擦り切れたブーツと、誇り高き最後の仕事 1 〜寿命を迎えた靴と、活気あふれる職人街〜
1.
「……っと!ん?」
『ん、どうした』
「あー……ブーツが壊れたみたい」
『辺りには魔物も人類も、何の気配もない。ここで暫く休憩するか』
「そうだね。とりあえず状況を見ないと」
常に泰然自若なコロが珍しくもあげた小さな悲鳴。
そしてまた珍しくげんなりした、ため息混じりの言葉。
一人と一匹は今、いくつもの山々が連なる連峰を縫うようにして切り開かれた峠道を歩いていた。
峠道と言えど、馬車が通れるような道幅もなだらかな傾斜もなく、人と人が辛うじてすれ違える程度の荒々しい砂利道が延々と続いているだけ。
谷底から吹き上げてくる晩秋の強い風が、コロの銀髪をバサバサと乱暴に揺らしている。
右足を少し浮かせたままピョンピョンと跳ねながら、傍にあった手頃な岩に腰を下ろすコロ。
ウルは首を傾げながら、相棒の右足のブーツを凝視している。
『大丈夫か?また器用に縫って直すんだろう?』
「いや、これはちょっと無理かな――」
『ん?革が裂けたわけでも、糸が弾けたわけでもないようだが』
コロは自身の足から使い込まれた革ブーツを脱ぎ、じっとそれを眺める。
一見すると、どこにも問題はないように見える。
だが、コロがブーツの踵とつま先を持って軽く曲げると、本来なら曲がってはいけない土踏まずの部分が、ぐにゃりと不自然に折れ曲がった。
「シャンクが折れちゃったみたいだ」
『シャンク……?』
首を傾げて鸚鵡返しするウルを見たコロが、困った表情を浮かべたまま小さく笑った。
「うん、靴の土踏まず部分にね、体重を支えて歩行を安定させるための硬い板が入っているんだけど、どうやらそれが金属疲労か何かで真っ二つに折れちゃったみたいなんだ」
『別に穴が空いたわけではないだろう。歩けないのか?』
「歩けなくはないけど、流石に危ないね。ここが折れていると、地面に足を突くたびに無駄な力がかかっちゃう。あちこちの革もかなり薄くなっちゃってるし……とにかく、このままこれを履いてこの荒れた峠道を歩き続けたら、間違いなく足を挫くか、無駄に体力を消費して倒れちゃうよ」
コロは氷藍色の瞳で、険しい顔のままブーツの底を指で叩いた。
「不便だけど、人類の器を持つ以上、足元の安定は命に直結するからね」
『靴は随分と値が張る印象だな』
「……はぁ、手痛い出費になるけど、次の街に着いたら、腕のいい職人を探して修理か買い替えをしないとダメだね」
『路銀は豊富にあるだろう。何をそんなに落ち込んでいるんだ?』
不思議そうに鼻を鳴らすウルに対し、コロは鋭く尖った無数の砂利が敷き詰められた足元の道を見つめ、深く、深くため息を吐いた。
「片方だけ靴を履かないまま、人里まで行かないといけないんだよ?次の人里が集落とか村だったら、靴職人が居ないかもしれないしね」
その言葉に、ウルはやれやれと深い溜め息のような鼻息を吐いた。
そして、コロの目の前へと進み出ると、その巨大な四肢をゆっくりと折り曲げ、腹を地面につけるようにして背中を低くした。
「え?ウル?」
『……はぁ。お前は計算高い癖に、肝心なところで頭が回らんな。だったら、俺の背に乗ればいいだけの話だろう』
呆れたように放たれた言葉に、コロは氷藍色の瞳を丸くした。
「でも……次の街まで数日かかるかもしれないんだよ?いくらウルでも、私を乗せてこの悪い足場を歩き続けたら、無駄に体力を消費しちゃうよ」
それはコロなりの「計算」を装った、相棒を気遣う不器用な労りの言葉だった。
しかし、ウルはどこ吹く風とばかりに、少しだけ耳をパタパタと動かしてそっぽを向いた。
『……どこの世界に、番が困っている時に手を差し伸べないオスがいる』
「ウル……」
『それに、あの馬鹿でかい丸太を何本も引きずって運べる俺が、お前のような小石程度の重さを背に乗せて走るくらい、軽い散歩と何も変わらん。……いいから、とっとと乗れ。日が暮れるぞ』
ぶっきらぼうで誇り高いウルの言葉。
だが、その奥底に照れ隠しのような、わずかにモジモジとした響きが混じっているのを、コロの耳は決して聞き逃さなかった。
数秒の沈黙の後。
コロの無表情だった顔がふっと崩れ、柔らかな微笑みが広がる。
「……そっか。うん、そうだね。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
コロは片足でぴょんぴょんとウルの横へ移動すると、背中にまたがるより先に、その豊かで温かい銀色の毛並みに顔を埋めるように、ギュッと抱きついた。
『あっ!お、おいっ……!首元にひっつくな、早く乗れと言っているだろうが!』
「ありがとう、ウル。ウルの毛並み、とっても温かいから……きっと最高の乗り心地だね」
嬉しさを隠すようにすり寄る小さな相棒に、ウルは『ふん』と一度だけ力強く鼻を鳴らしたきり、それ以上文句を言うことはなかった。
谷底から吹き上げてくる晩秋の風はひどく冷たかったが、峠道を行く一人と一匹の間には、計算では測れない、確かな熱が通い合っていた。
翌日の夕暮れ時。
ウルの背に揺られ、当初の予定よりもだいぶ前倒しで険しい峠を越えたコロは、山間の盆地に広がる活気ある街へと到着した。
街を囲むのは、土を高く盛った上に丸太を隙間なく打ち込んだ、実用性重視の無骨な防壁だ。
門番を務めているのは、自身の背丈ほどもある重厚な戦斧を背負った赤髭のドワーフと、身軽そうな革鎧を着込んだ素早い身のこなしのハーフリングの二人組だった。
彼らは巨大な銀狼の接近に一瞬だけ武器へ手をかけたが、その背にちょこんと乗っている小さな獣人の少女を見ると、毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
「通行料と、その……デカい狼の危険負担金として銀貨二枚だ。頼むから、街の中で暴れさせないでくれよ」
「うん、分かってる。彼は私よりずっと賢いから大丈夫」
ツンと澄まし顔をしているウルの背から降りたコロが無表情のまま素直に銀貨を支払うと、門番たちはまだ少し引き攣った顔のまま、重たい木門を開いた。
街の中へ足を踏み入れると、谷底の冷たい風は遮られ、代わりにむせ返るような熱気と活気が一人と一匹を包み込んだ。
そこは、人間族や獣人族の姿はまばらで、代わりに小柄なハーフリングたちと、ずんぐりとした体躯のドワーフたちが入り乱れて暮らす、特殊な職人街だった。
建物の造りも独特で、一階部分はドワーフ好みの頑強な石積みでできており、二階部分はハーフリングの美意識が反映された繊細な木彫りのバルコニーがせり出している。
全体的に天井が低く、扉も小さいが、造りは岩のように頑丈そうだ。
大柄な人間族なら頭をぶつけてしまいそうな軒下には、淡い光を放つ魔石のランタンが次々と灯され始め、石畳の道を温かな琥珀色に染め上げていく。
夕暮れの空には無数の煙突から石炭の煙が立ち昇り、街のあちこちから金属を叩くカン、カンという甲高い音や、木材を挽く重低音が絶え間なく響いている。
それに混じって、どこかの酒場から漂ってくる焼けた肉の脂と、強いエールの匂い。
街の入り口の少し手前でウルの背から降りていたコロは、手元に折れた右足のブーツを抱え、器用にケンケンと跳ねながら石畳の地面を進み始めた。
片足で跳ねるたび、硬い石畳の感触が直に足の裏へと響く。
「ウル、お疲れ様。ウルの背中のおかげで、私の体力を少しも無駄に消費することなく到着できたよ」
『俺も久しぶりに身体を動かせてスッキリしたぞ。気分が良いな』
「ふふ、優しいね、ウルは」
『ふん。人類ほど器用に嘘はつけんぞ』
「今日の夕食は、特別にウルの分のお肉を三割増しだね」
『あの峠道を三割増しの肉で運ばせたのだ。随分と悪徳な雇い主だな』
ウルは呆れたように鼻を鳴らしたが、その尻尾の先はわずかに上を向いていた。
すれ違う住人たちは、片足を裸足にしたまま跳ねて進む幼い獣人の姿に奇異の視線を向けたが、その後ろを影のように付き従う巨大なウルの姿を認めるなり、弾かれたように道を譲った。
まるで海が割れるように、人混みの中に一人と一匹のための真っ直ぐな道が出来上がる。
『……ひどく避けられているな』
「ウルの見た目が強すぎるからだよ。それに……この街、従魔をまったく見かけないしね」
コロはピョン、と跳ねて姿勢を保ちながら、氷藍色の瞳で周囲を見渡した。
『ふむ。言われてみればそうだな。人間族や獣人族の町だと、そこかしこに小さな魔物を連れ歩いている奴らがいるがな』
「ドワーフはエルフみたいに、己の種族に対するプライドが高いからね。自分の腕と仲間たちの技術だけで生きていくっていう自負があるから、『魔物を従えて自分たちの労働力にする』っていう発想自体がないんだろうね」
『その割には、あそこに馬や荷引き用の家畜はいるみたいだが?』
ウルが顎で示した先では、ずんぐりとした足の太いポニーのような馬が、鉄鉱石の積まれた荷車を引いている。
それを見たコロは、小さく首を横に振った。
「彼らにとって、従順な動物と、元来凶暴な魔物とじゃ、話がぜんぜん違うよ」
『こき使うという点では同じだろう』
「魔物はあくまで『討伐すべき外敵』であって、生活圏に招き入れるものじゃないって認識なんだと思うよ。だから、こんな特大の銀狼が放し飼いでのしのしと歩いていたら、そりゃあ警戒して道も譲るよ」
『……なるほど。のしのしとは歩いていないが、俺がいつ牙を剥くか分からないと、そう怯えているわけか』
「でも、おかげで歩きやすくて助かるかな」
コロは周囲の警戒の視線などどこ吹く風で、涼しい顔をしてケンケンと進んでいく。
「今の片足の状態で、あんな岩みたいに頑丈そうなドワーフにぶつかったら、私なんてそのまま弾き飛ばされて転がって、怪我しちゃうもんね」
『奴ら、無駄に頑丈そうななりをしているからな』
「ウルの威圧感は立派な護衛として機能してるよ。ここなら、私の足に合う靴を扱っている職人もすぐに見つかりそうだし」
『……コロ、あっちだ』
ウルが不意に足を止め、街の奥へと続く入り組んだ路地の方へマズルを向けた。
どうやら銀狼の鋭い嗅覚が、数多の生活臭や煤の匂いを掻き分け、ある特定の匂いを捉えているようだ。
「何か匂う?」
『ああ。……上質な獣の革の匂いと、松脂、それに蜜蝋の匂いだ。他の安っぽい革屋とは違う。恐らくだが、良い腕が溜まっている匂い、というやつだな』
「流石はウルだね。頼りになる鼻だよ」
コロは右足をかばいながら、ウルの歩みに合わせて石畳の路地を奥へと進む。
やがて一人と一匹が行き着いたのは、表通りから少し外れた場所にある、古びているが手入れの行き届いた構えの靴屋だった。
建物の入り口には、ハーフリングらしい器用な装飾が施された木製の看板が控えめに揺れている。
コロが鼻を近づけると、確かにウルが言った通り、少し酸味のあるなめし液の匂いと、丁寧に手入れされた清潔な革の匂いが、店の奥から静かに漂ってきていた。
「……うん、いい匂いだね」
『近くで嗅ぐとキツイな。鼻が馬鹿になりそうだ』
「でも、みんなの心臓の音が揃っているような、整った仕事の匂いがする」
コロは小さく頷くと、軋む右足を上げ、ケンケンと跳ねながら、カラン、と澄んだ音を立ててその店の扉を開けた。
なめし革と蜜蝋の混ざった重厚で心地よい香りが、一層濃く鼻をくすぐる。
「いらっしゃい。……あら?」
カウンターの奥から顔を出したのは、亜麻色の髪を後ろで無造作に束ねた若いハーフリングの娘だった。
だが、その首の太さや、指先にこびりついた松脂の跡、そして分厚く発達した掌を見ると、彼女にもドワーフの血が多少混じっていることが窺える。
娘は、ケンケンと跳ねるようにして店に入ってきたコロと、その後ろからのっそりと顔を出した巨大な銀狼を交互に見て、その妙な組み合わせにわずかに目を瞬かせた。
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