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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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1/16

狼の鼻と、神の余暇 1 〜半分このパンと、不自由な器〜

ご覧いただきありがとうございます。楽しんでいただければ幸いです。

0.


分厚い灰色の雲が垂れ込める、カシムの街の城壁外。

天を突くような重厚な石造りの門へと続く入街待ちの列には、長旅の汗と、行き場のない貧困の匂いが泥濘のように重く沈殿している。


「ああ、お恵みを……どうか、神の慈悲を……」


列の脇の汚泥に蹲っていた土気色の顔の男が、這いずるようにして一人の少女の足元へとすがりついてきた。

ひび割れた唇の間から覗く歯は黒く欠け、差し出された手は垢と泥にまみれている。

その震える指先が、少女が羽織る清潔な外套の裾を弱々しく掴んだ。


周囲の大人たちが露骨に顔を背ける中、少女は立ち止まり、足元の男を静かに見下ろした。

その瞳には、憐憫も、嫌悪も、困惑すら浮かんでいない。

ただ、硝子玉のように透明で無機質な観察の光だけがあった。


『……払いのけるか?』


少女の隣で影のように寄り添う巨大な魔物の狼が、喉の奥で低く唸る。

傍目にはただの獣の威嚇にしか聞こえないその音に、少女は外套の裾を掴む手を冷淡に見つめる。

少女は答えなかった。

ただ、わずかに足を動かし、男の手をいとも容易く振りほどいた。


「あなたを生かしても、私には何の得もないよ」

「……え?」


男が間の抜けた声を漏らす。

哀れみを乞う相手から、同情でも罵倒でもなく、ただ『無価値である』という事実だけを淡々と突きつけられたことに、彼の思考が追いついていないようだった。


『幸先が悪いな』

「さあ、列が進むよ」


少女は足元の男をすでに風景の一部として処理したかのように、真っ直ぐに前を向いた。




1.


石造りの重厚な門をくぐった瞬間、少女の鼻がわずかにひくついた。

鼻腔を突く匂いが不快なのか、一瞬だけ顔を顰め、頭の上でピンと立っている狼のような耳を伏せる。


「……ここもハズレだね」


短く鼻を鳴らした少女は、髪色と同じ銀色の尾を一度だけ不機嫌そうに揺らした。

少女の隣で行儀よく座っていた魔物の狼が、街並みを見据えたまま、小さく、喉の奥を鳴らした。


『通行税と滞在費を払う価値は無かったか?』


傍から見れば、それは「ガウ」と小さく吠えただけだったが、少女は四足の相棒の方をちらりと見て、再び街並みに視線を戻した。


「いや、ここで少しは旅のお金を稼いでおかないとだよ。私はウルと違って、色々食べないと身体が保たないんだ」

『人類の(からだ)ってのはつくづく不便なもんだ。コロ、お前、元の身体のままの方が良かったんじゃないか?』


そう問いかけるウルに対し、少女――コロは、その大きな頭にポンと手を置いた。


「いいや。女神様から貰った身体だからね、こっちの方が良いに決まっているよ」


微塵の疑いもない、凛とした断言だった。


『愚問だったな。ほれ、そうと決まれば薬草を売って宿を取るか』

「そうだね。この町には、魔物と共にある者が多いようだよ。ウルも同じ部屋で寝られそう」

『この前の町は酷かったな』

「だね」


コロとウルはゆっくりと歩みを進めた。

コロの言うとおり、街中では肩に魔物の鳥を乗せた旅人や、魔物の馬に荷車を引かせている農夫などの姿が見受けられる。


『ま、俺は別に宿の裏手でも構わんけどな』

「私が嫌なんだよ。寝るときは『仲間』の存在を感じた方が安心できるからね」

『嬉しいことを言ってくれるがな、今のお前の『仲間』は人類であり、獣人だろうが』

「見た目、はね。でもね、私は彼らを『仲間だ』なんて思ったことはないよ」


軒先に干されている薬草の匂いに誘われるように、一人と一匹は路地の奥にある小さな店へと足を踏み入れた。




店先では、背中の曲がった老女が眼鏡をずらしながら、乾燥した根っこの選別をしている。

コロは老女を視界に入れると、斜めがけ鞄の中を漁り始めた。


「……これ、買い取ってくれる?」


コロが差し出した包みを見て、老婆の手が止まった。


「おや、可愛らしいお客さんだねぇ。この街は初めてかい?」

「うん、今さっき来たばかりなんだ」

「そうかい、そうかい。それじゃあ、どれどれ?」


コロから受け取った包みをゆっくりと開ける老婆。


「……ほう、これはいい『銀嶺草』だね。このカシムの街も近頃は物騒でね、採取家たちが山に入りたがらないもんだから、めっきり入荷が減っていたんだよ」


老婆は顔に深い皺を刻んで微笑むと、秤も使わずに手際よく銀貨を並べていく。

カラン、と最後の一枚が少し高い音を立てて置かれた。


「遠くから来たんだろう?坊や……じゃない、お嬢ちゃん。はい、これでおいしいものでも食べなさい。おまけだよ」

「……ありがとう、おばあさん」


コロは感情の読めない顔で礼を言うと、銀貨を懐に収めて店を後にした。




通りに出るなり、隣を歩くウルが喉を鳴らす。


『思ったより親切な婆さんだったな。人類も捨てたもんじゃない。ん?……どうした、コロ?』


コロは懐の銀貨を指先で弄りながら、表情を変えずに相棒を見た。


「あの手のおばあさんはね、私みたいな『子供』には無条件で優しいものなんだよ」

『……ふむ?』

「これがもし人相の悪い大人の男だったら、きっと買い叩かれていた。彼女が優しくしたのは私じゃなくて、彼女の脳内にいる『守るべき弱者』という虚像だよ。だからウル、感謝しすぎる必要はないよ。私はただ、この外見を利用しただけなんだから」


そう淡々と語るコロの瞳には、慈悲も冷酷さもなく、ただ透明な事実だけが映っていた。




カシムの街を足早に歩きながら、コロは何軒かの宿の看板と、入り口に掲げられた料金表を冷静に比較していた。


「『金杯亭』は六百リト、『古井戸亭』は五百五十……。あっちの『三叉路の木立ち亭』は、従魔可で四百リトだった。今晩はそこでいいよ。差額でウルに何か美味しいものを買えるからね」

『それは朗報だな』


ウルは機嫌が良さそうに尻尾を立てた。




コロの足が止まったのは、大通りから一本入った三叉路に建つ『三叉路の木立ち亭』の前だった。


建物の外壁は風雨にさらされて白く枯れ、看板の鎖は風が吹くたびに心許ない音を立てて軋んでいる。

しかし、コロの視線は別の場所を捉えていた。

曇りひとつない窓ガラス。

軒下から払われた蜘蛛の巣。

そして、手垢がつく暇もないほど磨き抜かれたドアの取っ手。


「ウル、見て」

『ああ、今まさに見ている。見窄らしい看板を、な』

「意地悪な物言いだね。まぁ看板は錆びているけれどさ、エントランスの石畳は綺麗に掃き清められているよ。扉の取っ手も。ここは『当たり』の宿だね」

『コロがそういうと、そんな気がしてくるな』


ウルは鼻を鳴らし、コロが見抜いた宿の「質」を肯定するように首元のバンダナを揺らした。


コロは一度だけ小さく頷くと、迷わずその扉に手をかけた。


中に入ると、外観の印象通り、調度品はどれも年季が入っていた。

だが、床の板張りには丁寧に蜜蝋が塗られ、空気は不思議と清々しい。

カウンターの奥から顔を出した人間族の恰幅のいい中年女性も、糊のきいた真っ白なエプロンを身に着けていた。


コロは宿の佇まいを隅々まで観察していた。

建物が刻んできた年月、それを維持しようとする主人の矜持。

その両方を無言で見極めると、満足げに懐の銀貨を確かめた。


「いらっしゃい。……おや?」


主人である女性の視線が、コロの小さな身体と、その隣に佇む巨大な狼――首に鮮やかな赤色のバンダナを巻いたウル――の間を困惑したように往復する。


「おばさん、こんにちは。一人と一匹、素泊まりでお願いしたいんだけど」

「あんた、一人かい?こんな大きな従魔を連れて……親御さんはどうしたんだい?」


心配そうに身を乗り出す宿の主人に対し、コロは一歩、ウルの方へ歩み寄った。

そして、慣れた手つきでウルの大きな頭にポンと手を置き、大人の警戒を解くための「子供らしい笑み」を浮かべてみせる。


「ううん。私は一人じゃないよ。この、頼りになる相棒と『二人』なんだ」


その言葉に応えるように、ウルは賢明な目を細め、静かに「フン」と鼻を鳴らした。

ただの動物ではない。明確な意志を持ち、少女と魂を分かち合っている――その毅然とした佇まいに、主人は毒気を抜かれたように目を見開いた。

更に主人は、コロが背負う年季の入った鞄から、乾燥した豆同士が擦れ合う微かな音を聞き取った。

それは、この幼い旅人が明日をも知れぬ無計画な子供ではなく、着実に生きるための蓄え——乾燥したひよこ豆や、わずかな穀物——を持つ、一人の「生存者(サバイバー)」であることを物語っていた。


「……なるほどね。あんた、ただの子供じゃないね。その従魔()がそれだけ賢くて強いなら、この二人旅も納得だよ。……いいよ、一人四百リトだ。奥の部屋を使いな」


その言葉に笑顔を返すコロ。




宿に荷物を置くと、コロは再びウルを連れて街へ出た。

西日はさらに傾き、市場は夕餉の支度を急ぐ人々で活気に満ちている。


「まずはウルの分だね。オヤツの骨だけじゃ、その体は維持できないでしょ」

『そうだな。血の匂いのする、新鮮なやつを頼むぞ』


精肉店の軒先で、コロは慣れた手つきで肉の質を見極める。

主人が差し出す屑肉を退け、あえて少し値の張る「血抜き前の赤身」を指差した。


「それを一キロちょうだい」


主人の男は、自分よりも大きな狼を連れた幼い客をいぶかしげに見下ろした。

無言のまま、わざと脂身の多い端肉を秤に乗せようとする男の手に、コロの冷ややかな声が刺さる。


「ねえ、おじさん、秤に乗せる前に、そのナイフで隣の赤身を切り分けて。血を抜いていない、重たい方のやつ」

「……ん?」

「……ごまかさないで。私、その肉の『本当の価値』を知っているよ」


男は一瞬、少女の瞳に宿る、到底子供のものとは思えない鋭い光にたじろいだ。

舌打ちを一つ。男は大人しくナイフを持ち替え、コロが指した最高品質の肉を切り出した。


「……へっ、ませたガキだ。ほらよ、一キロだ」

「ありがとう。お釣り、間違えないでね」

「抜け目がねえな。悪かったな、俺の負けだ。詫びの印としてオマケをつけといてやる」

「ありがと。やったね、ウル」


コロの言葉に、ウルは小さく鼻を鳴らす。


受け取った肉の包みには、まだ生暖かい血の重みがあった。

それを鞄の底に慎重に沈め、コロは隣のウルを見上げた。


「……次は私のパンと、少しの野菜だね。お店をハシゴするよ」




肉屋の活気を離れ、パン屋にたどり着く頃には、空の色は深い群青へと変わり始めていた。

香ばしい匂いの主は、広場の一角にある石窯パンの店だ。

コロは手際よく自分用の黒パンと、明日の分の少し硬めのパンを数個買い求めた。


その帰り際、店の裏手へと続く薄暗い路地で、コロの足が止まった。


「……ウル、見て」

『ん?ああ。……ネズミの集まりかと思ったが、人間族の仔だったな』


影の中で、二人の子供が蹲っていた。

先ほどコロがパン屋ですれ違った兄妹だ。

彼らの手元には、おそらくその日の全財産をはたいて買ったのであろう、掌ほどの大きさしかない安物の乾いたパンが一つ。


兄の方が、震える手でそれを真っ二つに割る。

ボロボロとこぼれる屑さえ惜しむように、二人は交互に、大切そうにその塊を口へと運んでいた。


分け合う姿に、温かさはない。


そこにあるのは、そうしなければ明日まで命を繋げないという、剥き出しの飢えと、カシムの街に漂う貧困の重圧だった。

コロは無言でその光景を、ただジッと見つめていた。


「……行こう、ウル。彼らが食べ終わるのを待っていても仕方ない」

『いいのか? あの様子じゃ、明日の朝まで保つかどうか怪しいぞ』

「私が何かを言ったところで、明日の彼らの空腹が消えるわけじゃないよ」


コロは一度だけ、自分の小さな掌を見つめた。


「次は野菜だね」


冷たくなった指先を鞄の奥へ滑り込ませると、一度も振り返ることなく、宿へと続く坂道を登り始めた。




野菜の露店で、売り物にならないほどしなびたカブを二束、二束三文で買い叩き、二人は宿へと戻った。


部屋に入るなり、コロは宿の主人から分けてもらった酢を入れた小瓶をテーブルに置いた。

カシムの夜風は冷たい。

鞄の底には、まだ数食分は保つであろう乾燥したひよこ豆の袋が、重石のように沈んでいる。

コロはその予備に触れ、指先に伝わる硬い感触で自分の現在地を確認すると、袋から一掴みのひよこ豆を取り出した。

そのまま空の鍋に、主人から分けてもらった水を張り、ひよこ豆をポチャポチャと投入する。

そして窓を閉め、小さなランプを灯すと、コロは腰のナイフを抜いて手際よくカブを刻み始めた。


「……ウル、そこどいて。カブの葉が散るよ」

『俺の毛にその酸っぱい匂いがつくのは御免だからな』


ウルが面倒そうに寝床の端へ移動するのを見届け、コロは作業を続ける。


しなびて水分が抜けたカブの身を薄く切り、栄養のある葉の部分も細かく刻んで、酢の満たされた瓶へと次々に押し込んでいく。


『……ふん。鼻が曲がりそうだ。そんなに酸っぱくして、何が楽しい』

「別に楽しくはないよ。新しいお酢だからね、匂いが強いんだ。でも、これはまた使う。二回使ったら、最後は魚を食べるときに臭みを取るのに使う予定」

『律儀なこった。俺ならそのまま食うがな』


ウルが顔を顰めて鼻を鳴らす。

コロは手を休めず、淡々と瓶の縁を拭った。


「人類の(からだ)は脆いんだよ。面倒だけど、こうして日持ちさせるように工夫したり、清めたりしないと、すぐ中から腐って、食べれられなくなっちゃう。魔物の身体とは違って、危うい『(からだ)』なんだ」


ランプの灯火に照らされたコロの横顔は、一心不乱に獲物を解体する獣のようでもあり、壊れ物を扱う職人のようでもあった。


「……魔物のときみたいに、ただ噛み砕いて終わり、とはいかないからね」


誰に言うでもなく呟くと、指先を酢で濡らし、一切の妥協なくカブを瓶に詰め込んでいく。

その執拗なまでの手つきは、この不自由な「器」を明日も動かし続けるための、不可欠な儀式に見えた。


酢の匂いが満ちる部屋で、彼女は自分の不自由な指先を見つめ、それから満足げに瓶を棚へ置いた。

それから、ようやく自分の分の硬いパンを手に取った。




ランプの灯火が、影を壁に長く引き延ばしている。


「……ウル、寝よう。明日は早いよ」


満足げな寝息を立て始めたウルの隣で、コロは清潔なシーツに身を沈めた。


『ああ。向こうで、しっかり羽を伸ばしてくるんだな』


ウルは薄く目を開け、自分よりもずっと小さな主を見守るように鼻を鳴らした。


彼は知っている。


コロが深い眠りに落ちる時、その意識が自分さえも同行を許されない「特別な場所」へと旅立つことを。


「うん、おやすみ」


未だ不慣れな人類の脳が、心地よい疲れとともに、深い眠りの淵へと溶けていく。

ウルの温もりも、カブを漬けた酢の匂いも、宿屋の静寂も――すべてが遠ざかり、真っ白な光の隙間へと滑り込んだ。


挿絵(By みてみん)


新連載『元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜』を本日よりスタートいたしました。

開始早々の2日間(本日と明日)は、スタートダッシュとして【6:50】【12:00】【18:00】の1日3回更新でお届けします。

次回の更新は、本日【12:00】を予定しています。

ぜひ一人と一匹の旅を見守っていただけると嬉しいです。

なお、雰囲気を楽しんで頂きたいと思い、本作は各エピソードに生成AIにて生成した挿絵を参考程度に挿入しています。


もし「面白そう」「続きが気になる」と思ってくださったら、ページ下部の【☆】評価やブックマークで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。

よろしくお願いいたします。

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