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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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旋律の汚濁と、割に合わない免罪符 1 〜浮かれた街の熱狂と、蛇の女主人の嗅覚〜

1.


雨上がりの街道を数日歩き、一人と一匹は活気に満ちた大きな交易都市へと足を踏み入れた。


靴職人ミリアが最後に仕立てた真新しいブーツは、どれだけ歩いてもコロの足に一切の負担をかけていないようだった。

疲労という負担が極限まで削ぎ落とされたコロの足取りは、大きな街の喧騒の中でも驚くほど軽やかだ。


交易都市の目抜き通りは、行き交う商人や旅人でごった返している。

だが、すれ違う人々の口に上る話題は、今日の市場の相場でも、遠方の戦争の噂でもなかった。


「なあ、見たか?あの『銀糸の歌い手』の公演、今日だぞ!」

「え?ああ、あちこちに貼ってある、あのビラの吟遊詩人のことか?」

「そうそう!それだよ、それ!」

「へえ!彼の奏でるリュートの音色は、まるで星の光そのものだって噂じゃないか」

「俺は五年前にも聴いたことがあるが、あの美声だって、一度聴いたら忘れられないぜ」

「ほう!そんなに凄いのか?」

「凄いなんてもんじゃないさ!今日は絶対に広場に行かなくちゃな!」

「いいなぁ、俺も行こうかなー」

「来いよ!中央広場だからな?絶対損しねえって!」


街の至る所から、熱に浮かされたような人々の声が聞こえてくる。

広場へと続く壁には、豪奢な衣装を身に纏い、優雅にリュートを構える美しいエルフの男を描いた大きなビラが何枚も貼られていた。


『……ずいぶんと浮かれた群れだな』


人々の興奮を嗅ぎ取ったのか、ウルが鬱陶しそうに銀色の耳をパタパタと揺らした。

コロはビラに描かれたエルフの男の顔を無表情のまま数秒だけ見つめ、興味なさそうに視線を外した。


「多分、あれのことかな」

『ん?ああ、あの絵……エルフか?』

「だね、吟遊詩人」


コロはそう呟くと、熱を帯びた人波を避けるように、ウルの銀色の毛並みにスッと身を寄せた。


「……こんな人混みにいたら、無駄に体力を消費するだけだよ」

『うじゃうじゃと、アリの巣に入ったようだな』

「うん、裏通りで静かに食事ができる場所を探そう」

『賛成だ。どうにもこの浮かれた匂いは鼻についてかなわん』


そうして一人と一匹は、うごめく人混みを避けるようにして、目抜き通りからひっそりとした脇道へと入っていった。




目抜き通りの喧騒から一本路地に入ると、街の空気は急に、埃と生活の匂いが混じったものへと変わった。

一人と一匹が暖簾をくぐったのは、飾り気のない薄暗い大衆食堂だった。


古びた鉄板で脂の乗った肉が焼かれる匂いと、安酒の匂いが立ち込める店内。

客層も、着飾った街の住人というよりは、その日暮らしの傭兵や日雇いの労働者が多い。

コロは店の隅のテーブルに陣取り、ウル用の大きな骨付き肉と、自分用の串焼きを数本注文した。


しかし、そんな裏ぶれた食堂の空気にまで、例の吟遊詩人の熱はしっかりと侵食していた。


「おい、今日の夜、例のエルフが歌うらしいぞ」

「ああ、聞いた聞いた!なんでも、領主の御前演奏を蹴って、あえて広場で歌うらしいじゃないか」

「そんな話だったのか!へえ、気取った顔して、随分と粋なことするな!運良く近くで聞けたら、なんかいい事ありそうだぜ」


ジョッキを傾けながら盛り上がる男たちの荒っぽい声に、コロは串焼きの肉を小さくかじりながら、冷めた瞳で淡々とした声をこぼした。


「……どこへ行っても、その話題ばかりだね」

『そんなに良いものなのか?』

「ははは、どうだろうね。大衆受けする吟遊詩人の歌なんてものは、総じて退屈にできているんだ」

『ほう?その心は?』

「うん、本当に誰かの心を深く揺さぶるような『尖った音』や『悲しい音』は、聴く人類の傷を抉ったり、不快にさせたりするから、絶対に万人受けはしない。……つまり、この街中のみんなが喜ぶような音楽っていうのはね、誰の耳にも障らないように、ノイズになる極端な感情を全部削り落とした『妥協の産物』なんだよ」


コロは右手に持った串焼きの肉をひらひらと揺らしながら、淡々と持論を展開する。


「喩えてみるなら、栄養価のない、甘いだけの砂糖水みたいなものだね。不特定多数から手っ取り早く小銭を集めるための、効率的な集金システムだよ。私はそんなものに、貴重な時間と路銀を支払う気にはならないかな」


靴職人ミリアの工房で聞いた『命を削るような美しい金槌のリズム』を知っているからこそ、コロのその言葉には妙な説得力が宿っていた。

だが、ウルの反応はもっと単純なものだった。


『……ふん。吟遊詩人などという手合いの輩は、総じてつまらん。意味のない金切り音をチャラチャラと鳴らすだけだ。俺には何が面白いのか全く分からんな』


鼻で笑うように吐き捨てたウルを見上げ、コロは氷藍色の瞳を細めてニヤリと口角を上げた。


「ふふっ……芸術は、ウルには少し難しかったかな?」


からかうようなコロの言葉に、ウルはピクリと眉間の毛を寄せた。

そして、わざと立ち上がり、その巨大な銀色の肩をコロの小さな腰へ向けて『ボフッ』と軽くぶつけてみせた。


「わっ……!水がこぼれちゃうよ」

『おい、調子に乗るな。お前だってもとを正せばアッシュウルフだろうが』

「あはは、そうだね。ごめんごめん」


体勢を崩しかけたコロが、ウルの豊かな毛並みに手をついてくすくすと笑い声を上げる。 周囲から見れば、恐ろしい魔物と少女の戯れにしか見えないが、二人の間に流れる空気は春の日差しのようにホクホクと温かかった。


「とりあえず、お腹がいっぱいになったら、街の外れに生えている薬草でも探しに行こうか。芸術の鑑賞よりも、そっちの方がずっと実りある投資だからね」

『ああ、それに限るな』

「それにね、私はウルの毛並みをブラシでといている時の音のほうが好きだよ」

『おだてても何も出てこないぞ』

「知ってるよ」


食事を終えた一人と一匹は、吟遊詩人の熱気に包まれる中央広場とは逆の方向へ、まだ日が天辺から照らし出している街へと足を進めていった。




夕暮れ時。

街の外れでの薬草採取を終えた一人と一匹が、長く伸びた影を踏みながら防壁へと続く街道を歩いていると、背後からカラカラと小気味良い馬車の音が近づいてきた。


「おーい!そこのお嬢ちゃん!街に戻るのかい?よかったら乗ってきな!」


御者台から身を乗り出して人の良さそうな声をかけてきたのは、ふさふさとした犬の耳を持つ獣人の商人だった。

荷馬車の荷台に座っている護衛らしき男たちも、皆それぞれに獣の耳や尻尾を持った獣人たちだ。


この世界において、獣人という種族は同族に対する連帯感が非常に強い。

特に、一人歩きしている幼い同族に対しては、損得勘定を抜きにして世話を焼きたがる傾向があった。


コロは少しだけ歩みを止めると、ウルの顔を見上げる。

ウルが「好きにしろ」とばかりに鼻を鳴らしたのを確認し、ありがたく厚意に甘えることにした。




「ほら、干し肉だ。食いな」


荷台に乗り込むなり、護衛の熊の獣人が大きな手で不器用に一人と一匹におやつを差し出してくれる。

コロが「ありがとう」と小さく頭を下げ、小さく微笑みながら受け取ると、荷台の獣人たちは皆、なんとも言えない優しい顔で目を細めた。

種族特有の温かな空気に包まれ、馬車は夕闇の迫る街道を滑らかに進んでいく。

ただ、ウルだけはじっとりとした視線をコロへと向けるが、コロはそんな視線などどこ吹く風とばかりに、干し肉をかじり始める。


だが、その平穏な時間は長くは続かなかった。


「いやあ、お嬢ちゃんも運がいい!」

「うん。馬車に乗せ――」

「今から街に戻れば、ちょうど『銀糸の歌い手』の公演に間に合う時間だからな!」


商人が上機嫌で振り返り、またしても例の吟遊詩人の話題を口にしたのだ。

言いかけた言葉をゴクリと飲み込むコロ。


「俺たちも、わざわざ仕入れを早めに切り上げて戻ってきたんだ。あのエルフの歌は、俺たち獣人の荒っぽい耳にも心地よく響くからなぁ」

「いやぁ、全くだ!今日は広場で酒でも飲みながら、たっぷり美声に酔いしれるとしようぜ!」


わははと笑い合う獣人たちの熱量に、コロは一切の表情を崩さず、ただ手の中の干し肉を見つめたまま、無言でパチリと瞬きをした。

隣に伏せているウルに至っては、鬱陶しそうに鼻から長い息を一つ吐き出すと、外の景色へと顔を背けて完全に目を閉じてしまった。


決して言葉には出さない。

せっかくの親切な厚意を無下にするような真似はしない。


だが、防壁の門をくぐるまでの数十分間。

熱狂的な吟遊詩人の話題で盛り上がる獣人たちの輪の中で、一人と一匹の周囲にだけは、ひどく冷え切った『うんざり』という名の重力が、静かに、そして確実に漂い続けていた。




街の門をくぐり、陽気な獣人の商人たちと別れた一人と一匹は、そのまま広場へと向かう人波に逆行するようにして、裏通りの奥にある薬草屋の扉を叩いた。

お目当てのその薬草屋は、一人と一匹を馬車に乗せてくれた商人から「この街で一番信頼できる店だ」と教えられた場所だった。


むせ返るような乾燥植物と、微かな土の匂い。

カウンターの奥から現れたのは、全身が艶やかな黒い鱗に覆われた妖艶な蛇の魔人の女主人だった。

彼女はコロが持ち込んだ薬草の質を鋭い目で検収すると、満足げに頷いて銀貨をカウンターに並べた。


そして、コロの背後に静かに控える巨大な銀狼を一瞥し、チロッと二股の舌を覗かせる。


「……いい相棒を連れてるね、お嬢ちゃん」

「ありがとう。本当にいい相棒なんだ」

「だろうね。その相棒が隣にいれば、どんな危険な場所だってお散歩感覚ってわけだ」

「知能がある魔物はまず寄ってこないね」


二人の会話がくすぐったいのか、ウルはバツが悪そうに自身の爪をジッと眺めている。


「で、どうだい?もしこの後も暇なら、一つ割のいい仕事を受けてみないか?」

「仕事?」

「ああ。この街の東にある森に、真夜中にだけ花を咲かせる特殊な薬草があってね。少し厄介な魔物が出る森なんだけど、お嬢ちゃんたちなら問題ないだろう」

「問題なさそうだね」

「……ただ、夜のうちに採取して、すぐに私が加工しないと薬効が消えちまう繊細な代物でね。急ぎの依頼なんだ。やってくれたら、報酬は弾むよ」


夜のうちに採取して、夜のうちに戻る。

そうなると手段は一つだ。


『……いつも言っているだろう。背中に乗れ』


コロは小さく頷き、ウルの首元に手を回してギュッと抱きしめた。

その光景を見ていた女主人は、チロチロと二股の舌がを口から覗かせた。


「うん、わかった。引き受けよう」

「助かるよ。……で、宿は取っているかい?」

「ううん、まだだよ」

「だったら、花が咲く時間まで、広場で例の『銀糸の歌い手』の歌でも聴いてきたらどうだい?今日はタダで聴けるらしいからね」


からかうように笑う女主人に対し、コロはきっぱりと首を横に振った。


「いや、遠慮しておくよ。大衆受けする吟遊詩人の歌なんて、退屈なだけだからね」


その即答に、女主人は目を丸くした後、愉快そうに喉の奥で笑い声を上げた。


「はははっ、なんだい。お嬢ちゃんもそっち派か。……仲間だね」

「あ、お姉さんも?」

「だね。吟遊詩人なんてのは、そいつの音楽だけを評価しなきゃいけないってのは分かってるんだけどね。……どうもアイツ、嫌な匂いがするんだよ」


女主人は目を細め、獲物を探るような冷たい蛇の目で、広場の方角を睨んだ。


「言葉にするのは難しいけどね、自分の影を隠すために、必死に光を撒き散らしているような……そんな匂いだ。……ま、仮に匂いに目を瞑ったとしても、アイツの音楽自体が当たり障りなくてつまんなかったけどね」


コロもそれに「全くだね」と同意するように小さく頷いた。


すっかり意気投合した一人と一匹は、薬草屋の奥で女主人から珍しいお茶をご馳走になりながら、夜更けまで有意義な薬草談義に花を咲かせた。


挿絵(By みてみん)

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