一人と一匹と、寄り道 〜愛すべき無駄遣いと、心を満たす例外〜
1.無謀な小型犬と、銀狼の沈黙
とある宿場町での滞在二日目。
思わぬ需要により、思いのほか懐が潤っていた。
一人と一匹は日用品の買い出しのため、石畳の敷かれた入り組んだ裏路地を歩いていた。
『……コロ。さっきから、歩きにくくて仕方がないのだが』
「流石に我慢してよ。彼も立派に自分の仕事をこなしているだけなんだからさ」
ウルの足元で、キャンキャン!と甲高い声が響き渡っている。
見れば、麦色のふさふさとした毛並みを持つ、小柄な番犬だった。
鼻の周りに白いものが混じっているところを見ると、おそらく十歳は優に超えている老犬だろう。
だが、その小さな体からは想像もつかないほどの気迫で、自分より何倍も巨大で恐ろしい「銀狼」の足元にまとわりつき、猛烈な勢いで威嚇の声を上げ続けていた。
『一噛み、いや、俺がひと睨みすれば泡を吹いて倒れそうな弱小生物が。なぜ己との戦力差という物理的な事実を理解できんのだ』
鬱陶しそうにマズルにシワを寄せるウルだが、決して牙を剥くことはなく、ただ間違って踏み潰してしまわないように、器用に前足を避けて歩いている。
「犬っていうのは、己の命よりも縄張りを守る本能を優先するように設計されているからね。老齢で身体能力が落ちていても、あの気迫だけで十分な番犬として機能してるよ。ほら、ウルの足止めには成功してるじゃない」
『……俺が寛大だから見逃してやっているだけだ』
「ふふ、はいはい」
コロは氷藍色の瞳で、その麦色の老犬をじっと観察した。
圧倒的な格上に挑む、非効率で無謀なエネルギー消費。
だが、尻尾の毛を逆立てて必死に主人の家を守ろうとするその姿には、生き物としての確かな熱量があった。
「えらいえらい。しっかりお仕事してるね」
コロが足元にしゃがみ込み、無表情のまま干し肉の欠片を放ってやると、麦色の番犬はピタッと吠えるのをやめ、クンクンと匂いを嗅いでから嬉しそうにそれを齧り始めた。
『ふん……現金な奴だ。結局は食い気か』
「労働に対する正当な対価だよ」
そうコロが答えた時、バタンと慌ただしく背後の木扉が開いた。
「こら!ギャンギャン吠えて!ダメじゃないか!……って、ひぃっ!?」
エプロン姿の初老の男が飛び出してきて、コロの背後に立つウルの巨大な姿を見上げるなり、顔を引き攣らせて腰を抜かしそうになった。
「す、すみませんお嬢ちゃん!うちの老いぼれがご迷惑を……!」
「ううん、大丈夫だよ」
「ははは、いやぁ、最近はすっかり目も耳も遠くなって、番犬なんてとっくに引退してるのに、いっちょ前に吠え癖だけは残ってて……本当に申し訳ない!」
血相を変えて平謝りする主人に対し、コロはゆっくりと立ち上がり、首を横に振った。
「謝る必要はないよ。むしろ、私が不法侵入者なら確実に足止めを食らっていただろうからね」
「え……?」
「この子はね、圧倒的な格上の脅威から、立派にご主人の家を守ろうとしたんだ。番犬として、これ以上ない完璧な仕事ぶりだと思う」
コロが無表情のまま淡々と告げると、主人は呆気にとられたように目を瞬かせた。
やがて、足元で夢中に干し肉を頬張る小さな愛犬を、誇らしげに、そしてひどく愛おしそうに見つめ直した。
「……そうかい。ははっ、ありがとう。お嬢ちゃん」
「こんな禍々しい狼相手に、とても優秀で勇敢な子だと思う」
『なっ……!おい、禍々しいとは誰のことを言ってる?』
ウルがじっとりとした視線をコロへ向けるも、当のコロは涼しい顔をしたまま老犬の背中を優しい手つきで撫でつけた。
「だから、どうかたくさん褒めてあげてね」
コロが小さく頭を下げると、主人は深く頷き、老犬の柔らかな麦色の毛並みを優しく撫でた。
温かい主人の手と、満足げに尻尾を振る小さな老犬を残し、一人と一匹は再び路地の奥へと歩き出す。
『勇敢と無謀は全く違うぞ』
「そんなに強くて逞しいのに、ウルは細かいなぁ」
プリプリと怒る狼と、クスクスと笑う獣人の少女。
どこか微笑ましいその後ろ姿が、街の喧騒の中へと消えていった。
2.売れない吟遊詩人と、複雑な計算
勇敢な小犬の老犬のもとを後にし、一人と一匹はそのまま路地を抜け、中央の広場に出た。
すると、どこからか弦楽器の音が聞こえてきた。
広場の片隅にある噴水の前。
かなり使い込まれた古い木製の楽器――おそらく父親か誰かから譲り受けた年代物だろう――を抱えた若い吟遊詩人が、一人で演奏をしている。
しかし、彼の前に置かれた帽子には、銅貨の一枚も入っていなかった。
『あの人類は、撒餌として銅貨数枚くらい入れておくということすら知らんのか?』
「……そりゃあ、誰も足を止めないわけだ。ウルでさえ知ってるのにね」
買い出しの荷物を抱えたコロは、噴水の縁に腰掛けながらその旋律に耳を傾けた。
彼が弾いているのは、大衆が好むような分かりやすい流行歌や、陽気で単純なメロディではない。
拍子が目まぐるしく変わり、複雑な和音が絡み合う、極めて技巧的で難解な旋律だ。
まるで、音のブロックを数学的に組み上げているような、迷宮じみた音楽だった。
『なんだ、あの妙な音楽は。一定のリズムがないから、聞いていて落ち着かん』
「ウルにはそう聞こえるだろうね。大半の人間にとっても同じだよ。人間は単純な刺激を好むから、あんな変拍子だらけの難解な曲調じゃ、誰も対価を払おうとしないかな」
コロは冷静に、彼の商業的な非効率さを分析した。
だが、その視線は吟遊詩人の手元から離れなかった。
「……でも、あの曲、構造としては全く破綻していないよ。複雑に絡み合っているように見えて、すべての音が緻密な計算式に基づいて配置されているように感じる。ただの雑音じゃなくて、高度な『構築美』だと思うな」
『……なるほどな。お前が何を言っているのか、俺が一生理解出来んということはよく分かった』
ウルがやれやれと深い溜め息を吐きながら鼻を鳴らすと、コロはフッとわずかに口角を上げた。
「それでいいんだよ。最初から他人に理解されることを前提に作るなら、それはもう彼にとって『自分の音楽』じゃなくて、別の何かになっちゃうから。彼は恐らくね、たった一人でそういう世界を突き詰めているんだと思う」
『ふむ……。孤高といえば聞こえはいいが、それでは腹は膨れんぞ』
「そうだね。刺さる人にはトコトン突き刺さるけど、大多数には全くかすりもしない。究極の非効率だよ」
それは、何でも『計算』で捉えるコロだからこそ理解できる、理系的な美しさなのかもしれない。
大衆には理解されない、孤高の旋律。
コロは無表情のまま立ち上がると、吟遊詩人の前を通り過ぎるついでに、チャリン、と。
銀貨を数枚、その帽子の中に弾き入れた。
「えっ……あの、お嬢ちゃん!こんな大金……!」
「構造的に美しい音楽に対する、情報料だよ」
「あっ、ありがとう――」
「私にはね、あなたの世界が物凄く突き刺さったよ」
振り返ることなく淡々と告げるコロの背中を、音楽師は呆然と見送っていた。
『お前、時々変なところに金を使うな』と呆れるウルに、コロは「たまにはね」とだけ返した。
3.街角の絵描きと、切り取られた一瞬
広場から伸びる中央通りを歩いていると、道の端でイーゼルを立てている一人の男がいた。
小さなキャンバスに向かう彼は、よくある「街を美化して描く風景画家」ではなかった。
大げさな遠近法も、ドラマチックな誇張もない。
ただ、人間の目で見たままの自然な距離感で、街を行き交う人々の「飾らない日常の瞬間」を、まるでそのまま切り取るように描いていた。
「……いい絵を描くね。誇張がない。ありのままの事実だけを正確に定着させてる」
『ふむ。確かに、あそこの肉屋の親父の腹の出具合まで、無駄に正確だな』
二人が足を止めて絵を眺めていると、男が振り返り、コロとウルの姿を見て目を輝かせた。
「おお!なんて美しい銀髪の獣人のお嬢さんと、立派な狼!ぜひ、私のモデルになってくれないか!」
「お断りします。腹の膨れないものに時間を割く経費も、長時間ポーズをとるための無駄な元気も持ち合わせていないので」
コロが秒で切り捨てて歩き出そうとすると、男は慌てて引き留めた。
「ま、待ってくれ!ポーズなんていらない!君たちがそこにいる、自然な姿を描きたいんだ。そうだ、そこのベンチで少し休憩していくといい。私はただ、その『一瞬』を切り取るだけだから!お代はいらないよ!」
『……どうする、コロ。俺は腹が減ってきたから、そこのベンチで肉でも食いたいのだが』
「え?もうお腹が空いたの?……まあ、別にいいか」
コロとウルは、通りの端にある木陰のベンチに腰を下ろした。
ウルは横に座って干し肉を齧り、コロは足をぶらぶらと揺らしながら、これからの旅のルートや経費の計算を頭の中で反芻していた。
「ねえ、ウル。次の街までは三日かかる計算だから、保存食をもう少し買い足しておこうか」
『ふん。干し肉ばかりでは飽きる。たまには新鮮な魚でもいいぞ』
「魚は足が早いから、経費的に割に合わないの」
そんな、いつも通りの他愛のない会話。
いつしかコロもウルも、『画家に見られている』なんてことを忘れ、ただただ会話に興じていた。
「よし、できたぞ!!」
数十分後。絵描きが満足げな声を上げた。
「……忘れてた」
『そういえば居たな……』
そう言いつつも立ち上がってキャンバスを覗き込んだコロは、ぴたりと動きを止めた。
そこに描かれていたのは、大げさな美少女の姿でも、恐ろしい魔物の姿でもなかった。
ベンチに座り、氷藍色の瞳を優しく細めて、隣の銀狼に向かってかすかに「微笑み」ながら話しかける小さな少女。
そして、その横で「俺がコイツの相棒だ」とでも言わんばかりに、ツンと誇らしげにマズルを上げて座る、気高き銀狼の姿。
コロ自身が無意識に見せていた、ウルに対する絶対的な信頼と、隠しきれない愛情。
それが、誇張のない自然な距離感で、キャンバスの中に永遠の事実として定着させられていた。
『……なんだ、お前。こんな顔で私を見ていたのか』
「光の加減のせいだよ。ふふ、そうか……」
コロはふいっと顔を逸らしたが、いつもはあまり動かない狼の尻尾がユラユラと動いていた。
コロは背嚢を探ると、銀貨を数枚取り出し、絵描きの手に押し付けた。
「えっ、お代はいらないと言ったはずだが……」
「これは寄付じゃないよ。今ね、私は心をガっと鷲掴みにされたんだ。……その絵、欲しいな」
絵描きが驚いて礼を言うのを背中で聞きながら、コロはその小さなキャンバスを大切そうに小脇に抱え、足早に歩き出した。
『おい、コロ。また金の無駄遣いではないのか?』
「うるさいな。計算には、たまには例外もあるの」
秋の柔らかな風が吹き抜ける中、一人と一匹の足取りは、ほんの少しだけ弾んでいるように見えた。
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