不法投棄の神域と、沈黙の家紋 1 〜胡散臭い歓迎と、血の匂いのする金貨〜
1.
切り立った断崖が連なり、雲が山肌を這うように流れる峻烈な山岳地帯。
この高地を縫うように伸びる細い街道は、交易の要所でありながら、常に滑落の危険と隣り合わせの難所として知られていた。
一人と一匹がこの僻地を訪れたのは、他でもない。
この高度でしか自生しない、特定の魔力特性を持った希少な薬草を採集するためだった。
「この辺りは空気が薄くて、魔力が冷え切っている。極上の個体が見つかりそうだよ」
コロは、岩肌に張り付くように生えた青白い草を丁寧に摘み取ると、手際よく保存用の小瓶へと収めた。
彼女たちの旅に、決まった目的地はない。
常に、その土地の「観測」と、明日を生きるための「効率」が最優先されている。
通常なら、ある程度の収穫を終えれば街道へ戻るのが人類の常識。
だが、コロの瞳は、街道の脇にひっそりと口を開けた、人の往来を拒むような鬱蒼とした茂みを見つめていた。
そこには、獣すら通るのを躊躇うような、細く険しい『獣道』が続いていた。
『……おい。その先はもう、人類が引いた地図の外だぞ。まともな道じゃない』
「知ってるよ。でもね、ウル。人類が歩くためにならした道っていうのは、それだけで魔力の流れが淀んで、生態系が『均一化』されちゃうんだよ。そんな場所で採れるのは、誰にでも見つけられる凡庸な素材だけ」
『まぁ、それはそうだが……』
コロは迷うことなく、険しい獣道へと一歩を踏み出した。
「単純な話だよ。人類が『不便』だと切り捨て、目を逸らした場所にこそ、本来の純粋な魔力が溜まっている。……不便であればあるほど、収穫は甘くなる。それがこの世界の正しい論理でしょ?」
『そうか。精々蛇に噛まれたりするなよ』
「そこまでぼんやりしてないよ」
ウルの巨大な四肢が、小枝を踏み折る音もなくコロに続く。
人一人通るのがやっとの急斜面や、視界を遮るほどの深い霧。
地図の余白を塗りつぶすように進むこと、数時間。
獣道と呼ぶのもおこがましい、ただ獣が草を掻き分けただけの僅かな痕跡。
踏み出すたびに、分厚く堆積した腐葉土が足首までを柔らかく呑み込み、靴底から底冷えするような湿気が這い上がってくる。
巨木の根が血管のように地表をのたうち回り、その表面を覆う濃緑の苔は、人類の靴に踏まれたことなど一度もないかのように瑞々しい露を湛えていた。
頭上を覆い尽くす広葉樹の天蓋が陽の光を完全に遮断し、昼間だというのに周囲は夕暮れのような薄暗さに包まれている。
だが、コロの足取りに迷いはなかった。
むしろ、人の手が一切入っていないこの圧倒的な自然の密度に比例して、大気に溶け込んでいる魔力の濃度が、肌がヒリつくほどに高まっていくのを感じていた。
人類が恐れて近づかない空白の領域。
そこは魔物たちにとって、穢れを知らない極上のゆりかごに他ならない。
やがて魔力の濃度が僅かに薄れ、視界が開けた先に、一人と一匹は「それ」を見つけた。
深い山と険しい谷を越えた先。
地図にも載っていないような辺境の森の奥深くに、馬車が辛うじて通れる程度の道と、その道の先にあるひっそりと息を潜めるように存在する集落があった。
見たところ獣の耳や尻尾、あるいは短い角などを持った『亜人』たちが寄り添い合って暮らす、古く閉鎖的な村のようだ。
広場を囲むように建ち並ぶ木造の家屋はどれも古く、外界の風雨から身を守るというよりは、互いの熱を逃がさないように身を寄せ合うような閉鎖的な構造をしていた。
その広場の中央で、身の丈を越えるほどの巨大な焚き火が猛然と爆ぜている。
運び込まれてくるのは、脂の滴る分厚い獣肉の炙り焼きや、山盛りにされた木の実、そして熟れすぎた果実を発酵させた、むせ返るほど甘い匂いを放つ酒。
赤々とした炎に照らされた亜人たちの顔には、一様に満面の笑みが張り付いている。
だが、その影が地面でせわしなく踊る様は、どこか狂気じみた熱狂を帯びていた。
彼らは旅人をもてなしているのではない。
まるで、嵐の夜に神へ祈りを捧げるような、あるいは忌まわしい厄災を遠ざけるための儀式に熱中しているような、病的で異様な必死さがあった。
ある者は狼の顔を模られた木の面を被り、またある者はその狼の面をした者に仰々しく傅いている。
外界との交流がほとんどないはずのその村を訪れた一人と一匹を、村人たちは異常なほどの熱量で出迎えていた。
「おお、よくぞこんな辺境まで!さあさあ、旅の疲れを癒やしてください!」
「遠慮はいりませんよ。今日は干し肉のスープも、果実もたっぷりありますからね!」
広場の中央で焚き火が焚かれ、次々と豪勢な食事が運ばれてくる。
村人たちの顔には満面の笑みが張り付き、コロとウルを囲んで口々に歓迎の言葉を並べ立てていた。
一見すれば、旅人に対する手放しの善意と歓待の光景。
だが、彼らの目だけは決して笑っていなかった。
どこか焦燥感に駆られ、すがるような、あるいは「見定めている」ような、得体の知れない湿度の高い視線。
木製のジョッキを手渡してきた村長の顔にも、見え透いた愛想笑いがへばりついている。
ヤギのようなねじれた角を持つ老齢の村長は、コロの隣で静かに伏せているウルの巨躯をチラチラと恐れおののくように見やりながら、神妙な面持ちで本題を切り出した。
「実は、腕の立ちそうな旅の御方にお願いしたいことがございましてな……」
「お願い?」
「はい。この村の奥には、古くから神獣様を祀る『神域の森』があるのですが……」
「神域の森?」
コロは、すぐ隣の地面で臥せっていたウルへチラリと視線を送る。
視線を向けられたウルはというと、興味がないと言わんばかりの大きな欠伸を一つするのみ。
「神獣様への奉納の儀式に使う『月白草』という薬草を、森の奥まで採りに行ってはいただけないでしょうか。もちろん、危険な森に入るわけですから、報酬は弾みます」
そう言って村長が卓の上に差し出した麻袋から、チャリン、と重たい金属音が鳴った。
「薬草一本につき、アルド金貨を十枚。いかがでしょうかな?もちろん前金として金貨2枚差し上げましょう」
その場が、水を打ったように不自然なほど静まり返った。
村人たちが皆、息を呑んでコロの返答を待っている。
金貨十枚。
それは、どれほど希少な薬草であろうとも、決して釣り合うことのない破格の報酬だ。
一般の労働者なら、暫くの間は肩の力を抜いたまま暮らせる額である。
コロは無表情のまま、卓の上に積まれた眩い金貨をじっと見つめた。
『……おい、コロ』
周囲の喧騒をよそに、ウルの低く冷ややかな唸り声がコロの耳に響く。
「ん、どうしたの?」
『……俺の鼻は誤魔化せんぞ。この村の連中から漂ってくるのは、旅人を歓迎する純粋な匂いじゃない。腐った生魚を隠しているような、後ろ暗い罪悪感の匂いだ』
ウルの金色の瞳が、周囲を取り囲む村人たちを値踏みするように見回す。
彼の鋭い視線が向けられるたび、村人たちはビクッと肩を震わせ、張り付いた笑顔をさらに引き攣らせていた。
『それに、卓の上のこの金貨……薄っすらとだが、血の匂いが混じってやがる。間違いない、この村の連中、薬草採取だなんだと適当なことを言って、俺達に何かしようとしている』
ウルの的確な状況分析を聞き、コロは心の中で静かに納得した。
計算があまりに合わないのだ。
薬草一本に金貨十枚。それも希少ではあるものの、そこまで値の張る代物ではないはずの薬草。
そんな莫大な対価を支払うのは、その仕事の目的が「薬草の採取」ではなく、その裏側に後ろ暗い何かが口を開けて待っているからに他ならない。
彼らは自らの手を汚さず、神の怒りを鎮めるための供物を、偶然訪れた旅人に押し付けようとしているのかもしれない。
人間も亜人も関係ない。
この「人類」という種族が持つ、どこまでも利己的で醜い生存戦略。
だが、コロは微塵も動揺しなかった。
「……そっか。薬草を一本採ってくるだけで、金貨十枚。すごく割のいい仕事だね」
コロは麻袋を引き寄せ、無表情のまま金貨のうちの2枚を抜き取った。
「いいよ。引き受けるよ、村長さん」
「おお! おおっ! ありがとうございます、旅のお方!あなたは村の救世主だ!」
村長が安堵の涙を流してひれ伏し、周囲の村人たちからも歓声が上がる。
その歓声の奥底に隠された「これで村の者が犠牲にならずに済む」という悍ましい安堵の息遣いを、一人と一匹は完全に聞き取っていた。
『……いいのか?コロ。まんまと損な役回りを引き受けてやる義理などないはずだが……』
「いいんだよ。前金でこれだけの経費が手に入るんだから、断る理由はないでしょ。それに……」
コロは立ち上がり、静かにウルの首元を撫でた。
※ ※ ※
翌朝。
村人たちの白々しい見送りを受け、一人と一匹は村の最奥に位置する『神域の森』へと足を踏み入れた。
境界線として張られた、古く、朽ち果てかけている注連縄をくぐった瞬間、世界から一切の色彩と音が消失した。
鬱蒼と茂る巨木は天を覆い隠し、足元には深い霧が海のように立ち込めている。
鳥の鳴き声も、風の音すらも存在しない。
ただ、圧倒的なまでの「拒絶」の意志が、冷たい空気となって肌を刺してくる。
自分の心臓の鼓動すら、不純なノイズに思えるほどの極限の静寂。
先程まで踏みしめていた腐葉土の感触は消え失せ、代わりに足元には、何百年も降り積もったような冷たく硬い岩肌が広がっている。
海のように立ち込める深い霧は、ただの水分ではない。
微量な魔力を帯び、侵入者の体温と方向感覚をゆっくりと、しかし確実に奪い去っていく『毒』に近い性質を持っていた。
空間そのものが、明確な意志を持って「ここから先へは進むな」と警告を発している。
まるで、巨大な生物の胃袋の中に自ら歩み入ってしまったかのような、本能的な死の予感。
一般的な人類であれば、この空気に触れただけで正気を失い、這いつくばってでも村へ逃げ帰ろうとするだろう。
「……見事な静寂だね。人類が寄り付きたがらないのも頷けるよ」
『ああ。この威圧……かなりの手練れの縄張りだ』
「神獣なんて呼ばれて恐れられているのにも頷けるね」
『だが、この匂い……どうやら『不法投棄』の先客が、ずいぶんと前にこの森へ捨てられていたようだな』
ウルの視線の先、深い霧の向こう側に、苔生した人骨や朽ち果てた武具の残骸が散乱しているのが見えた。
皆、あの村で金貨を握らされ、薬草採取という名目でこの森に送り込まれた「生贄」の成れの果てなのだろうか。
「人類っていうのは、自分たちが生き残るためなら、本当にどんな卑怯な手でも正当化しちゃうんだね」
『ああして事情を知らん同族をここへ送り込んでいる訳か』
「多分ね」
コロは骨をまたぎ、冷たい霧をかき分けながら、森の中心にあるという祠を目指して淡々と歩みを進める。
『……来るぞ、コロ。この森の「主」だ』
「念のため警戒だね。でも、多分平気だとは思う」
『ああ』
ウルの低い唸り声と共に、前方の霧が不自然に渦を巻き、真っ二つに割れた。
ズンッ、という重たい地響き。
周囲の空気が一瞬にして凍りつき、圧倒的な魔力の圧が空間そのものを押し潰してくる。
それは単なる地響きではない。
森の空間そのものが、現れた存在の圧倒的な質量に耐えきれず、悲鳴を上げているかのような大気の震えだった。
前方に立ち込めていた濃密な霧が、目に見えぬ巨大な手で払いのけられるように、逃げるようにして四方へ散っていく。
その霧が晴れた奥から姿を現したのは、神話の壁画から抜け出してきたかのような、人智を超えた美しさと恐ろしさを併せ持つ存在。
一歩踏み出すごとに、その足元の岩肌に霜が広がり、周囲の木々が畏怖するように僅かに傾く。
銀糸を束ねたような純白の毛並みは、差し込む僅かな光を反射して青白く発光し、悠然と揺れる三本の尻尾は、大気中の魔力をかき混ぜて小さな竜巻をいくつも生み出していた。
これこそが、村人たちが恐れ、旅人を捧げ続けてきたこの森の絶対的支配者――『神獣』。
白銀の神獣は、ゆっくりとコロとウルの前に歩み出た。
一触即発の空気が森を支配する。
ウルの背中の毛が逆立ち、銀色の毛並みから臨戦態勢の黒雷がチリチリと火花を散らした。
強者と強者の視線が交差する。
神獣が、その巨大な顎をゆっくりと開き――。
『…………はぁ』
静寂の森に響き渡ったのは、地を揺るがすような咆哮ではなく。
どこまでも重く、深々とした、ひどく所帯染みた『溜息』だった。
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