旋律の汚濁と、割に合わない免罪符 2 〜真夜中の疾走と、路地裏の障害物〜
2.
真夜中の街道を、一筋の銀色の流星が駆け抜けていく。
『……しっかり掴まっていろ』
「うん、大丈夫。薬草もちゃんと保護してるよ」
巨大な銀狼の背に伏せるようにしがみついたコロは、夜風に髪を激しく揺らしながら、胸に抱えた包みの感触を確かめた。
ウルの疾走は、もはや飛翔に近い。
一切の無駄な力みを感じさせない四肢のバネが、硬い土を蹴るたびに景色を大きく後ろへと吹き飛ばしていく。
しかし、その驚異的な速度とは裏腹に、背中に乗るコロにはほとんど揺れが伝わってこない。
ウルが自身の肉体と負荷を完璧に制御し、背の上のコロの器の負担を極限まで減らしているからだ。
馬の蹄や車輪が鳴らす無骨な音とは違う、強靭で柔らかな肉球が大地を叩く「トスッ、トスッ」という静かな音だけが夜のしじまに吸い込まれていく。
街道の両脇に生い茂る木々は、銀色の流星が放つ風圧に煽られ、まるで畏怖するかのようにザワザワと波打って道を譲っていた。
「……まだ朝までは全然時間があるから、そんなに急がなくていいよ」
耳元で唸る風の音に負けないようにコロが少し声を張ると、前を見据えたままのウルが、鬱陶しそうに、だがどこか不器用な優しさを滲ませた低い声を鼓膜に響かせた。
『……ちんたら走っていたら、お前の寝る時間が減るだろう』
その短くも的確な返答に、コロは氷藍色の瞳をパチリと瞬かせた。
そして、堪えきれないように口角を上げ、ウルの柔らかな銀毛に顔を埋めながらフフッと微笑む。
「……そうだね。早く帰って、ぐっすり眠ろうか」
『ああ。そのためにも、さっさと済ませるぞ』
二人の間に流れるホクホクとした温かな空気を乗せ、銀狼は眠りについた巨大な交易都市の防壁を、軽々とした跳躍で飛び越えた。
広場の方からは、まだ微かに熱狂の余韻のようなざわめきが聞こえてくる。
だが、一人と一匹が薬草屋へと向かうために選んだのは、街の裏側を縫うように走る湿った石畳の路地だった。
豪奢な目抜き通りから一歩裏へ足を踏み入れると、街の空気は急激に温度を下げる。
月光さえも密集した建物の高い壁に遮られ、足元には泥と何かの腐乱した水たまりが黒々と広がっている。
遠くの広場から漏れ聞こえてくるのは、熱狂醒めやらないといった熱を帯びた民衆の声。
湿った泥土の上ではひどく白々しく、ひび割れたノイズのように聞こえる。
そんな生臭いゴミの匂いと、冷たい湿気が立ち込める狭い空間。
その暗がりの途中で、滑るように走っていたウルの足がピタリと止まった。
『はぁ、面倒なことに巻き込まれそうだ……』
「……どうしたの、ウル」
コロが前を覗き込むと、そこには「予定外の雑音」が路地を塞いでいた。
一人の人間の女が、糸が切れた人形のように不自然に力なく石畳に倒れ伏している。
そして、その女の衣服に手をかけ、押し入るように覆いかぶさっている豪奢な衣装の人影。
「あー……」
『どうする、屋根から行くか?』
「いや、もう手遅れだね。バレた」
コロはウルの背中に乗ったまま、一切の感情を交えない事務的な声で、その背中に声をかけた。
「……ちょっと、お兄さん。そこを通りたいんだけど」
暗闇から響いた冷ややかな声に、男の肩がビクンと大きく跳ねた。
ゆっくりと振り返ったその顔は、街中の至る所に貼られたビラに描かれていた『銀糸の歌い手』――あの美しいエルフの男だった。
「……なんだ君たちは?」
男は美しい顔を醜く引き攣らせたが、相手が魔物に乗ったただの幼い少女だと認識するや否や、すぐさま吟遊詩人らしい流麗な声音を取り繕った。
「お、驚かせてしまったね、お嬢さん。この女性が急に倒れてしまったものだから、私が介抱を――」
「そんな嘘の匂いしかしない詩は、どうだっていいからさ、早く通してほしいんだけど……」
男の紡ぐ綺麗な包帯のような言葉を、コロは氷のように冷たい声で一刀両断した。
「はっ!ば、馬鹿を言うんじゃない!言い訳じゃないよ!!」
「あのね……その指先から微かに魔力が漏れてるよ。介抱にしては、魔力の巡りが攻撃的すぎる気がするけどね」
「そ、そんなことはないさ!これは治癒――」
「だから、そんなことは本当にどうだっていいから……」
「わっ、私は……そう!私はあの『銀糸の歌い手』として名高い――」
「どこのどなたさんでもいいから、早くそこをどいてくれないかな。こっちは薬草の鮮度が命の、急ぎの仕事中なんだけど」
完全に「路地裏の障害物」として扱うコロの言葉に、エルフの男の顔からスッと余裕が消え去った。
美貌の下に隠されていた傲慢な本性が、暗い路地裏で露わになる。
「……チッ。クソガキが。見られたからには、大人しく帰すわけにはいかないな」
男は舌打ちをすると、意識のない女を冷たい水たまりの広がる石畳へと無造作に突き飛ばし、ゆっくりと立ち上がった。
そして、両手をコロとウルへと向ける。その指先から、先ほどよりも遥かに強力で、暴力的な光を放つ魔力が編み上げられ始めた。
青白い光の帯がチロチロと男の指先に絡みつき、周囲の冷たい空気をビリビリと焦がすように震わせる。
本来なら舞台の上で観衆の感嘆を誘うような美しい魔力光。
しかし、己の罪を隠すために剥き出しの殺意とともに編み上げられるそれは、ただの醜悪で不純な暴力の光でしかなかった。
その魔力の高まりを見つめながらも、コロは一切の動揺を見せず、ただ淡々と、事実だけを告げる。
「……そこから先の行動は、私たちの『対応』が変わっちゃうよ。本当にいいの?」
「黙れ!私の美しい旋律の前に、永遠の眠りにつくがいい!」
男が叫び、指先から魔法が放たれようとした、その刹那。
ウルの深い溜息とともに、銀色の巨体が爆発的な膂力で石畳を蹴り上げた。
黒い雷光を角に纏わせたウルが、男の喉笛を噛み砕くために跳躍する――かのように見えた。
しかし、ウルは男の手前でフワリと不自然に着地し、つまらなそうに鼻を鳴らした。
その直後。
「……がっ、あ……!?」
エルフの男が、突如として激しい引きつけを起こしたかのように白目を剥き、バタリと石畳の上に倒れ伏した。
全身を巡っていた華やかな魔力は、不意に闇の中から撃ち込まれた不可視の毒牙によって一瞬にしてショートさせられていた。
男の口からはみっともない泡が吹き出し、観衆から喝采を浴びていた上等な絹の服が、汚水と泥の広がる冷たい石畳の上へとベチャリと沈み込む。
ビクビクと痙攣する男の体からは、編み上げられていた美しい魔力は完全に霧散し、後に残されたものは無様な呻き声と、泥と涎にまみれた醜悪な姿だけだった。
事態を完全に把握していたコロは、ウルの背の上から、倒れた男のさらに『奥の暗がり』へと視線を向ける。
「……わざわざ、お迎えに来てくれたんだね」
コロの視線の先。
光の届かない路地裏の奥から、滑るような音を立てて『それ』は現れた。
「……この辺りで、無粋な魔法が使われる嫌な匂いがしたからね。明日の営業に支障が出る事態は避けないと」
艶やかな黒い鱗の下半身をくねらせ、闇の中からスルスルと姿を現したのは、エルフの男よりも強力な魔力を纏わせている薬草屋の女主人だった。
彼女は倒れて痙攣するエルフの男を一瞥すると、赤い唇の隙間からチロッと二股の舌を覗かせ、冷ややかに笑った。
「そうだね。これなら軽い取り調べだけで済みそうかな」
『ふん。情けないヤツだ』
そうボヤきながら、ヒクヒクと痙攣しているエルフの男をチョンと右前足で突くウル。
「急ぎの薬草の鮮度を落とされるのは、私の帳簿にとっても大赤字だからね。……さあ、店はすぐそこだよ、お嬢ちゃん」
女主人は倒れて痙攣する男にはもはや一瞥もくれず、優雅に尾をくねらせて歩き出した。
その時、路地の入り口から幾つもの松明の光が揺れ、金属鎧が擦れ合う騒々しい音が近づいてきた。
ただならない様子の騒ぎを聞きつけたのか、衛兵たちが駆けつけたようだ。
「何事だ!何かこの辺りで騒ぎが起きているとの報告が――」
息を切らして路地になだれ込んできた衛兵たちは、そこで異様な光景を目にすることになった。
石畳に倒れ伏して白目を剥いているエルフの男と、昏睡状態の人間族の女、その傍らで静かに佇む巨大な銀狼、そして無表情な少女と蛇の魔人。
場に緊張が走る。
だが、先頭に立っていた衛兵隊長が女主人の姿を認めると、その強張った肩からスッと力が抜けた。
「ああ、なんだ、ミランダさんか。またあんたの仕業かい」
「あら、『仕業』なんて人聞きが悪いね。私はただ、うちの大事な仕入れを邪魔しようとした路上の障害物を、ちょっと端に寄せただけだよ」
ミランダは悪びれる様子もなく、チロッと舌を覗かせて笑った。
衛兵たちは倒れている男の顔を確認し、「あっ!おい、これ……『銀糸の歌い手』じゃないか!?」と驚愕の声を上げたが、ミランダはそれを遮るように手を振る。
「説明なら後でしてあげるよ。何人かはうちの店に来な。……ただし、私はこれから猛スピードで薬草の加工をしなきゃいけない。仕事の邪魔をしないってのが条件だよ」
「……やれやれ。分かったよ。お前ら、この男と倒れてる女性を運べ!残りは俺と一緒にミランダさんの店まで来い」
隊長の号令で、事態は速やかに、かつ事務的に動き出した。
エルフの男は荷物のように衛兵たちに抱え上げられ、女性は慎重に運ばれていく。
屈強な衛兵二人がエルフの男の両脇に手を入れるが、男の体はまだミランダの魔法による麻痺が残っているのか、ビクンビクンと不規則に跳ねてひどく運びづらそうだ。
「お、重いぞ……!なんだこいつ、やけにビリビリしやがる」
「ミランダさんにやられたんだぞ?こりゃ明日の夕方までまともに動かんぞ」
「ああ、嘘だろう……!?下の世話コースじゃねえか」
「諦めろ。しかし吟遊詩人様は上等な絹の服を着てるくせに、泥水とヨダレで酷い有様だな……」
「これにションベンが加わって、フルコースの出来上がりだ」
華やかな舞台で民衆を魅了するはずだった『銀糸の歌い手』は、今はただの重たくて厄介な肉の塊として、裏通りの泥を無様に引きずられていった。
『……ふん。群れるのが好きな種族どもだ』
「だね」
『俺達は薬草だけ渡して帰ってもいいのか?』
ウルが小さく鼻を鳴らす。
コロはウルの背中に再び跨ると、ブーツの先でウルの脇腹を軽く、優しく突いた。
「そういうわけにはいかないよ」
『はぁ……そうだろうとは思っていた』
「ほら行こう、ウル。……ミランダさんの仕事が終わったら、今度こそぐっすり眠れるから」
『ああ。……分かっている』
深夜の静まり返った裏通りを、先頭を行くミランダ、それに続く銀狼と少女、そして松明を掲げた衛兵たちという奇妙な一行が、足早に通り過ぎていく。
やがて、夜の闇に沈んでいた薬草屋の窓に、橙色の明かりが灯った。
店の扉を開けると、先ほどよりも一層濃密な、むせ返るような乾燥植物と鋭い土の匂いが鼻腔を突いた。
ランプの魔石に火が灯されると、薄暗かった店内に無数のガラス瓶や奇妙な形の蒸留器が浮かび上がる。
ミランダは「さあ、時間との勝負だよ」と呟きながら、身につけていた豪奢な上着を無造作に脱ぎ捨てた。
ランプの橙色の光が彼女の下半身の黒い鱗に反射し、濡れたような妖艶な艶を放っている。
衛兵たちが隅で小さくなって控える中、調合台へ向かった彼女の手は魔法のような速度で薬草を刻み、煮出し、抽出を始めた。
店の隅で丸くなったウルの銀色の毛並みは、夜の冷気を完全に遮断し、極上の羽毛布団のようにコロの小さな体を包み込んでいる。
ウルの規則正しい心音と、ミランダが薬草を擦り潰すゴリゴリという小気味良い音が、まるで極上の子守唄のようにコロの意識を心地よく微睡みへと誘っていく。
コロはミランダの様子を、ウルの毛並みに背中を預けて座り込みながら、眠気に重くなり始めた瞼をパチリと瞬かせ、静かに見つめていた。
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