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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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紙の上の王国と、未開の泥沼 3 〜崩壊する楽園と、絶望の紙吹雪〜

3.


ファルシア王国への入植という名の集団狂気は、その後も一向に冷める気配を見せなかった。

第一陣の出航から数週間が経過し、港町ではすでに第六陣の入植民たちを乗せるための大型船の建造と物資の積み込みが、異様な熱気の中で進められていた。


その間、コロとウルはブレることなく、自分たちの「商売」に徹し続けていた。


昼間は険しい森で魔物を牽制しながら高値で売れる薬草を根こそぎ刈り取り、夕暮れになればエレノアとシルヴァンの薬草店へ持ち込んで、深夜まで特級品のポーションを量産する。

狂騒に浮かれた街の住人たちは、自分たちが夢の国で成功するための「保険」として、コロたちが作ったポーションを飛ぶように買っていった。




「……よし。これで昨日の分け前も、全部『魔結晶』に換金できたよ」


朝だと言うのに薄暗い裏路地。

馴染みになった裏社会の闇両替商から出てきたコロは、鞄の中にズシリと重い布袋を滑り込ませた。


『ずいぶんと念が入っているな。あの薬草屋の婆さんが払ってくれる銀貨なら、偽金でもないだろうに』

「銀貨そのものは本物だよ。でもね、この街の経済がそろそろ限界だからね。あの『ファルシア紙幣』っていう紙切れが市場に溢れすぎたせいで、実体のある銀貨や金貨の価値までおかしなことになり始めてるんだ」


コロは鞄のベルトをキュッと締め直し、冷ややかな視線を大通りに向けた。


「実体のない信用が泡みたいに弾けた時、街の経済は一気に死ぬよ」

『ふむ、そんなものか』

「そんなものだよ。だからね、どこの国でも、どの時代でも絶対に価値が変わらない『純粋な魔結晶』に換えておくのが一番安全なんだ。伯爵だってそう言っているでしょ」

『ふん。徹底した自衛だな。だが、俺もこの街の脂ぎったインクの匂いには、そろそろ鼻が限界だ。稼ぐだけ稼いだのなら、さっさと次の街へ行きたいところだが』

「そうだね。薬草の生息数も減ってきたし、そろそろ潮時かな」


一人と一匹が、いつものように山へ向かおうと路地を抜け、港を一望できる高台の通りに差し掛かった時のことだった。


――パァァーーン……


不意に、港の方角からひどく間延びした汽笛の音が響き渡った。

いつも聞こえてくる出航を祝う陽気なリズムではない。

どこか重苦しく、引きずるような、緊急の入港を知らせる不吉な音だった。


『おい、いつもの馬鹿みたいな音じゃないぞ』

「……何かあったみたいだ」


ウルに視線で促されるまま、コロはウルの背中に飛び乗った。




「……なんだ? 第六陣の船が出るにはまだ早すぎるぞ?」

「お、おい、見ろ!沖から船が帰ってきたぞ!」

「帰ってきた?馬鹿な、新大陸までは片道一ヶ月はかかるはずだぞ。第一陣の帰還船にしては早すぎないか?」


高台から見下ろす港の広場は、どよめきに包まれていた。


コロとウルも足を止め、海風に煽られながら沖合を見つめる。

そこに姿を現したのは、真新しい白帆を掲げた大型のガレオン船。

それは間違いなく、つい数日前に盛大なファンファーレとともに「第四陣」の入植者たちを乗せ、薬草店に莫大な利益を与え、旅立っていったはずの船だった。


だが、その様子が明らかにおかしい。


出航の際には甲板を埋め尽くしていたはずの人々が、今は一人残らず静まり返り、亡霊のように手すりにしがみついていたり、甲板に座り込んで項垂れていたりしている。

歓声も、手を振る姿も一切ない。

ただ、重苦しい沈黙だけが船全体を包み込んでいる。


『……コロ。あの船から、ひどく冷たい匂いがするぞ。死臭ではないが……そうだな、『絶望』の匂いだ』

「……どうやら、予定より早く『答え合わせ』の時間が来ちゃったみたいだね」


コロの氷藍色の瞳が、ゆっくりと港に接岸する船を冷徹に観測する。


「お婆さんとお爺さんのところに行こう。特需が終わったって伝えないと」

『だな。行くぞ、コロ』

「薬草採取がなくなって、ホッとしてない?」

『……良いから行くぞ』

「ふふふ、そうだね」


地面を蹴ったウルの尻尾は、風に揺られながらも、どこか機嫌が良さそうに見えた。




急いで薬草店に引き返し、コロはエレノアとシルヴァンと共に、港まで足を運んでいた。


一行が港に着くと、ガシャン、と重たい錨が下ろされ、まさにタラップが架けられている最中だった。

港に集まっていた数千人の群衆――これから船に乗る予定だった者や、権利書を買った者たち――が、不安と好奇り入り混じった顔で固唾を飲んで見守る中、真っ青な顔をした第四陣の乗客たちが荷物を抱え、そして船長がよろめくようにして甲板に姿を現した。


「せ、船長!どうしたんだ、船にトラブルでもあったのか!?」

「入植者たちはどうした!なぜ引き返してきたんだ!」


波止場に詰め寄った役人や出資者たちの怒号に対し、船長はまるで世界の終わりを見たかのような、虚ろな声で叫んだ。


「……駄目だ……。全部、嘘だったんだ……!!」


その一言が、潮風に乗って広場全体に響き渡る。


「補給のために寄港した中継地の島で……一足先に新大陸に着いて、引き返してきた第一陣と第二陣の輸送船に出くわしたんだ。……彼らは、誰も乗せていなかった」

「誰も乗せていない?なんだ。じゃあ、皆無事にファルシア王国へ入植したという――「違うッ!!!」


船長は頭を掻きむしり、喉から血が出るような声で絶叫した。


「一陣と二陣の船乗りたちが言うにはな……なんとか接岸できそうな浅瀬を見つけて上陸し、手分けして辺りを捜索したらしい。だが、白亜の宮殿なんてない!黄金の麦畑もない!現地民の掘っ立て小屋すら見当たらなかったんだ!あそこにあるのは……見渡す限りの赤土の泥沼と、人類を食い殺す巨大なワニと吸血蚊の群れだけだったんだよぉぉっ!!」

「な……っ!!」

「パニックになる平民たちを他所に、一陣と二陣に乗っていた元騎士や貴族の連中が『ファルシア王国はもっと内陸にあるはずだ!』と無駄に指揮を取り始めて、泥沼の奥へ王国を探しに行っちまったらしい……!」


船長の顔は、その地獄の光景を想像した恐怖に引き攣っていた。


「船乗りたちの契約は『乗客を現地で下ろす』までだ。それに、大勢の乗客を再び乗せて帰るだけの金もなければ、水も食料も『乗組員の分』しか積んでいなかった……!だから奴らは、熱に浮かされた入植者たちが戻ってきて、暴動を起こして船を乗っ取られる前に、怖くなってさっさと錨を上げて逃げてきたんだとよ!」

「そ、そんな……!じゃあ、第三陣の船は……!」

「分からん!海流のせいか第三陣とはすれ違わなかったから、あいつらがどうなったかは全く分からないそうだ……!」


船長の悲痛な告白が、空間を凍りつかせる。


「そんな……そんな泥の地獄に、この船の乗客たちを降ろすことなんて、私にはできない……!だから、引き返してきたんだ……っ!」


しんと、港が静まり返った。

波の音と、風が帆を揺らす音だけが、ひどく場違いに響いている。


防衛本能という名の壁すら容易くへし折る、圧倒的で、あまりにも残酷な『現実』。

夢から醒めたくないと願っていた群衆たちの脳裏に、コロやシルヴァンがかつて口にしていた「底なし沼」という言葉が、呪いのように蘇ったはずだ。


沈黙が破られたのは、その数秒後だった。


「……う、嘘だ……!嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁッ!!」

「私の全財産が!退職金が!息子たちの未来がぁぁっ!!」

「閣下は!?ファブラマグナ閣下はどこにいる!!」

「実際に行ってみないと分かんだろうが!!閣下には王国の後ろ盾があるんだぞ!?」

「そ、そうよ!!何かの間違いよ!!お貴族様や騎士様が挙って大金をつぎ込んでいたじゃないの!!」


狂乱。


それは、暴動という言葉では到底言い表せない、生命の根源的な恐怖が爆発したような阿鼻叫喚だった。

数千人の人類が、一斉に己の人生という名の『器』が、底から粉々に砕け散ったことを悟り、発狂したのだ。


人々は我先にと、広場の中心に設営されていた「ファルシア銀行」の仮設店舗へと殺到した。

だが、そこにあるのは窓を板で打ち付けられ、もぬけの殻となった木造の小屋だけだった。


「逃げたぞ!奴ら、金貨を全部持って、昨日の夜のうちに逃げやがったんだ!!」

「代官だ!この詐欺を公式に認めた町代官を引っ張り出せ!!」


怒り狂った群衆が、巨大な波となって街の中枢へと雪崩れ込んでいく。


その過程で、彼らがつい数分前まで「命の次に大切だ」と信じ、握りしめていた『ファルシア銀行の紙幣』や『土地権利書』が、意味を失ったただの紙切れとなって、無数に宙を舞った。

ひらひらと心地よい風に揺られ、一日が始まって間もない空を、まるで死者の魂のように白く埋め尽くす。


極彩色のインクで刷られた、存在しない楽園の設計図。

それが人々の泥に汚れたブーツに踏みにじられ、路上の水溜まりに溶けて汚物となっていく様を、コロとウル、そして薬草店の夫婦は波止場の片隅から静かに見下ろしていた。


『……凄まじいな。今朝まで希望の象徴だったインクの匂いが、今は強烈な絶望と殺意の匂いに変わっているぞ』


ウルが、心底呆れたように、けれどどこか人類の種としての脆弱さを嘲笑うように鼻を鳴らした。


「……そうだね。いくら紙の上に綺麗な城を描いても、現実の泥沼を歩くことはできない。その簡単なことを、みんな忘れていただけなんだよ」


コロは、自分の足元に飛んできた、泥だらけのファルシア紙幣を冷たく見下ろした。


「……さて。私たちはもう、店に戻るよ」


エレノアが、深く刻まれた目尻の皺をさらに深くして呟いた。

彼女の褐色の肌は、朝の光の中でひどく沈んで見えたが、その瞳に宿る職人の灯火は消えていなかった。


「もうすぐ怪我人が山のように運び込まれてくる。特需は終わったけど、これからが本番さね。お嬢ちゃん、あんたたちはどうするんだい?」


コロは鞄の奥底にある「魔結晶」の、硬く、冷たく、確かな重量感を外からそっと確かめた。


「私たちは、街を出るよ。……この街に、もう私たちの仕事はないからね」

「そうか」


シルヴァンが寂しげに、けれど理解を示すように頷いた。

彼は窓の外で上がり始めた黒煙――おそらく暴徒たちが代官所の門に火を放ったのだろう――を眺め、悲しそうに首を振った。


「忠告を聞かなかったのは彼ら自身だ。だが……やはり、世界中を歩いた我々からすれば、人類が自ら望んで泥沼に沈んでいく姿を見るのは、気分の良いものではないな」

「そうだね。でも、お爺さん。あなたはちゃんと『正論』を言ったよ。それは、この街の記録のどこにも残らないだろうけど……事実としては、そこにあったよ」


コロの言葉に、シルヴァンは一瞬目を見開き、やがてクククと喉を鳴らして笑った。


「ははは。お嬢ちゃんにそう言われると、なんだか救われたような気分になるよ。……よし、エレノア。帰って大鍋を洗おう。今度は普通の治癒ポーションをガンガン作るぞ」

「ああ、分かっているさね。これから日銭稼ぎで嫌という程、薬草も安く集まる」

「正解!そういうわけだ!」


エルフの夫婦は、一人と一匹に短く別れを告げると、騒乱の渦中へと、けれど迷いのない足取りで戻っていった。

自分たちが磨き上げた技術だけが、この嵐の中で唯一信じられる「錨」であることを、彼らは知っているのだ。




一人と一匹は、暴徒の喧騒を避けるようにして、ガリア旧街道へと続く静かな裏道を歩いていた。


街のあちこちからは、いまだに「紙の上の王国」を失った人々の、獣のような叫び声と慟哭が響き渡っている。

かつては「希望の街」と呼ばれ始めていた港町は、今や巨大な葬送の場へと姿を変えていた。


『……コロ。結局、人類というのは、死ぬまで「紙」と「事実」の区別がつかない生き物なのか?』

「……みんながみんなそうじゃないよ」

『たしかに、あの爺さんと婆さんは目が眩んでいなかったな』

「でもね、ウル。人類にとっての『希望』っていうものは、時々、あまりにも燃費が悪すぎるのかもね」


コロは歩みを止め、最後にもう一度だけ街を振り返った。


「綺麗な嘘があれば、彼らは何も食べなくても数日は走れる。けれど、その嘘が燃料切れになったとき、彼らはもう二度と立ち上がれないほどのダメージを負う。……最初から、自分の足の下にある『土』だけを信じて歩けばいいのに」

『……俺には理解できん。俺にあるのは、この四肢と牙と角、そしてお前という事実だけだ』


ウルの黄金の瞳が、静かな光を放つ。

コロは微笑み、ウルの銀色の背中をポンと叩いた。


「うん。それで十分だよ、ウル。……さあ、行こうか。海は暫くは良いかな」

『魚も悪くないが、やはり肉だな』

「あのナマズよりは美味しいから良いんだけどね」

『その「ナマズ」という言葉を聞くだけで、口の中が泥臭くなった気がする』

「ウルの大好きな『自然の匂い』じゃない」

『物事には限度というものがある』

「ふふ、だね」


街の背後にそびえる未開の森が、一人と一匹を静寂の中に迎え入れた。


嘘と虚飾、そして安っぽいインクの匂いにまみれた港町を後にし。 少女と銀狼は、確かな土の感触と、冷涼な夜の空気の中に、その姿を消していった。

人類の抱いた空虚な夢の残骸が、泥水に溶けて消えるその横を。




※ ※ ※




その日の夜。


静寂に包まれた森の奥。

パチパチと爆ぜる小さな焚き火の傍らで、ウルの温かい毛並みに背中を預けて眠りについたコロの意識は、深く、静かな底へと沈んでいった。


やがて、果てしなく広がる真っ白な空間へとふわりと降り立つ。

コロと女神だけが繋がることのできる、時間も重力も存在しない、ただ純白だけが広がる夢の中の特別な場所。


コロはゆっくりと、女神が広げた柔らかい両腕の中へと飛び込んだ。


「ただいま」

「おかえりなさい。私の愛おしいコロ」


女神の腕の中で、コロは人間の街でこびりついた喧騒の疲れを吐き出すように、目一杯息を吸い込んだ。


「ねえ、女神様。今日はね、たくさんの夢が泥水に溶けて消えちゃったよ」

「ええ……見ていたわ。人類は本当に不器用ね」


まるで鈴のように響く、優しくて慈愛に満ちた声が、コロの銀髪をそっと撫でる。


「残酷な現実の泥沼から逃げ出すために、もっと深い絶望の沼へ、自ら飛び込んでしまうのだから」

「……うん。でも、みんなすごく嬉しそうに、笑いながら飛んでいったんだよ。きっと、嘘だっていうことに気づかないふりをしてでも、その夢にすがりつきたかったんだろうね」


コロは、真っ白な空間を見つめながら小さく首を傾げた。


「……綺麗な嘘があれば少しの間だけは走れるけど、夢から醒めて現実の重さに気づいた時、もう二度と立ち上がれなくなっちゃう」

「そうね。嘘で編まれた羽では、夢の中で自由に羽ばたけても、現実の嵐を越えることはできないわ」


女神は悲しそうに微笑み、コロの背中を愛おしそうに何度も、ゆっくりと撫でた。


「だからこそ、あなたは自分の足元を確かめながら歩きなさい」

「うん」

「紙に描かれた偽物の地平線ではなく、確かな土を踏みしめるの。その足でね」

「……うん。分かってる。私には、女神様もウルがいるからね。迷ったりしないよ」


コロは、女神の温もりに身を委ねながら、静かに目を閉じた。


「明日もちゃんと、自分の足元に硬い地面があることを確かめながら歩くよ。……女神様、おやすみ」

「ええ。たくさん歩いたのですから、ゆっくりお休みなさい、コロ」


優しい声と共に、真っ白な空間がゆっくりと溶けていく。

人類が抱いた空虚な希望と、泥沼で待つ残酷な未来とは無縁の場所で――


挿絵(By みてみん)

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