擦り切れたブーツと、誇り高き最後の仕事 2 〜実直な群れの匂いと、理不尽なインクの悪意〜
2.
一瞬、訝しげな視線を向けた娘だったが、コロがカウンターにゴトリと置いた「壊れた右足のブーツ」を見た瞬間、職人としての顔つきに変わった。
「このブーツだけど、シャンクが折れちゃったみたいなんだ」
「そうね……見事に折れてしまっているわ……」
「これを修理するか、私の足に合う新しい靴を見繕ってほしいんだけど。あ、お金の心配はいらないよ」
コロが無表情のまま淡々と告げると、娘は無言でそのブーツを手に取った。
指先で革の表面を撫で、ソールの減り具合を確認し、内側の沈み込みを親指で押し込んで確かめる。
その瞬間。娘の目がカッと見開かれた。
娘は息を呑み、ブーツと、目の前に立つ幼い少女の顔を何度も見比べた。
革のひび割れを補修した跡、ソールの何度も張り替えた形跡。
そして何より、インソールに深く刻み込まれた足の形状。
これは決して、誰かのお下がりを間に合わせで履いているような代物ではない。
歩き方の癖、体重のかかり方、足の指の踏み込み。その全てが、目の前にいるこの小さな獣人の足と完全に一致している。
「さすがにそろそろ限界かなとは思っているよ」
だが、これほどまでに革が馴染み、芯材が金属疲労でへし折れるまで履き潰すには、最低でも数十年――いや、それ以上の気の遠くなるような年月、歩き続けなければ絶対にあり得ない摩耗だった。
人間や獣人の子供なら、一年のうちに足のサイズが変わってしまうというのに、だ。
「……お嬢ちゃん、一体どれだけの年数、この靴を……」
思わず問い詰めそうになった娘だったが、ハッとして口をつぐんだ。
目の前の少女の氷藍色の瞳は、何も語らず、ただ静かに娘を見返しているだけだ。
その後ろの銀狼も、微動だにせずジッと娘を見据えている。
娘は小さく息を吐き出すと、少しだけ引き攣りそうになる頬を叩き、プロフェッショナルとしての不敵な笑みを浮かべた。
「……いや。私は靴職人であって、憲兵じゃないんだ。客の歩いてきた道に首を突っ込むのは野暮ってものね」
「うん。私はただ、これからの道を歩くための道具が欲しいだけだからね」
コロが頷くと、娘は壊れたブーツを愛おしそうに撫でた。
「いいわ。これだけ長年、お嬢ちゃんの体重を支えてきた完璧な『型』があれば、全く違和感のない靴をすぐに仕立てられる。一から木型を起こすよりずっと正確ね。……店の奥に、お嬢ちゃんのサイズに合いそうな上質な下取り品がある。それをベースにして、中敷きとソールをそっくりそのままお嬢ちゃんの足に書き換えてあげる」
「よかった。駄目になったタイミングで、いい職人と出会えたね」
「ただし」と、娘は職人としてのプライドを覗かせる真剣な眼差しでコロを指差した。
「急ぎで仕上げるにしても、丸三日はもらうよ。私だって、こんな途方もない歴史の詰まった靴の後釜を作るんだ。半端な仕事はできないからね」
「うん、分かった。三日後にまた来るよ。それまでの間に合わせのサンダルを貸してもらえる?」
「そうね、ちょっと待っててね」
娘は店の奥の作業場へと引っ込み、少しして、簡素だが底の分厚い革紐のサンダルを片方だけ持って戻ってきた。
「ほら、うちの若いのが練習で作った余り物だけど、紐を締めればお嬢ちゃんの足でも脱げないはずだよ」
コロはそれを受け取ると、左足のブーツも脱ぎ、さっそくサンダルを足に合わせて革紐をキュッと縛った。
これで旅を続けるにはあまりに心許ないが、街の中で適当に過ごすには申し分のない代物のようだ。
「うん、サイズも問題ないよ。このサンダルの貸出料金は、さっきの靴の代金に上乗せしておいて」
コロがカウンターに左足のブーツを静かに乗せつつそう言うと、娘は鼻で笑ってひらひらと分厚い手を振った。
「バカ言わないで。そんな端材のサンダルの小銭なんか取ったら、うちの看板が泣くよ!それに……」
娘はカウンターに置かれたコロの古いブーツへ、愛おしそうにちらりと視線を落とす。
「こんなどえらい年季の入ったもんを見せてもらったんだ。その勉強代ってことで、タダで貸しといてあげるよ」
職人らしい気っぷの良さを見せる娘に、コロは氷藍色の瞳をパチリと瞬かせた。
「……そっか。それなら、お言葉に甘えて借りるね。お姉さん、ありがとう」
「いいさ。三日後の夕方には、最高の状態に仕上げておくから楽しみにしてな」
「それじゃあ、よろしくお願いするね」
コロがサンダルの紐を締め直して立ち上がろうとした時、娘が「あ、ちょっと待ちな」と声をかけた。
「いくら完璧な型が残ってるって言っても、念のため、今のお嬢ちゃんの素足のサイズと骨格も直に測らせてもらうよ。長旅で少しむくみが出てるかもしれないからね」
娘はそう言うと、カウンターの下から使い込まれた革製のメジャーと、木製の奇妙な定規のような道具を取り出した。
再び丸椅子に腰掛けたコロの小さな両足を、娘の分厚く、松脂の匂いが染み付いた掌が包み込む。
「……うん、やっぱりいい足だ。無駄な肉がなくて、しっかり地面を掴んで歩く形をしてる。左の小指側に少しだけ逃げる癖があるね。よし、中敷きの外側にほんの少しだけコルクを厚く盛っておくよ」
素早い手つきでコロの足の甲の高さや、踵の丸みを測りながら、娘は職人の顔で独り言のように呟く。
その迷いのない的確な指先の動きに、コロは感心したように氷藍色の瞳を細めた。
採寸される間、コロは店の奥に広がる工房へと視線を向けていた。
そこでは、三人のドワーフと二人のハーフリングが、黙々と作業に没頭している。
一番奥で革の裁断をしている白髭のドワーフが、この店の親方だろうか。
その隣では、娘と同年代くらいの若い人間の男が、真剣な顔で靴底を縫い合わせている。
カン、カン、という小気味良い金槌の音。
シュッ、と革を削ぐ鋭い音。
それぞれが全く別の作業をしているのに、工房全体が一つの大きな生き物のように、規則正しく美しいリズムを刻んでいる。
「……みんなの心臓の音が揃ってる。本当に、いい匂いがする場所だね」
『ああ。匂いはキツイが、小手先の誤魔化しがない、実直な群れの匂いだ』
「だね」
『お前の新しい靴も、悪くない仕上がりになりそうだな』
ウルも満足そうに鼻を鳴らす。
「よし、終わったよ。完璧だ。これで三日後には、あんたの足に吸い付くような靴を仕上げてみせるからね」
娘が自信たっぷりに笑い、コロが「楽しみにしてる」と頷いて丸椅子から立ち上がった、まさにその時だった。
――ガアァンッ!!
コロが開けた時のような「カラン」という澄んだ鐘の音ではなく、扉ごと蹴破るかのような乱暴な音を立てて、店の入り口が開け放たれた。
途端に、工房に響いていた美しいリズムが、ピタリと凍りつくように止む。
「やあやあ、精が出ますなあ、親方。それから……可愛らしい次期女将さん」
入ってきたのは、派手で趣味の悪い絹の服を着込んだ、腹の出た中年のハーフリングだった。
そしてその後ろには、領主軍の紋章が入った鎧を着た、体格の良い人間の兵士が二名、威圧的に腕を組んで立っている。
「……何の用だ。次の返済日はまだ先のはずだろ」
奥で作業をしていた白髭のドワーフの親方が、握りしめていた革包丁を置き、重い足取りでカウンターの方へと出てきた。
その顔は、土気色に濁っている。
コロは小さく鼻をヒクつかせた。
先程まで店内に満ちていた、上質で清潔な革の匂い。
それが今、扉から入ってきた男たちが纏う、古びた帳簿と油の混ざった『重たくて息苦しいインクの匂い』によって、ドロドロと無残に塗り潰されていくのを感じていた。
「いやいや、借金の取り立てなんかじゃありませんよ。私はただ、親切心から『領主様からの通達』を早くお伝えしようと足を運んだまででしてねえ」
中年のハーフリング――金貸しの男は、脂ぎった顔に下品な笑みを貼り付けたまま、懐から羊皮紙の束を取り出した。
そこには、赤々とした蝋で領主軍の紋章が押されている。
「親方、あんたの店で長年使っている特製の松脂と蜜蝋のブレンド……あれの成分がねえ、先日の法改正で『人間族の商業ギルドを通さなければ違法』になりましてねえ。違法操業の罰金と営業停止処分を取り消したければ、『この街の有力者』の保証人と、莫大な違約金が必要になりました。……ああ、もちろん期日は『本日中』です」
「なっ……!?む、無茶を言うな!あれはうちの先代から続く秘伝だぞ!それに今日中に保証人など……!」
「んー、払えぬのであれば、法に従ってこの国から出て行ってもらうしかありませんなあ。もちろん、その優秀な道具も、店も、お前さんたちが築き上げた『名前』も、全て没収となりますがねえ」
男の背後に立つ二人の兵士が、脅しつけるように腰の剣の柄に手を当てた。
ガチャリ、と冷たい金属音が工房に響く。
「……ふふっ、いくら誰かに協力を仰ぎ、金を工面しようと、この街の『法と身分』の壁には勝てんよ。今日なんとかしたところで、明日にはまた別の法律が作られるかもしれんなあ」
金貸しは脂ぎった顎を撫でながら、舐め回すような視線を娘へと向けた。
「……だがねえ、親方。私にも慈悲の心というものがある。実はな、私の倅がこちらの娘さんを酷く気に入っていましてね。もし、娘さんがうちの身内になってくれるというのなら……人間族のギルド幹部と懇意にしている私が保証人となり、その莫大な違約金も、綺麗に飲み込んでやろうじゃないか」
底意地の悪い、ねっとりとした提案。
それは、最初から娘を奪い取るために仕組まれた、逃げ場のない罠だった。
「……ふざけるなッ!!」
店の奥で靴底を縫い合わせていた若いハーフリングの職人が、手にした鋭い錐を握りしめ、血走った目で飛び出そうとした。
しかし、その細い身体は、親方の太く丸太のような腕によってガッチリと抱き留められる。
「離してくれ親方!!あんな奴ら……俺がッ!」
「……やめるんだ。お前がそんな鉄の棒を振り回したところで、店が潰れてミリアが路頭に迷う事実に変わりはないんだぞ……っ!」
親方の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちる。
若い職人は錐を握りしめたまま、ギリギリと歯を食いしばり、やがてその場に崩れ落ちた。
「……分かりました。お受けいたします」
泥のような沈黙の中、娘が震える息を吐き出して顔を上げた。
無理矢理に口角を引き上げ、泣き出しそうな笑顔を作る。
「……ふふ、これで店は安泰だね。お父さん、今まで育ててくれてありがとう……」
「おお!それは素晴らしい!実に賢明な判断だ!いやあ、親孝行な娘を持ちましたなあ!」
自分を犠牲にした娘の気高い決断を前に、金貸しはパンッと手を叩いて下品な笑い声を上げた。
完全に己の思い通りに事を運んだ高揚感。
彼はすっかり上機嫌になり、意気揚々と店を出ようと踵を返した。
――が、ふと、その足が止まる。
入り口近くの丸椅子に座ったままの幼い獣人と、その背後に控える巨大な銀狼。
彼らは、怯えるでもなく、怒るでもなく、ただ『路傍の石ころ』でも見るような、絶対零度の醒めきった瞳で金貸したちを見つめていた。
その異質な静けさに、金貸しは薄気味悪さを感じて顔をしかめた。
「……何だ、その目は。獣人のガキと魔物風情が、私に何か文句でもあるのか?」
金貸しの声に呼応するように、背後の兵士の一人が前に出た。
威圧するように、わざとチャキ、と音を立てて剣を鞘から少しだけ引き抜く。
「おい、薄汚い犬っころ。領主様の使いである旦那に、その生意気な目を向けるな。痛い目を見たいのか?」
適当な因縁をつけ、見せしめに脅しつけようとする兵士。
だが、剣を向けられたウルは微動だにせず、ただ退屈そうに欠伸を一つ噛み殺した。
代わりに、丸椅子に座っていたコロが、コトリと首を傾げて口を開いた。
「……ウルに剣を向けるの?剣を抜く意味は分かっているの?」
「あぁ?何だガキ、文句が――」
「だから、その意味が分かっているの?って」
コロの声には、怒りも、焦りも、一切の感情が乗っていなかった。
ただの事実を確認するような、淡々とした響き。
だが、その言葉が発せられた瞬間、兵士たちの背筋にゾクリと嫌な汗が伝った。
「お兄さん達、アッシュウルフと戦ったことがある?」
「は……?」
「その辺のハイランドウルフとかフォレストウルフじゃなくて、アッシュウルフ」
「な、何を……」
「……ないから、そんなことができるんだろうけど」
コロは氷藍色の瞳で、抜かれかけた剣の刃を冷たく見据えた。
「その剣を抜き切るよりも早く、あなたの首と胴体は泣き別れになるよ。ウルはとても優しいから、痛みが脳に伝わる前に処理してくれるはずだけど」
それは脅しではない。
圧倒的な捕食者としての、絶対的な事実の宣告。
「な、舐めるな!こんな街中で狼藉を働けば、領主様が黙っていないぞ!どうなるか分かっているのか!」
恐怖を誤魔化すように、兵士が声を張り上げる。
その言葉を聞いたコロは、表情を崩さないまま小さくため息を吐いた。
「……領主様が黙っていない?」
コロは小さく首を傾げた。
「あなた達がここに来た事実を、最初からなかったことにするくらい、私たちには簡単だよ。……それに、領主様が黙っていないのは、あなた達がいなくなった後の話だよね」
コロの底知れない瞳と、ウルの喉の奥から微かに漏れ始めた『グルル……』という重低音。
本能的な死の恐怖に直面し、兵士たちは完全に硬直した。
ガチガチと手首が震え、引き抜こうとしていた剣を鞘に戻すことすらできない。
「ひぃっ……!」
金貸しが情けない悲鳴を上げ、腰を抜かしかけた。
彼らはようやく理解したのだ。
自分たちの振りかざしていた『法』という紙切れが、目の前にいる規格外の『暴力』の前では、文字通り何の役にも立たないということを。
「も、もういい!行くぞ!……み、三日後だ!三日後の夕方、必ず迎えの馬車を寄越すからな……!」
金貸しは震える足で逃げるように背を向け、兵士たちもまた、ウルから目を逸らさないように後ずさりしながら、転がるようにして店から逃げ出していった。
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