番の条件と、捕食者の静寂 1 〜屋敷の不協和音と、生存のリアリズム〜
1.
ガリア旧街道から少し外れ、一人と一匹は山間に切り拓かれたばかりの長閑な開拓村へと立ち寄っていた。
前の港町での「薬草特需」の感覚が残っていたコロは、路銀の足しにするため、村の裏山に自生する珍しい薬草――険しい断崖にしか根を張らない『石這い草』などの採取に出向いていた。
切り立った岩肌にへばりつくようにして、コロは指先の感覚だけを頼りに岩の隙間に潜む根を探り当てる。
眼下には足がすくむような深い谷が口を開け、強風が容赦なく体温を奪っていくが、コロの呼吸に乱れはない。
そしてその背後では、ウルの放つ濃密な魔力と冷たい獣の匂いが、周囲の茂みに潜む飢えた野生動物たちに対して「ここから先は死の領域だ」と言わんばかりの無言の警告を発し続けていた。
その洗練された『力量』は、最近森に住み着いた魔物の脅威に頭を悩ませていた開拓村の大人たちの目に、ひどく頼もしく映ったらしい。
大量の極上な薬草を抱えて山を下りた二人は、村で一番大きな石造りの屋敷に住む村長から、思わぬ打診を受けた。
「放牧地に現れる大型魔物の討伐」――その用心棒依頼の報酬として、破格の金貨に加え、討伐までの間の客室と温かい食事が提示されたのだ。
野宿よりは遥かに効率が良く、腹も膨れる。
コロはその実務的な判断から、あっさりと依頼を引き受けることにした。
だが、前金代わりに案内された村長の屋敷の空気は、ちっとも美味しくなかった。
開拓村には不釣り合いなほど立派な石造りの玄関ホールには、高価な調度品が飾られ、女主人が身につけているであろうキツい香水の匂いが充満していた。
だが、どれほど外側を取り繕おうとも、空間を満たしているのは「家柄」や「世間体」といった、ひどく泥臭く、息の詰まるような淀んだ空気ばかり。
窓の外の澄んだ山の空気とは対極にある、胃がもたれるような人類の社会特有の閉塞感がそこにはあった。
「結婚!?馬鹿言うんじゃないよ!まだ早いよ!あそこの三男坊なんかと一緒になって、どうやって食べていく気だい!」
吹き抜けになった広い玄関ホールに、女主人のヒステリックな金切り声が響き渡る。
「でも、私たち愛し合ってるの!マークと一緒にいられれば、どんな苦労だって……!」
「馬鹿だよ、この子は本当!愛で腹が膨れるのかい!」
「またお腹の話!私は今、ご飯の話なんかしてないよ!」
「屁理屈を言うんじゃないよ!お前はこの屋敷の跡取りなんだよ、そんな貧乏くさい真似、私が許すもんですか!」
十二、三歳ほどの娘が必死に涙ながらに反論しようとするが、着飾った母親は聞く耳を持たず、扇子でピシャリと手すりを叩く。
父親である村長も、凄腕の用心棒を雇えた安堵からか、厄介払いするように鼻で笑って「頭を冷やせ」と娘を自室へと追い立てていた。
そのひどく人間臭く、やかましい家族の騒動。
コロは二階の客室へと続く廊下の隅の長椅子に座り、無表情のまま眺めていた。
「……人類は、自分の子供が自分の思い通りにならない意思を持つと、急に不機嫌になるんだね」
コロの口元では、出された歓迎の食事の残りを加工した硬い干し肉が、クチャクチャと実務的な音を立てて咀嚼されている。
その氷藍色の瞳には、娘の純粋な悲恋への同情も、親の横暴に対する怒りも一切ない。
ただ、「人類の生態」として観察しているだけだ。
『……全くだ。うるさくて耳が腐りそうだぞ。発情期を迎えた個体が番を探すのは、生物として当然の摂理だろうに。なぜあんなにも拗れるのだ』
コロの足元で退屈そうに寝そべっていたウルが、ブルリと首を振って長い耳を後ろへ伏せた。
「人類は、番になるための『条件』がちょっと複雑すぎるね」
『複雑だな。複雑な上、親が口を挟むから厄介だ。馬鹿げ過ぎていて、こっちまで馬鹿になりそうだ』
「狩りの腕とか体格じゃなくてさ、親とか周囲の意見、相手の家柄とか、財産とか、見えないもので相手を測るから、複雑になっちゃっているんだね」
『全く、救いようがない程に面倒で哀れな生き物だ』
「救うつもりなんてないから別に良いんだけどさ、同じ屋根の下で毎回あれを聞かされるのは、ね……」
『……さあ、あんな騒音を聞いているより、とっとと放牧地の見回りに行くぞ。あの血の匂いが強い干し肉を食ったら、俺も少し腹が減ってきた』
「うん、行こうか」
『まともに会話できるヤツならいいんだがな』
「できなかったら相手の出方次第だね」
コロは干し肉の最後の一欠片を飲み込むと、ひどく空気の悪い屋敷を後にした。
屋敷の裏手に広がる、広大な放牧地。
綺麗に刈り揃えられた牧草の緑と、そのすぐ向こうに広がる、光すら呑み込むような鬱蒼とした森の黒。
人間の引いた『柵』というひどく頼りない境界線の向こう側から、ジワリ、ジワリと、肺の奥にへばりつくような濃い血の匂いが漂ってくる。
一見すると長閑な放牧地は、すでに巨大な捕食者の胃袋のすぐ隣に位置していた。
『……血と獣の匂いが濃いな』
「見た目は平穏そのものだけどね」
『どうやら、例の魔物はすでにこの近くの縄張りをうろついているようだ』
「私の器だと難しいけど、ウルなら匂いで追えそう?」
『造作もない。だが、俺が本気で駆け回るには、お前は少し足手まといだ』
「反論の余地なしだよ。で、他の魔物は?」
『居ないな。この界隈で幅を利かせているヤツに怯えて去ったんだろう』
「そっか。なるほどね」
『頭が悪い類の魔物なら、この村にいる人類でも十分に戦える。……俺は森の奥まで見回りを続けておくから、お前は適当にそこらで時間を潰して、相手でもしてやれ』
ウルは顎でクイッと背後を示した。
コロが振り返ると、放牧地の柵の陰から、先ほど屋敷で泣いていた娘と、泥だらけの作業着を着た同年代の少年が、一人と一匹を窺うように様子をうかがっていた。
「……なるほど。そういうことね」
『じゃあな。日暮れまでには終わらせて戻る』
ウルは面倒くさそうに鼻を鳴らすと、銀色の閃光となって森の奥へと消えていった。
残されたコロがその場にしゃがみ込み、暇つぶしに足元の草を弄っていると、娘と少年が意を決したように駆け寄ってきた。
「あ、あの……!」
「ん、ああ、村長のお嬢さん」
興味なさそうにチラッと視線を送ったコロに向け、娘がペコっと頭を下げた。
「ごめんなさい、さっきは屋敷で変なところを見せちゃって」
「なあ、君たち旅人なんだろ?見たこともないようなさ、凄い強そうな狼を連れてるし……俺たちに、外の世界のことを教えてくれよ!」
少年は熱っぽい瞳でコロを見つめ、娘の手をきつく握りしめている。
「俺たち、この村を出ようと思ってるんだ!大人たちは分かってくれないけど……二人で手を取り合って、誰も知らない遠くの街で結婚して、自由に生きるんだ!」
「そうなの!大人たちはね、そんな小さいうちから『永遠の愛』なんて分かるわけがない!って言って分かってくれないから、自由に生きるの!」
「もう何年もお互いに愛し合ってるのにな?この先50年だろうが、100年だろうが、変わるわけねえだろってな!」
子供特有の、根拠のない自信と勢いだけが先走った「駆け落ち計画」。
彼らは、外の世界を知る旅人であるコロに、自分たちのロマンチックな決断の背中を押してほしかったのだ。
少年の泥だらけの指先は、娘の白く細い手を痛いくらいに強く握りしめている。
その瞳には、森に潜む魔物の恐怖も、明日のパンを稼ぐ苦労も微塵も映っていない。
ただ、熱病に浮かされたような強烈な『夢』だけが痛々しいほどに輝いていた。
温かい屋根の下でしか生きられない彼らが口にする「自由」や「結婚」という言葉は、泡のように軽く、そしてひどく危うい。
だが、コロは草から手を離し、立ち上がってパンパンと砂を払うと、ひどく平坦な声で口を開いた。
「……明日、明後日、ゆっくり眠れて、お互いがお腹を空かせないようにできる自信があるなら、私は別に番になっていいと思うけどね」
「え……?」
「番?ああ、夫婦ってことか」
思っていた回答が来なかったのか、娘と少年はイマイチ釈然としていないような表情を浮かべている。
そんなことはお構い無しにコロは言葉を続けた。
「番になるのに、そんなに長い年月をかけて親を説得したり、お金を貯めたりする生き物なんてね、この世界で人類しか知らないよ。大抵の生き物は、生まれてしばらくして大きくなれば、本能のままにすぐに番を見つけてる」
愛や絆といった感情的な言葉は一切ない。
純粋な「生存のリアリズム」と、生物学的な事実だけを突きつける言葉。
だが、その身も蓋もない物理的な肯定は、大人たちから感情的に否定され続けてきた子供たちにとって、不思議なほど力強く響いたようだった。
「……そ、そうだよな!俺には大工の腕があるし、どこでだって食べていける!明日も明後日も、絶対に腹は空かせない!」
「ええ……! 私たちならできる、できるわ!私も家のお手伝いなら出来るもの!」
「うおっ!完璧じゃんか!」
「ね!完璧よ!」
コロの極論に謎の自信を得た二人は、パァァッと顔を輝かせ、手を取り合って「ありがとう!」と屋敷の方へと駆けていった。
「あー……さて。あれで良かったのかな……」
コロは遠ざかる二人の背中を見送ることもなく、再び足元の草に視線を落とした。
彼らの未来がどうなろうと、明日の自分の食事の味には何の影響も与えないのだから。
放牧地の柵に寄りかかり、暇を持て余したコロが足元の草をいじって時間を潰していると、先ほどの娘と少年が、しょんぼりと肩を落として戻ってきた。
どうやら、また屋敷の大人たちに怒られてきたらしい。
二人はコロのすぐそばまでやってくると、地面にへたり込み、一方的に不満を漏らし始めた。
「……大人ってやつは、本当に俺たちの話をまともに取り合ってくれないんだ」
「取り合ってくれない……そうなんだね」
「事あるごとによ?『将来を考えろ』って言うんだ。将来を考えたからこそ、俺はテレサと結婚して、俺の腕で食わせていくって言ってるのにさ!」
「へえ、将来を考えろ……へえ」
コロは草の茎をちぎりながら、適当に当たり障りのない鸚鵡返しの相槌を打つ。
そんなコロの淡々とした態度を『自分たちの話を静かに聞いてくれている』と勘違いしたのか、今度は娘――テレサが涙ぐみながら口を開いた。
「お母様はね……マークとは階級が違うって言うの。同じ村に住んでいるのに、家柄が違うから一緒にはなれないって……」
「階級、ね。……今ここを脅かしている魔物にも、『あなたとは階級が違うからあっちに行って』って言って追い払えると、すごく楽なんだけどね」
コロは、ついさっき感じた屋敷の淀んだ空気を思い出し、ポツリと、本当にうっかりと皮肉をこぼしてしまった。
一瞬、ポカンとした顔を見合わせた二人は、次の瞬間、「ぷっ……あはははは!」と吹き出した。
「あはは!なんだよそれ、最高だな!」
「ふふっ……魔物に階級のお説教なんて、お母様が聞いたら卒倒しちゃうわ!」
コロの極めて物理的で身も蓋もない皮肉は、大人たちの理不尽な重圧に押し潰されそうになっていた彼らの心に、思いがけずクリーンヒットしてしまったらしい。
クスクスと笑い転げたマークとテレサは、すっかりコロの返しが気に入った様子で、コロのそばに親しげにまとわりつき始めた。
「なあ、お前、俺たちより年下みたいなのに、なんだかずいぶん大人みたいだな」
「そうなのよ。なんだか、どんな大人より頼もしく見えちゃうわ。……やっぱり、外の世界を旅しているから、色んな経験をして大人になるのね!」
「……別にそういうわけじゃないけど。ウルと毎日歩いて、食べて、寝てるだけだよ」
「あの強そうな狼さん、ウルっていうのね!あなたはなんというの?」
「私?コロだよ」
「ふふ、可愛い名前ね!コロとウル。なんだか素敵だわ!」
「そう?そうなのかな……」
「……これだッッッ!」
途中から適当に草を触ったまま胡座をかいて、ぼんやりと空を見上げていたマークが、ガバっと立ち上がった。
ブチブチと乱暴に引き抜かれた草の中には、コロが集めていた薬草も混じっているようで、コロは声にこそ出さずとも「あっ……」と口を開けてしまう。
「なあテレサ、じゃあ俺たちも旅をしようぜ!大人になるために!誰も知らない街へ行くために!」
「……ええ!きっと素敵な旅になるわ、マーク!」
テレサも弾けるように立ち上がると、先ほどまでの落ち込みが嘘のように目を輝かせ、熱病に冒されたかのごとく盛り上がり始める。
「俺は大工の道具を持っていけばいいな!テレサは何を持っていける?」
「私、お母様の宝石箱から少しだけ……あと、お気に入りのドレスと……」
「……あのさ、旅っていうのは、そんなに簡単なものじゃないよ。ドレスなんて着て森を歩いたら、半日もしないうちに茨でボロボロになるし、第一……」
コロの否定など、もはや彼らの耳には届いていなかった。
コロが現実的な忠告を差し挟もうとするが、二人はすでに自分たちだけの夢の世界へと旅立ってしまっているようだ。
「なあ、馬車はどうする?ロバなら一頭くらい平気か?」
「平気よ!荷車だってガズさんが入植した時に持ってきたって、あのオンボロなら使っても何も言われないわ!」
「いいな!あれなら夜でも二人で並んで眠れるぜ!?」
「ああ、星空の下で眠るのも素敵ね!」
と、生存のリアリズムとはかけ離れた、あまりにも無謀でロマンチックな旅の計画を熱っぽく練り続けている。
「……あーあ。これはもう、聞こえてないかな」
コロは小さく息を吐き、また足元の草に視線を落とした。
平和な箱庭の中で育った彼らの「旅」の想像が、いかに現実の土や泥の重みから乖離しているか。
それを今ここで教えたところで、彼らの熱病が冷めることはないのだろうと悟ったコロは、再び、黙々と薬草を抜き始めた。
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