不浄な排熱と、生存本能 3 〜泥の女王と、黒雷の不導体〜
3.
木漏れ日が泥の表面に斑な模様を描き、森は不気味なほどに静まり返っている。
だが、その静寂のすぐ足元には、数え切れないほどの熱を孕んだ巨大な「悪意」が、今も脈打つように眠っていた。
「――じゃあ、作戦通りにいこうか。二匹とも、質問はある?」
コロの冷ややかな問いかけに、二匹の銀狼は低く喉を鳴らし、獰猛な牙を剥くことで「否」と応えた。
「よし、位置について」
その宣告を合図に、二匹が動く。
野生のアッシュウルフは音もなく後退し、巨大なシダ植物の陰へとその身を完全に溶け込ませた。
風が吹いても葉一枚揺らさないその隠密術は、まさに森の王者に相応しいものだった。
一方のウルは、立ち上がることはせず、冷たい泥の上に伏せたままの姿勢を維持していた。
ただし、先程までの「春の訪れ」を思わせるような穏やかな体温ではない。
『……さあ、たっぷりと喰らうがいい』
ウルは獰猛な笑みを浮かべ、自身の内に秘めた圧倒的な魔力と灼熱の体温を、一切の制限なく真下の泥へと流し込み始めた。
ズンッ……と、空気が重くなる。
ウルの周囲の泥が、急激な温度変化によってジュウジュウと白煙を上げ始めた。
それは、地下深くに眠る『泥の女王』にとって、極上の餌が真上に現れたことを意味していた。
下流から流れ込むぬるま湯など比べ物にならない、純度と熱量を併せ持った特大の熱源。 生存本能と強欲に突き動かされた女王が、それに喰らいつかないはずがなかった。
――ズズズズズッ!!
大地が腹の底を擦るような低い唸り声を上げ、足元の泥が不自然に隆起を始める。
逃げ場のない熱が地中で暴れ、地表の水分を一気に蒸発させていく。
「――来るよ、ウル」
『ああ。随分と食い意地の張った気配だ』
直後、ウルの真下の泥が、内部の圧力に耐えかねたように派手に爆発して吹き飛んだ。
「――ギチチチチィィッ!!」
飛沫を上げて地表へ躍り出たのは、先ほど下流で見た泥這い蟲とは比較にならないほど巨大で、醜悪な肉塊だった。
丸太ほどの太さがある赤黒い胴体は、溜め込んだ排熱と不浄な水でパンパンに膨れ上がり、皮膚の隙間からは有害な蒸気が噴き出している。
先端にある巨大な口には、獲物を泥ごとすり潰すための無数の牙が、円状にびっしりと並んでいた。
女王は、自身の屋根の上で無防備に横たわる「銀色の熱源」を見つけるや否や、狂喜の叫びを上げてその巨大な顎を大きく開いた。
鋭い牙と、金属をも溶かす酸性の泥が、ウルの頭上から無慈悲に降り注ごうとする。
だが、それでもウルは微動だにしなかった。
逃げるどころか、迎撃の黒雷を放つ素振りすら見せず、ただ冷ややかな黄金の瞳で女王の口内を見つめている。
無防備な獲物を完全に捕らえたと、泥の女王が確信したその刹那。
『――俺の森を、これ以上汚すな』
死角である真横の茂みから、一条の銀の流星が飛んだ。
完璧に気配を殺し、攻撃の機会を窺っていた野生のアッシュウルフだ。
彼は、魔力や魔法といった小細工を一切使わなかった。
ただ己が持つ、この森の頂点たる圧倒的な身体能力と、獲物の急所を違えない『牙』だけを武器にしている。
「ガアアアアッ!!」
空中で身を翻したアッシュウルフの強靭な顎が、女王の首元――膨れ上がった胴体の中で最も装甲が薄い神経節の集中する部位――に、深々と食い込んだ。
「ギ、ギィィィイッ――――!?」
ブチブチと、分厚い皮膚と肉が引き裂かれる悍ましい音が響く。
アッシュウルフはそのまま自身の巨大な質量と落下のエネルギーを利用し、女王の巨体を強引に泥の沼へと叩きつけた。
ドォォォンッ!!という地響きと共に、不浄な泥水が四方へ散る。
『これで終わりだ』
野生のアッシュウルフは首を激しく振り抜き、女王の急所を完全に粉砕した。
ビクビクと痙攣していた巨大な赤黒い胴体は、やがてドロドロの泥の塊へと還るように崩れ落ち、二度と動かなくなった。
圧倒的なまでの、完全なる物理的蹂躙。
森の生態系の頂点はどちらであるかを示す、一方的な狩りだった。
女王が完全に沈黙したのを見届けると、ウルはゆっくりと立ち上がり、毛並みについた僅かな泥をブルブルと振り払った。
「うん、完璧だったね。二匹とも、お疲れ様」
コロは泥の跳ねていない安全圏から歩み寄り、ウルの首元をポンポンと労うように叩いた。
そのまま、ウルの首元をワシワシと撫でつつ言葉を継ぐ。
「地下で不浄な熱を溜め込んでいた女王にとって、ウルの放つ圧倒的な純度の熱源は、絶対に抗えない極上の御馳走だったはずだよ。……でも、あれだけ大きくても、所詮は蟲型の魔物だね。目の前の大きな熱源に気を取られて、横からの接近に全く気がついていなかった」
『ああ。あの分厚い泥と排熱の層には俺の「黒雷」が通らないうえに、地中では妙にすばしっこくて難儀していたんだ。お前が囮になってくれたおかげで助かったぞ』
野生のアッシュウルフが、牙についた汚い泥を吐き捨てながらそう言うと、ウルは少しばかり心外だと言わんばかりにフンと鼻を鳴らした。
『……俺とお前とでは、纏う魔力の質も、身体の大きさも随分と違うと思うんだがな。あいつは俺を、いつも頭上を歩いているお前だと勘違いして喰いついてきたのか?』
『そこは所詮、蟲型だからな。熱に浮かされて、ひどく頭が悪いんだろう』
野生のアッシュウルフが忌々しげに女王の残骸を一瞥する。
その魔物同士のプライドが垣間見える呆れたようなやり取りを聞き、コロはクスッと笑って肩を竦めた。
「ふふっ。私たちが、その辺を走っているウサギやリスの個体の区別がつかないのと同じだよ。大抵、別の種族の見た目なんて、なかなか区別がつかないものだからね。女王からすれば、ウルも同族のお兄さんも『同じくらい美味しそうな銀色の熱源』にしか見えていなかったってことだよ」
コロのあっけらかんとした真理の解説に、二匹の銀狼は顔を見合わせ、腑に落ちたように同時に喉を鳴らした。
「さて、これの主がいなくなったから、周囲の泥に溜まっていた熱も、次第に抜けていくはずだよ。あの異常な温水そのものを止めたわけじゃないけど、女王が吸い上げなくなった分、下流の連中が騒いでる場所の泥這い蟲も、そのうち元の数に戻るんじゃないかな」
『……そうか。色々と助かった』
「同族のよしみというやつだよ。私たちが欲しかったものを手に入れるための、ただの相互協力」
コロが鞄をポンと叩くと、中から極上の火見草が放つ清純な魔力が微かに漏れ出した。
『そうだ、女王の石はどうする?』
野生のアッシュウルフはそう言って、ドロンと倒れている女王の死骸を前足でチョンと突いてみせた。
そんな言葉にコロは、小さく肩をすくめてみせた。
「あの『石』……人類の言葉で言う『魔核』だね。それはお兄さんが持っていきなよ」 『いいのか? かなり巨大で、純度の高い熱が詰まっているぞ。人類の魔法とやらを使えば、これもかなりの肉に化けるはずだが』
「そうだね。でも、私たちの目的はもう果たしたし、あの草の分だけで十分だから、これ以上の欲を張る気はないよ。それに……」
コロは森の奥――冷たい木立の向こうへと視線を向けた。
そこには、巨大なシダ植物の陰から、こちらの様子を恐る恐る窺う『小さな影』がいくつも潜んでいた。
頭に小さな角を生やしたウサギのような魔物や、霜の降りた枯れ葉を被った丸いタヌキのような低位の魔物たち。
女王に熱と魔力を根こそぎ奪われ尽くした極寒の縄張りで、身を寄せ合いながら飢えに耐えていた、森の非力な住人たちだ。
彼らは、森の頂点たる二匹の銀狼に本能的な恐怖を抱きながらも、女王の死骸の中心にある巨大な『熱の塊』の匂いに抗いきれないのか、震える足で限界まで近づいてきていたのだ。
「縄張りの主として、その石を必要とするような小さな子たちにでも分けてあげるといいよ。あの女王に熱を吸い尽くされて、お腹を空かせている子たちがいっぱいいるみたいだからね」
その提案に、野生のアッシュウルフは森の陰で震える小さな魔物たちを一瞥し、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
やがて彼は、腑に落ちたように喉の奥で優しく、深く唸る。
『お前たちは、本当に奇妙な奴らだ。……だが、悪くない。この森を通る時は、またいつでも声をかけろ』
野生のアッシュウルフは、一人と一匹に深い敬意を込めた視線を送ると、同等の力を持つ雄同士の礼儀として、ウルに向けて静かに頭を下げた。
コロとウルはその静かな感謝を背に受け、踵を返した。
光の届かない冷たい森を、ゆっくりと歩み去っていく。
遠ざかる背後で、ガサガサと茂みが揺れ、無数の小さな気配が女王の残骸――極上の熱を宿した『魔核』の周りへと、ワラワラと集まっていくのを感じた。
それは、弱肉強食の森に訪れた、ささやかで確かな『循環』の気配だ。
だが、一人と一匹は一度も振り返ることはなかった。
それから数時間後。
南の街『ロンド』の薬草買い取り所は、かつてないほどの熱気と騒音に包まれていた。
「おい!もっとマシな火見草を持ってる奴はいねえのか!んなもんじゃ、溶鉱炉の熱が抑えきれねえぞ!」
「さっきから持ち込まれるのは、魔力がスカスカの粗悪品ばかりじゃねえか! こんなんじゃ使い物にならねえ!」
「とりあえず排水を進めろと言っておけ!ジャンジャカ流しておけ!」
カウンターの奥で、買い取り所の主人が血走った目で怒鳴り散らしている。
彼の目の前には、下流の採取家たちが松明で無理やり咲かせた、薄っぺらい赤色の火見草が山のように積まれていた。
先程、コロが言っていた『空っぽの粗悪品』ばかりが山積みになっている。
「……随分と困っているみたいだね」
騒がしい人混みを掻き分け、カウンターの前に進み出たのは、身の丈ほどもある大きな鞄を背負った銀髪の少女だった。
「ああん?なんだ子供、今ここは戦場なんだ、遊びなら他所でや――」
「これ、全部買い取ってくれる?」
コロは主人の言葉を遮り、背負っていた鞄をドン、とカウンターに置いた。
そして、無造作に鞄の留め金を外す。
その瞬間。
買い取り所の中に充満していた、汗と焦燥と粗悪な薬草の匂いが、一瞬にして吹き飛んだ。
鞄の中から溢れ出したのは、内側から脈打つように燃える、深い柘榴色の真紅。
そして、周囲の空気を清浄化するような、圧倒的な「純度の高い魔力」の波動だった。
「な……っ!?こ、これは……!!」
主人は椅子から転げ落ちそうになりながら身を乗り出し、震える手でその火見草の一本を手に取った。
パニックを起こして咲いた空っぽの粗悪品とはまるで違う。
静かな冷たい泥の中で、極上の安心感に包まれてゆっくりと花開いた、完全な状態の『火見草』。
「ば、馬鹿な……。今時、こんな純度の高い特級品が、これほどの量で……!?ど、どこでこれを!?」
「静かで、冷たい泥の中で拾ったんだよ。それ以上は内緒。職人はやすやすと手の内を明かさないものだからね」
コロは無表情のまま、淡々と言葉を継いだ。
「さて、おじさん。溶鉱炉の冷却に必要で困ってるんでしょ?足元を見る気はないから、市場の『最高値』の相場で全部買い取ってよ」
「さ、最高値!?いや、しかしこれほどの量となると、金貨が……」
「ふーん、出せないなら、他の街の錬金術師にでも売るけど?」
コロが冷たく言い放ち、鞄の蓋を閉じようとした瞬間。
「ま、待て!買う!買うから閉めないでくれ!おい、金庫からアルド金貨を出してこい! あるだけ全部だ!!」
主人の悲鳴のような指示が飛び交い、買い取り所はさらなる狂乱の渦へと巻き込まれていった。
人類たちの慌ただしい様を傍観していたウルは、その場でボフンと伏せ、深い溜息をつきながら身体を丸めた。
店の外。
重たい金貨の入った袋をいくつも抱えて出てきたコロを、ウルが呆れたような顔をしながらも、支えるようにしてコロの身体に寄り添った。
『……人類というのは、草を前にしてよくあそこまで大声を出せるものだな』
「ふふ、だね。でも、これでまた当分は路銀の心配がいらなくなったよ。ウルの肉も、一番高いのを買える」
『それは重畳だ』
環境破壊が生んだ需要につけ込み、間違った知識で自滅する人類から、最大の利益をむしり取る。
コロにとって、街の生態系を救うことなど端から興味はなかった。
ただ、結果として自分たちの計算が合い、最高効率で「適正な経費」が手に入っただけのこと。
「さて、買い出しに行こうか、ウル」
『ああ。これ以上、あの不快な温水の匂いを嗅ぐのは御免だからな』
「その前に、こんな大量の金貨は邪魔だから、何か効率のいい資産に換金しておこうかな」
『また魔力を持ったガラス玉か?』
「ガラス玉じゃなくて『魔結晶』だよ。ミスリルみたいな金属の鉱石とも、さっきの魔核とも違う、純粋な魔力を帯びた宝石。軽くて価値も高いし、人類の縄張りならどこだってお金になるんだ」
『ふん、何の腹の足しにもならん。人類というのは――』
「はいはい、そうだね」
『なんだ?』
「ふふ、いつも二言目にはそれなんだもん」
一人と一匹は、狂乱するロンドの街を背に、次の静かな観測地を求めてゆっくりと歩き出した。
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