狼の鼻と、神の余暇 3 〜黒革の真実と、たしかな仕事〜
3.
全ての丸太を倉庫の裏手へと運び終えた頃、カシムの港は燃えるような夕焼けに包まれていた。
ウルの銀色の毛並みからは、激しい労働による熱い蒸気が立ち上り、湿った潮風を吸ったその身体は、普段よりも一回り重々しく見えた。
けれど、二人の足取りに疲れの色はなかった。
「……はっ!驚いたぜ。見かけ倒しの従魔じゃあねえ、本物の『豪傑』だ」
親方が煤けたタオルで首を拭いながら、どかどかと歩み寄ってきた。
その瞳からは先ほどまでの嘲笑は消え失せ、自分たちと同じ場所で汗を流した労働者への、無骨な敬意が宿っている。
「ほらよ、約束の『感謝』だ。受け取りな」
差し出された革袋が、ずっしりとした重みを立ててコロの手のひらに落ちた。
中には、端金ではない、正当な労働の対価としての銀貨が詰まっている。
コロはその重みを一度確かめると、深く会釈した。
「ありがとう、おじさん」
「……それとな、嬢ちゃん。そっちは俺からの『色』だ。現場の余りだが、そいつがいなけりゃ、今頃俺たちの腰は死んでたからな」
親方が無造作に放り投げたのは、紙に包まれた歪な形の砂糖菓子だった。
コロはそれを不思議そうに眺め、一つを口に放り込む。
洗練された甘さではない。
けれど、舌を焼くような強烈な糖分が、疲れ始めた脳と身体に直接「燃料」として送り込まれるのを感じた。
「……甘い。でも、効くね」
「そして、そっちの豪傑にはこいつだ!」
親方が別の大きな包みをウルへと投げ与える。ウルはそれを空中で器用に受け止めた。
コロがそれを受け取って開けてみると、中身は、これから血抜きをするという、生暖かい新鮮な赤身肉の塊だった。
コロは小さく微笑みながらウルの前にそれを置くと、彼は誇らしげに鼻を鳴らし、その場にどっかと腰を下ろして肉に食らいつく。
『……フン。やはり、自分の筋肉で勝ち取った飯は、魂に響く味がするな』
「血と肉。……今日は、期待以上の収穫だね」
コロは隣で肉を食む相棒の背中に、そっと寄り添った。
夕闇が迫る港、飴を転がす少女と、血の滴る肉を食む狼。
周囲の荒くれ者たちは、そんな異様な、けれどどこか神聖ですらある一人と一匹の姿を、遠巻きに、しかし温かい眼差しで見守っていた。
鞄の中に増えた銀貨の重みと、胃袋を満たす熱量。
二人の影は、明日へと続く街道の先へ、長く、力強く伸びていた。
港での喧騒を離れ、二人は家路に急ぐ人々で賑わう市場の通りへと足を向けた。
コロの懐には、労働の証である銀貨の袋。
そしてウルの腹には、親方から貰った血の滴る肉。
二人の間に漂うのは、過酷な労働を終えた後の、どこか静かな充足感だった。
「……ねえ、ウル、あそこの店に寄っていこう」
コロが指差した先には、色褪せた革の看板を掲げた古びた革工房があった。
店先にて立ち止まったその時、工房の奥から、片目を眼帯で覆った白髪混じりの職人が、鋭い眼光で二人を射抜いた。
「……おい。そこの嬢ちゃんと、銀の狼」
職人の声は、古びた鞴のように低く、かすれていた。
コロが視線を向けると、職人は手元の作業台から立ち上がり、ウルの巨躯をまじまじと見つめた。
「港で丸太の山を一人で片付けたっていう『豪傑』は、そいつのことか」
「……おじさんも、その話を聞いたの?」
コロの問いかけに、職人はくしゃっと顔を歪めて笑った。
「ああ。港の連中が酒場で騒いでたぜ。馬を三頭繋いでも動かなかった大木を、一頭の狼が軽々と引きずっていったってな」
職人は鼻で笑うと、壁に掛けられた古びた、しかし驚くほど頑丈そうな黒革のハーネスを指差した。
「その『豪傑』は、縄を直接、その身体に括り付けてたなんて、随分と悲しいことを言うじゃねえか」
「うん、そうなんだよね」
「そいつは北方の山岳地帯で、雪ぞりを引く魔犬に使われていた特注品だ。今は持ち主がいねえが……見てな。その狼の肩幅なら、少し手を入れりゃあぴったりだろうよ」
コロは職人の言葉を遮らず、そのハーネスをじっと観察した。
厚手の牛皮に、補強のための鉄鋲。
裏側には、皮膚を傷めないための柔らかな山羊の毛が裏打ちされている。
これから先も同様の仕事を受けるのに必要だと考えていたのは、まさにこれだった。
「おじさん。それを譲ってくれるなら、いくらになる?」
「……新品なら金貨の出番だが、中古で傷もある。それに、港の連中の腰を救ってくれた『豪傑』へのお礼だ。銀貨三枚、三千リトで、俺がそいつの身体に合わせて一晩で調整してやるが、どうだ?」
コロは懐の銀貨の重さを思い浮かべた。
決して安くはないが、ウルの「器」を長持ちさせるための投資としては、これ以上ない好条件だ。
「……わかった。お願いするよ。でも、明日の朝一番には出発したいんだ」
「へっ、せっかちな嬢ちゃんだな。わかったよ、夜通しで仕上げてやる。明日の朝、馬車が動き出す前に顔を出しな」
職人はウインクを送ってみせた。
職人は無造作にウルの身体に触れ、肩の厚みや胸の幅を測り始めた。
ウルは『勝手な男だ』と不満げに鼻を鳴らしたが、コロがその耳元で「荷運びが楽になるために我慢してね」と囁くと、観念したように大人しくその場に据わった。
やがて職人は、銀貨三枚を無造作にカウンターへ放ると、代わりに一本の古い千枚通しを手に取った。
「……嬢ちゃん、勘違いするなよ。俺は慈善事業家じゃねえ。ただ、港の親方から『腰を救われた』って話を聞かされたら、同じこの街で商売してる身としちゃあ、何もしねえわけにはいかねえんだ」
職人の言葉には、嘘も諂いもない。
ただ、同じ街を支える労働者としての連帯感があった。
「よし……その狼に、最高の『鎧』を着せてやるよ」
「……ありがとう、おじさん」
コロは深く頭を下げた。
宿への帰り道、カバンは朝よりもずっと重い。
けれど、彼女の心には「明日への確かな繋がり」が、ひよこ豆の感触のように硬く、力強く残っていた。
ウルが港で『豪傑』として持て囃され、専用のハーネスを注文した日の夜。
相変わらず宿の寝台は固く、シーツからは微かに埃と古い石鹸の匂いがする。
コロの隣ではウルが、スゥスゥと静かな寝息を立てている。
彼女はその規則正しいリズムに意識を委ね、深い眠りの底へと沈んでいった。
※ ※ ※
意識の深い場所、輪郭の曖昧な白い世界。
そこは、コロが眠っている間にだけ訪れることができる、女神との謁見の間だ。
いつものように、コロは女神の懐に飛び込み、女神もまた愛おしそうに彼女を優しく包み込む。
温かい光に満たされたこの抱擁の中で交わされる他愛もない話は、不自由な器で世界を歩く彼女にとって、欠かすことのできない日課だった。
「……ふふ。すっかり頼もしい相棒になったわね、あの子」
「うん、そうなんだ。最近ではウルが居てくれるだけで、助かることが本当に増えたよ」
「分かる者には分かる。ええ、そうね。今のあの子は、あんなに強いんですもの」
鈴を転がすような女神の声が、真っ白な霧を払い、古い記憶の断片を映し出した。
それは、雪解けの泥にまみれた、どこかの深い森の光景だった。
鋭い鉄の歯が噛み合う「人類の罠」に、細い後ろ脚を深く喰い込まれた銀色の毛玉。
アッシュウルフの幼体――ウルだ。
その罠は獲物を逃さないためではなく、痛めつけて弱らせるために作られていた。
幼いウルは、すでに吠える気力もなく、ただ濁った黄金の瞳で「死」が近づくのを、息も絶え絶えに待っていた。
いつもなら、コロはただ観察するだけで通り過ぎたはずだった。
魔物が人類の罠にかかる。
それはこの世界の、ありふれた生存競争の一幕に過ぎないからだ。
けれど、その時のコロには、別の光景が重なっていた。
――かつて、今はなき集落で、魔物だった自分を拾い、その小さな頭を撫でてくれた人類たちの、不器用で温かい手。
無条件でいて、両手でも抱えきれずに零れ落ちてしまうほどに溢れる愛情。
気づけば、コロは泥の中に膝をつき、ウルの耳元で声をかけていた。
「……痛いね。今、外してあげるから待ってて」
それは人類の言葉であるにも拘らず、魂に直接響く「理」のような響き。
ウルは驚いたように目を見開き、掠れた声で漏らした。
『お前……人類なのに、俺たちの言葉が喋れるのか……!?』
「人類だけど、人類じゃないよ。……詳しい説明は、君を助けてからだね」
コロは細い指先に力を込め、鉄の罠を力任せに押し広げた。
その時、絶望の淵にいた子犬のようなウルが見せた、あの「信じられないものを見た」というような呆然とした顔。
コロにとって、それが「一人と一匹」の旅の始まりだった。
思考が白い世界に戻ると、女神がいたずらっぽく微笑んでいた。
「あの子につけた「ウル」っていう名前……あなたに授けようとした候補の中でも、最後まで残って、結局採用しなかった名前だったわね?」
女神の問いかけに、コロは夢の中で、自分の半透明な手を見つめた。
「……うん。覚えてるよ。私が『コロ』になったから、余っちゃった名前。でも、あの子にぴったりだと思ったんだ。強くて、少しだけ寂しい響きがするから」
「自分のために用意された名前を、あの子にあげたのね」
「……どっちも、私にとっては大切な名前だからね。私は『コロ』としてあの子の隣にいて、あの子は『ウル』として私の隣にいる。それが、私たちの今のルールだから」
コロの言葉に、女神は満足そうに目を細めた。
二人の穏やかな語らいは、温かな光に包まれたまま、夜が明けるまで続いた。
やがて、夢の境界が、冷たい朝の気配に溶けていく。
※ ※ ※
不意に、部屋の窓から差し込んだ冷たい光が、コロの瞼を叩いた。
夢の境界が溶け、意識が器へと戻ってくる。
隣ではウルが既に起き出し、自分の大きな前足を丁寧に舐めて整えていた。
「……おはよう、ウル。早いね」
『……ふん。昨日のお前さんの寝言が喧しくてな。「おまけして」などと、夢の中でも商売の続きか。お前らしい』
ウルの呆れたような、けれどどこか温かい声。
コロは昨夜の夢を反芻した。
泥にまみれた過去と、女神の腕の温もり。
そして目の前にいる相棒が可愛い子犬だった頃の面影を重ねたのか、クスッと一つ、小さな笑いが漏れた。
「さあ、行こう。おじさんが待ってる」
『だな、早く行こう』
「きっと似合うんだろうね。楽しみだ」
『実は居ても立ってもいられなくてな、それで早起きだったってのもある』
ウルは照れくさそうに、寝ぼけ眼なコロの胸元にマズルを押しつけた。
朝霧の立ち込める市場の通り。
開店前の工房の前に、あの眼帯の職人が腕を組んで立っていた。
その足元には、一晩かけて打ち直された、鈍い光を放つ黒革のハーネスが置かれている。
「……来たか。約束通り、馬車が動く前だ」
職人は無造作にハーネスを拾い上げると、ウルの巨躯に歩み寄った。
普通の人類なら腰が引けるようなウルの黄金の瞳を、彼は真正面から見据える。
「格好良くなってるね」
「俺は職人だからな、当たり前だ。……そのまま渡すのがどうも癪でな。じっとしてろ、豪傑。最後の仕上げだ」
職人の節くれ立った大きな手が、ウルの銀色の毛並みに潜り込む。
バックルを締め、肩の動きを邪魔しないよう数ミリ単位でベルトの長さを微調整していく。
最後に、胸元の革を「パン!」と一つ叩いて、彼は満足げに頷いた。
「よし。歩いてみな」
ウルがゆっくりと工房の前を往復する。
背筋を伸ばし、深く踏み込み、肩を回す。
銀色の毛並みの下で鋼の筋肉が躍動するたび、新調された革の防具がしなやかにその動きに追従した。
『……驚いたな。これほどの重厚さでありながら、まるで自分の皮膚が厚くなったような感覚だ。走り回っても、息が詰まることはない。これなら……ずっと着けていても構わん』
ウルの満足げな唸り声を聴き、コロは職人を見上げた。
「おじさん、ありがとう。ウルが、自分の皮膚みたいに馴染んでるって。ずっと着けていたいって言ってるよ」
職人は一瞬、意外そうに眼帯のない方の目を見開いた。
そんな彼の様子を見たコロは、更に言葉を続けた。
「珍しいんだ。ウルがこんなに素直に褒めるなんて」
職人は照れくさそうに鼻の頭をボリボリと掻き、顔を背けて工房の奥へ戻ろうとする。
「……へっ、お世辞はいい。俺はただ、道具を道具として正しく打っただけだ」
彼は入り口の敷居をまたぐ間際、肩越しに一度だけ二人を振り返った。
「いいか、嬢ちゃん。どんなに立派な鎧も、中身が腐ってりゃただの重荷だ。だが、その狼の魂は、この革の厚みじゃ足りねえほど強靭だ。……そいつを、大事にしてやりな」
ぶっきらぼうに言い捨てて、職人は工房の奥へと消えた。
『やっぱり俺は、人類の中でも『職人』という人種が好きだな』
「ははは、分かるかも。私もだよ。人によるけど、とても頑固で、仕事に対して必ずと言っていいほど嘘をつかない」
三千リトという対価以上の、確かな「誇り」を受け取ったことを、コロは胸の奥で静かに感じていた。
職人の工房を後にしてから、乗合馬車の停留所へ向かう道中、二人の間に言葉はなかった。
コロは新しくなったパッキングの重みを背中で確かめ、ウルは首元の革の感触を無言で受け入れている。
互いに「気に入ったか?」とも、「名残惜しいか?」とも聞かない。
昨夜の夢で女神と語り、今朝職人と拳を交わすような言葉を交わした。
彼女はそれで十分だったようだ。
カシムという街は、彼らにとって「血肉」を補充し「器」を整えるための、機能的な一地点に過ぎない。
朝霧が立ち込める東門の停留所。
そこは、これから始まる長い道程を前にした馬たちの荒い鼻息と、石畳を叩く蹄の音だけが響く場所だった。
「……行くよ、ウル」
「……ああ」
短くそれだけを交わし、コロは窓口で切符を買い求める。
その背中は、見送る者もいない異邦人のそれでありながら、どこか一つの完成された世界を背負っているような、奇妙な安定感があった。
だが、その静寂を、場違いな色彩が塗りつぶそうとしている。
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