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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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不浄な排熱と、生存本能 1 〜異常な温水と、空っぽの草〜

1.


降り続いた雨はようやく上がり、灰色の雲の切れ間から、ぼんやりとした真珠色の陽光が地上を覗き込んでいた。


出発の朝。

部屋の暖炉の火はすっかり落ち着き、窓ガラスにはまだ細かな水滴が張り付いている。

コロは丁寧に荷物をまとめ、最後に昨日のおばちゃんから買った硬いチーズの端切れをウルの口へと放り込んだ。


『……ん。悪くない目覚めだ』

「でしょ。路銀も食糧も体力もバッチリ。旅の準備は完璧だよ。さあ、行こうか」


コロは宿の主人に礼を言い、二日ぶりに外へと通じる扉を開け放った。




名もなき宿場町の朝は、人類たちの怒号と重いため息で満ちていた。


「くそっ!車輪が完全に泥に埋まってやがる!馬をもっと引け!」

「馬鹿野郎、これ以上引かせたら馬の足が折れちまうぞ!荷を半分下ろすしかない!」


窓から見下ろした通りの惨状の通り、土が剥き出しだった本街道は、無数の足跡と雨水が捏ね回されたことで、足首まで浸かるほどの底なし沼と化していた。

行き場を失って立ち往生していた商人たちの重い荷馬車は、進むことも戻ることもできず、泥の中で完全に動きを止めている。

あちこちで飛び交うのは、天候への恨み言と、言うことを聞かない輓獣への罵声ばかりだ。


そんな騒乱の街路を、一人と一匹は涼しい顔で通り抜けていく。


「……人類っていうのは、本当に不便だね。あんなに重い箱を引きずり回さないと、生活も商売もできないんだから」


コロは泥の浅い部分や、平らな石の上だけを的確に選び出し、一切の無駄がない歩法でぴょんぴょんと飛び移っていく。

その隣では、ウルの銀色の四肢が、泥を跳ね上げることもなく滑らかに進んでいた。

彼の体重はコロの何倍もあるはずだが、そのしなやかな肉体と足裏の構造が重力を完璧に分散させており、泥に深く沈み込むことはない。


『自ら余計な荷物を抱え込んで、動けない動けないと喚いているんだ。滑稽な生き物だ』

「そうだね。私たちは自分の身一つとちょっとの荷物と、相棒がいれば、どこへだって行けるのに」


二人は泥まみれになって喚く商人たちを一瞥しただけで、足を止めることなく南の門をくぐり抜けた。


本道をしばらく南下し、やがて街道からひっそりと分岐する『旧道』へと足を踏み入れる。

行商人のおばちゃんが言っていた通り、そこは人の気配から完全に切り離された空間だった。


鬱蒼と茂る広葉樹の枝葉が天蓋のように空を覆い、薄暗い足元には、数日分の雨をたっぷりと吸い込んだ苔と腐葉土の絨毯がどこまでも続いている。

人や馬車が通った新しい轍は一つもない。


ただ、風が葉を揺らす微かなざわめきと、木立からこぼれ落ちる雫の音だけが、森の深い静寂を形作っていた。




「……っと。これは、ちょっと厄介だね」


旧道を進んで小一時間ほど経った頃、コロはピタリと足を止めた。

視線の先では、長雨の影響なのか、斜面の一部が崩落し、旧道を完全に塞ぐ形で巨大な泥の沼を形成していた。

迂回しようにも、両脇は切り立った岩壁と深い茨の群生地だ。


「この(からだ)だと、膝上まで泥に浸かることになっちゃう。……迂回路を探すとなると、往復でとんでもない時間の浪費だね」


コロが脳内で効率的なルートの再計算を始めた、その時だった。


『……乗れ』


ウルが短い唸り声と共に、コロの前に進み出て、その巨大な身体を伏せさせた。


「いいの?ウルの毛並みが汚れちゃうかもしれないよ」

『この程度の泥、俺の脚力なら飛沫ひとつ上げずに越えてみせる。来た道を引き返す無駄歩きなど御免だからな』


ウルの頼もしい言葉に、コロは小さく笑みをこぼした。


「ありがとう。じゃあ、遠慮なく」


コロはフェルムの街で新調した漆黒のハーネスをしっかりと掴み、ウルの背に跨る。

鋼のような筋肉の躍動が、革越しにダイレクトに伝わってきた。


『くれぐれも舌を噛むなよ』


ウルが低く唸った瞬間、爆発的な推力が生み出された。

まるで空間そのものを蹴り飛ばしたかのような、暴力的なまでの脚力。

十メートル以上はある泥の沼を、ウルは助走すらなしに一息で跳躍した。


コロの視界が一気に持ち上がり、頬を冷たい森の風が撫でていく。

眼下には人類を絶望させる底なしの泥沼が広がっているが、空を駆ける二人には何の脅威も及ぼさない。

フワリ、と重力が消失したかのような浮遊感の後、音もなく、対岸の乾いた土の上へと完璧な着地を決める。


あれほどの質量が着地したはずなのに、ウルの四肢は衝撃を完全に吸収し、枯れ葉一枚すら音を立てて舞い上がることはなかった。

銀色の毛並みには、泥の跳ね返りなど一滴たりとも付着していない。


「……お見事。やっぱりウルは世界一頼りになる相棒だね」

『フン、当然だ。俺を誰だと思っている』


誇らしげに鼻を鳴らすウルから降り立ち、コロは再び自分の足で歩き始めた。




「……随分と歩きにくい道だね」


コロは泥に深く足を取られないよう、ブーツの裏で慎重に地面の感触を確かめながら進む。

その隣では、ウルの銀色の四肢が、音もなく滑らかに森の地表を捉えていた。

小枝を踏み折る音すら立てないその優美な歩法は、この圧倒的な自然の中に完全に溶け込んでいる。


二人の間には、無駄な会話は必要ない。

ただ並んで歩く。

それだけで成立する完成された静寂が、彼らの旅路の基本構造だった。


鼻腔を満たすのは、雨上がりの森特有の、むせ返るような濃密な生命の匂い。

冷たく湿った空気が、コロの肺を心地よく満たしていく。

だが――旧道の奥へ進むにつれ、その完璧な自然の香りに、明らかな「異物」が混ざり始めた。


『……おい、コロ』


静寂を破る、ウルの低い唸り声。


「ん、どうしたの?」

『どうにも不快な匂いがする。鉄が錆びて焦げたような、あるいは……そうだな、不自然に精製された人類が作る薬のような……この静かな森には、到底似つかわしくない匂いだ』


隣を歩くウルがピタリと足を止め、銀色のマズルに深いシワを寄せて低く唸った。

彼の黄金の瞳が、見えない悪臭の発生源を睨みつけるように細められる。

コロも鼻をスンスンと動かし、そして小さく頷いてみせた。


「ウルの言う通りだね。それに……」


コロもまた歩みを止め、旧道の脇を縫うように流れる小さな小川に視線を落とした。

雨上がりで周囲が泥だらけだというのに、その小川の水だけは不自然なほどに透き通っていた。

いや、それだけではない。水面からは、周囲の冷たい空気とは相反する、微かな湯気のようなものが立ち上っている。


コロはしゃがみ込み、手袋を外した指先をそっとその水に浸した。


「……水が、ぬるいね」

『ぬるい?』


ウルも静かに右前足の先を小川にチョンと浸してみた。


『……妙だな』

「うん。こんな雨上がりの、陽の光もろくに届かない森の小川で、水が体温と同じくらいに温かいんだよ」


コロは濡れた指先をこすり合わせながら、首を傾げた。


『上流で、熱を持った厄介な魔物でも死んで腐っているのか?』

「いや、それにしては水自体は綺麗すぎるね」

『そうだな。魔物の死骸が原因とは思えん綺麗さだ』

「血や肉の腐敗した匂いは一切しないけど、舐めちゃだめだよ?」

『馬鹿言え。そんな不用意な真似をするか』


ウルは呆れたように鼻を鳴らすと、しゃがみ込んでいるコロの肩に、ボフンと軽く自分の大きな頭をぶつけるようにして体当たりをした。

冷たい森の中で、その銀色の毛並みから伝わる確かな体温と重みが、コロの心を少しだけ温める。


『しかし、魔物ではないのはたしかだな。俺の鼻が、生物の死骸の匂いを嗅ぎ逃すはずがない』

「だとしたら、魔力だね。上流にあるロンドの街か、あるいは誰かが、大量の熱を持った『何か』をこの小川に垂れ流しているんだよ」


コロが淡々と分析を終えた、その時だった。


「おらっ!さっさとを顔を出しやがれ!」

「泥這い蟲だ!討伐班は対処!採取班は引き続き松明を近づけろ!」


森の奥から、下品で騒がしい人類の怒声と、炎が爆ぜる音が、暴力的に森の静寂を切り裂いて響いてきた。


一人と一匹が音のする方へ歩みを進めると、開けた湿地帯で、十数人のガラの悪い傭兵や採取家風情の男たちが、泥まみれになって暴れ回っていた。


彼らの足元――ぬかるんだ温かい泥の中からは、ヒルとムカデを掛け合わせたような、赤黒く肥大化した『泥這い蟲』が無数に湧き出している。

ブチブチ、ジュルリと、泥を啜るような卑猥な音。

時折、彼らが吐き出す酸を含んだ泥が男たちの鎧やブーツに降りかかり、ジュッと嫌な音を立てて表面を腐食させている。

その蠢く様は、見る者の生理的な嫌悪感を容赦なく刺激する醜悪さだった。


「ひぃっ、また足元から出やがった!焼け、ついでに焼いちまえ!」


男たちは松明や粗悪な炎魔法を振り回し、蟲たちを次々と焼き払っていく。

すると、松明の暴力的な熱に当てられた泥の中から、ニュッと長い茎が伸び、真っ赤な炎のような花弁を持つ植物が一斉に顔を出した。


それこそが、ロンドの街で飛ぶように売れているという薬草『火見草』だった。


だが、その咲き方はあまりにも不自然だった。

まるで暴力的な熱から逃れようと必死に首を伸ばし、死の直前に無理やり種を残そうと喘いでいるかのような、悲鳴にも似た開花。

本来ならゆっくりと時間をかけて魔力を満たして開くはずの花弁が、急激な温度変化にパニックを起こして限界まで開ききり――その直後、薄紅色の魔力の粒子を蒸気のように虚空へと散らしてしまう。


コロの静かな瞳には、その花が「咲いた瞬間からすでに枯れ始めている」という事実がはっきりと見えていた。


「おおっ!咲いたぞ!採取班!引っこ抜け!」

「こっちにもあるぞ!蟲ごと燃やしちまえ!」


男たちは泥這い蟲の気味悪さに悪態をつきながらも、顔を出した火見草を狂ったように引き抜いては、麻袋へと詰め込んでいる。


少し離れた木陰からその狂乱の様子を眺めていたウルが、呆れたように鼻を鳴らした。


『……ふん。見栄えはいい赤い花だが、中身がスッカラカンの匂いがするぞ。あんな空っぽの草を大声で摘み取って、何が楽しいのやら』

「そうだね。私も同感だよ」


コロは微塵も感情の動かない冷めた瞳で、温かい泥と、狂乱する人類たちを交互に「観測」した。


「……なるほど、でも少し分かったことがあるよ」

『ああ、あの人類たちが愚かだということがよく分かった』


フンと鼻を鳴らしながらそう言ったウルに、コロはクスッと笑ってしまう。


「はは!それはそうだけど、そうじゃないよ」

『ん、じゃあなんだ』

「この異常な温水がね、泥這い蟲の繁殖サイクルを狂わせて異常発生させているんだ。で、あの人たちは火見草を見つけるために、松明でさらに泥を炙っている」

『その口ぶりからすると、火見草の採取の仕方としては悪手ということか?』

「うん。……ダメだね、この小川の付近は。あんな風に無理やり熱を当てられて咲いた火見草はね、魔力が揮発しちゃってて、ウルの言う通り空っぽの粗悪品にしかならない。それに小川を流れる水の温かさ。これじゃあ、泥這い蟲が異常発生するわけだよ」


コロはパンパンと手袋についた汚れを払い、きびきびとした動作で踵を返した。


『どうする?あの不自然な温水がどこから来ているのか、上流を調べに行くか?』


ウルの問いかけに、コロは小さく肩を竦めた。


「ははは、行かないよ。私たちじゃなくても、あの異常な温水なら、そのうち誰かが気がつくでしょ」

『随分と冷たいな』

「冷たいわけじゃないよ。事実として、あの人たちは粗悪品でも高く売れるから、蟲に噛まれながらでも喜んで草を摘んでいる。人類のための世直しに首を突っ込むほどお人好しじゃないよ」


コロは迷うことなく、騒がしい湿地帯に背を向けた。


「私たちが探すべきなのは、あの変な温水が流れ込んでいない、本来の冷たさを保った『静かな泥』だよ。極上の火見草は、そういう場所にしか咲かないはずだからね」

『あんな五月蝿い連中と同じ場所で狩りをするなど、俺の矜持が許さん。静かな狩り場まで案内してくれ』


一人と一匹は、人類の馬鹿騒ぎを背に、冷たい泥の匂いがする旧道のさらに深い森へと、音もなく姿を消した。


挿絵(By みてみん)

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