紙の上の王国と、未開の泥沼 1 〜安っぽいインクの匂いと、燃費の悪い希望〜
1.
ガリア旧街道の険しい山道を抜け、一人と一匹は潮の香りが漂う巨大な港町へと足を踏み入れた。
そこは、未知なる大陸との交易で巨万の富を生み出す、王国でも有数の活気あふれる海運都市であるはずだった。
だが、今日この街を包み込んでいる熱気は、普段の「商売」のそれとは明らかに異なっていた。
行き交う人々の目は異様にギラつき、誰もが足早に、そして夢遊病者のように港の中央広場へと向かっていく。
潮の香りを掻き消すほどに、むせ返るような汗と熱気が広場に充満していた。
普段ならば香辛料や織物の取引が行われるはずの石畳には、不自然なほど色鮮やかな旗が何本も立てられ、海風を切り裂いてバタバタと品のない音を立てていた。
照りつける太陽の下、群衆の顔は一様に赤く上気し、誰もが何かに急き立てられるように、肩をぶつけ合いながら中央の特設ステージへと吸い寄せられていく。
そこにあるのは健全な労働の活気ではなく、あぶく銭の匂いに群がる羽虫のような、どこか病的で濁った熱狂だった。
「……なんだか随分と浮かれているね。お祭りでもやってるのかな」
『人類の町の中でも、大きいところは大抵浮かれているだろう』
「それはそうだけど、そういう感じではないよ」
コロは道端に積まれた木箱の上にピョンと飛び乗り、背伸びをして広場の様子を窺った。
ウルもまた、潮風に混じる奇妙な熱気を嗅ぎ取り、マズルに軽くシワを寄せている。
広場の中央には、即席の豪奢なステージが組まれ、立派な絹の服を着た男たちが、集まった群衆に向けて声を張り上げていた。
「さあさあ、刮目せよ!海の向こうに誕生した新たなる希望の国!その名も『ファルシア王国』!白亜の宮殿が立ち並び、肥沃な大地は種を撒かずとも黄金の麦を実らせる!今なら、このファルシアの土地権利書が、たったの金貨十枚で手に入るってんだから驚きだ!」
男たちが空高くビラを撒き散らすと、群衆は我先にとそれに群がり、狂ったような歓声を上げた。
ひらひらと舞い落ちてきた一枚のビラが、木箱の上のコロの足元に落ちる。
コロはそれを拾い上げ、氷藍色の瞳でじっと見つめた。
極彩色のインクで刷られたその「案内書」には、美しい並木道、壮麗な劇場、そして豊かな水源に囲まれた理想郷のような街並みが描かれている。
それは、この煤けた港町にはひどく不釣り合いな、上等で滑らかな羊皮紙だった。
しかし、そこに刷られた極彩色のインクからは、鼻の奥にツンとくるような安っぽい匂いが漂っている。
美しく誇張された白亜の宮殿や、不自然なほど青く澄んだ運河の絵は、目を引くがどこか平面的で、現実の土や泥の重みを一切感じさせない。
まるで、実体のない夢を無理やり紙の上に定着させたような、薄気味の悪いまでの『完璧さ』がそこにあった。
「……へえ。手の込んだ仕様書だね」
『どれ、ふむ……』
そしてご丁寧に、その国が存在するという新大陸の沿岸部の『座標』までが、詳細な地図と共に記されている。
コロはウルの『おい、まだ見ている』という指摘を無視し、ビラをピラっと裏返し、透かして見たりしながら淡々と呟いた。
「でも、おかしいな……」
『そんな国、これまで見たことも聞いたこともないぞ』
「そうなんだよ、ウル。この地図の座標……私たちが三十年前に通ったときは、たしかワニと巨大な吸血蚊しかいない、ただのマングローブの湿地帯だったはずなんだけど」
『……三十年前?通ったか?』
「あそこだよ。沼ばっかりでさ、出てくる料理の全部にナマズが入っていた」
『……あそこか!……ん?』
「ね?」
ウルの尻尾が一瞬、ピンと手を上げたように跳ね上がったが、またすぐにボフンと地面を叩いた。
『地形というものは、そう簡単に変わるものではないだろう?』
「うん、そうなんだよ。地殻変動でも起きない限り、そんなことはないよ」
『妙な話だな』
「ちょっと気になるね」
コロはビラを持ったまま、木箱から飛び降りて広場へと近づいていった。
広場の端では、全財産をはたいて「入植権」を買おうとしている若夫婦や、退職金代わりの恩給を握りしめた老兵たちが、ファルシア銀行と銘打たれた立派な紋章入りの紙幣を自慢げに見せ合っている。
「これで俺たちも、地主の仲間入りだ!」
「ああ、新天地での素晴らしい生活が待っているぞ!」
コロは彼らの輪の端にスッと立ち、その手にある『土地権利書』とビラを交互に覗き込んだ。
そして、のっそりと、平坦な声で口を開いた。
「……ねえ、おじさんたち」
「ん?なんだ?渡せねえが、ちょろっと見てみるか?」
頬を上気させた獣人族の男が、両手でガッチリと掴んだまま、コロに土地権利書を見せつけた。
しかし男が想像していたような可愛げのある反応など、コロの顔にはなかった。
「あそこはね、とてもじゃないけど、人類が住める場所じゃないよ」
冷水を浴びせるような幼い少女の声に、男たちが一斉に振り返る。
「そもそも海抜が低すぎる泥の湿地帯なんだ。……この案内書には『白亜の宮殿』があるって書いてあるけど、たった十数年で、あの底なし沼にこんな巨大な基礎を打ち込むのは物理的に無理だと思う」
それまで今にも天に飛んでいきそうな熱狂に包まれていた集団に、酷く重たい沈黙が降りる。
コロは土地権利書を見つめたまま更に言葉を継いだ。
「……魔法使いを千人雇って、五十年くらいかけて土壌改良からやらないと、家一軒まともに建たないはずだよ。地元の人だって沿岸には小屋すら建てないもの」
一切の感情を排した、純粋な『建設工程』からの指摘。
しかし、夢と熱狂に脳を焼かれた大人たちにとって、コロの論理的な計算は、単なる不快なノイズでしかなかったようだ。
「なんだこのガキ!縁起でもないことを言うな!」
「こんな立派な紋章の入った公式文書に、嘘があるはずがないだろう!」
「そうだそうだ!閣下のお墨付きだぞ!自由民のガキはすっこんでろ!」
男たちの目は血走り、コロを見下ろすその顔には、親の仇にでも出会ったかのような明確な敵意と憎悪が張り付いていた。
彼らは、全財産と引き換えに手に入れたその薄っぺらい紙切れを、絶対に手放してはならない命綱であるかのように、ひび割れた太い指でガッチリと跡が残るほど握りしめている。
そう、コロの突きつけた冷徹な現実が、彼らの夢見ている理想の楽園を破壊せんとばかりに襲いかかっているのだ。
正論という名の猛毒から己の精神を守るため、彼らは防衛本能の壁を高くそびえ立たせ、目の前の幼い少女を『悪魔の使い』か何かのように睨みつけていた。
コロはそれ以上反論することはなく、ただ「……そっか」とだけ呟いて、あっさりとその場を離れた。
男たちの怒声を背に受けながら、コロは群衆の熱気から逃れるようにして、静かな裏通りへと歩を進めた。
ウルもまた、狂騒に巻き込まれるのを嫌うように、コロの影にピタリと寄り添ってついてくる。
裏通りの冷たい石垣に背を預け、コロは遠く広場から響いてくる歓声を無表情のまま見つめていた。
『……フン。どいつもこいつも、鼻が詰まっているとしか思えんな』
ウルがマズルに深いシワを寄せ、心底呆れたように喉の奥で唸った。
『海を越えた先の匂いなど嗅ぐまでもない。あの紙切れからは、安っぽいインクと、人類お得意の脂ぎった「嘘」の匂いしかしない』
「たしかにね」
『……地面の匂いを嗅ぎ、風を読めば、あんな甘い話があるわけがないことくらい分かりそうなものだが。人類は、自分の目で見たこともない話を盲信するのか』
魔物としての絶対的な感覚を持つウルにとって、眼の前の光景は集団自殺にしか見えていないようだった。
コロは鞄の肩紐を直しながら、小さく息を吐いた。
「……しょうがないよ、ウル。人類はね、『立派な紋章』があるってだけで、自分の直感を疑うことをやめちゃうからね」
『直感を点検しない? 生物として致命的ではないか』
「だって、自分の頭で『本当にそんな国があるのか?』って疑って、わざわざ裏付けを取るのって、すごく時間もお金も使うでしょ?」
『まあな。今すぐ行くとお前に言われても、俺は渋る』
「私だってあんな遠く、渋るよ。じゃなくて。みんなが信じている『立派な紙切れ』に寄りかかっていた方が、頭を使わなくて済むから楽なんだ」
コロの氷藍色の瞳は、群衆の愚かさを嘲笑するわけでもなく、ただ純粋な『システムの欠陥』として分析していた。
「……それに、彼らはもう自分の全財産をあの紙切れに変えちゃったからね。今更『それは偽物だ』って認めることは、自分の人生の終わりを認めるのと同じことだよ。だから、たとえ誰かが『あそこはただの泥沼だ』って真実を言っても、彼らの防衛本能がそれをただの雑音として排除しちゃうんだよ」
『……なるほど。嘘を真実だと思い込むための、都合の良い防衛本能か。相変わらず、厄介でひどく不便な機能だな』
「うん。だから、あの人たちを止めることは、もう誰にもできないよ」
コロがそう言い切った直後、路地の向こうから、大きな荷物を背負った家族連れが足早に通り過ぎていった。
彼らの顔には、これから向かう「地獄」への不安など微塵もなく、ただただ「存在しない楽園」への希望だけが輝いていた。
『ヤツら、魔物の頭に王国の紋章が入っていたら、有難がって食われるぞ』
「ははは!『そんな事はさすがにない』と言い切れないのがまたね……」
フンと鼻を鳴らすウルと、小さく肩をすくめたコロ。
町の熱狂は醒めるどころか、益々熱を帯びている。
狂騒に沸く広場からさらに離れ、一人と一匹は入り組んだ路地裏の突き当たりにある、ひっそりとした薬草店へとやってきた。
カラン、と古びたベルを鳴らして中に入ると、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。 店内には、長年かけて染み付いた乾燥植物の香りと、ほんの少しの防虫香の匂いが漂っていた。
「……いらっしゃい。今日は外がひどくうるさいが、あんたらもあの紙切れに踊らされている口かい?薬ならもう奪い合いの後。殆ど品切れだよ」
カウンターの奥から現れたのは、紺色の肌と尖った長い耳を持つ、白髪のダークエルフの老婆だった。
その瞳は、長い年月を生きてきた者特有の、凪いだ湖面のような静けさを湛えている。
「まさか。あんな底なし沼の泥水に払うお金なんてないよ」
『俺の鼻も、インクの匂いで麻痺しそうだったところだ』
コロが平坦な声で返し、ウルが鼻を鳴らすと、老婆は少しだけ目を丸くし、やがて「くくっ」と喉の奥で笑った。
「なんだい、お嬢ちゃんもそっちのアッシュウルフの雄も、まともな鼻と目を持った客じゃないか。鼻を治す薬がほしいのかい?」
『ん?言葉が分かるのか?』
驚くというよりは、意外といった感じのウルは、耳をピンと立てた。
「ああ、無駄に長生きしてないからね。本で勉強しただけのテイマーだけどね、そこいらのケツの青いガキよりは腕がある方だよ」
『フン、不用意なことは言えんということだな』
そう言って鼻を鳴らしつつも、尻尾が力なく床に伏せたウルを見て、老婆はクツクツと笑った。
「……それにしても、あそこが『底なし沼』だと知っているとはね。あんた、随分と遠くまで歩いたことがあるようだね」
「うん。まあ、昔の話だけどね」
「そうかい。あそこは昔から、見渡す限りの泥と巨大な蚊しかいない、人類が寄り付くような場所じゃないさね。それ、その薬草を見せてごらん」
ダークエルフの老婆は、コロの持ち込んだ薬草の検収を手際よく進めながら、やれやれといった風に肩をすくめた。
「あの極彩色のビラ、一枚拾って見てみたが……見事なもんだ。存在しない白亜の宮殿に、存在しない肥沃な大地。それを、まるで昨日見てきたかのように詳細に書き立てている。何より感心するのが、この国と、現地のガラ・ラムフェン帝国のお墨付きと来た」
「あそこまで堂々とやっている辺り、この国は本気で認めているもんね」
「だね。……あれを考えた奴は、本物の天才か、でなけりゃ生まれつき頭の構造がぶっ飛んだイカレ野郎だね」
「そうだね。自分の嘘を嘘と思わない……まるで魔物みたいな人だね」
「言い得て妙だ。そうだね、人の弱さを徹底的にしゃぶり尽くす新手の魔物だよ。はいよ、在庫がすっからかんだし、熱病にうなされたバカどもがこぞって薬を買いに来るから、買い取りは相場の倍にしておいたよ」
「ありがとう。本当だ」
コロは、受け取った銀貨を小袋にしまいながら頷き、更に言葉を継いだ。
「人を騙すにしても、普通は少しだけ『本当のこと』を混ぜて信じ込ませるものだけど、あれには本当のことが『座標』以外に一つもないね」
『嫌と言うほど食わされたナマズのことも、丸っきり書いてなかったな』
「ははは、全くだ。しかし、あれだけの規模の嘘を、少しの罪悪感も淀みもなく、さも真実であるかのように出力し続けるなんて……。良心がどうこうの前に、その強靭な精神力には恐れ入るよ」
老婆の言葉には、憤りよりも、むしろ詐欺師の異常な『才能』に対する呆れ混じりの感心が滲んでいた。
「……でも、あのままじゃ、入植権を買った人たちはどうなるんだろうね」
『聞くまでもないだろう。泥沼で野垂れ死にだ。運よく生き延びても、あの厄介な蚊とワニと、泥臭くて敵わんナマズ料理にウンザリする一生を送ることになる』
コロが淡々と問うと、ウルが容赦ない事実を突きつける。
老婆は一つため息をつき、カウンターに両肘をついた。
「……まぁ、そうなるだろうね。でも、あれはもう『そういう病気』の末期症状みたいなもんさ」
「病気?」
「ああ。あの紙切れを買った連中は、自分たちが騙されているかもしれないという可能性から、全力で目を逸らしている。真実を知るよりも、嘘の中で溺れて死ぬことを選んだのさ。……誰が止めたって、もう聞く耳なんて持たないよ。ある意味、あれも一つの『幸せな死に方』なのかもしれないさね」
ダークエルフの老婆は、どこか遠くを見るような目で、窓の外の狂騒を眺めた。
コロもまた、それ以上何も言うことはなかった。
数百年を生きる老婆にとって、人類の寿命も、その強欲も、そして熱狂も、一瞬の火花のようなものなのかもしれない。
それが詐欺師の吐いた嘘によって燃え尽きようとも、それはただの「自然の摂理」の一部でしかなかった。
「……良質な薬草だったよ。またこの街に来ることがあったら、寄っておくれ。次は、もう少し静かな時に、ね」
「うん。ありがとう、お婆さん」
「アッシュウルフの雄も、元気でね」
『ああ、婆さんも元気でな』
コロは小さく頭を下げると、ウルと共に店を後にした。
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