一人と一匹と、寄り道 〜災厄の番犬と、賢明なる迂回路〜
1.
切り立った岩肌にへばりつくようにして築かれた、山間の関所町。
平時であれば、東西の交易路を繋ぐ重要な中継地点として、物資と利益が滑らかに循環する活気に満ちた場所であるはずだった。
しかし、今日この町を包み込んでいるのは、健全な活気ではなく、ひどくどんよりとした『停滞』と、血生臭い『熱狂』という、相反する二つの異質な空気だった。
「おい、いつになったら峠が開くんだ!積んでる果実が腐っちまうぞ!」
「馬鹿野郎、命と果実どっちが大事なんだ!文句があるなら自分で山を越えてみろ!」
「くそっ、宿の空きももうないってのに……!」
石畳の目抜き通りには、先に進むことを諦めた商人たちの荷馬車が、車輪を擦り合わせるようにして隙間なく列をなしている。
行き場を失った旅人たちは路地裏や軒先で肩を寄せ合い、冷たい風を避けながら重いため息を吐き出していた。
「……なんだか嫌な予感がするね」
『ああ。単なるがけ崩れだの、崩落だの、そういう類ではなさそうだな』
例外なく、一人と一匹も人混みに阻まれて足止めを喰らい、先に進めずにいた。
その一方で、町の中心にある広場や酒場の前では、鎧の擦れる音や剣を研ぐ嫌な金属音が絶え間なく響いている。
血の匂いを纏った屈強な傭兵や、近隣から集められたであろう領主軍の兵士たちが、物々しい顔つきで次々と集結し、あちこちで気炎を上げていた。
「こういうときは薬草店に行って、買い取りがてら話を聞いてみようかな」
『それがいいな。これは確実に血なまぐさい「何か」があるぞ』
ただならぬ町の空気を肌で感じながらも、一人と一匹はいつも通り、他者の喧騒には一切干渉することなく、人混みを抜け、路地裏へと足を運んだ。
カラン、と乾いた鐘の音を鳴らして薬草店に入ると、むせ返るような乾燥植物の匂いが一人と一匹を包み込んだ。
薄暗い店内には、薬効成分の抽出液が入ったガラス瓶や、束ねられた薬草が所狭しと並んでいる。
店番をしていた老婆が、カウンターの奥からゆっくりと顔を出した。
しかし、コロの背後に音もなく付き従う巨大な銀狼の姿を見るなり、「これは珍しい!」と興味深い様子でウルをまじまじと見つめていた。
だが、コロはそんな反応にはすっかり慣れっこで、一切の愛想笑いもせず、淡々と、しかし丁寧な手つきで、背負っていた鞄の中から布に包まれた薬草の束を取り出してカウンターに並べていく。
「こんにちは。道中の山で摘んできた薬草なんだけど、買い取ってもらえるかな。鮮度と下処理にはちょっと自信があるんだ」
コロの落ち着き払った事務的な声に、老婆はゆっくりとカウンターへ近づき、広げられた薬草の束を覗き込んだ。
その瞬間、老婆の顔から一人と一匹に対する物珍しさが消え失せ、プロの薬師としての驚愕の色が浮かび上がった。
「……ふむ、見事な腕前だね。切り口の丁寧な仕事ぶりを見りゃ、お嬢ちゃんの実力が分かるよ。魔力がこれっぽっちも逃げていない。今の時期、この町じゃあまともな仕入れなんて絶望的だったからね。助かるよ」
「それなら良かった。……それにしても、町中すごい人だし、馬車もすっかり詰まっちゃってるね。何かあったの?」
コロが適正価格の銀貨を受け取りながら尋ねると、老婆は深くため息をつき、周囲を気にするように声を潜めた。
「お嬢ちゃんたち、下から上がってきたんだろう?」
「うん」
「そりゃあ運が良かったね」
「そうなの?」
「そうさ?ここから先へ続く唯一の峠道にね、『ディルス・ケルベロス』が出たらしいんだよ」
「ディルス・ケルベロス?」
「ああ。三つの首を持つ、災厄級の魔物さ」
老婆は、思い出すだけでも恐ろしいというように自身の細い腕をさすった。
「山を丸ごと焼き尽くす炎と、大地を腐らせる猛毒の瘴気を吐くって話でね。すでに先へ進もうとした行商人や護衛の冒険者たちが、何十人も炭の塊にされちまったって噂さ。……今、領主様が国庫を開く勢いで多額の報奨金をかけて、腕利きの兵士や傭兵を集めて、大規模な討伐隊を編成しているところなんだよ」
老婆の言葉を聞き、コロは無表情のまま、隣に座るウルの顔を見つめた。
ウルは老婆の話を聞いてから、すぐにマズルに深いシワを寄せ、峠があるであろう北の空の彼方をジッと睨みつけていた。
ウルの並外れた嗅覚は、分厚い岩山の向こう側から風に乗って微かに漂ってくる『それ』を、とうの昔に捉えていたのかもしれない。
鼻腔を焼くような硫黄の匂い、あらゆる生命活動を否定する絶対的な死の気配。
同格の魔物や、自分より少し上の魔物と対峙した時、ウルの銀色の毛並みは闘争本能によって逆立ち、喉の奥からは敵を威圧する地鳴りのような唸り声が漏れる。
しかし今のウルの毛並みは、逆立つどころか、凪いだ海の如く、静かに寝かしつけられている。
それは恐怖からの萎縮ではない。
ただ、自然界の絶対的な法則として、『圧倒的な上位の存在』に対する生物としての正しい反応だ。
薬草店を出た一人と一匹は、鼻をクンクンと鼻を利かせていた。
『……流石に勝てんな』
ウルの低く、一切の虚勢もない平坦な声が響いた。
誇り高きアッシュウルフが、戦う前から、いや、その姿を見る前から明確に「敗北」を宣告してしまった。
しかし、どれほどの圧倒的な力量差があるのか、コロにはその一言だけで十分に理解できた。
「そうだね。名誉のために命を賭けるのは英雄の仕事だね」
コロもまた、一切の未練や悔しさを感じさせない、いつも通りの実務的な声で即答した。
観測と効率を重んじる採取家にとって、勝てない相手に挑むことほど無駄なコストはないのだろう。
「そもそも、そんな災厄級の魔物がすぐ近くの峠に陣取っているなら、もし討伐隊が負けた場合、そのままこの町も火の海になるか、瘴気に沈むかのどちらかだよ。ここにとどまること自体が、最大のリスクだね」
コロは鞄の中から使い込まれた革の地図を広げ、これからの行程を瞬時に再計算し始める。
氷藍色の瞳が地図上の等高線と街道を素早くトレースしていく。
「……よし。来た道を少し引き返して、西側の『ガリア旧街道』へ迂回しよう」
『来る途中にあったあの分かれ道か?』
「そう。道は険しいし、日数は余計にかかる計算になるけど、命を張るよりはよっぽど安いよ」
『賢明な判断だ。あんな歩く火山の近くに留まるのは、狂人のすることだ』
一人と一匹は、討伐の熱気に包まれる町にさっさと背を向け、あっさりと来た道を引き返し始めた。
2.
討伐隊の怒号と熱狂に包まれていた山間の町を背にし、南へ下る街道を歩く一人と一匹。
来た道を戻るという後退のルートではあったが、その街道は町へ向かう時よりもいくらか賑わいを見せていた。
討伐に参加する命知らずな傭兵たちとは対照的に、死地を避けて迂回を選択した賢明な商人や旅人たちが、同じように列をなして歩を進めているのだ。
彼らの顔には、予定を狂わされた疲労感と、災厄から逃れられたという安堵感が入り混じっている。
そんな中、コロとウルは、同じく町から引き返してきた一組の旅人と自然に歩幅を合わせることになった。
灰色の毛並みと、旅慣れた革の装備を身につけた、狼の獣人の夫婦だった。
「お嬢ちゃんたちも、やっぱり迂回組かい?」
恰幅の良い獣人の夫が、コロの背後に控える立派な銀狼をちらりと見やりながら、気さくに声をかけてきた。
「うん。峠の火口に自分から飛び込むような趣味はないからね」
コロが淡々と答えると、隣を歩いていた妻の方が深く頷いた。
「だね、それが賢明だよ。さっき町に集結していた第二陣がさ、これから討伐に行くらしいけど……相手が悪すぎるよ。あんな災厄級が相手じゃあ、生存者が残るかどうかも怪しいよ」
「全くだ」
夫が忌々しげに耳を伏せ、ため息をつく。
「兵士たちは可哀想だが、傭兵連中は金や名誉が絡むと、途端に命の計算ができなくなるからな。あれほど強大な魔物の匂いを感じ取れないなんて、鼻が詰まっているとしか思えないぜ」
彼らもまた狼の血を引く獣人だけあって、本能的に『ディルス・ケルベロス』の圧倒的な脅威を察知していたようだ。
ウルも『その通りだ』と言わんばかりに、低く同意の喉を鳴らした。
だが、コロはまっすぐに街道の先を見据えたまま、平坦な声で口を開いた。
「……でもね。圧倒的な格下でも、どうにか勝ってしまうのが人類という存在だよ」
「どうにか勝つって……あんな化け物にかい?」
「うん」
獣人の夫婦が怪訝な顔をする中、コロは氷藍色の瞳をパチリと瞬かせた。
「絶対に勝てないと悟った相手でも、逃げるのではなく、緻密な戦術を立てて、罠を張り、囮を使い、巧みに戦おうとする。……その執念は、この世界にいる生き物の中でも、人類くらいじゃないかな」
「……」
「自分の身の丈に合わないと分かっていても、群れをなし、知恵を絞って挑んでいく。強欲さからくる行動かもしれないけれど、その『勇敢さ』は、人類が誇るべき優れた点かもね」
一切の感情を排した、純粋な観測者としての客観的な評価。
「ドラゴンだってそうだよ。この世界でね、ドラゴンに挑もうなんて生き物を、私は人類以外には知らない。魔物は『自分よりも圧倒的に格上』な相手と対峙したとき、それに挑もうとは決して思わないからね」
冷徹な計算に基づくコロの言葉だからこそ、そこには「人類の異常な底力」に対する確かな説得力が宿っていた。
獣人の夫婦は一瞬呆気にとられたように顔を見合わせたが、やがて「……なるほどな。確かに、人類のしぶとさは、他にはないものかもしれない」と、どこか感心したように息を吐いた。
3.
街道の分岐点に差し掛かり、一人と一匹は獣人夫婦と別れ、西へと続く『ガリア旧街道』へと足を踏み入れた。
あまり使われていない旧街道は道幅も狭く、足元には苔むした石が転がっている。
本街道の賑わいに比べれば旅人の姿はまばらだが、それでも迂回を選択した者たちが数組、黙々と先を急いでいた。
しばらく旧街道を進んだ後、コロは迷うことなく街道を外れ、鬱蒼と茂る深い森の中へと入っていった。
迂回で余計にかかる三日分のコストを、この手付かずの森での薬草採取で相殺するためだ。
街道の喧騒が遠ざかり、森特有の冷涼な空気と、湿った腐葉土の匂いが一人と一匹を包み込む。
静寂の中、コロは手際よく薬草を採取し、ウルは周囲の警戒にあたっていた。
――ガサリ。
不意に、少し離れたシダの茂みが揺れた。
ウルの耳がピクリと動き、黄金の瞳が音のした方向を射抜く。
だが、そこに敵意や殺気はない。
茂みを掻き分けて姿を現したのは、燃えるような赤茶色の毛並みと、不釣り合いなほど大きな耳を持った、年若い狐の魔物だった。
音響と声真似を得意とする魔物、『エコー・フォックス』のオスだ。
『……おや。立派な角を生やした狼さんがこんなところにいるなんて珍しいね。それに、その隣は……『こっち側』の匂いがする人類のお嬢さんだ』
エコー・フォックスは警戒と好奇心が入り交じったような目で、一人と一匹を見つめた。
「こんにちは。人類の器だけど、中身はこっちの狼と一緒だよ」
『わあ!やっぱり言葉が分かるんだ!へえ!』
「あなたの縄張りを引っ掻き回す気はないから、安心して」
コロが淡々と挨拶を返すと、狐の魔物は大きな耳をパタパタと揺らした。
『優しそうな気配だったし、別に気にしてないよ。それより……やけに森の外、人類の街道が騒がしいみたいだけど、何かあったのかい?鉄の擦れる嫌な音や、大勢の足音が遠くから響いてきて、なんだかソワソワ落ち着かなくてさ』
「向こうの峠に、三つ首の犬……ディルス・ケルベロスが出たらしいよ。だから人類が大挙して討伐に向かってるんだ」
コロが事実を伝えると、エコー・フォックスは目を丸くして、隣に座るウルをまじまじと見上げた。
『へえ……!アンタみたいな圧倒的な存在が、わざわざこんなところまで引いてくるんだ。それはよっぽどの化け物なんだろうね』
『……流石に割に合わんからな』
ウルの正直な返答に、エコー・フォックスは『なるほど』と深く納得したように頷いた。
『人類がウジャウジャとこの辺りまで徘徊するんだったら、僕も暫くはここを離れようかなぁ。人類って、本当に厄介だからね』
「暫くは続きそうだし、それがいいかもね」
『暫くかぁ……。一匹、一匹は弱いくせにさ、奴らは群れになって何度も何度も、朝も夜も、執拗に追いかけてくるからね。本当に割に合わないから、会いたくないなぁ』
森の魔物から見た、人類に対する偽らざる評価。
コロが先ほど獣人の夫婦に語った「人類の特性」を、魔物側もまた、生存競争における「厄介な脅威」として正しく認識していた。
『それじゃ、僕は暫くの間、少し静かな南の森へ遊びに行くよ。お気をつけてね』
「うん、あなたもね」
『気をつけろよ』
一人と一匹の言葉を受け、エコー・フォックスはクルリと身を翻し、茂みの中へと走り出した。
そして、木々の間に姿が消える直前。
「あばよー!」
野太い、いかにも人間族の傭兵が発しそうな酒焼けした声でそう叫び、森の奥深くへと消えていった。
自身の能力である『声真似』を使った、狐の魔物なりの少し皮肉の効いた別れの挨拶だった。
『……見事な発声だな。一瞬、本当に人類が潜んでいるのかと思ったぞ』
「つくづく器用だよね。さすがだなって感じかな」
コロとウルは、遠ざかる狐の足音を聴きながら、ほんの少しだけ感心したように息を吐いた。
魔物は強大なる個として、身の丈に合わない脅威からは速やかに撤退し、静寂を愛する。 人類は脆弱なる群れとして、身の丈に合わない脅威に対しても、執拗に知恵を絞って挑んでいく。
そのどちらにも肩入れせず、ただ純粋な観測者として、自分たちの効率だけを計算する一人と一匹。
コロは採取した薬草を鞄に収めると、静かに立ち上がった。
「さあ、私たちも仕事に戻ろうか。まだまだ、採るべきものはたくさんあるよ」
『だな。この森は、あの鼻が曲がる町よりもずっといい匂いがする』
災厄の炎も、討伐隊の熱狂も届かない、静寂の森。
銀髪の少女と巨大な銀狼は、ただ己の歩幅で、果てしない観測の旅を続けていくのだった。
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