胃袋の中の遺言と、名もなき帰還 1 〜兵士の徒労と、実体のない迷子〜
1.
「さあさあ!今朝上がったばかりの新鮮な川魚だよ!そこの銀髪のお嬢ちゃん、お供の立派な飼い狼に一匹どうだい!」
「こっちは南方のスパイスだ!干し肉の臭み消しにはこれが一番だぞ!」
とある商業都市の朝。
石畳の広場に所狭しと並べられた露店からは、商人たちの威勢のいい怒号のような声が飛び交い、行き交う人々の熱気と、むせ返るような香辛料や獣脂の匂いが入り混じっている。
コロは無表情のまま、人混みを縫うようにして的確に歩を進め、この街へ来てからの行きつけとなっている精肉屋の前に立ち止まった。
「おや、お嬢ちゃん。今日も仕入れかい?」
「うん。今回はちょっとお金に余裕があるからね、ウルのために血抜き前の家畜肉を少し多めにほしいの。それと、日持ちする干し肉と、塩をひと袋ね」
コロが革袋から銀貨を取り出してカウンターに置くと、恰幅の良い店主は「毎度あり!」と顔をほころばせ、手際よく肉を油紙に包み始めた。
「偉いんだねぇ。儲けた分をその子のために使ってあげるなんてさ!」
「えへへ、大切な家族だからね」
「よし!今日もオマケしといたよ!」
健気な様子のコロの瞳を見つめながら、主人は油紙のうえに鎮座する肉の塊の上に、仕上げと言わんばかりにドスンと肉の塊を乗せてみせた。
そんな様子を見たコロが照れくさそうにはにかんでみせる。
「ありがとう!」
「良いってことよ!また来なよ!」
コロの細腕には少々重たい包みを受け取り、そのままペコっと頭を下げた。
『フン。「えへへ」か』
「何か言いたそうだね。最初に勘違いしてきたのはあのオジサンの方だよ?」
『まだ何も言ってない。まぁ、それでオマケを寄こすのだからな』
コロの足元で、周囲の人間の足を踏まないように器用に歩いていたウルが、油紙から漂う濃厚な血と肉の匂いに鼻先をピクピクと動かしながら口を動かしていた。
『それにしても人類というものは、集まると騒がしいな』
「そうだね。でも、生きている以上、器を維持するための経費は常に発生し続けるからね。残念ながら足繁く通うしかないんだ」
コロは受け取ったずっしりと重い肉の包みを背嚢に押し込みながら、淡々と答えた。
そうやって日々の計算を頭の中で弾きながら、ふと、コロの視線が広場の片隅にある共同井戸の周りに向いた。
そこには、水を汲む手を止めた数人の女たちや、暇を持て余した荷運びの男たちが集まり、何やら声を潜めて、しかしどこか熱を帯びた様子で話し込んでいる。
「ねえ、聞いた?また東の街道で、例の騒ぎがあったらしいわよ」
「ああ、聞いた聞いた!あの『困り果てたような、若い男の声がする』ってやつだろう?なんでもさ、声のした茂みを探しても誰もいなくて、足跡一つ残ってないって話じゃないか!」
「いやぁ、気味が悪いわねぇ……。昔、あの街道沿いで行き倒れた行商人の呪いなんじゃないかって、専らの噂よ」
「領主様も馬鹿だよなぁ。そんな幽霊話のために、昨日もわざわざ救急隊や自警団を派遣したらしいぜ。結局、一晩中探し回って空振りに終わったらしいがね」
彼らの声は潜められているようでいて、その実、誰かに聞かせたくてたまらないといった特有の響きを持っていた。
恐怖を語りながらも、その目には退屈な日常を打ち破る「刺激」に対する暗い歓喜の色が浮かんでいる。
『……おい、コロ。あそこの人類共が何やら面倒そうな話をしているぞ。街道に幽霊だの、呪いだのと言っているが……』
ウルの鋭い聴覚は、人間のひそひそ話など容易く拾い上げてしまう。
面倒事を極度に嫌う銀狼は、露骨にマズルを顰めてコロを見上げた。
しかし、コロは興味なさげに背嚢の紐を締め直し、井戸端会議の集団から視線を切った。
「人類は常に刺激を求めているからね。きっと大した話じゃないよ、ウル」
『大した話じゃないだと?実際に自警団が空振りしているらしいではないか。ただの噂にしては手が込んでいる』
「だからこそ、だよ」
コロは歩き出しながら、どこか冷めた、観測者としての声音で紡ぐ。
「人類の中でも人間族や獣人族あたりはさ、私たちとは違って、死ぬまでの制限時間が圧倒的に短い生き物だ。放っておいても数十年であっという間に老いて、あっという間に死んでいっちゃう」
『まぁ、だな』
「だからこそ、彼らの頭は『退屈』という名の平熱状態に耐えられないようにできているんだよ。退屈は、彼らにとって死を待つだけの空白の時間と同義だからね」
コロの氷藍色の瞳は、広場で笑い、怒り、噂話に興じる短命な種族たちを、水槽の中の魚を眺めるように見つめていた。
「だから彼らは、何もない暗がりに幽霊という名のスパイスを振りかけて、恐怖という名の刺激を摂取するんだ。そうやって心がざわめいている間だけは、自分が確かに生きているって実感できる。……非効率で、無駄なエネルギーの消費だけど、彼らの精神を保つためには必要な『空騒ぎ』なんだよ」
『……相変わらず、お前の人類に対する評価は可愛げがないな』
「もっと見た目相応の可愛らしいことを言ったほうがいい?」
『いや、それで構わん。実害がないなら、無視して薬草採取に向かうだけだ』
ウルはつまらなそうに鼻を鳴らすと、しなやかな足取りでコロの先を歩き始めた。
巨大な城門を抜け、東の街道へと足を踏み入れると、先ほどまでの暴力的なまでの喧騒が嘘のように静まり返った。
秋の冷たい風が吹き抜け、街道沿いの木々がザワザワと葉擦れの音を立てる。
荷馬車が行き交うために踏み固められた土の道は歩きやすいが、それでも物理的な肉体を持つ以上、一歩を進めるのには相応のエネルギーと労力がかかる。
コロは黙々と、頭の中で本日の採取ルートと予想される利益の計算式を組み上げながら歩き続けた。
街を出てから一時間ほど歩き、周囲に人里の気配が完全に消え、両脇を鬱蒼とした森に挟まれた見通しの悪い区間へと差し掛かった時のことだ。
ガチャン、ガチャン、と。
前方から、硬い金属同士がぶつかり合う重たい足音が近づいてきた。
『……コロ。前方から三人。武装しているな』
ウルの低い唸り声と同時に、道の先のカーブから姿を現したのは、街の紋章が刻まれた鉄の鎧を纏った三人の兵士たちだった。
彼らの姿は、およそ街の治安を守る威風堂々としたものとは程遠かった。
兜の下から覗く顔は疲労困憊で土気色になり、目の下にはくっきりと隈が刻まれている。足取りは重く、手に持った槍は杖代わりのようにだらりと下がっていた。
そして、すれ違いざまに漂ってきたのは、徹夜で森を彷徨い歩いたことを雄弁に物語る、濃密な汗と泥、そして「徒労感」の匂いだった。
コロは面倒事を避けるため、道の端に寄って目を伏せ、やり過ごそうとした。
しかし、一番前を歩いていた小隊長らしき年配の兵士が、コロと立派な銀狼の姿に気づき、重い足を引きずるようにして近寄ってきた。
「なあ、そこのお嬢ちゃん。……少し、尋ねたいことがあるんだが」
ひどく掠れた、乾いた声だった。
コロは内心で小さくため息をつきながら、無表情のまま顔を上げた。
「何でしょうか」
「この先の街道で……困り果てたような、若い男の声を聞かなかったか?あるいは、茂みの中でうずくまっているような男の姿を見なかったか?」
兵士の問いかけは、街の井戸端で女たちが面白半分に語っていた噂話そのものだった。
しかし、彼らの目には微塵の面白さもない。
あるのはただ、見えない幻影を追いかけさせられ、税金という名のリソースを無駄に消費させられている末端の労働者としての絶望的な疲労だけだった。
「……いいえ。私とこの狼は今、街を出てまっすぐここを歩いてきたばかりですが、すれ違ったのはあなた方だけです。声も、姿も見ていません」
コロは事実だけを短く、淡々と告げた。
気を利かせたのか、ウルも小さく『ワン!』と答えてみせた。
ここで余計な推測や噂話を口にしても、彼らの疲労を長引かせ、自分の時間を奪われるだけで、誰の利益にもならない。
「そうか……。いや、引き止めて悪かったな」
「いえ。街でみんなが噂している例のアレですか?」
「ああ、そのアレだ。最近、この辺りでタチの悪い悪戯か、迷子か分からんが、通報が相次いでいてな……。俺たちも昨日の夜からずっと探し回っているんだが……影も形も見当たらんのだ」
兵士は恨めしそうに鬱蒼とした森の奥を睨みつけると、深い深いため息を吐いた。
「気をつけて行けよ?日が暮れると冷え込むし、何より……この辺りは、どうも空気が淀んでいて気持ちが悪い」
「忠告、ありがとうございます。お仕事、お疲れ様です」
コロが短く頭を下げると、兵士たちは重たい金属音を引きずりながら、再び街の方へと歩き去っていった。
彼らの背中がカーブの向こうに見えなくなり、金属音が完全に秋の風の音に掻き消されるまで、一人と一匹はその場に立ち止まっていた。
『……やれやれ。あいつら、無駄な労働で寿命をすり減らしているな』
「人間社会っていうのは、ああいう『実体のない妄念』の処理に一番リソースを喰われるものだからね。彼らも可哀想に。それにしてもウル、ふふっ……『ワン!』って」
『き、気を利かせたまでだ……!』
ウルはマズルを顰め、コロは肩をすくめて、一人と一匹は再び歩き出そうと前を向いた。
――カサリ。
風の音ではない。
落ち葉が擦れるような微かな音が、コロのすぐ数メートル先の「空間」から響いた。
コロは足を止め、氷藍色の瞳を細める。
ウルもまた、喉の奥で極めて低い唸り声を鳴らし、毛を逆立てた。
さっきまで、そこには誰もいなかった。
兵士たちとすれ違った一本道。身を隠すような場所はない。
だが、そこには『一人の若い男』が立っていた。
質素だが仕立ての良い、丈夫そうな麻の服。
腰にはいくつかの空の革袋と、使い込まれた空の鞘を下げている。
年は二十代半ばといったところだろうか。
男は、どこか困り果てたような、ひどく心細そうな顔をして、コロたちを見つめていた。
「おお!これは強そうな従魔を……!すみません、お嬢さん!少し、助けてもらえませんか!?」
足音もなく現れたその男は、兵士たちが探していた「声」の主そのものだった。
しかし、彼は透き通ってなどいない。
しっかりとそこに物理的な輪郭を持って存在している。
だが、ウルの嗅覚は、その男から『生き物の匂い』を一切感じ取っていなかった。
汗の匂いも、血の匂いも、泥の匂いもない。
そこにあるのは、圧倒的なまでの「無」の匂い。
コロはその圧倒的な違和感を前にしても、表情を一切崩さなかった。
ただ、男の腰に下げられた道具袋の使い込み具合と、その立ち振る舞いから、何かを考えているようだ。
「助けて、って?」
「ええ!……実はこの先の森の奥で、見慣れない巨大な蛇の魔物に遭遇してしまいまして……!」
「ふぅん、巨大な蛇」
「逃げるのに必死で、大事な『仕事道具』を落としてきてしまったんです!私みたいな者の依頼で申し訳ないんですが、どうか、その魔物を退治して、道具を取り返してはくれないでしょうか!?」
男の悲痛な訴えを最後まで聞く前に、コロは食い気味に、そして一切の躊躇なく頷いた。
「いいよ、やろう」
その即答に、男はポカンと口を開け、ウルは『お、おい……』と言いかけ、途中から呆れたように鼻を鳴らした。
コロの頭の中では既に、巨大な蛇の魔物がもたらすであろう素材の価値と、目の前に立つ『幻影』が落としたという仕事道具の価値の、完璧な検収作業が始まっているようだ。
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