胃袋の中の遺言と、名もなき帰還 2 〜消化されなかった生きた証と、星の砂の微笑み〜
2.
道なき森の奥深くへと進む道行は、不自然なほどに無言だった。
先頭を歩く若い男の足取りは、鬱蒼と生い茂る草木をかき分けているはずなのに、奇妙なほどに葉擦れの音を立てない。
昨晩の通り雨でぬかるんだ腐葉土の上を歩いても、彼の足元には一切の足跡が残らなかった。
その後ろを、コロとウルが一定の距離を保って黙々と着いていく。
『……おい、コロ。お前も流石に気づいているだろう』
「何が?」
『誤魔化すな。あの男は霊魂だ。生きている血肉の匂いが一切しない。スカスカの、まるで風穴みたいな空っぽの匂いしかしない』
ウルの言葉には、明らかな警戒と、得体の知れない存在に対する不快感が混じっていた。
しかしコロは、男の背中から視線を外さないまま、頭の中だけで冷静に返す。
「うん、そりゃ知ってる」
『知っているとは思っていたが……』
「彼は恐らくね、この森に置いてきぼりにされた『未練の残滓』みたいなものだね。自分が死んだことにまだ気づいていないだけの、哀れな迷子だよ」
『ふむ……分かっていて引き受けたのか』
「うん、そういうこと」
『死人の依頼など、報酬が支払われる保証はどこにもないだろうに』
「計算は合っているから問題ないよ。あ、ほら。静かに」
「……あの、すみません」
唐突に、先頭を歩いていた男が振り返らずにぽつりと言葉をこぼした。
その声は、森の静寂に吸い込まれるようにひどく頼りない。
「こんな面倒なことに巻き込んでしまって」
「ううん、私もこの子も、森を歩くのは好きだから平気だよ」
「ははは、そう言っていただけると助かります」
申し訳なさそうに左手で頭をポリポリとかきつつも、男は言葉を続けた。
「私は人間族で、力もなければ魔法もあまり使えません。ただのしがない薬草採りでして……家族もいないし、友人も少ない。ずっと一人で、この森を行ったり来たりするだけの人生でした」
男は、誰に聞かせるでもなく、自らの人生を語り始めた。
「だから、あの『採取用のハサミ』だけが、私にとっての唯一の相棒だったんです。死んだ親方に譲ってもらった、特注の上等なハサミでね。……もし私がこのまま森で野垂れ死んでも、誰も困らない。それが、ほんの少しだけ寂しいって……あの蛇から逃げながら、そんな事ばかり考えていました」
男の背中は、ひどく小さく見えた。
自分がすでにその「野垂れ死に」の結末を迎えていることなど露知らず、ただ大切な道具への執着だけでこの森に留まり続けている。
コロは何も答えなかった。
慰めの言葉も、同情の言葉も掛けない。
ただ無表情に、その男の存在という物理的な事実だけを観測し続けていた。
「――あ、ほら!あそこです!あの岩陰に!」
不意に男が立ち止まり、震える指先で前方を指差した。
苔むした巨大な岩が重なり合う湿地帯。その隙間にトグロを巻いていたのは、丸太ほどもある極太の胴体を持つ、青黒い鱗に覆われた大蛇――『オオミズチ』だった。
シューッ!と。
侵入者に気づいた大蛇が鎌首をもたげ、猛毒の滴る牙を剥き出しにして威嚇音を鳴らす。
『ふん……図体ばかりがでかい、三流の魔物だな』
「でも肉質は鶏に似てて一流だよ」
『だな。気をつけて仕留める』
「うん、お願い」
男が悲鳴を上げて後ずさるより早く。
ウルの銀色の巨体が、爆発的な脚力で湿地の泥を蹴り上げた。
瞬きをする暇さえなかった。
大蛇が毒液を吐き出そうと顎を開いた瞬間、ウルの鋭い爪が空気を切り裂き、大蛇の脳天を正確に、かつ暴力的に粉砕した。
ドスゥン!!
という重たい地響きと共に、巨大な水飛沫が上がり、オオミズチは一度だけ痙攣すると、あっけなくその命を散らした。
「す、すごい……!あんなに恐ろしかった化け物を、一撃で……!」
男はへたり込みながら、ウルの圧倒的な力に感嘆の声を漏らした。
だが、コロはその称賛にも反応せず、泥に塗れるのも構わずに大蛇の死骸へと歩み寄った。
「いいね。食べるところが少ない部位をピンポイントだ」
『朝飯前だ。くれぐれも毒袋をぶち撒けるなよ』
「分かってるよ。さて、検収作業だね」
コロは背嚢から解体用の鋭いナイフを取り出すと、一切の感情を交えずに、手早く大蛇の腹部を切り裂き始めた。
生々しい血と内臓の匂いが森に立ち込める中、コロはまず大蛇の心臓付近に手を突っ込み、成人男性の拳ほどの大きさの鈍く光る石――『魔核』をえぐり出した。
「うん、質のいい魔核だ。これだけでも結構なお金になるね」
コロは満足げに頷き、魔核を布で拭って革袋へ収める。
「あの……私の道具は、落ちていませんでしたか?」
男が恐る恐る尋ねてくる。
コロは無表情のまま、ナイフの刃先を大蛇の膨れ上がった胃袋へと向けた。
「落ちてないよ」
そして、男の方を振り向くことなく、淡々とナイフを動かしている。
ウルもコロのすぐ隣に行儀よく座り、ジッとコロの手元を凝視していた。
「そうですか。おかしいな……たしかにこの辺りだと……」
そんな素っ気ないコロの反応を受け、男は困惑気味に辺りをキョロキョロと見回している。
「……だってほら、最初から落ちてなんかないからね」
ブチリ、と。
分厚い胃袋の壁を裂くと、強烈な胃酸の悪臭と共に、半ば消化され、どろどろに溶けかかった『人間の腕』がこぼれ落ちた。
男が着ているのと同じ、麻の服の袖がへばりついている。
「ひっ……!?」
男が短い悲鳴を上げて後ずさる。
コロは顔色一つ変えず、その溶けかかった腕のさらに奥、胃液の海の中に手を突っ込み、硬い金属の感触を掴み取った。
泥と胃液にまみれたそれを引きずり出し、持っていた布で丁寧に汚れを拭い落とす。
現れたのは、職人の手によって丹念に鍛え上げられた、分厚く鋭い刃を持つ見事な『採取用ハサミ』だった。
コロはハサミの刃の噛み合わせをカチン、と鳴らして確認すると、小さく頷いた。
「……やっぱり。市販の安物とは鍛え方が違うね。刃こぼれ一つしていない。これはいい収穫だね」
そう呟くと、コロはゆっくりと立ち上がり、自分が死んだという残酷な事実に気づきかけて震えている男に向かって、そのハサミの切っ先を突きつけた。
「お兄さん、これを見て。そろそろ、自分がもうこれを使えないってことに……気づいた?」
冷え切った森の中に、コロの淡々とした、宣告のような声が響き渡った。
3.
男は、震える瞳でコロの突きつけたハサミと、大蛇の胃袋から転がり出た無惨な腕の残骸を交互に見つめていた。
やがて、自分の身体から「血の通った温もり」がとうの昔に失われていることを思い出したように、その場に力なく膝をつく。
「あ、ああ……そうか。私は、逃げ切れずに……。そうか……ああ、そうか……」
「うん、丸呑みだったみたいだね。でも、ハサミだけは消化されずに残っていたよ」
自分の無惨な死体を前にして嘆く男に対し、コロの口調はどこまでも平熱だった。
「家族もいない……遺す相手もいない。私は、何一つ生きた証を残せないまま、このハサミと一緒に蛇の腹の中で溶けて消える運命だったんだな……」
「いや、そんなことないよ」
絶望に顔を覆う男の言葉を、コロはあっさりと否定した。
コロはハサミの汚れを再び丁寧に拭いながら、男を見下ろす。
「報酬として、これを貰ってもいい?」
「……報酬……かい?」
「うん。手入れをして研ぎ直せば一生使えるよ。お兄さんの生きた時間は、このハサミと一緒に、これから私の仕事の一部になる。それで文句ないでしょ?」
それは、生者の同情など微塵も含まれていない、徹底的な実利に基づく言葉だった。
だが、誰の記憶にも残らず消えるはずだった孤独な職人にとって、「自分の遺した道具が、これからも誰かの役に立つ」という物理的な事実は、何よりも確かな生きた証の肯定だった。
男は顔を上げ、コロの無表情な顔と、その手にある自分の相棒を見つめた。
やがて、憑き物が落ちたように、ふっと力のない、けれど穏やかな苦笑いを浮かべる。
「……気が付いていたのかい。私が、とうに死んでいるってことに」
「うん。お兄さんの腰の道具袋の使い込み具合と、この界隈の奥地で採れる薬草の品種からして、そこそこ腕のある採取家だって推測できたからね。オオミズチを倒せば、上等な遺品が手に入るって算段はついていたんだ」
隠すことなく「利益目的だった」と告げるコロに、男はついに声を出して笑った。
「……はははっ!ちゃっかりしてるなお嬢ちゃんは。……ああ、でも。君みたいな人に拾ってもらえてよかったよ」
男の身体が、足元からふわりと淡い光の粒子になり始めていた。
未練という重りが外れ、世界からこぼれ落ちていたログが、本来還るべき場所へと収束していく。
「お嬢ちゃん……そのハサミ、頼んだよ。私の代わりに、たくさんの薬草を……」
「任せて。腕には自信があるんだ」
コロが短く答えた瞬間、男の姿は完全に光の粒子となり、秋の森の木漏れ日の中へと溶けて消えた。
後には、オオミズチの死骸と、コロの手に残された一本のハサミ、そして、男が最後に見えた微笑みの余韻だけが残った。
※ ※ ※
その日の夜。
焚き火のそばでウルの毛並みに寄りかかって眠りについたコロは、白く柔らかな光に包まれた精神の海の中で、女神と向き合っていた。
「おかえりなさい、私の愛おしい子」
「女神様、ただいま。今日はね――」
いつも通り、女神に背中から抱きかかえられるように腰を下ろし、今日一日の出来事を順序立てて説明していくコロ。
「――というわけで、森に迷子になっていた例の幽霊、送っておいたよ」
「あら、お疲れ様。また一つ、輝く粒が私の元へ戻ってきたのね」
女神は慈愛に満ちた声で優しく微笑んだ。
「どの子だったかしら……ああ、もう無数の光に混ざっちゃって分からないわ。でも、みんな等しく私のかわいい、愛おしい光だわ」
「……」
コロは小さく息を吐いた。
女神にとって、人類の魂など無数にある星の砂の一粒に過ぎない。
どんな人生を歩み、どんな絶望を抱えて死んだとしても、神の圧倒的な愛の前では個人の物語などすべて均等に溶け合ってしまう。
「女神様にとっては『区別のつかない一粒』でも、あのお兄さんにとっては、それが人生の全部だったんだね……」
「ええ、そうね。だからこそ、その小さな『全部』を、私がこうして温かく抱きしめてあげているの。ねえコロ、彼、最後に何か言っていた?」
悪びれもせず、残酷なほどの広大な愛を語る女神の問いに、コロは氷藍色の瞳を細めた。
「……いや、別に。ただね、微笑んでいたよ」
「善い行いをしたのね」
「結果的に、ね」
「ふふ、そういうことにしておきます」
女神の光に背中を撫でられながら、コロは静かな眠りへと深く沈んでいった。
※ ※ ※
翌朝。
街道沿いの小川のほとりで、シュリ、シュリという規則的な音が響いていた。
コロは川の水を使いながら、使い込んだ砥石でハサミの刃を丁寧に研いでいた。
蛇の胃液で曇っていた刃の表面を粗砥で削り落とし、仕上げ砥で鋭く研ぎ澄ませていく。
男の指の形に馴染んだ持ち手の角度を確かめながら、コロは呟いた。
「……やっぱり、かなり使い込んでる。良い筋だったんだね、あのお兄さん」
夕陽ではなく、朝日を鋭く反射するまでに磨き上げられたその刃は、もはや「死者の遺品」ではなく、今日から世界を切り開くための「生きた道具」へと変貌を遂げていた。
同じ頃、ルミナスの街へと続く街道では、巡回中の兵士たちが首を傾げていた。
「そういえば、ここ数日あの『男の声』とやらがパッタリと止んだな」
「ああ。きっと、噂好きの連中が飽きて、別の噂話を始めたんだろうさ」
彼らの取るに足らない会話など知る由もなく。
コロは新しい仕事道具を革袋に収めると、ウルと共に、秋の澄んだ空の下を淡々と歩き出した。
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