番の条件と、捕食者の静寂 2 〜食卓の通訳と、賢き獣の沈黙〜
2.
その日の夕刻。
村長の屋敷の広々とした食堂では、長大なテーブルに豪勢な夕食が並べられていた。
開拓村とはいえ、村で一番の権力者である村長の食卓には、見事な香草焼きの肉や、近隣の街から取り寄せたであろう上質なワインが並んでいる。
だが、その豪華な食事の席にあって、昼間の「娘の駆け落ち騒動」は、ただの一度も話題に上らなかった。
村長もその妻も、明日の天候や村の収穫量の話をするだけで、娘であるテレサの悲恋など、最初から存在しなかったかのように振る舞っている。
良く言えば「すでに解決した些事」、悪く言えば「食卓の話題にすら値しない子供の戯言」という扱いなのだろう。
魔導灯の暖かな光が、磨き上げられた銀の食器やグラスの赤ワインをキラキラと反射させている。
外の放牧地に漂う血や獣の匂いなど一切届かない、完全に隔離された安全な箱庭。
村長夫婦が振る舞うその優雅な余裕は、分厚い石壁と雇われの用心棒によって守られた『ひどく脆い平穏』の上に成り立っている仮初めのものだった。
コロは無表情のまま、与えられた香草焼きをナイフで切り分け、淡々と口に運んでいた。
部屋の隅では、昼間の約束通りに「新鮮な家畜肉」を丸ごと与えられたウルが、上機嫌で骨を噛み砕く音を響かせている。
「……して、旅のお嬢さん。放牧地の様子はどうだったかな」
食後のワイングラスを傾けながら、村長がようやく本題を切り出した。
コロは口の中の肉を飲み込み、ナプキンで口元を拭ってから、部屋の隅のウルに視線をやった。
「うん。ウルが見回りをしてくれたから、その報告をするね」
『……ふむ。あの血の匂いの主のことか』
ウルは血の滴る肉片から顔を上げ、ペロリとマズルを舐め回してから、低い唸り声を一つ上げた。
コロはコクリと頷き、そのまま村長夫婦へ向けて通訳を始める。
「相手は、相当頭のいい類の魔物みたいだよ」
「頭がいい? 魔物が、かね」
「そうだね。もし相手が同じ狼や犬の系統の魔物なら、縄張りの主張であっちから何らかの接触をしてくるはずなんだ。でもね、今回はそれがない」
「ほう!なるほどな……」
「つまり、もっと別の生態を持った魔物だってことだね」
村長と妻は顔を見合わせ、不安げに眉をひそめた。
「君……それは、厄介なのか?」
「ある意味ではね。相手はウルの残した匂いと魔力に気づいて、完全に手をこまねいている状態みたい。自分より強い捕食者がいる間は、絶対に手を出さないっていう『賢さ』を持っているんだよ」
『……フン、臆病なヤツだ。だが、生き残る術としては間違っていない』
ウルの鼻息を、コロはそのまま言葉にする。
「だから、私たちがこの村にいる間は、放牧地の家畜が襲われるような被害はまず起きないと思うよ」
「おお!それは重畳!」
村長はパッと顔を輝かせ、妻も安堵の息を吐いた。
「さすがは凄腕の用心棒だ!」
「ええ、本当だよ!現に、今日は全く何の被害も無かったもんねえ!」
「これで夜も安心して眠れるというもの……」
「でもさ、村長さん」
コロはフォークを置き、ひどく冷ややかな、そして実務的な事実を突きつけた。
「私たちはね、風の吹くまま、気の向くままに、旅をする旅人だよ。ずっとこの村に滞在するわけじゃない。私たちが次の街へ出発して、ウルの匂いが消えれば、あの魔物はまた放牧地に戻ってくるよ」
「うっ……」
「相手は頭がいいからね。嵐が過ぎ去るのをじっと待つだけの忍耐力がある。根本的な解決をしない限り、被害はただ先延ばしになっただけだよ」
その正論に、村長夫婦の顔色が一気に青ざめた。
確かに、どれほど金を積もうとも、旅人を一生この村に縛り付けておくことなど不可能だ。
かといって、村の自警団では太刀打ちできないからこそ、こうして高い金を払って依頼をしたのだ。
「そ、それではどうすればいいのだ!我々が開拓したこの村の財産を、指をくわえて奪われるのを待てというのか!」
「なんとかしておくれよ!あんたたち、プロの用心棒なんだろう!?」
途端に焦燥に駆られ、テーブルに身を乗り出して助けを求める大人たち。
その見苦しいほどの狼狽ぶりを、コロは氷藍色の瞳で静かに観察していた。
昼間、子供の人生に対して見せていたあの「余裕」や「絶対的な権力者としての振る舞い」は、自分の財産が脅かされた途端、こうも簡単に崩れ去るのだ。
つい先ほどまで優雅にワイングラスを傾けていた村長の額には脂汗がにじみ、妻に至っては恐怖で震える手でテーブルクロスをきつく握りしめている。
彼らがどれほど村で権力を持ち、豪華な服で着飾ろうとも、絶対的な暴力の前では、ただの『柔らかくてうるさい肉』でしかないという残酷な事実が、そこには露呈していた。
「私はあくまで『採取家』と説明したと思うけど」
「うっ、そ、それは……」
肝心なことがすっかり抜け落ちていたのか、村長夫婦は言葉に詰まってしまう。
しかし、娘のテレサだけはキラキラと瞳を輝かせながら、コロを見つめていた。
そう、彼女の世界で両親は『絶対』という存在であるが、コロという自由民の少女は、そんな存在に対し、言葉や雰囲気だけで圧倒しているように映っているようだ。
「……でも大丈夫だよ。依頼はちゃんと完了させるから」
コロは椅子からゆっくりと立ち上がり、ウルを一瞥した。
「相手が賢くて、私たちを警戒して出てこないなら『もう襲いに行っても平気そうだ』と思わせる状況を作ればいいだけだよ」
「……なにか、策があるのかね?」
「うん。ちょっとだけ、私に考えがあるよ」
コロの言葉に、ウルが骨を噛み砕くのをやめ、面白そうに黄金の瞳を細めた。
少女の思いついた「実務的な解決策」が、屋敷の淀んだ空気を切り裂くように、静かに提示されようとしていた。
翌朝。
「おいおい、『獣退けの根』じゃなくて、『黒土草』なんて入れるのか?この辺りじゃ聞いたことがない組み合わせだが……」
開拓村の中心から少し離れた、薬草の独特な香りが染み付いた一軒の小屋。
村長たちと一緒に入植し、村の医療や怪我人の手当てを一手に担ってきた人間族の薬師の父親が、コロの手元を覗き込んで目を丸くした。
ここは薬草店というよりは、村人が困った時に頼る「村の診療所」のような場所だ。
父親の後ろでは、同じく薬師である母親と、跡取りの青年が、自分たちの常識から外れたコロの調合を興味深く、かつ少しばかり不安げに見守っている。
「普通の町や村でしか薬師をしてこなかった人は知らなくて当然だと思うよ」
コロは乳棒を動かす手を一切止めず、立ち上る強烈な匂いに顔をしかめることもなく淡々と答えた。
「今から作ろうとしている魔物向けの忌避剤は、匂いが強烈なのが特徴的でね。ルグリア地方の『迷い大森林』に住んでいる、ダークエルフたちが好んで使っている調合なんだ」
『……ああ、やはりアレを作るつもりだったのか。どうりで朝から嫌な匂いの草ばかり集めていると思ったぞ』
部屋の隅で前足を投げ出していたウルが、マズルに深いシワを寄せて忌々しげに鼻を鳴らした。
「ウルは匂いがきついのは我慢してね」
『むぅ……そうだな』
「そ、それにしてもだ。人間には強烈すぎる匂いだが……本当にこんなもので強い魔物に効くのか?」
半信半疑の薬師の青年に、コロは小さく頷いた。
「必要になる材料のうち『黒土草』が違うだけで、人里ではこれと似たものを『忌避剤』って呼んでいるから、私も村長さんたちには忌避剤って説明しているけれど……彼らダークエルフにとって、これは忌避剤じゃないんだよ」
「ん、忌避剤じゃない?じゃあ、なんだって言うんだい?」
「鼻が利く存在を撹乱するための『罠』なんだ」
コロはすり潰した黒土草のペーストを小さな壺に移し、特殊な油を数滴垂らして混ぜ合わせた。
瞬間、ツンとした刺激臭がさらに一段階跳ね上がる。
それは単なる「臭い草」のレベルを遥かに超えていた。
腐葉土の底で腐敗した死骸が発酵したような匂いに、鼻の粘膜を直接焼くような鋭い酸の匂いが混ざり合っている。
あまりの刺激に、薬師の青年はむせて咳き込み、両親もたまらず目尻に涙を浮かべて口元を布で覆った。
小屋の中の空気が、一瞬にして粘り気を帯びたように錯覚するほどの強烈な瘴気だった。
「この村を狙っている魔物は、ウルの匂いと魔力を警戒して手を出してこない『賢さ』がある。でもね、賢い魔物っていうのは、自分の力を正しく理解している分、すごくプライドが高いんだよ」
「プライド……?」
「うん。だからね、この強烈な匂いの罠を放牧地の周囲に撒くんだ。そうするとね、この刺激臭がウルの匂いを誤魔化して上書きしてくれる」
『ああ……なるほどな。俺の気配が薄れ、代わりにこの嫌な匂いが充満するわけか』
ウルの言葉にコロは頷き、壺の蓋をしっかりと閉めた。
「そう。ウルの気配が薄れた放牧地で、この強烈なだけの忌避剤の匂いを嗅いだ時、あの賢くてプライドの高い魔物はどう思うかな?」
「……あっ」
薬師の父親が、ポンと手を打った。
「『あの出鱈目に強そうな狼はもう去った。そして、代わりに人間どもがこんな浅知恵の臭い草で俺から逃げ切れると思っているのか』……と?」
「正解」
コロは冷たい氷藍色の瞳で、完成した『罠』を見つめた。
「ウルの存在は消えて、か弱い人類の浅知恵だけが残る。賢い魔物なら、『自分を舐めるな』ってカチンと来て、必ず見せしめのために家畜を襲いにやってくるよ。……用心棒の仕事は、自分から狩りに行くより、向こうから飛び込んで来てもらった方がずっと効率が良いからね」
その極めて実務的で、魔物の生態系と心理を完全に逆手に取った冷徹なロジックに、薬師の一家は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
目の前にいる小柄な少女が、ただの『採取家』などではない、圧倒的な経験に裏打ちされた真のプロフェッショナルであることを、肌で感じ取ったのだ。
日が西へと傾き始めた頃。
放牧地の周囲には、鼻がひん曲がりそうなほどの強烈な悪臭が漂い始めていた。
赤紫に染まった空の下、森の木々が放牧地に向かって長く不気味な影を落としている。
風に乗って拡がる忌避剤の悪臭は、村長夫婦の目を赤く充血させ、むせ返るような不快感を撒き散らしていた。
だが、それ以上に恐ろしいのは、絶対的な静寂を保つ森の奥から、確かな『知性』を持った何者かの粘着質な視線が、チリチリと肌を刺すように向けられていることだった。
「くっ、くさい……!本当にこんなものを撒いて大丈夫なのかね!?」
「数日間くらいは我慢してよ。たっぷり撒かないと意味がないんだから」
香水の匂いを完全に打ち消された村長の妻がハンカチで鼻と口を覆い、村長も涙目で忌避剤のペーストを柵の周囲に塗りつけている。
その横で指示を出しているコロは、なぜか巨大な鞄を背負い、旅の準備を完全に整えた「出発直前」の格好をしていた。
「いい?村長さん。頭のいい魔物っていうのはね、森の中から人間たちの行動をジッと観察しているんだよ」
「い、今もどこかから見ているというのかね……!?」
「ひょっとすると、だよ。でも、急にこんな異常な臭さが漂ってきたら、魔物じゃなくても人類だって様子を見に来るでしょ」
「それはたしかに……」
村長夫妻は涙目のまま、それでも筋の通ったことを語るコロの意見に、大きく頷いている。
「今、あいつの目にはこの光景がどう映っていると思う?」
「……どう、とは?」
「『あいつら、あの禍々しい狼と小娘が村を出ていくからって、必死に臭い草を撒いて身を守ろうとしているぞ』……ってね」
コロはわざと森の奥からよく見えるように、大きな身振り手振りで忌避剤を撒く村長たちを指差した。
「魔物からすれば、これから何が起こるかなんて、察しくらいは付くんだよ。強敵が去り、愚かな人間たちが浅知恵で防御を固めようとしている。……そして、強烈な刺激臭で鼻が利かなくなる頃には、もうウルの匂いも姿も消えている」
『……なるほどな。森の奥から見ていたヤツは、俺たちが立ち去ったと完全に誤認するわけか』
少し離れた風上で待機していたウルが、感心したように喉を鳴らした。
「そういうこと。匂いがキツすぎて魔力探知も狂うからね。……夜になったら、自分をコケにした人間の浅知恵をあざ笑うように、必ずあの魔物は放牧地へやって来るよ」
コロの冷徹なシナリオに、村長夫婦はブルリと身震いした。
魔物を騙すための壮大な『劇』は、着々と進行している。
忌避剤を撒き終えたコロとウルは、周囲に自分たちが立ち去ったと見せかけるため、こっそりと村長の屋敷の隣にある大きな納屋へと身を隠した。
乾燥した藁と古い木材の匂いが漂う、薄暗い納屋の中。
隙間風の音だけが静かに響く空間で、コロは背負っていた大荷物をそっと床に下ろし、ウルの銀色の背中に寄りかかって息を潜めた。
外の放牧地は、人類が撒き散らした悪臭によって完全に塗り潰されている。
あとは、森の奥で人間を嘲笑っているであろう愚かな獲物が、自分からこの『盤面』に足を踏み入れるのを待つだけだ。
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