蜻蛉の羽と、未来の残滓 3 〜未来への片道切符と、たまに会う姪っ子〜
3.
西の空にわずかに残っていた夜の気配が、東から差し込む鋭い陽光に焼き払われる。
商業都市ルミナスの朝は、人々の生存本能を叩き起こすような暴力的なまでの活気に満ちていた。
「――よし!大当たりした資金で、お嬢さんの見立てた『未来で化けそうな薬草』を買い占めたぞ!」
薬草ギルドから出てきた伯爵は、ホクホク顔で巨大なトランクをバン!と威勢よく叩いた。
革張りのトランクからは、昨晩見たような古びた匂いだけでなく、どこかの工房で丹念に磨き上げられたばかりの魔法触媒や、上質な絹織物、果てはこの時代の貴族が好む希少な古美術品が放つ「新しい」匂いが混ざり合って漂っている。
「……薬草以外の分野は、もう準備万端みたいだね。朝一番で随分とあちこち回ってきたみたいだけど」
コロが呆れたようにそう言うと、伯爵はシルクハットの端を摘まんで不敵に笑った。
「もちろんだとも!薬草は専門家であるお嬢さんに任せるのが一番だが、他の出土品や工芸品については私の目利きが火を吹くからね!この時代の街で安く仕入れ、百年後の成金や好事家に高く売りつける。そして浮いた端金は、すべて『不変』の価値に換える……それが私の旅の流儀であーる!」
伯爵は、重厚なベルベットのコートのポケットを叩いてみせた。
トランクに入り切らなかった金貨の山は、既に純度の高い『魔結晶』へと換金済みだ。
両手で抱えきれないほどの金貨が、ポケットの中に収まる数粒の輝く結晶に変わっている。
時代が移ろい、通貨が紙切れやただのゴミになろうとも、魔結晶だけは変わらずに高い価値を保ち続ける。
それが嘗てのコロにも伝えた、伯爵の処世術というやつだ。
「これで次の百年も安泰だね。買いそびれとかはない?」
「ハッハッハ!余念はないよ!私の勘が、これらは未来で必ず『伝説』になると囁いているのだ!」
自信満々に胸を張る伯爵を、ウルはマズルを顰めて見つめた。
その嗅覚は、伯爵のトランクから漂う、この時代のものではない「不純な時間の匂い」を敏感に察知しているのかもしれない。
『とんだ博打好きだな。いかにも博打が好きそうな奴が吐きそうなセリフだ』
「むむっ!博打だなんて人聞きが悪い!博打好きが言いそうではない、私が言いそうなことを、世の博打好きが真似て言っているだけであーる!」
「ほらほら、それよりも。あとは市場に出回っていない自生種の薬草をいくつか直接採取して、トランクに詰めれば『仕込み』は完了だね」
「うむ!では、早速向かうとしようか!」
コロの案内に従い、一人と一匹、そして一人の時代錯誤な男は、都市の喧騒を背にして険しい郊外の山道へと足を踏み出した。
木漏れ日がわずかに差し込むだけの薄暗い原生林。
むせ返るような苔と朽ち葉の匂いが鼻を突く。
獣道を掻き分け、急勾配の道なき斜面を登っていく。
昨晩、通り雨でも降ったのか、足元はひどくぬかるんでおり、一歩踏み出すたびに靴底が泥に吸い付かれ、重たい音を立てた。
コロのブーツもウルの銀色の毛並みも、すっかり泥だらけになってしまっている。
物理的な肉体を持つ以上、一歩を進めるのには相応のエネルギーと労力がかかる。
それが「今」を生きるという事だ。
だが、伯爵だけは違った。
――リリリ……
背中の蜻蛉の羽が微かに震えるたび、彼の身体から重力が抜け落ちたように、フワリ、フワリと泥濘を飛び越えていく。
薄暗い森の中で、木漏れ日を反射して七色に薄光するその足取りはあまりにも軽く、まるで世界に定着していない幻影のようだった。
鬱蒼と生い茂る木々の合間。
ひときわ大きくそびえ立つ湿った黒岩の前に立ち止まると、コロは分厚い手袋を外し、指先で岩肌を撫でた。
「あったあった……ここだよ。この岩陰に生えてる『白糸の苔』。これもこの先、確実に数が減ると思う」
「ふむ。随分と地味な苔だ」
伯爵が目を凝らすと、そこには名も無き雑草に混じって、まるで古い絹糸を薄く引き伸ばしたような繊細な白い繊維が、岩肌にへばりつくように生息していた。
「百年前は割と見かけたんだけどね。最近じゃ殆ど見かけなくなっているんだ」
「よし、それでは頼むぞ!お嬢さん!」
「はいはい。じゃあ瓶を貸して」
「うむ!」
コロは受け取った小瓶の口を岩肌に当て、専用の小さなナイフで苔を根元から丁寧に削ぎ落としていく。
「さて、お嬢さんの見立てだと何倍になるかな?」
「そうだね……あちこちで見かけた時代でも割と高値だったからね。きっと百年後にはあっと驚く価値に跳ね上がっているんじゃないかな」
「それは楽しみだ!」
『とかなんとか言って、価値が上がらなかった薬草ばかりだったではないか』
「子犬の坊や、君には「ロマン」という概念はないのかね!?」
『ロマンで腹は膨れんからな』
「よし、それでは百年後に価値が暴騰していたら、坊やに上等な肉でも買ってやろう!それがロマンというものであーる!」
『よし、その言葉、忘れるなよ?』
「はははっ!忘れないさ!君たちとは違って、私にとっては数日前の約束なのだからな!」
そんな会話のやり取りを受け流しつつ、コロは微かな土の匂いと共に、白く細い繊維が目立つ苔を、ガラス瓶の中にふんわりと収めていった。
数時間後。
木々が開け、視界が一気にひらけた断崖絶壁の頂上で、コロは吹き荒れる強風に銀髪を煽られながら、身を乗り出すようにして岩肌に張り付く花を採取していた。
荒涼とした灰色の岩場に、たった一輪だけ咲く瑠璃色の花。
岩の裂け目にしがみつくように根を張り、冷たい風の中で凛と首をもたげている。
眼下には広大な雲海が広がり、遠くの山脈が秋の澄んだ空に美しく稜線を描いている。
鳥すらも寄り付かない高高度。空の青と雲の白しか存在しない、目が眩むような静寂の世界だった。
「おお……素晴らしい絶景だ。そして、見事な花だ」
伯爵は丁寧に採取された花が詰められた小瓶をトランクに収めると、ふう、と息をついて崖の縁に立った。
吹き抜ける強い風が、彼の古いベルベットのコートと、透明な羽をバタバタと揺らす。
「……しかし、お嬢さんたちとこうして泥を跳ね上げて歩くのは、実に贅沢な時間だったよ」
遠くの雲海を見つめたまま、伯爵がぽつりと呟いた。
いつもの芝居がかった大声ではなく、静かで、ひどく凪いだ声だった。
「贅沢?」
「ああ、贅沢。……私の背に生えたこの羽はね、蜻蛉の羽だ。前にしか進めない『片道切符』の象徴。私はね、過去を振り返ることも、同じ時間にとどまることもできないんだ」
伯爵は自嘲気味に笑い、銀細工のステッキで足元の小石をコツンと弾いた。
弾かれた小石はカランカランと控えめな音を立てながら、崖を転がり降りていく。
そんな小石の行く末を眺めながら、伯爵は苦笑いを顔に貼り付けつつ、言葉を継いだ。
「時間を跳躍するたび、自分を縛り付けていた記憶や執着が、少しずつ削ぎ落とされていく。自分が何年前に生まれたのか、故郷はどこだったのか……もう、自分でも上手く思い出せんときがある。私は時を渡るたびに、どんどん身軽になっていく」
それは、途方もない時間をたった一人で旅する者の、究極の孤独だった。
彼が時を跳躍し、着地した未来では、昨日まで語り合った友も、馴染みの街並みも、とうの昔に土の下で灰になっている。
国が変わり、街道が変わり、町の名が変わり。
『身軽』という名の、呪いのような喪失。
「正しく老いることもできず、ただ前へ前へと飛ばされる私は、これから一体どこへ向かうのだろうな……」
その消え入りそうな背中を見つめながら、ウルは静かに伏せ、コロは無表情のまま、風に乱れた銀髪を指で梳いた。
「……計算できない未来の心配なんて、しても無駄だよ、伯爵」
「む?その心は?」
「私たちは私たちでね、勝手にこの不便な器で『今』を歩き続ける。伯爵がどの時代に跳躍しようと、どうせまたひょっこり現れて、馬鹿みたいな答え合わせをしてワクワクするんでしょ」
コロの氷藍色の瞳が、伯爵を真っ直ぐに射抜く。
「……正しく老いない同士、またどこかで会おうよ」
それは、感情を排して世界を観測するコロが、伯爵という『奇妙な悪友』にだけ向けた、最大級の肯定であり、温かい約束だった。
常に陽気な仮面を被っていた伯爵の目が、初めてわずかに潤んだように見えた。
彼はシルクハットを目深に被り直し、一度だけ大きく深呼吸をする。
そして、顔を上げた時には、いつもの底抜けに明るい「サンオセール伯爵」の顔に戻っていた。
「ハッハッハ!違いない!私には人一倍鋭い勘があるからな!君たちがどこを歩いていようと、必ず見つけ出してみせるさ!」
伯爵はステッキを片手に持ち、もう片方の手をウルに向けて差し出した。
「子犬の坊や――いや。誇り高き『銀狼』の彼、だな」
急に改まったその呼び方に、ウルは驚いたように金色の瞳を見開く。
『お、おう。急にどうした?』
「はははっ!私のかけがえのない友を、頼んだぞ。しっかり守ってくれたまえ。報酬は血抜き前の上等な家畜肉だ!百年後が大戦争の最中でなければ、な!」
『……ふん。言われるまでもない』
ウルはマズルにシワを寄せながらも、確かな敬意を込めて、低く、力強く喉を鳴らした。
その返事を聞いて満足げに頷くと、伯爵の背中の蜻蛉の羽が『リリリリリ!』と、これまでで一番激しい音を立てて震え始めた。
彼の足元から、眩い虹色の光の粒子が立ち昇っていく。
「それではまた百年後!まあ、私にとっては数日後だが、とにかく!それではな、諸君!」
トン、と。 崖の上の岩肌をステッキで力強く叩く。
「じゃあまたね、伯爵」
『お前の方こそ野垂れ死にするなよ』
「うむ!未来で待っているぞ!」
その言葉を最後に、光が弾けた。
強い風が吹き抜け、光の粒子は雲海の彼方へと吸い込まれるように消え去っていく。
後に残されたのは、静まり返った絶景の断崖と、伯爵が鑑定料として置いていった数粒の魔結晶だけ。
『……全く。最後まで騒がしい奴だったな』
ウルが呆れたように鼻を鳴らすが、その声には不思議と穏やかな響きがあった。
「はは、そうだね。でも……悪くない経費稼ぎだったよ」
魔結晶を拾い上げたコロは、手のひらに残る魔結晶の確かな温もりをギュッと握りしめ、革袋へと収めた。
振り返ることも、立ち止まることもできない時間旅行者は、未来へと旅立った。
ならば自分たちは、この重たくて不自由な泥だらけの靴で、一歩ずつ「今」を歩いていくだけだ。
一人と一匹は並んで踵を返し、再び眼下に広がる広大な世界へと歩み出した。
※ ※ ※
その日の夜。
どこかの街へ向かう道中で野営の準備を終え、ウルの温かい毛並みに背中を預けて微睡んでいたコロの意識は、ふと、白く柔らかな光に包まれた精神の海へと沈んでいった。
「おかえりなさい。私の愛おしい子」
「女神様、ただいま」
「――ふふ。今日はとても楽しそうだったわね、コロ」
どこからともなく響く、慈愛に満ちた心地よい声。
コロに人間の器を与えた存在――女神の声だった。
「……楽しそう。うん、そうだね。私は楽しかった……かな」
コロは女神に包まれながら膝を抱え、素っ気なく答えた。
だが、その声色はいつになく穏やかで、棘がない。
「うん、そう。私みたいな、正しく歳を取らない旅人にとって……『友達』なんて作っても、あんまり意味がない。人類はあっという間に歳をとって、あっという間に死んでいっちゃうから。それに、百年ぶりに会った小娘が小娘のままだと、『恐怖』や『底知れなさ』ばかりが目立って、再会の喜びは分かち合えない」
「ええ。そうね」
「喜ぶのは、そういう『恐怖』よりなにより、お金を愛する気持ちが強い、強かな人類。まぁ……そういう人は嫌いじゃないし、接しやすいけどさ……」
小さく肩をすくめ、軽く振り返って女神の目を見つめて苦笑いを浮かべたコロ。
女神も悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「でも、サンオセール伯爵だけは例外。……あの人の抱える、どうしようもない『異常さ』にね、なんだか心からホッとするんだ」
自分は、人間の器を被った元・魔物。
相手は、百年単位で過去を切り捨てながら未来へ進むことしかできない時間旅行者。
どちらも、正しく時を重ねる人間社会から見れば、致命的に枠から外れた異常者だ。
「伯爵にとってもね、跳躍した次の時代に知り合いが一人もいない中で、私たちがいることは悪くないみたい。時間跳躍の孤独を少しだけ忘れさせてくれる、友達。いや、たまに会う姪っ子……みたいなものかな」
「ええ。あなたたちは、お互いにとって掛け替えのない存在になっているわ」
「……それにしても、最初に会った時の彼は傑作だったよ。伯爵が薬草店の店主にさ『百年後に価値が上がるものを教えろ』なんて無茶を言って困らせててね」
「ふふ、そうだったわね。見かねたあなたが助け舟を出したのよね」
「埒が明かなそうだったしね。そう。で、別れ際に『じゃあ百年後はこの界隈にいるから、会えたら答え合わせしよう』って言ったら、あの人、すごく嬉しそうな顔をしたんだよね。お互い、普通の生き方をしていないって直感した瞬間だった」
「面白くて、素敵な出会いね」
女神の優しい相槌に、コロは氷藍色の瞳を細め、フッと柔らかく微笑んだ。
「……ついこの前できた、あの上位種のお姉さんとも、いつか伯爵みたいに『そういう関係性』になれたらいいな、なんて思うよ」
「そうね。あの子も遥か悠久の時を生きるわ。きっと伯爵みたいに素敵な関係になれる」
ふわりと、光が形を持ったような温かい手が、コロの小さな背中を優しくトントン、と叩いた。
「あなたとウルの旅路に、良いご縁が結ばれ続けることを祈っているわ――」
背中から伝わる心地よいリズムと温もりに安心しきったように、コロの意識は、深く、静かな眠りへと溶けていった。
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