籠の中の鳥と、生存の目利き 1 〜桃色の虚飾と、花園の対価〜
1.
乗合馬車が集まる停留所のベンチ。
くすんだ朝の景色の中で、そこだけが異常に浮き立っていた。
薄桃色の重なりすぎたフリル、不自然なまでに整えられた金髪。
そして、早朝の澄んだ空気を汚染するように漂う、執拗なまでの香水の匂い。
「……ウル。鼻、大丈夫?」
『ああ……最悪だ。風下に立たれたら、獲物の匂いどころか、己の立ち位置さえ見失いそうだぞ』
ウルが不快そうに鼻先を歪める。
「だね。参ったね……」
そんな彼らの視線の先では、派手なドレスで着飾った女性が、痩せぎすの美丈夫の肩に寄り添い、うっとりとした表情で「ここではないどこか」を語っていた。
「ねえテオ」
「なんだい、マリー」
「この馬車が、私たちの新しい人生の幕開けなのね」
「そうだね。新しい人生の幕開け、か……」
「もう誰にも邪魔されない、愛だけの世界へ……」
「ああ、マリー。君のためなら、僕はどんな苦労だって厭わない。筆一本あれば、どこでだって君を幸せにしてみせるよ」
「ああ、テオ……愛さえあれば……」
「そうさ、愛さえあれば他は何もいらないさ」
周囲の空気などどこ吹く風といった具合に、熱烈に手を握り合う二人。
その光景を、コロは感情の動かない、ガラス玉のような瞳で見つめていた。
『……あれはなんの冗談だ?生存に適さない個体だな』
「代わりに口にしてくれてありがとう。でも彼らは本気のようだね」
『愛さえあれば、か。フン、それで済むなら旅はさぞ楽だろうな』
「はは、そうだね。そんなに気楽なものだったら……羨ましくもあるね」
『装い新たに、折角いい気分だったんだがな。お陰で全部台無しだ』
「さあ、腹を括ろうか」
『そうだな、切符を買ってしまったもんな……』
コロの脳内にある「人類観察記録」が、目の前の二人を「生存不適格」として、静かに、けれど明確に弾き出した。
魔物が跋扈する街道へ出ようというのに、目立つ色を纏い、嗅覚を狂わせる芳香を放ち、守るべき「糧」の計算もまるで立っていない様子。
彼らから漂うのは、情熱という名の「腐敗の予兆」だった。
「はい、二枚」
御者に切符を渡し、コロは足元のウルに目配せをする。
重厚な黒革のハーネスを纏った「実用の極致」である狼と、一粒の豆をも愛おしむ少女。
その隣に、実用性とは無縁な「装飾」と「夢」だけで明日を語る二人が、同じ馬車へと乗り込もうとしていた。
御者が鞭をしならせ、低い咆哮のような車輪の音が石畳を叩き始める。
カシムの街を背に、馬車は朝霧の街道へと滑り出した。
御者台には人間の御者の男とエルフの男が並んで座り、荷台は積荷である木箱がいくつか、そして客席の定員は四人だけの狭い車内。
片側には、新品のように磨かれたハーネスの匂いを漂わせ、彫刻のように座る銀色の狼と、膝の上にリュックを抱えた無機質な少女。
対面には、互いの指を絡ませ、窓の外に広がる「希望(という名の荒野)」に目を輝かせる恋人たち。
狭い空間で、マリーと呼ばれた女の香水はさらにその濃度を増し、物理的な圧力となって充満していく。
それは密閉とは程遠い馬車の荷台であろうと、二人の鼻に襲いかかってくる。
『嘘だろう?本当に冗談のような匂いだ……現に鼻がおかしくなっている』
「私は、この器であることに感謝してる」
『俺は自分の鼻の良さを憎んでいる』
ウルは時折、耐えかねたように鼻を鳴らし、荷台の縁にマズルを乗せ、外気を求めていた。
「……ねえ、お嬢さん」
沈黙に耐えかねたのか、あるいは溢れ出す幸福を誰かに分け与えたいのか。
マリーがその潤んだ瞳をコロに向け、鈴を転がすような声で語りかけてきた。
「そのワンちゃん、あなたの従魔なの?凄く強そうで、凛々しくて……まるで、あなたを守る騎士様みたいね。ふふ、あなたも私たちと同じ、大切な何かを守るための旅をしているの?」
「……騎士じゃないよ。この子はウル。私の家族で、頼もしい相棒で、一番強力な自衛手段だよ」
コロの淡々とした返答に、マリーの隣に座るテオが苦笑いしながら口を挟む。
「ははは、随分と……現実的なんだね。でも、マリーの言う通りだよ。君たちを見ていると、言葉を超えた強い絆を感じる。僕は画家なんだ。君たちのその姿、いつか一枚の絵にさせてくれないか?題名はそう……『孤独を分かち合う、魂の共鳴』なんてどうかな」
『……魂の共鳴。なんとも空虚で無価値な言葉の羅列だな』
コロ以外には聞き取れないのを良いことに、ウルは小さな唸り声とともに、率直な感想を漏らす。
コロは無言のまま、マリーの薄桃色のドレスの裾を見つめた。
馬車の床に溜まったわずかな泥が、揺れるたびにフリルを少しずつ汚している。
恋に恋しているような浮かれぶりのマリーは、それに気づきもしない。
「ねえ、お嬢さん。私たちはね、愛のために全てを捨ててきたの。家柄も、贅沢な暮らしも。でも、少しも後悔していないわ。だって、真実の愛さえあれば、どんな荒野だって花園に見えるはずだもの。……あなたも、そう思わない?」
マリーが身を乗り出す。
その瞬間、香水の匂いがコロの鼻腔を突いた。
コロはゆっくりと瞬きをし、ガラス玉のような瞳でマリーを真っ向から見据えた。
「……思わない、かな」
「そうよ――え?思わない?」
「荒野は荒野だよ。どんなに愛し合っていても、そこには魔物がいるし、お腹も空く」
幼い少女にしか見えないコロの言葉に、マリーだけでなくテオまでもが思わずといった調子で目を丸くしてしまう。
御者台に座っている御者の男が「ははっ」と小さく笑った声が馬車の中で目立つほどに、燃え上がっていた二人はギョッとしてしまっていた。
そんな空気などお構い無しに、コロの言葉は続く。
「……ねえ、お兄さんのその鞄の中に、何日分の干し肉と水が入っているの?」
マリーが呆然と口を開ける。
コロは、ウルの首元で鈍い光を放つ黒革のハーネス――職人が魂を込めて打った「現実」を指差した。
「この革一枚、ベルト一本が、いざという時にウルの命を守り、私の移動を助ける。これが私の信じている『愛』の形。……お姉さんたちのいう『愛』は、そのドレスを泥から守ってくれるわけでも、明日、飢えた野犬の群れを追い払ってくれるわけでもないよね」
車内の温度が、まるで一度下がったかのように、空気が冷え込んでしまっている。
「もしもね、荒野が花園に見えることがあるのならね、それは『死んだとき』だけだよ」
「尤も、だ」
御者台に据わっていたエルフの男が、警戒の手を緩めないまま、そう告げる。
テオが顔を引き攣らせ、マリーはショックを受けたように自分の汚れた裾を見つめていた。
「……夢を語るのは自由だけどね、馬車を降りた瞬間に、ここは『人類の保護圏内』じゃなくなる。外では何が起きるか分からない。護衛のエルフのお兄さんは決して飾りではないんだよ。……おしゃべりに使う体力があるなら、少しでも温存しておいた方がいいと思う」
コロはそれだけ言うと、拒絶するように目を閉じた。
隣でウルが『よく言った』とでも言うように、一度だけ低く喉を鳴らす。
愛という名の「夢」に酔いしれる二人。
血肉という名の「生」を噛み締める一人と一匹。
馬車は、そんな矛盾を飲み込んだまま、魔物たちが潜む深い森の入り口へと差し掛かろうとしていた。
街道を半分ほど進んだところで、馬車は視界の開けた湖畔へと差し掛かった。
「一休み入れるぞ!」という御者の声と共に、馬車が停まる。
馬車から真っ先に飛び出したのは、マリーだった。
彼女はドレスの裾を翻し、陽光に輝く水面を見て歓声を上げる。
「まあ、なんて綺麗な湖!テオ、見て!まるで宝石を撒いたみたい。少しだけ、あそこで手を洗ってきてもいいかしら?」
「いいよ、マリー。僕もこの景色をスケッチしたいと思っていたんだ」
二人は手を取り合い、エネルギッシュに水辺へと駆けていく。
その様子を、御者台から飛び降りたエルフの護衛が、鋭い視線で見送っていた。
彼は空のバケツを片手に、彼らを追いかけようとして――その足を止めた。
「おい、お前たち!水辺には――」
エルフの警告が響くより早く、穏やかだった湖面に、一つ、巨大な波紋が走った。
マリーの甘い香水と、浮ついた笑い声。
それが水底に潜む「飢え」を完璧に呼び覚ましていた。
ドォン!という爆音と共に、水飛沫が上がる。
現れたのは、硬質な鱗に覆われた巨大な水棲魔物だった。
それは鎌のような前脚を振り上げ、目の前の「桃色の獲物」を切り裂かんと跳躍する。
「あ……」
マリーは悲鳴を上げる暇もなく、その場で腰を抜かした。
だが、魔物の爪が彼女の白い肌に触れることはなかった。
一閃。
ウルの二本の角から、音のない黒い雷が放たれた。
……そして、一拍置いて。
視界を灼いた黒い閃光の後を追うように、周囲の空気を爆ぜさせる暴力的な轟音が、遅れて世界を震撼させた。
「――……!」
空中で雷撃を浴びた魔物は、一瞬で全ての神経を焼き切られ、物言わぬ肉塊となって地面に叩きつけられた。
ドサリ、という重苦しい音が、湖畔の静寂を支配する。
ウルの角には、今なおパチパチと黒い火花が残留し、周囲には焦げた肉の匂いが漂った。
「跳ね鎌が出ると言いたかったんだがな……しかしあの雷、さすがの腕前だ。それに、すまなかった。私の注意が少し遅れた」
エルフの男が、バケツを置かずに短く、けれど深い敬意を込めてウルに告げた。
ウルは『気にするな』とでも言うように一度だけ鼻を鳴らし、残留した雷を振り払う。
そこへ、御者の男が血相を変えて駆け寄ってきた。
「ちょっと、お客さん!勝手な行動は困りますよ!ここは街中じゃないんだ!」
御者は腰を抜かしたままのマリーとテオを、本気で怒鳴りつけた。
「水が飲みたかったら、こっちで汲んで用意します!水辺は場所によっちゃ危険だってのは、その辺じゃ子供でも知ってるマナーだよ!あんたたちの『愛』とやらじゃ、あの魔物の腹は膨れないんですよ!」
御者の正論に、テオは顔を青くして黙り込み、マリーは震えながら、泥に汚れた自分の手を見つめていた。
コロは昨日、親方から貰った砂糖菓子をパキンと噛み砕きながら、ゆっくりと魔物の死骸に歩み寄る。
「……ありがとう、ウル。いい食料が手に入ったね。おまけに鮮度も最高だよ」
コロは死骸の腹を軽く蹴り、脂の乗りを確かめるように目を細めた。
そして、未だに背中を向けて警戒を解かないエルフの護衛に声をかける。
「お兄さん。この魚、こんなに大量にはいらないから、分けない?お昼ご飯と、今晩のおかずにでもどう?」
エルフは一瞬、意外そうにコロを振り返り、それから口元を僅かに緩めて腰のナイフを抜いた。
「……その案に乗った。代わりと言ってはなんだが、私が捌こう。エルフの解体術は、肉を傷めない」
「助かるよ。実はエルフの解体術が見てみたかったんだ」
「はは、構わんさ。好きなだけ見るといい」
「ありがとう。御者のおじさんも、いるよね?」
コロが御者に問うと、彼は先ほどまでの怒り顔をどこかへ追いやり、嬉しそうに口笛を吹いてウインクを返した。
「ああ、もちろん!ちょうど干し肉に飽きてたところだ!新鮮な魚か……持って帰ったら母ちゃんが喜ぶぜ」
プロたちが淡々と「命」を「食料」へと加工し始める傍らで、マリーはガチガチと歯を鳴らしていた。
コロはその横を通り過ぎる際、一瞥もくれずに淡々と言い放つ。
「……良かったね。あなたたちのその甘い香水の匂い、魔物には『美味しそうな餌の匂い』だと感じたみたいだよ」
「え……」
「食べるものがなくなったら、そうやって自分をおびき寄せの餌にして、食料を確保するといいよ。……とっても『献身的な愛』の形だと思う」
コロの放った氷のような皮肉が、マリーたちの「花園」を完全に凍りつかせていた。
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