擦り切れたブーツと、誇り高き最後の仕事 3 〜正当な対価と、女神の天秤〜
3.
悪党たちが逃げ去り、扉の外の足音が完全に消えても、工房には親方の重苦しい嗚咽だけが響いていた。
若い職人は血の滲んだ拳を床に叩きつけ、他の職人たちも皆、絶望に俯いている。
泥のような沈黙。
それを破ったのは、誰あろうミリア本人だった。
「……みんな、騒がせて悪かったね。さあ、仕事に戻ろう。お嬢ちゃんの靴は急ぎなんだ。……最高の靴を作るよ」
彼女はパンッと両手を叩き、工房の仲間たちに向けてわざと明るく声を張り上げた。
親方が「ミリア……っ」と顔を歪めたが、彼女はそれを優しく、けれど有無を言わせぬ強い視線で制した。
そして、ゆっくりとコロの方へ向き直る。
そこには、先程までの気丈な職人の顔ではなく、年相応の寂しそうな、ひどく儚い微笑みが浮かんでいた。
「……どうやら、お嬢ちゃんの靴が私の『最後の仕事』になりそうだ」
ミリアはコロの頭をポンと優しく撫でると、そのまま踵を返し、自分の作業台へと向かっていった。
その後ろ姿から漂う、燃え尽きる直前の蝋燭のような悲痛な匂いに、コロは何も言わず、ただ静かに目を伏せた。
靴屋を出た一人と一匹は、夕闇が完全に落ちた職人街の石畳を歩いていた。
サンダルを履いたコロの右足が、ペタ、ペタと軽い音を立てる。
『……納得がいかんな』
不意に、後ろを歩くウルが低い声で唸った。
「何が?」
『群れを守るために己を差し出す覚悟は立派だとは思うが……』
「さっきのお姉さん?」
『ああ。しかし、だ。なぜ自ら檻に入る道を選ぶ?俺にあの肉ダルマを――いや、そう単純な話ではなかったな、人類どもは……』
本来、野生の理のままに生きる魔物には、人類の社会の複雑な鎖は理解ができない。
だが、ウルには、自分が言いかけた『解決策』が、何も解決しないことをよく理解していた。
コロはサンダルの紐の具合を確かめるように、一度だけピョンと跳ねてみせた。
「そうだね……あの人たちをあの場で消しても、彼女たちを縛っている『ルール』は消えないからね。むしろ、領主軍に逆らった反逆者として手配されて、家族ごとこの国から追放されるっていう、最悪のシナリオが待っている」
『そうだったな』
「お姉さんはね、『自分の自由』と『お店と家族の存続』を天秤にかけて、一番被害が少ない合理的な計算式を導き出したんだ。自分が身売りすれば、違約金は消えて、お店は残るからね」
コロの淡々とした声が、冷たい夜風に溶けていく。
「……すごく不条理で、悲しい天秤だけどね」
『ふん。人類の群れというのは、本当に面倒で脆いものだな』
「……そうだね」
ポツリと同意したコロは、ふと足を止めた。
冷たい風が吹き抜ける中、コロは振り返り、隣を歩く巨大な銀狼を見上げる。
そして、隣を歩くウルの側へと歩み寄り、その豊かな銀色の毛並みに小さな両手を伸ばして、ギュッと掴んだ。
昨日、峠道で背負ってもらった時に感じた、あの確かな熱。
コロはそれを確かめるように、静かに額を押し当てる。
『……?どうした、コロ。足が痛むのか?』
「ううん……なんでもない。ただ、少し変な想像をしちゃった」
『変な想像?』
ウルにすり寄るように顔を埋めながら、コロはぽつりと呟いた。
「うん。私たちは、お姉さんのような悲しい計算をしなくて済むように……ずっと一緒に、賢く立ち回らないとね」
『ふん。当たり前だ。俺が傍にいる限り、お前を脅かすルールなど全て俺の牙で噛み砕いてやる。……俺とお前が離れる理由など、この世界のどこを探しても存在せん』
力強く、迷いのない絶対的なウルの宣告。
その言葉の奥にある深い愛情に触れ、コロの氷藍色の瞳から、一瞬だけ不安の影がスッと消え去った。
「ふふ……そうだね。うん。頼もしいよ、ウル」
コロは小さく微笑んで毛並みから手を離すと、再び前を向いた。
「お姉さんの心は死んじゃったけど、職人としての『目』は死んでなかった。彼女は、残された自分の全てを懸けて、私の靴を仕上げるつもりだよ」
『……ああ。あの土壇場でも、指先の松脂の匂いだけは誇り高く香っていたな』
「だから私たちは、三日後に完成する彼女の『最後の仕事』を、最高の状態で受け取って、正当な代金を支払う。それだけだね」
『ああ』
「それより、この辺は大した薬草もないし、掲示板の仕事でも物色しようかな」
『そこまでして稼ぐ必要なんて無いだろう』
「一日中何にもしないでゴロゴロするなんて良くないよ」
『全く、難儀なやつだな』
一人と一匹の足音が、再び夜の石畳に重なって響き始めた。
三日後の夕暮れ時。
降り始めた小雨が、職人街の石畳を鈍色に濡らしていた。
約束通り、一人と一匹が工房の扉をくぐると、そこには三日前とは別の意味での静寂が満ちていた。
店の前には、趣味の悪い金細工をこれ見よがしにあしらった、場違いに豪華な馬車が停まっている。
「……来たね、お嬢ちゃん」
カウンターの奥に立っていたミリアは、見違えるほど美しく着飾っていた。
職人服を脱ぎ捨て、上質な絹のドレスに身を包んだ彼女は、どこか遠い国の操り人形のように儚げだ。
だが、その手元には、一点の曇りもない誇り高い輝きを放つ、真新しい革ブーツが置かれていた。
「約束通り、私の『最後』を懸けて仕上げたよ。履いてみて」
コロは椅子に座り、差し出されたブーツに足を入れる。
スッ、という滑らかな音と共に、革が吸い付くように足の形に馴染んだ。
コロは立ち上がり、一歩、二歩と床を踏みしめる。
そのまま小さく跳躍し、着地時の沈み込みを確かめた。
新しい靴特有の違和感は完全に鳴りを潜め、全く音を立てずに、軽やかに次の動作へと移行できる。
無表情だったコロの氷藍色の瞳が、感嘆したようにパチリと瞬いた。
「……驚いた」
「そう?へへへ、文句無しかな?」
「うん。……完璧だよ。これまで履いていたものより、ずっと」
「そう。……よかった!」
ミリアが寂しそうに微笑んだ、その時。
外の馬車から、派手な羽飾りのついた帽子を被ったハーフリングの若い男が、苛立った様子で店に踏み込んできた。
「おい、ミリア!準備はまだか!?雨が強くなってきたら大変だぞ!」
「……すいません。最後のお客様ですから、もう少しお待ち下さい」
「そうか……少しだけだぞ!そんな湿気た場所にいつまでも居たら、せっかくの美人が台無しになる!」
金貸しの倅だった。
ミリアは最後に、実際に足を通した様子を確かめるように、グッグッと触り始める。
「……このブーツに、私の職人の魂を……いや、ごめんね。気にしないで」
「受け取ったよ。立派な靴職人の魂――受け取ったよ」
しびれを切らしたのか、男は店に入るなり、親方や工房の職人たちを一瞥だにせず、ただミリアの腕を強引に、けれどどこか脆いものを扱うような手つきで掴んだ。
「さあ、行くぞ!馬車の中には温かい毛布と、君の好きな菓子も用意させてある!……おい、お前ら!ミリアの荷物を運ぶ時は細心の注意を払えと言っただろう!一つでも傷をつけたら、貴様らの給料から差し引くからな!」
彼は従者たちに怒鳴り散らしながらも、ミリアの肩に自分の厚手のマントをそっと掛けた。
その振る舞いは、思い他、堂に入ったエスコートであり、不器用な愛情の表現なのだろう。
男に引っ張られるように離れていくミリアの口が「ありがとう」と動いたのを、コロとウルは見つめていた。
コロは小さく鼻を動かすと、傍らに立つウルの銀色の毛並みに顔を寄せ、周囲には聞こえない微かな声で囁いた。
「……変な匂い」
『どういうことだ?』
「あのお兄さん、手段は最悪で、お姉さんの職人としての心なんて一ミリも理解してない匂いなんだけどね……」
コロは、冷徹な観察者の瞳で男を見つめる。
「お姉さんのこと、本当に自分の『一番の宝物』にしようとしてるような匂いがする」
そのあまりにも噛み合わない、残酷なまでの「好意」という名の重力が、ミリアを街の外へと引きずり出していく。
ミリアは馬車に乗り込む直前、一度だけ振り返った。
その視線の先にあるのは、父親でもなく、愛する工房でもなく、自分が最後に仕上げた靴を履いて立つ、小さな獣人の少女だった。
「……お嬢ちゃん。その靴で、どこまでも行きなよ!私の代わりに……!」
それが、彼女の最後の言葉だった。
馬車の扉が重々しく閉まり、蹄の音が雨の石畳に虚しく響いて遠ざかっていく。
後に残されたのは、泣き崩れる親方と、呆然と立ち尽くす若い職人。
そして、上質な革の匂いが微かに残る、静まり返った工房だけだった。
コロは無言のまま、カウンターに数枚の金貨を置いた。
それは、通常の靴の代金としては、あまりに過剰な額。
「おじさん。……これは、最高の仕事に対する、正当な報酬だよ」
同情でも、施しでもない。
ただ、ミリアという職人が最後に遺した価値に対する、コロなりの誠実な精算。
コロは新しいブーツの感触を確かめるように、しっかりと一歩を踏み出し、雨の中へと歩き出した。
靴屋を出てしばらく歩くと、重く垂れ込めていた空に変化が現れた。
職人街を濡らしていた小雨は、まるでその役割を終えたかのようにスッと上がり、上空を覆っていた分厚い灰色の雲が、ゆっくりとひび割れていく。
やがて、その雲の切れ間から幾筋もの光の帯が差し込み、鈍色だった石畳の水たまりを、きらきらと黄金色に反射させ始めた。
『晴れたな』
「……うん、本格的な雨にならなくてよかった」
コロは新しくなったブーツで、小さな水たまりを軽やかに、かつ正確な重心移動で跳び越えながら空を見上げた。
雨上がりの冷たい空気の中に、微かに土と、街の外から吹いてくる若葉の匂いが混じっている。
『ああ。こんな辛気臭い街で、これ以上足止めを食らうなんて御免だからな』
ウルも鬱陶しそうにブルブルと首を振り、美しい銀色の毛並みについた微かな水滴を弾き飛ばした。
コロの新しいブーツは、石畳をどれだけ歩いても全くブレがなく、足の指の沈み込みにまで完璧に追従してくる。
ミリアの遺した「職人の魂」は、ただの感傷ではなく、コロの足元で極めて精巧な『道具』として完璧な最適解を弾き出していた。
「うん。掲示板にもマシな仕事が無かったしね。それじゃあ、行こうか、ウル」
『ああ』
背後には、理不尽な重力に縛り付けられたまま、それでも必死に生きる人類たちの群れがある。
だが、野生の魔物と幼い姿の獣人は、それに決して振り返ることなく、光の差す防壁の門へと真っ直ぐに向かっていく。
『どうだ?痛くはないか?』
「私も驚いているよ。初めて履いた靴とは思えないんだ」
『それなら安心だな』
「そんなに何度もウルの背中ばかり頼るわけにはいかないからね」
『気を使いすぎだ』
コロの真新しい靴音が、雨上がりの石畳に、小気味良く力強いリズムを刻みながら遠ざかっていった。
4.
天界。
一切のノイズも、重力も、腐りかけたインクの匂いも存在しない。
そこにあるものは、ただ白だけで構成された退屈で無機質な神殿。
その中央に設えられた水鏡の縁をなぞりながら、この世界の人類を管理する女神は、ふわりと艶やかな唇を綻ばせた。
「……そろそろ、私の愛おしいコロがやって来る頃ね」
女神の指先が水面を弾くと、そこに下界の景色が映し出される。
雨上がりの石畳。
そこを真新しいブーツで歩いていく、幼い獣人の少女と一匹の巨大な銀狼の姿。
そしてその後ろに遠ざかっていく、欲と絶望が渦巻く小さな職人街の姿。
「ああ……なんて可愛い笑顔なのかしら」
水鏡に映るコロの僅かな表情の変化――他者には決して見せない、ウルに向けた柔らかな微笑み――を指先で愛おしそうになぞりながら、女神は熱を帯びた甘い吐息を漏らす。
「ウルの傍を歩いているだけで、あんなにも満たされて、幸せそうな顔をして……ふふっ、本当に愛おしいわ。……ねえ、コロ。あなたはずっとそのまま、私の目の届くところで、その綺麗な魂を輝かせていればいいのよ」
狂気的なまでの執着を孕んだ、うっとりとするような独白。
しかし次の瞬間、女神の視線がコロの背後にある街へと移ると、その瞳から甘い熱がスッと消え失せ、薄暗い氷のような『呆れ』が沈んだ。
「それに比べて……今日はどんなことがあったのかしら。……ふふ、相変わらずね。私のかわいい愛し子たちは、今日も自分たちで窮屈な鎖を作って、泥まみれになりながら互いの首を絞め合っているようね」
女神はコロッと鈴を転がすように笑ったが、その声に温度はない。
「私が与えた知恵を、あんな歪なルールを作るためにしか使えないなんて。……本当に、愚かで愛おしい子たち」
女神はため息をつき、再び水鏡の中で歩を進める小さな獣人へと視線を戻す。
途端に、女神の瞳に熱を帯びた歓喜の光が宿った。
本来は彼女の管轄外であった、アッシュウルフという一匹の魔物の魂。
ただの退屈しのぎの『余暇』として掬い上げ、人類の器を与えて盤上に放り込んだイレギュラーな存在。
だが、どうだろう。
コロの魂は、女神が手塩にかけて創り上げた人類の誰よりも――透明で、美しく、一点の曇りもなかった。
「あの子には、不要なノイズが一切ない。人類が作った醜い鎖や重力に絡め取られることなく、最も純粋な『価値』だけを正確に見抜き、切り取って、自分の足で歩いていく。……ええ、そうよ。あの子の魂は、いつだって完璧に美しいわ」
女神は水鏡に映るコロの頬を撫でるように、そっと手を伸ばした。
その顔には、一人の少女を溺愛する母親のような、狂気的なまでの愛情が浮かんでいる。
「ねえ、私の愛し子たち」
水鏡の向こうでうごめく、無数の人類たちへ。
女神は、甘く、そして背筋が凍るほど無慈悲な声で囁いた。
「あんまり醜いことばかりしていると、私――これ以上、言葉にするのは止しておきましょうね……」
コロの預かり知らぬところで、世界の天秤が静かに傾く音がした。
人類そのものの存亡が、一匹の幼い狼の魂の美しさと比較され、ひどく危うい天秤の上で揺らされているなど、地上の誰一人として知る由もない。
やがて、水鏡の水面が淡く波打った。
コロが『こちら側』へ帰ってくる兆しだ。
「おっと、いけない。怖い顔を見せたら、あの子に嫌われてしまうわ」
女神は意地悪な笑みをスッと消し去ると、いつもの優しく、少しお茶目な「神様」の仮面を被り直す。
「さあ、おいでなさい、私の愛おしいコロ。今日はどんなお話を聞かせてくれるのかしら」
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