不浄な排熱と、生存本能 2 〜奇妙な魔法と、柘榴の真紅〜
2.
騒がしい採取家たちの怒声と、焦げた泥の不快な匂いを背にして。
一人と一匹は、旧道のさらに奥深く、鬱蒼と茂る広葉樹が光を遮る「本当の森の深部」へと足を踏み入れた。
幾年月もの時間をかけて折り重なった腐葉土は、踏みしめるたびにふかふかとした独特の弾力を返し、人類の硬いブーツの音さえも優しく吸い込んでいく。
頭上を覆う樹冠はあまりにも分厚く、真昼だというのに、まるで夕暮れ時のような薄暗さだ。
その代わりに、樹々の隙間から細い糸のように垂れ下がる木漏れ日が、霧がかった森の空気を白く浮かび上がらせ、幻想的な光の柱を何本も作り出している。
耳に届くのは、風が梢を揺らす朧げなざわめきと、どこか遠くで名も知らぬ鳥が鳴く声だけ。
先程までの、欲にまみれた怒声や松明の爆ぜる音など、最初からこの世界に存在していなかったかのような、完璧で、圧倒的なまでの『自然の静寂』がそこにはあった。
数十分も歩くと、空気の質が劇的に変わった。
先ほどまでの、肺にまとわりつくような人工的な熱気は完全に消え失せ、代わりに肌を刺すような、清冽で冷たい森の空気が戻ってくる。
足元の泥も嫌な温かさを失い、本来の秋の森が持つ冷え冷えとした静寂を保っていた。
「……うん、この辺りならあの異常な温水の影響は受けていないね。泥もちゃんと冷たい」
コロはしゃがみ込み、手袋を外した指先で足元の泥の温度を確かめた。
腐葉土と冷たい水が混ざり合った、ノイズのない自然の冷たさ。
あの愚かな採取家たちがこの豊かな領域に足を踏み入れないのには、ただ彼らが目印を見つけられなかったという理由の他に、もう一つ、明確な理由があったようだ。
「……いるね、ウル」
『ああ。風下から完璧に気配を消して近づいてきているが……俺の鼻は誤魔化せん』
ウルの金色の瞳が、前方にある巨大なシダ植物の群生へと鋭く向けられる。
音もなく、枯れ葉一つ揺らすことなく、暗がりから「それ」は姿を現した。
ウルと同等の巨躯と角を持つ、美しい灰銀色の毛並みを持った獣。
この森の生態系の頂点に君臨する魔物――野生のアッシュウルフのオスだった。
野生のアッシュウルフは、臨戦態勢を取るわけでもなく、ただただ困惑したような、深い疑念を宿した瞳で一人と一匹を……特に、コロの姿をじっと見つめていた。
『……奇妙だな。風に乗ってきたのは、間違いなく同族の番の匂いだった。縄張りを探しに来た若い番かと思ったのだが……そこにいるのは、どう見ても人類の小娘だ。いや、しかし匂いはどう考えても……』
喉の奥を低く鳴らしながら、野生のアッシュウルフが困惑している。
その警戒と混乱の入り混じった様子に、コロは敵意がないことを示すように両手を少しだけ広げ、淡々と、しかし同族への親愛を込めて応えた。
「混乱させてごめんね。信じられないと思うけど、私はもともと、あなたの同族のメスだよ。……今は事情があって、こうして人類の器を借りているけれど、中身は人類じゃないんだ」
『ほう、言葉も分かるのか!人類の器に入った、同族だと……?』
野生のアッシュウルフは驚きに目を丸くし、再びスンスンと鼻を鳴らした。
視覚の情報を捨て、己の最も信頼する嗅覚だけでコロを「観測」した彼は、やがて敵意を完全に収め、深く納得したように息を吐いた。
『……なるほど。確かに、言葉も分かるうえ、お前の魂の匂いは俺たちと同じだ。それに、そっちの豪傑が、ただの人類にそこまで気を許すはずもないか』
『急に縄張りを邪魔してすまんな。俺たちは、少しばかり探し物があってこの森に来ただけだ。目的が済んだら、すぐに立ち去る』
ウルが一歩前に出て、同等の力を持つ雄同士の礼儀として、静かに頭を下げた。
『ん、探し物だと?この森に、お前たちのような強者を引き寄せるようなものなどあったか?』
「『火見草』っていう草だよ」
『火見草……?それは一体、どんなものだ?』
「普段は冷たい泥の中に隠れているんだけど、あなたみたいに温かい体温と魔力を持った魔物が近づくと、それに反応して赤い花を咲かせる植物だよ」
コロが答えると、野生のアッシュウルフは心底呆れたようにマズルにシワを寄せた。
『ああ、あのそばにいると、泥の中からにょきにょきと生えてくる気味の悪い草のことか。そういえば、縄張りの外で人類どもが馬鹿みたいに騒ぎ散らしているが、ひょっとして奴らもあれを探しているのか?』
「うん、そうだよ。目の色を変えてね」
『なぜあんなものが必要なのだ?腹の足しにもならん上に、魔力ばかりが強くて不気味なだけだろう。……ふん、人類という生き物は本当に分からんな』
野生の魔物である彼にとって、食べられないただの草を血眼になって集める人類の行動は、狂気の沙汰にしか見えないらしい。
その素直な疑問に、コロはクスッと笑って肩を竦めた。
「私たちからすれば、明日を生きるための肉の方がよっぽど重要だけどね。でも、人類の縄張りでは、あんな草が大量の肉に化けるっていう、不思議な魔法で溢れているんだよ」
『草が肉に化ける魔法だと?』
そう言って耳をピンとコロに向けたアッシュウルフに向け、ウルがフンと鼻を鳴らした。
『要は取引の道具ということだ。人類はそうやって、直接命を奪わずとも生き長らえる面倒な仕組みを作っている』
ウルの補足説明を聞き、アッシュウルフはブルルと首を振った。
『……奇妙な魔法もあったものだ。俺たちなら、その牙で直接肉を獲れば済む話だというのに』
「だね。でも、今の私は人類の器だから、その魔法のお世話にならないといけないんだ」
『そうか。お前たちがその奇妙な魔法とやらのためにあの草が必要だというなら、好きに持っていくがいい。……その代わりと言ってはなんだが、同族のよしみでひとつ、手伝ってくれないか?』
野生のアッシュウルフからの唐突な提案に、コロは二つ返事で頷いた。
「困り事?うん、私たちで協力できそうなことなら、喜んで手伝うよ」
先ほど、異常な熱水によって狂わされつつある生態系の中で暴れる人類たちを見た時は、「人類のための世直しに首を突っ込むほどお人好しじゃない」と冷酷なまでに言い捨てていたコロ。
だが、相手が自分の愛する「同族」となれば話は全く別なようだ。
彼女の行動原理は、いつだって嘘がない。
コロの迷いのない返答に、アッシュウルフは喉をゴロゴロと鳴らして喜びを表現すると、足元の冷たい泥をトントンと前足で叩いた。
『困り事の種は、俺たちが今立っているこの真下にいる』
「え?真下?」
そう言って足元に視線を落としたコロ。
ウルも足元をスンスンとかぎ始める。
そんな一人と一匹の様子を眺めつつ、言葉を継ぐアッシュウルフ。
『ああ。どこかから流れ込んできたぬるい水を、そっくりそのまま腹に溜め込んで変異した『泥這い蟲の女王』が、この地中深くに巣を作って寝ている』
「女王……たしかにさっきは小さい奴らが凄い数いたよ」
『ああ、そして女王が周囲の熱を根こそぎ腹に吸い込んでいるせいで、皮肉なことに、巣の真上の泥だけは極端に冷え切っている』
その解説を聞いた瞬間、コロの頭の中で散らばっていた情報が、カチリと音を立てて一つに繋がった。
「なるほどね。計算が完璧に合ったよ。だからこの場所だけ、火見草にとって最高の環境が保たれていたんだ」
地面の匂いを嗅いでいたウルが、跳ねるようにして顔を上げてコロの瞳を見つめた。
『?どういうことだ?』
「さっきの人類たちはね、火見草を探すために松明で泥を炙っていたよね」
『だな。ギャーギャー喚きながら、まるで奇妙な儀式でもしているようだったぞ』
「でもね、火見草は本来、こういう『冷たい泥』の中でひっそりと育つ植物なんだよ。あんな風に急激な炎の熱や異常な温水に当てられると、『このままだと焼け死ぬ』ってパニックを起こして、死ぬ前に無理やり種を散らそうとする……言わば、生存のための防衛本能だね。そうやって無理やり咲かせた花は、魔力がすっかり揮発しちゃって空っぽの粗悪品にしかならない」
コロは、眠る女王の巣の屋根――冷え切った泥の中心付近を指差した。
「本当に純度の高い極上の火見草は……静かで冷たい泥の中で『穏やかで優しい熱』を感じ取った時にだけ、安心してその花を開くんだよ」
『ふむ……なるほど。お前たちのもくろみは理解した。よし、一番群生している場所に案内しよう』
ウルの返事よりも先に、アッシュウルフがそう言って喉を鳴らし、茂みの方へと歩みを進めた。
野生のアッシュウルフの背中を追い、一人と二匹の銀狼は、光の届かない森のさらに奥深くへと足を踏み入れた。
足元は次第にぬかるみを増し、本来なら踏みしめるたびに泥の跳ねる嫌な水音が鳴るはずの場所だ。
だが、この森の主であるアッシュウルフも、ウルの巨躯も、そしてコロの無駄のない歩法も、ただの一滴の泥飛沫すら起こすことなく、影のように滑らかに進んでいく。
数十分ほど歩いた先。
巨大な倒木とシダ植物に囲まれた、ぽっかりと開けた沼地に辿り着いた。
そこは、周囲よりも一段と空気が冷え込み、息を吐けば白く結露しそうなほどだった。
地下深くに異常な熱を溜め込んだ「泥の女王」が眠っているというのに、その真上にあるこの場所は、全ての熱を貪欲に吸い尽くされて極限まで冷え切っているのだ。
『ここだ。俺が歩くたびに、一番多くあの気味の悪い草が顔を出してきたのは、この辺りだったからな』
アッシュウルフは沼の端で立ち止まり、鼻先で中心部を指し示した。
「ありがとう。完璧な場所だよ」
コロは深く頷き、沼の中心――最も泥が深く冷たい、女王の寝室の真上を見定めた。
「ウル、あそこに伏せて。できるだけリラックスして、身体の力を抜いてね。……ああ、地中の女王を起こさないように、そっとね」
『分かった。俺が寄せ餌になるというわけだな』
ウルは呆れたように鼻を鳴らすと、言われた通り、冷たい泥の上にその巨大な身体を静かに横たえた。
ウルの銀色の毛並みから、巨大な獣特有の「穏やかで力強い体温」が、じわじわと冷たい泥の中へ伝わっていく。
数十秒が経過した頃――泥の表面が、微かに波打った。
ウルの身体を囲むようにして、泥の中からニュッと無数の茎が伸び出した。
それは先ほどのパニックを起こしたような暴力的な成長ではない。
外の世界の脅威から身を守るために分厚い泥の布団を被っていた種子たちが、春の訪れを知らせるような「絶対的な安心」に包まれ、待ちわびていたように背伸びをする姿だった。
泥の表面を覆うように広がった葉は、濡れた翡翠のように瑞々しい緑色を湛え、その中央から、ゆっくりと、ふわりと、何層にも重なった花弁がほどけていく。
開花に伴って溢れ出した純度の高い魔力が、細かな金色の粒子となって、火見草の周囲を蛍のようにふわりふわりと舞い始めた。
静寂の森の中。
薄暗い木漏れ日を浴びて開いたその花弁は、松明で炙られたもののような薄っぺらい赤色ではない。
内側から脈打つように燃える、深い、深い柘榴のような真紅だった。
泥の黒、ウルの毛並みの銀、そして燃え立つような真紅。
三つの色彩が、木漏れ日のスポットライトの中で、一枚の完璧な絵画のように調和している。
匂いはない。
ただ、そこにあるだけで周囲の空気が清浄化されるような、圧倒的な「生命の純度」だけが静かに主張していた。
『……これは、見事だな』
自分の周囲で一斉に咲き誇った真紅の花畑に囲まれ、ウルが感嘆の息を漏らす。
野生のアッシュウルフもまた、ただの気味の悪い草だと思っていたものが放つ、魔力の純度の高さと美しさに言葉を失って見惚れていた。
「……うん、最高純度の火見草だね。これなら、あの馬鹿げた熱水を作っているであろう街の連中に、一番高い値段で売りつけることができるよ」
コロは、ウルの優しい体温によって咲いた極上の薬草を、一切の無駄のない動きで、だが花弁を傷つけないよう極めて丁寧に摘み取っていく。
「さて、私たちの目的は済んだよ。……それじゃあ、同族のお兄さん」
鞄を極上の真紅で満たしたコロは立ち上がり、足元の泥――眠る女王の巣を、ブーツの踵でドン、ドンと無遠慮に踏み鳴らした。
「極上の草を育ててくれたお礼に、不法占拠してる下の家主を叩き起こして、綺麗に掃除しようか」
コロの冷たい瞳の奥に確かな狩猟者の光が宿り、二匹の銀狼が同時に、獰猛な牙を剥き出しにして喉を鳴らした。
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