狼の鼻と、神の余暇 2 〜港の轍と、血肉の糧〜
2.
※ ※ ※
光の粒子が、真っ白な虚無の中で穏やかに渦巻いている。
そこは、重力も時間もない、コロと「彼女」だけの場所だった。
「――ふふ、おかえりなさい。私の愛おしいコロ」
鈴を転がすような声に、コロはゆっくりと顔を上げた。
漆黒の髪を長く引き延ばし、空気に溶けるような白いドレスを纏った女性が、コロの目の前に姿を現した。
「……女神様。ただいま」
女神は、足元に広がる光の波紋を揺らしながら、悪戯っぽく微笑んでいる。
「今日も、あなたがその不自由な身体で、精一杯『人類』の真似事をしているのを、しっかりと見ていたわ」
女神は宙に浮いたまま、コロの目の前で楽しそうに首を傾げた。
現実世界では狼の首元に手を置いていたコロだが、ここではただ一人、空っぽの掌を握ったり開いたりしている。
「……カシムの街も、ハズレだったよ。人類は相変わらず、自分の価値を換金することに必死で、お互いの喉元を狙い合っている」
コロの報告に、女神は慈しむような笑みを浮かべた。
「そう。何か良いことはあったかしら」
女神の問いに、コロは昼間の路地裏にいた兄妹の姿を思い出した。
彼らが大切そうにパンを分け合っていた、あの小さなパン。
「……良いことかどうかは分からないけれどね、貧しい兄妹が小さなパンを二人で分け合っていたんだ」
「そんな子らが居たわね」
女神が足を崩してその場に座り、ゆったりとした仕草で両手を広げた。
するとコロは躊躇うことなく、女神の膝のうえに腰を下ろした。
女神は彼女を優しく抱きしめ、その顔を頭に埋める。
「昔のことを思い出したんだ。私が初めて人類の村に行った日のことをね」
女神の膝の温もりは、現実のどんな布団よりも柔らかく、コロの心を解きほぐしていく。
目を閉じれば、あの日――雪の降り始めた小さな村の光景が、鮮明な色彩を伴って蘇った。
まだ、お金の価値も、人類の悪意も知らなかった頃。
凍える手で握りしめた、なけなしの銀貨。
薬草屋で、まるでゴミのように扱われながらも手に入れた、わずかな対価だった。
窓ガラス越しに見える、黄金色のパン。
勇気を出して飛び込んだ店で、店主はコロを「薄汚いネズミ」を見るような目で一瞥し、パンを一つ放り出した。
渡されたお釣りは、明らかに足りなかった。
けれど、その時のコロには、それを指摘する術も、勇気もなかった。
逃げるように店を出て、路地の隅で、抱えたパンの熱に顔を埋める。
鼻腔を突く香ばしい匂い。
それだけで涙が出るほど、当時のコロは飢えていた。
その夜。
初めて訪れた夢の境界で、コロは女神にそのパンを差し出した。
自分が一口食べるよりも先に、震える手でそれを真っ二つに割って。
「……はい、女神様。これ、おいしいよ。半分、あげる」
神に供物を捧げるような高潔な儀式ではない。
ただ、自分が今持っている「一番いいもの」を、大切な存在と分かち合いたいという、子供のような、あまりにも人類らしい情動だった。
それは、人類として生かされたコロが女神から聞かされていた、コロなりの「感謝のしるし」だった。
女神の長い指が、コロの銀髪をそっと梳く。
「……あの時のパン、とっても美味しかったわ。愛おしいコロ、あなた。あの時、私に何て言ったか覚えている?」
「……『お腹空いてないの?』って、聞いた気がする。女神様は食べなくても死なないって、知らなかったから」
女神はくすくすと、銀の鈴を鳴らすように笑った。
その笑い声は、コロの胸の奥に残っている、あの日のパンの温もりとよく似ていた。
「ふふふ、とても大切な思い出よ」
「うん。私にとっても、とても大切な思い出」
女神の笑い声に包まれながら、コロの意識は再び穏やかな闇へと沈んでいく。
胸の奥に残るパンの熱は、朝日の気配とともに、カシムの冷たい空気へと溶け出していった。
※ ※ ※
宿の朝は、石造りの壁を伝う冷気から始まる。
コロはまだ夜の残り香が漂う薄暗い部屋で、迷いなくシーツを跳ね除けた。
まずは指先を動かし、次に足首を回す。
不自由な「人類の器」が正しく起動することを確認する、彼女なりの点検作業のようだ。
昨夜、窓際で水を張った小鍋に沈めておいたひよこ豆は、朝の光を吸って一回り大きく膨らんでいた。
コロはすべての荷物を手際よく鞄に詰め、その鍋を片手に部屋を出た。
足元では、銀色の巨躯——ウルが、首の赤いバンダナを一度だけ整えるように震わせ、音もなく彼女に寄り添う。
食堂の奥にある共同の暖炉には、すでに先客がいた。
使い古された甲冑を足元に置き、火を囲んでいるのは数人の傭兵たちだ。
猪のような鼻を持つ大男や、鋭い豹の耳を覗かせる若者。
彼らは一様に、戦場特有の血と油の匂いを纏った「獣人」の混成部隊だった。
コロが近づくと、猪の男が片目を細めてこちらを睨んだ。
一瞬、空気がピリリと緊張する。
だが、その視線がコロの足元に座るウルに注がれた瞬間、男の表情から「子供への侮り」が消え、戦士特有の「敬意」が浮かび上がった。
ウルは吠えもせず、ただ黄金の瞳で男を見返した。
巨大な体躯から漏れ出す、魔物としての圧倒的な圧力。
「……ほう。そいつは、いい面構えだ」
猪の男が、酒で焼けたような声で短く呟き、顎で暖炉の端を指した。
「嬢ちゃん、ここを使いな。お前さんじゃ火を熾すのも一苦労だろ」
「おはよう。ありがとう」
コロはお礼を述べながら会釈をし、男が空けてくれた場所で鍋を火にかけた。
「……おじさんたち。この街の掲示板に、まともな仕事はある?」
豆が煮えるのを待ちながら、コロが淡々と尋ねる。
「まともな仕事?ははっ、そんなもんありゃあ、今頃俺たちが酒場で大宴会してるぜ」
猪の男が火箸で薪を突きながら、鼻で笑った。
「だが、港の倉庫街に積み上げられていた丸太がゴロゴロ転がってるままだ。町の役人は放置しているが、力自慢なら一仕事で銀貨数枚は固い。……嬢ちゃんのそのデカい相棒がいりゃ、荷車牽きよりは楽なもんだろ」
コロは鍋の中でとろりと溶け始めたオートミールと豆のポタージュを確かめ、足元で静かに座っているウルに目配せをした。
ウルは何も言わないまま小さく頷いた。
数切れの黒パンと熱いポタージュを器の隅々まで流し込み、コロは満足げに鍋を拭った。
男たちが場所を譲ってくれたおかげで、予定よりも早くメンテナンスは完了した。
「おじさん、ありがとう。……お仕事、行ってくるよ」
「おう。怪我すんじゃねえぞ、嬢ちゃん」
猪の男が片手を上げ、別の若者がニヤリと笑う。
彼らが見送ったのは「無力な子供」ではなく、自分たちの流儀を弁え、見事な相棒を連れた一人の「同業者」だった。
宿を出ると、カシムの街では朝の陽光が石畳を黄金色に染めていた。
数枚の銀貨を稼げる確信を得て、コロの足取りは心なしか軽い。
彼女は隣を歩くウルの横顔に視線を送り、少しだけいたずらっぽく目を細めた。
「……やっぱり、獣人は同族意識が強いね。それに、ウルが立派な『成犬』になってからは、本当にスムーズに事が運ぶよ。昔の子犬だった頃とは大違いだね」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ウルの大きな身体がコロの脇腹のあたりに「ぽふっ」と重々しく、けれど優しくぶつかった。
意識してぶつけてきた衝撃に、コロの小さな身体がわずかにたじろぐ。
『……おい。犬ではないと言っているだろうが。俺はこれでも、誇り高き狼の魔物だぞ。成犬などと、どこぞの飼い犬と一緒にされては困るな』
不満げに喉を鳴らすウルだったが、その豊かな尻尾は左右に激しく振られ、道端の埃を舞い上げている。
「はいはい、立派な狼さん。分かっているよ。……でも、ウルのおかげで助かっているのは本当だよ。ありがとうね」
コロがそっとその銀色の首筋を撫でると、ウルは『フン』と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
けれど、その尻尾の動きが止まることはなかった。
港の倉庫街に着くと、潮風と古い木材の匂いが鼻を突いた。
そこには、昨日の嵐で荷崩れし、無惨に石畳を塞いでいる巨大な丸太の山があった。
その中央で、岩のような体格の親方が、煤けたタオルで首筋の汗を拭いながら、忌々しげに丸太を蹴飛ばしている。
コロは鞄のベルトを握り直し、一歩前へ出た。
「おじさん。丸太を動かす仕事があるって聞いたんだけど、まだ空いているかな」
親方は動きを止め、大きな影を落として少女を見下ろした。
そして、彼女の細い腕から足元の泥だらけの靴までを、露骨な嘲笑を込めて眺めまわす。
「……おう、本気かよ、お嬢ちゃん。ままごと遊びならあっちの広場でやりな。悪いが、子供に払う端金はねえんだ。怪我する前に帰りな」
親方は吐き捨てるように言うと、再び丸太の方を向き、男たちに怒声を浴びせようと息を吸い込んだ。
しかし、コロはその場を動かず、淡々と、けれど遮るような声で言葉を継いだ。
「私はいいけど、この子はやる気だよ」
コロが顎でウルを示す。
ウルは一歩前へ出ると、丸太の山を見据え、野太い唸り声を上げた。
親方は一瞬、ウルの足元から伝わる重圧にたじろぎ、次いでその盛り上がる肩の筋肉を凝視した。
「……へっ、そいつは驚いた。ただのデカい犬じゃあねえな」
親方は初めて、少女を「子供」としてではなく、奇妙な力を持つ「労働力」として見つめ直した。
そして、ニヤリと唇を歪め、大きな手で自分の首をボリボリと掻いた。
「よし、やってみな!動かせた分だけ、きっちり『感謝』を払ってやるよ!」
親方が「やってみな!」と鼻を鳴らすと、現場の男たちが騒ぎ出した。
「おい、縄を持ってこい!一番太いやつだ!」
「縄跳びでもしようってのか!?そんな子供騙しの細い紐じゃ、一歩も動かせねえぞ!」
飛び交う怒声の中、コロは落ち着いた手つきで準備を始めた。
男たちが差し出した、油の染みた極太の麻縄を受け取ると、彼女はウルの大きな身体に寄り添い、即席の引力ハーネスを組み上げていく。
「……ウル、少しきつく締めるよ。骨に響くかもしれないけど」
『構わん。この程度の重み、身体を維持するための適度な刺激だ』
コロはウルの盛り上がる肩の筋肉の動きを阻害しないよう、かつ力が一点に集中しないように、巧みな結び目で縄を固定した。
その手つきは、単に荷物を縛るそれではなく、巨大な装置を組み上げる職人のようだった。
やがて、男たちが数人がかりでびくともしなかった巨大な丸太に、重々しい鎖が巻き付けられる。
準備が整うと、周囲には自然と静寂が訪れた。
誰もが、この小さな少女と、赤いバンダナを巻いた奇妙な狼がどうなるのかを、息を呑んで見守っている。
「ウル、お願い。……無理はしないで」
コロがそっとウルの背に手を置き、耳元で囁く。
『ふん。無理など必要ない。……いくぞ』
ウルが一歩、前へ踏み出した。
次の瞬間、鎖が限界まで引き絞られ、キリキリという悲鳴のような音を立てた。
ウルの銀色の毛並みの下で、鋼のような筋肉が波打つ。
石畳に深く爪が食い込み、火花が散る。
「……動いたッ!」
誰かが叫んだ。
一度動き出した丸太の山は、ウルの圧倒的な膂力の前では、ただの木の死骸に過ぎなかった。
ゴロゴロと重々しい音を立て、港の道を塞いでいた大木が、まるで吸い寄せられるように移動していく。
「……すげえ。なんて力だ」
「ありゃあ、そこらの魔物なんか目じゃねえぞ。本物の戦士だ……」
男たちの嘲笑は、畏怖へと変わっていた。
そんな中、コロは丸太の横を並走しながら、ウルの呼吸と足取りに全神経を集中させていた。
「……ウル、ごめんね。こんな重いものを引っ張らせて」
『……気を病むな。俺は元々、こうして大地を蹴り、獲物を引きずって生きる魔物だ。お前が用意する「安全な寝床」と「新鮮な肉」の対価としては、安いものだ』
ウルは重荷を引いているとは思えないほど、冷静に、力強く言葉を返す。
『それに、自分の食い扶持くらいは、自分で稼ぐ。それが、俺たちがこの不自由な「人類の領域」で、対等に歩くためのルールだろう?』
「……そうだね。ありがとう、ウル」
コロは小さく微笑み、ウルの毛並みに一瞬だけ頬を寄せた。
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