるだけの猫だ。罠にかかったことに気づいて、俺に向かってカンカンに激昂していたからな。始末しておいたぞ』
「あっちから喧嘩を売ってきたんじゃしょうがないね」
『だな。交渉決裂というやつだ』
ウルは怯える村人たちなど歯牙にもかけず、コロの足元まで歩み寄ると、ブルブルと首を振って毛に付いた血糊を振り払った。
納屋の裏手から恐る恐る顔を出した村長夫婦と、マークとテレサの子供たちは、その圧倒的な死の質量を前に、ただ言葉を失ってへたり込んでいる。
つい先ほどまで自分たちが熱狂していた駆け落ちの計画も、大人の権力を振りかざした怒鳴り声も、すべてはこの巨大な暴力の前では何の意味も持たないのだという現実を、嫌というほど思い知らされたはずだ。
「お疲れ様、ウル。……さて、村長さん」
コロは、腰を抜かして震えている村長を見下ろした。
「依頼は完了したよ。あいつがいなくなったから、ここの放牧地はもう安全。……残りの報酬をくれたら、すぐに出ていくって言ったよね?」
「あ……あ……」
ウルの放つ捕食者としての圧倒的なプレッシャーと、目の前の凄惨な現実を前に、村長はもはや反論する気力すら失っていた。
彼は青ざめた顔で何度も頷き、這いつくばるようにして懐から重たい金貨の袋を取り出すと、震える手でコロの足元へと差し出した。
「……これで契約完了だね。さあ、行こうかウル」
『ああ。だがその前に、約束通り美味い肉を食わせろ。あの干し肉のせいか、さっきから無性に腹が減って仕方がない』
「はいはい。隣の宿場町まで行けば、ちゃんとした家畜肉が買えるよ」
コロの言葉しか聞き取れないながらも、震えを抑えきれない村長が口を開いた。
「こ、今晩はもう……遅い。と、泊って行くと良い……」
「そうしようかな。もしその魔物に番がいるんだったら、この後、すぐに怒り狂ったメスが復讐に来ちゃうもんね」
そう言って、小さく微笑むコロ。
その言葉を聞いた瞬間、村長夫婦も子供たちも、顔面を土気色にして硬直した。
闇の奥から新たな虎が飛び出してくるかもしれないという恐怖。
自分たちがどれほど無力で、目の前の小柄な少女と巨大な狼に命を握られているかという事実。
コロは彼らの絶望など気にも留めず、ウルの背中をポンと叩く。
「ウル、そういう事みたい」
『明日の朝には発つぞ』
「その前に、そのベッタリとついた血を綺麗にしないと。せっかくのカッコいい顔が台無しだよ」
『フン。お世辞を言っても何も出せないぞ』
「ふふふ、お世辞じゃないよ」
一人と一匹は、呆然と座り込む人間たちに一瞥もくれることなく、血と悪臭の漂う放牧地からゆっくりと屋敷の客室へと引き返していった。
その日の深夜。
一人と一匹に充てがわれていた村長の屋敷の客室。
約束の新鮮な肉を平らげて満足したウルと、簡単な湯浴みを済ませたコロは、硬いベッドの上で寄り添うようにして横たわっていた。
『……で、あのガキどもはどうなったんだ?』
目を閉じたまま、ウルが低く喉を鳴らして尋ねる。
コロはウルの温かい毛並みに顔を埋め、小さく息を吐いた。
「知らないよ。……でもね、私たちが客室に戻る時、さっきまで『絶対に村を出る』って言い張ってたあの二人、お腹を空かせた顔で、親の後ろをトボトボと家の中に戻っていくのが見えたよ」
コロは無表情のまま、少しだけ窓の外に視線を向けた。
「テレサが落としていったあの立派な手帳、泥水の中に浸かっていたけど……拾おうともしていなかった。結局、あの二人の言う『自由』も『永遠』も、あんな薄っぺらい紙の上の文字と同じくらい、軽くて燃費の悪いものだったんだね」
『フン。所詮はその程度か』
「そりゃそうだよ。明日になれば、昨日誓っていた『永遠の愛』のことなんて、お腹が鳴る音にかき消されて忘れちゃうんじゃないかな」
コロは興味なさそうに目を閉じ、ウルの銀毛の感触を確かめるように頬を擦り寄せた。
「でも、それでいいんだと思う」
『俺は物凄くどうでもいいんだと思う』
「天邪鬼だなぁ。……まあさ、自分のお腹を満たせない『か弱い』生き物が、たったの二人だけで生きていくなんて無理だよ。そんなに甘くない」
『俺には人類どもの複雑な事情など理解できん。俺にあるのは、この四肢と牙と角、そしてお前という事実だけだ』
「あはは!ふふ……」
『な、何がおかしい?』
「それ、なんだか最近ヤケに言うなって、ね」
『う、うるさい!さっさと寝るぞ……!』
「はいはい。でもね、とっても嬉しい気持ちもあるんだよ」
『分かった分かった。ほれ……あれだ。寝るぞ』
「うん、おやすみ。ウル」
『ああ。女神によろしくな』
二人の呼吸が重なり、静かで実務的な眠りが訪れる。
明日の腹を満たすためだけに、彼らは今日を眠るのだ。
※ ※ ※
深い意識の底。
真っ白な空間で、コロは女神の温かい腕の中にいた。
「女神様。今日ね、とっても儚い『永遠』を見たよ」
「ふふ、私も見ていたわ。コロ」
「人類は、お腹が空いたり、危機が迫ると、昨日までの約束なんて簡単に忘れちゃうのに、どうしてあんなに大きな数字を口にしたがるんだろう。どこへ行っても同じような人類を見かけるよ」
コロの純粋な疑問に、女神は慈愛に満ちた声で優しく応える。
「ふふ……。それはね、コロ。未来が怖いからね」
「未来が、怖い」
「そう。未来が怖いから、言葉を積み上げて壁を作っているの」
「……なるほど?」
「でも、あなたは知っているわね。本当の壁は、今日食べた食糧と、隣にいる誰かの体温でできていることを」
「……うん」
コロは女神の腕の中で、静かに頷いた。
「私は言葉の壁なんかより、ウルの毛並みの方がずっと温かいし、信じられる。……女神様」
「ふふふ、なに?」
「……今ね、『言葉の壁』って意味がね、少しだけ分かった気がする。ピンと来たんだ」
「あら、そう?」
急に想定外なことを口走ったコロに、女神はきょとんとして、腕の中のコロの瞳を見つめる。
コロはジッと女神の瞳を見つめたまま、言葉を続けた。
「いつの日かね、私は、眠りについても女神様のところへ行けなくなるかもしれない」
「まあ。そんな事はないわ」
「仮定だよ、仮定」
「ふふ、仮定ね」
「うん。それでね、私はそう考えると、胸のあたりがソワソワしちゃうんだ」
コロは女神の胸に顔を埋め、背中に回していた両手に力を込めた。
「胸がソワソワするとね、女神様に『大好き』とか『ずっと一緒』とかね、言いたくなったんだ」
その言葉を受けた女神は、暫く呆けたような表情のまま、自身の胸に顔を埋めているコロの頭頂部を見つめていた。
やがて、女神は瞳をうるませながら、コロをギュッと抱きしめた。
「また一つ、知ったのね。それが、子らが必死になって口走っているものの正体よ」
「そっか。そっか……」
「おやすみなさい、コロ。いつまでもずっと、愛しているわ」
優しい声と共に、真っ白な空間がゆっくりと溶けていく。
「ずっと、ずっと――」
他人の無責任な言葉や、叶わない夢の残骸とは無縁の場所で、少女は明日を生きるための確かな眠りについた。
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