蜻蛉の羽と、未来の残滓 1 〜宵の喧騒と、時代錯誤な来訪者〜
1.
西の空が燃えるような茜色に染まり、やがて深い群青へと沈みゆく黄昏時。
石畳の街道が碁盤の目のように交差し、行き交う人々の熱気と馬車の轍の音が絶えない、活気あふれる商業都市ルミナス。
重厚な石造りの建築物が影を長く伸ばし、街路樹の葉が夕風に揺れてサラサラと乾いた音を立てる。
荷下ろしを終えた商人たちの威勢の良い怒号、蹄鉄が石畳を叩くリズミカルな音、そして香辛料と油の焦げる匂いが入り混じり、街全体が今日という一日の終わりを惜しむような熱を帯びていた。
どこからか聞こえてくる吟遊詩人の軽快なリュートの音色が、夕暮れの喧騒に華やかな彩りを添えている。
そんな目抜き通りに面した、一際豪奢な構えを持つ薬草ギルドの重厚な扉が、ギィッと音を立てて開いた。
「――ありがとうございました。また希少な品がございましたら、是非とも我がギルドへ!」
初老のギルド長自らが揉み手をして見送る中、店から出てきたのは、旅装に身を包んだ銀髪の少女と、その後ろを悠然と歩く巨大な黒雷の銀狼だった。
ウルの四肢が動くたび、頭から生えた立派な二本の角からチリチリと微かな黒雷が火花を散らす。
荷車を引く屈強な労働者も、着飾った貴族の護衛剣士でさえも、その魔物としての圧倒的な『格』の違いを本能で悟り、息を呑んでさっと道を開けた。
まるでモーセの海割りのように、混雑した大通りに一人と一匹のためだけの真っ直ぐな道が作られていく。
しかし、一人と一匹はそんな視線など気にも留めず、人波を縫うようにして通りへと歩み出た。
「ふふっ……」
珍しく機嫌が良さそうに歩いていたコロは、手にした革袋を軽く放り投げてキャッチした。
チャリン、という心地よい金属音が、夕暮れの喧騒の中で微かに響く。
滑らかな上質なめし革で作られた袋は、はち切れんばかりに膨らんでいる。
手のひらにズシリと伝わるのは、ただの重さではない。
純度の高いアルド金貨が擦れ合う硬質で冷たい感触と、それがもたらす確かな『余裕』の重みだ。
その豊かな響きに、コロの瞳が満足げに細められる。
『随分とご機嫌だな、コロ』
「うん。昨日あの岩山で当たりをつけて採取してきた『星砕きの苔』、想定していた相場よりもずっと高く買い取ってくれたよ」
『あんな苔が無数の金貨に化けるとはな』
「だね。どうやらこの街の貴族たちの間で、特定の魔法薬の需要が急騰してるらしいね」
『あの店の人類共、お前にヘコヘコしていたぞ』
「ふふ、まさに需要と供給の完璧な一致、最高の効率ってやつだね」
コロは珍しく得意げに唇の端を上げ、ずっしりと重い革袋をポンポンと叩いてから、斜めがけのカバンの中へ手際よく収めた。
『なるほど。それは重畳だ。……で、今日はまたあの小綺麗な宿に泊まるとして、明日からはどうするつもりだ?』
「うーん……そうだね。でも、明日のことを考える前に、まずはもっと切実な問題があるんだよ」
『切実な問題?』
深刻そうなコロの言葉に、ウルはピタッと立ち止まってしまう。
「……今日の晩御飯をどうするか、だよ」
コロは肩を竦め、ペロッと舌を出した。
再び歩き出したウルの口からは、大きなため息がこぼれ落ちる。
「そんなため息をつかないでよ。ほら、こんなに早く帰ってこられてさ、高値で取引が終わると思ってなかったから。宿のおかみさんに『今日は帰りが遅くなるかもしれないから、晩御飯はいらない』って言っちゃってるんだよね」
『なんだと……?それは由々しき事態だな』
ウルの金色の瞳が、途端に真剣な色を帯びる。
どうやらウルにとって、食事は何よりも優先されるべき死活問題のようだ。
「ははは、そんなに絶望した顔しないでよ。お金はたっぷりあるんだから、どこかで食べて帰ればいいだけでしょ」
コロがウルの首元をポンポンと撫でると、彼はフンと鼻を鳴らした。
街の各所に設置された青白い魔力灯が次々と瞬き始め、ルミナスは昼間とは違う、艶やかで猥雑な夜の顔を見せ始める。
通りの奥からは、香ばしく焼けた肉の脂の匂いや、甘く煮詰めた果実酒の芳醇な香りが夜風に乗って漂ってきていた。
その強烈な匂いに釣られるようにウルの鼻先がピクピクと動き、一人と一匹は胃袋を刺激する夜の街へと吸い込まれるように消えていった。
すっかり日が落ち、夜の闇が街を包み込んだ頃。
ルミナスの中心にある広場では、巨大な大理石の噴水がライトアップされ、青白い魔力灯の光が揺れる水面に乱反射し、細かな飛沫が夜風に乗って心地よく頬を撫でていく。
昼間の刺すような喧騒は遠のき、代わりにどこかの酒場から漏れ聞こえる陽気なリュートの音色とグラスの触れ合う音が、くぐもったBGMのように広場を満たしていた。
その噴水の縁に腰掛け、一人と一匹は適当な屋台で買い込んだ夕食を広げていた。
香辛料をたっぷりとまぶした分厚い獣肉の串焼き、とろけるようなチーズを挟んだ焼きパン、そして甘酸っぱい果実の果汁を絞った冷たい飲み物。
粗く挽かれた黒胡椒とニンニクの強烈な香りが鼻腔をくすぐり、温かい肉汁が包み紙から今にも滴り落ちそうになる。
気取ったレストランの洗練された料理にはない、炭火で乱暴に焼き上げられただけの暴力的な匂いが、一人と一匹の食欲を否応なしに刺激していた。
『……全く。あの店の親父、次に行ったら絶対にふくらはぎに噛みついてやる』
ウルは、自分の顔の半分ほどもある巨大な肉串を器用に前足で押さえながら、ブツブツと文句を垂れていた。
彼の機嫌が斜めな理由は、どうやら夕食のメニューのせいではないようだ。
「はいはい、そう怒らないの。あのお店、すごくいい匂いがしてたけど、『混んでいる時間帯は従魔はお断り』って入り口にデカデカと書いてあったからね」
『田舎の飯屋なら、俺が入ろうと全く気にせず肉を出してきたというのに。都会というのはこれだから面倒だ。俺をその辺の躾のなっていない犬っころと一緒にされては不愉快極まりない』
「ここルミナスは大きな都会だからね。魔物や従魔に慣れてない人類も多いし、お店の回転率を考えたら、あれは正しい判断だよ。仕方ないって」
『仕方なくない!俺は納得がいかんぞ!』
ガルル、と喉の奥で不満げに唸りながら、ウルは串焼きの肉を引きちぎるように噛み千切った。
ブチブチと太い筋を断ち切り、太い骨ごと砕かんばかりの豪快な咀嚼音。
口では不満を並べ立てていながらも、その立派な尻尾の先が、肉の旨味に釣られて微かにパタパタと揺れてしまっている。
そして口のまわりをペロリと舐める仕草を見て、コロはクスッと声を立てて笑う。
「ははは、でも、屋台のお肉だって十分美味しいじゃない。それに、私は気取ったお店で畏まって食べるより、こうやって外で夜風に当たりながら、気楽に食べられる方が好きだよ」
『……まぁ、俺だってそうだ。肉の味自体は悪くないからな。ただだな、俺が怒っているのは、ヤツらの――』
「はいはい、人類に対してそんなプリプリ怒らないでよ。せっかくのお肉が不味くなっちゃうよ?」
『プ、プリプリなどしていない!俺はただ、誇り高き上位種としての尊厳を――』
「ふふ、あーほら、タレが口元についてるよ……ほら」
コロは苦笑しながら身を乗り出し、懐から取り出した布で、ウルのマズルにべっとりとついた甘辛いタレをゴシゴシと拭き取ってやった。
『むっ……子供扱いするな。自分で拭ける』
「はいはい、綺麗になったよ」
ウルの文句もどこ吹く風で、コロは自分の串焼きにかぶりつく。
夜の広場は、恋人たちや酔っ払った商人たちで適度に賑わい、誰一人として噴水の脇で飯を食う「銀髪の少女と巨大な狼」を奇異な目で見ようとはしない。
都会特有の、この他者への無関心さが、彼らにとっては心地よかった。
すれ違う着飾った貴族も、千鳥足の商人も、皆自分たちの「今日」と「明日」のことで頭がいっぱいで、他人の領域に踏み込もうとはしない。
無数の人々の会話が溶け合った心地よいノイズの中で、二人きりで串焼きを齧るこの噴水の縁だけが、世界から切り取られた小さな安全地帯のようだった。
一通り食事を終え、果実のジュースで喉を潤したあと、コロは夜空を見上げた。
都会の明るい光に負けて星はほとんど見えないが、夜風はすっきりと澄んでいる。
「さて……お腹も膨れたし、改めて明日のことなんだけど」
『うむ。どこか目星をつけている場所はあるのか?』
「うーん、実はあんまり考えてないんだよね」
コロはジュースの木の杯を揺らしながら、のんびりとした声で答えた。
「この街の周辺で高く売れそうな素材はあらかた採り尽くしちゃったし。とりあえず、明日の朝の乗合馬車次第って感じかな。一番早く出発する便に乗って、適当な街で降りるのも悪くないし」
『ふむ、行き先は風の吹くまま、気の向くまま、か』
「そういうこと。どこか行きたいところがあるなら話は別だけど、ウルはどう?」
『フン。行きたいところなどある訳ないだろう。俺はどこでもいい。お前が効率的だと判断した道を行くまでだ』
そんな風に、一人と一匹が静かで平熱なやり取りを交わしていた、その時だった。
「――それならば!この私が行きたいところがあーる!」
突然。
本当に何の前触れもなく、広場の喧騒を切り裂くように、ひどく陽気で芝居がかった大声が響き渡った。
「!?」
コロはピクッと眉を上げ、ウルは即座に臨戦態勢に入り、バフン!と重い尻尾で石畳を叩いて立ち上がる。
声は、噴水の裏側――街灯の光が届かない、深い暗闇の中から聞こえてきた。
コツン、コツン、と。
硬いステッキが石畳を叩くリズミカルな足音と共に、暗闇の中から一つのシルエットがぼんやりと浮かび上がる。
そして、微かに聞こえる『リリリ……』という、薄い羽を擦り合わせるような乾いた奇妙な音。
「やあやあ!奇遇、奇遇!こんな煌びやかな夜の都会で再会できるとは、運命の女神の粋な計らいというやつかな!?不思議なお嬢さんと、子犬の坊やよ!」
街灯の光の下へ、もったいぶった足取りで現れたその男。
時代錯誤も甚だしい、何百年も前の貴族が着るような豪奢なベルベットのコートを羽織り、頭には大仰なシルクハット。
そして何より、コートの背中側から突き出すように生えた、光を反射して虹色に煌めく『透明な蜻蛉の羽』。
上質なベルベットの生地は、どこかカビ臭いような、長い年月を土の中で過ごしたような古びた質感を纏っている。
だがそれ以上に目を引くのは、彼の背で小刻みに震える薄い羽だ。
ガラス細工のように脆く美しいそれは、街灯の光を浴びてステンドグラスのような極彩色の影を石畳に落としていた。
その場違いな色彩と、空気を読まない圧倒的なまでの陽気さに、コロは小さくため息をついて肩の力を抜いた。
「……誰かと思えば、サンオセール伯爵!随分と久しぶりだね」
『グルル……!!覚えているぞ!そうか、この胡散臭い人類、本当に時を渡る人類だったという訳か……!』
ウルはマズルに深いシワを寄せ、喉の奥で威嚇するように唸り声を上げた。
彼にとって、この男の匂いは記憶の底にある。
ウルがまだ幼い子犬だった頃、どこかの森でばったり遭遇し、コロに対して馴れ馴れしく接しつつも、数日間を共に行動した記憶。
だというのに、目の前に立つこの男は、その頃から全く老いておらず、寸分違わぬ姿をしているのだ。
ウルの中にある魔物の本能が「異常な存在だ」と警鐘を鳴らしていた。
埃を被った古い書物のような、あるいは何百年も開かれなかった棺のような、停滞した『時の澱み』の匂い。
生きている人間からは決してしないはずの、どうしようもなく古びた匂いだった。
男――サンオセール伯爵は、大袈裟に両手を広げ、シルクハットを胸に当てて深く一礼してみせた。
「ハッハッハ!子犬の坊や!久しぶりの再会だというのに、ずいぶんとご挨拶じゃないか! 私がテイマーとしての才も持ち合わせていることを、努々忘れぬように!」
『ぐっ……おいコロ、コイツの言っていることは本当か?』
思わずたじろいでしまったウルの言葉に、コロは肩をすくめながらも小さく頷いた。
「それはウルがよく分かっているでしょ?」
『たしかにな。随分と胡散臭いが……』
「坊やの私に対するその可愛らしい悪態は、このサンオセール伯爵の耳に、ぜーんぶ丸聞こえなのであーる!」
夜の広場に、伯爵の浮世離れした高笑いが高らかに響き渡った。
面白かったという方はブックマークや☆を頂けますと幸いです。




