紙の上の王国と、未開の泥沼 2 〜雨季の現実と、ボケ老人の妄言〜
2.
ファルシア王国への入植ブームは、第一陣を乗せた船が出航した程度で収まるような生易しいものではなかった。
むしろ、実際に「船が出た」という事実が、まだ権利書を手に入れていない人々の焦燥感と熱狂に油を注ぎ、港町は空前の特需に沸き返っていた。
翌朝、コロは、この異常な熱気を「極めて効率的な集金システム」とみなし、あっさりと旅を延期してこの街に留まる決断を下していた。
「……よし、これで五十束目。日暮れまでにどうにか間に合ったね」
『俺の鼻の奥にこびりつくほど、草の匂いを嗅いだぞ』
朝から夕方まで。
一人と一匹は、街の背後にそびえる険しい山や森を駆け回り、入植者たちが「未知の病」や「怪我」に備えて飛ぶように買い漁る、ポーションの素材となる薬草を文字通り根こそぎ採取してきたのだ。
立ち止まれば瞬時に吸血蚊の群れが襲いくる、湿度と熱気のこもった森。
コロの指先は、絶え間ない採取作業によって植物の灰汁でどす黒く染まり、爪の間には湿った土が入り込んでいた。
だが、その不快感さえも「一束いくら」という明確な利益に換算されるなら、彼女にとっては心地よい労働の証でしかない。
背負った鞄が薬草の水分でずっしりと重みを増し、歩くたびに鼻を突くような強い青臭い匂いが、ウルの銀毛にも移っていた。
「いつもは『人類の町よりいい匂いがする』とか言って、気持ちよさそうにしているじゃない」
『ぬぅ、真似をするな』
「いてっ!ははは、まあ朝からずっと同じ薬草ばっかりだったもんね」
コロに真似され、ウルはしゃがみ込んでいた背中にポフっと優しくぶつかった。
バランスを崩して地面に手をついたコロは、クスクスと笑いつつ、ウルの角を掴んで起き上がった。
「さて、そろそろ町に戻ろうか」
『そうだな。虫けら相手に終始雷をバチバチさせて、流石に腹が減ったぞ』
「自然の匂いだけじゃ腹は膨れない、か」
『まだ言うか』
「ちゃんといい家畜肉を買うから、機嫌を直してよ」
『フン。新鮮な魚でもいいな。ふむ、悪くない』
仲睦まじげな一人と一匹の姿が、茂みの向こうへと消えていく。
山を下り、港町を一望できる丘に出た頃には、空は赤紫色の夕闇に染まり始めていた。
眼下に広がる港は、夜の帳が下りようとしているにも関わらず、真昼のような明るさと喧騒に包まれている。
無数の魔導灯が不自然なほど煌々と焚かれ、広場では未だに詐欺師たちの演説と群衆の歓声が絶え間なく響いていた。
『……夜になっても静まる気配がないな。狂っているとしか思えん』
「うん。熱狂っていうのは、一種の麻薬だからね」
『麻薬か……そのとおりだな』
「暗闇の中で自分の将来への不安と向き合うより、明るい光の中でみんなと同じ夢を見て騒いでいる方が、ずっと楽なんだよ」
コロは眼下の光の海を冷ややかに見下ろしながら、背負った鞄の重みを確かめるように肩をすくめた。
「さあ、私たちの現実に戻ろうか。あのお婆さん、きっと大喜びするよ」
『悪くないな』
夕暮れ時、店じまい寸前の裏路地にある薬草店。
カラン、とベルを鳴らしてコロが重たい鞄をカウンターにドサリと置くと、ダークエルフの老婆は、目を丸くして歓喜の声を上げた。
「おお!お嬢ちゃんたち、また来てくれたのかい!しかもこんなに大量の極上品を……!」
「特需だからね。今のうちに稼げるだけ稼いでおこうと思って」
コロが淡々と答えると、老婆は有難がって一人と一匹に向け、店の奥へと顎をしゃくった。
「いやぁ、本当に助かるよ。もう作っても作っても飛ぶように売れて、私一人じゃ調合が追いつかなくてね。……どうだい、お嬢ちゃん。手伝っていかないかい?もちろん、買い取り代とは別に色をつけて払うし、食事と寝床くらい提供するよ」
「いいよ。薬草の下処理とか、簡単な薬を作るのくらいなら慣れてるからね」
コロは即座に上着を脱ぐと、作業台の前に立ち、手洗いと消毒を済ませて早速作業に取り掛かった。
使い込まれた乳鉢に、乾燥させた薬草と少量の根を放り込み、一定のリズムで擂り潰していく。
ゴリ、ゴリ、という重みのある音が、静かな店内に心地よく響き渡った。
細かく砕かれた繊維からは、青臭いだけでなく、どこかスーッと鼻を抜ける清涼な香りが立ち上る。
コロはその香りの変化で鮮度と成分の抽出具合を正確に測り、完璧なタイミングでエレノアが管理する大鍋へとパスを出していく。
「いやぁ、本当にお嬢ちゃんの手際は見事だね。無駄な力が一切入っていないし、何より植物の『一番いい状態』を耳と鼻で理解している。あたしも長年この商売をやっているけど、ここまで綺麗な下処理をする職人にはそうそうお目にかかれないよ」
「お婆さんの鍋の火加減も完璧だからね。これなら、どんな素人が飲んでも確実に効く特級品のポーションができるよ」
魔力を帯びた薬液が、鍋の中で美しい色に輝きながらコトコトと音を立てる。
外の狂騒を忘れさせるような、純粋で誠実な職人仕事の時間だった。
暫くの間、店の奥の作業台で、コロが黙々と乳鉢で薬草を擂り潰していると、裏口の扉がギィッと開く音がした。
「エレノア、戻ったよ。港の方は相変わらずの狂騒で、歩くのも一苦労だ」
入ってきたのは、長く美しい銀髪を後ろで束ねた、長身のエルフの老人だった。
深い緑色の瞳と、目尻に刻まれた穏やかな皺が、彼が重ねてきた年輪の深さと知性を物語っている。
ダークエルフの老婆はエレノアというらしく、その夫である彼は、椅子から立ち上がって背中を伸ばしたエレノアを優しく抱きしめた。
「シルヴァン、お帰り。ちょうどいいところだ、このお嬢ちゃんたちが極上の素材を持ってきてくれてね、一緒に下処理を手伝ってくれているんだよ」
「ほう!それはありがたい」
シルヴァンと呼ばれた老人はウルを見て一瞬だけ驚いた様子を見せたが、すぐに穏やかに微笑んでみせた。
「それでは私も手伝うとするか。お嬢さん、お隣良いかな」
「手伝ってくれる人が増えて嬉しいよ」
シルヴァンと呼ばれた老人は、コロとウルに向けてウインクを送り、テーブルの上に置かれた桶に両手を突っ込み、張られていた水で両手を洗い、コロの隣へと並んだ。
シルヴァンの身のこなしには、隠居した老人とは思えないほどの無駄のなさが同居していた。
椅子に座る際、無意識に背後の死角を確認する仕草。
そして、薬草の繊維を指先でなぞるだけでその「土地の記憶」を読み取るような鋭い眼差し。
それはかつて、地図のない荒野を何十年も歩き続けてきた、本物の『旅人』だけが纏うような空気だった。
エレノアもまた、そんな夫の気配を背中で感じながら、深い信頼を込めて鍋をかき混ぜる。
二人の間に流れる空気は、外で荒れ狂う偽りの熱狂とは決定的に異なる、静かで硬質なリアリズムに満ちていた。
『……また俺の言葉が分かる口か?』
「世界を安全に旅する秘訣はね、圧倒的な強さではなく、魔物と対等に喋れる事にあるんだよ」
『なるほどな、買収するわけか』
「はは、正解。新鮮な家畜肉でね。現地の人類なんかよりよっぽど安全に案内してくれるからね」
そう言う彼の手つきもまた、長年連れ添ったエレノアに劣らぬほど洗練された『職人の手』だった。
「……それにしても、あのファルシアとかいう国。まだ盛り上がっているんだね」
コロが手を動かしたまま淡々と呟くと、シルヴァンは深く、深くため息をついた。
「ああ。本当に度し難い話だよ。私とエレノアは昔、世界中を旅して回っていてね。あの『新大陸の沿岸部』の座標にも、実際に足を運んだことがあるんだよ」
「お婆さんから聞いたよ。私たちもね、通ったことがあるんだ。泥とワニと吸血蚊と、ナマズばかりのところだよね」
コロの言葉に、シルヴァンは「おお!」と目を輝かせた。
「その通り!あんな立地に建国なんてね、不可能だということくらい、少し地形と気候を考えれば分かるはずだよ。特にあの地域の『雨季』を知っていればね」
「そうだね。本当にそのとおりなんだ」
コロという理解者を得たからか、シルヴァンは嬉々としている。
正確且つ手早く、手を動かしつつも口が開く。
「ああ。雨季になれば、あの一帯は完全に水没するよ。あそこの雨季はね、空が落ちてきたかと思うほどの豪雨が数ヶ月続くんだ。排水など追いつくはずもないよ。地面は一面、粘り気のある赤土のスープと化し、さっきまで歩いていた道が巨大な川に飲み込まれる。……あんな泥の中に打ち込まれた基礎など、巨大なスプーンでかき混ぜられた砂糖菓子のように脆く崩れ去るだけさ。白亜の宮殿だって?馬鹿を言っちゃいけない。水を吸った重みで、自分自身の重みで地面に沈んでいくだけの、ただの巨大な墓標だよ」
よほど不満が蓄積しているのか、シルヴァンの口は止まる気配がない。
それでも手元は疎かになることなく、手際よく動き続けている。
「大体ね、家一軒の基礎を固めるだけでも、金貨十枚程度では到底足りない。もし仮に無理やり家を建てたとしても、雨季になれば一階部分にはとてもじゃないが住めたものではない。水が退いた後に待っているのは、あのデカい蚊の幼虫ばかり」
純粋な『現場を知る者』からの正論に、コロは深く頷いた。
「そうだよね。水捌けの悪さと地盤の緩さを考えたら、いきなり大規模な都市計画なんて夢のまた夢だよ」
「そのとおりさね。もっと別のところを切り開いて建国するほうがよっぽど信憑性があるよ」
ゆっくりと魔力を流しながら撹拌しているエレノアが、呆れた声でそう返した。
「そうだろう?だから私は、港で熱に浮かされている若者たちにその事実を説明してやったんだ!『あそこは水没する泥沼だ、考え直せ』とな!」
シルヴァンは大げさな口調でそこまで言うと、ガクリと肩を落とし、乳棒を握りしめた。
「しかし……誰一人として、私の言葉に取り合ってはくれなかったよ。それどころか『ボケ老人の妄言だ』『すっこんでろ耳長』なんて、散々な言われようだったよ……」
隣で薬液を煮込んでいたエレノアが、肩を震わせて笑い声を漏らす。
「だから言ったじゃないか、シルヴァン。夢から醒めたくない連中に、現実という名の冷水をぶっかけても恨まれるだけだって」
「だがなぁ、あんなあからさまな嘘で命を捨てるのを見過ごすのは……」
「でも、笑い事じゃなくなってきているさね」
エレノアは笑いを収め、真剣な顔つきで薬液をかき混ぜる。
「最近じゃ、現役を引退した王国の騎士や、家督を継げない貴族の次男坊なんかも、続々と土地権利書を買って、乗船券に群がっているっていうじゃないか。ヤツらは全財産を、あの胡散臭いファルシア銀行の紙幣と換金しているときた」
その言葉に、コロの乳棒を動かす手がピタリと止まった。
「……なるほどね。元騎士や貴族の末端が動いているってことは、その『権威』を見て、さらに平民たちが安心して全財産を投資しちゃうんだ」
「お嬢ちゃん、正解」
シルヴァンはそう言ってパチンと指を鳴らした。
コロも小さく頷きつつも、言葉を継いだ。
「元騎士たちとか、貴族の倅に人を騙そうっていう悪意はないんだろうけどね。彼らもまた、この国では行き場のない人たちなんだろうし」
コロの言う通り、長子相続が絶対の貴族社会において、家督を継げない次男坊は、自力で功績を立てて新たな領地を得るか、どこかに婿入りするしか道がない。
退役した老騎士にしても、恩給だけで静かに余生を過ごすより、新天地での「最後の栄光と開拓」という言葉は、彼らの燻った自尊心を強烈にくすぐるのだろう。
「ああ、純粋に新天地での再出発を夢見ているだけだろうね」
そこまで言うと、エレノアは小さく肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
「その手の権威層が真剣に熱狂することで、結果的に詐欺に加担している形になっている。たしかに、もう『ボケ老人の妄言』ひとつでは止まらないわけだね」
『……俺たちの知ったことではないだろう』
ずっと傍らで丸くなっていたウルが、大きな欠伸と共に口を開いた。
『愚かな人類が泥沼に沈もうが、紙切れを拝んで死のうが、どうでもいいことだ。俺たちはただ、ここで薬を作って、大儲けするだけの話だろう』
ウルの身も蓋もない極論。
だが、その言葉を聞いたシルヴァンが、ふっと表情を緩め、声を出して笑い始めた。
「はっはっは!まったくもって、その狼殿の言う通りだね!愚かな人類の自滅など、私たちの知ったことではないな!」
コロはそんな彼らのやり取りを横目に、再び淡々と薬草を擂り潰し始めた。
「そうだね。私たちはただ、自分の足元が崩れないように、しっかり稼ぐだけだね」
ウルは大きな顎を広げて欠伸をすると、退屈そうに尻尾でコロの足を叩いた。
広場から漂っていた、あの嘘と安いインクが混じったような鼻に付く匂いは、ここには届かない。
代わりに満ちているのは、植物が持つ本物の生命の香りと、薬湯を煮込む穏やかな蒸気の匂い。
ウルの黄金の瞳には、人類が紙の上で踊ろうが、泥の中で溺れようが、今この瞬間、信頼できるパートナーと共に稼いでいるという「確かな事実」だけが映っていた。
「私はやっぱり賢い魔物のほうが好きだよ。人類なんかよりよほど賢い生き方を熟知しているさ」
「完全に同意さね」
店の中には、心地よい薬草の香りと、種族の壁を越えた奇妙で温かな連帯感が満ちている。
外の狂騒とは無縁の、確かな「現実」がここにはあった。
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