一人と一匹と、寄り道 〜酸っぱい雨宿りと、適正な経費〜
ベルンの街を発って数日。
アルド王国の街道を南へ進んでいた一人と一匹は、川沿いにある名もなき宿場町で完全に足止めを食らっていた。
昨日の昼下がりから降り始めた雨は、夜を越え、二日目の昼を迎えても一向に止む気配がない。
窓の外を見下ろせば、土が剥き出しの街道は完全にぬかるみと化し、荷馬車の車輪を容易く飲み込む底なし沼のようになっている。
これでは、どんな熟練の旅人や商人であっても進むことは不可能だ。
しかしながら、今のコロとウルには、焦るべき理由が全くなかった。
「……よく降るね。これじゃあ、外に出る気にもならないよ。街の掲示板にもマシな仕事はなさそうだね」
コロは窓の隙間から吹き込む湿った風を避けながら、ぽつりと呟いた。
現在の路銀は、ベルンで得たアルド金貨五十枚をはじめとして、非常に潤沢だ。
雨が続いたからといって、安い木賃宿の軒下で震える必要はない。
現在一人と一匹が滞在しているのは、この宿場町で一番値が張る、石造りのしっかりとした宿の二階だった。
部屋の中央には暖炉があり、赤々と燃える薪が、部屋中の湿気を快適な温度へと変えてくれている。
『……ふぁあ。全く、鬱陶しい空模様だ』
「少なくとも、明るい気分にはならないね」
『ああ、毛皮の奥まで湿気が入り込んでくる気がする』
暖炉の特等席で、ウルが大きな欠伸をして丸くなっていた。
彼は時折、自分の鼻先に乗った見えない湿気を払うように、前足で顔をこすっている。
「ウルは退屈そうだね」
『当たり前だ。これが忙しそうなヤツの姿に見えるか?』
「ううん。でも、たまにはこういう『何もしない時間』を観測するのも悪くないよ。器の休息効率としては最高だしね」
コロは窓際から離れ、部屋に備え付けられた小さな木製のテーブルへと向かった。
『ふん、休息効率か』
そんなものは必要ないと言わんばかりに、ふんと鼻を鳴らし、丸くなったままの姿で目を閉じたウル。
『毛並みがカビる効率も良さそうだ』
「あとでしっかりブラッシングするよ」
『そうしてくれ』
テーブルの上には、先ほど宿の主人に銀貨を握らせて特別に譲ってもらった、この街の近くの川で獲れたという銀色の魚が数匹、下処理を終えた状態で皿に乗っている。
「さてと――」
コロは鞄の中から、使い込まれたガラスの瓶を取り出した。
中には、少し濁った黄色味を帯びた液体が入っている。
彼女はまず、宿の主人が部屋に汲んでおいてくれた飲料水が入った木製のコップに、その瓶の液体を数滴だけ垂らした。
「……うん、こんなものかな」
小さくかき混ぜ、微かに酸味の匂いが漂う、その水――『ポスカ』を、コロはちびりと口に含む。
古い酢を水で割っただけの簡素な飲み物だが、長旅において生水の雑菌を殺し、蓄積された疲労を抜くには、これ以上なく理にかなった効率的な水分補給だった。
次いでコロは、皿に乗った川魚の表面にナイフで浅く切れ目を入れ、小瓶に残っていた古い酢を、躊躇うことなくドボドボと魚全体に回しかけた。
ツン、とした強烈な酸気の匂いが、暖炉の熱気と混ざり合って部屋の中に揮発していく。
『……っ、ぶくしっ!』
途端に、暖炉の前で丸くなっていたウルが、勢いよくくしゃみをした。
彼はマズルにシワを寄せ、露骨に嫌そうな顔でコロの手元を睨みつける。
『……おいコロ。随分と気前よく使うんだな。鼻がおかしくなりそうだ。なんだその、腐りかけの果実のような刺激臭は』
「ああ、ごめんごめん。でも、これはただの腐敗じゃないよ。発酵の力だ」
コロは酸の匂いに全く動じることなく、酢漬けになった魚に持参した岩塩を擦り込みながら淡々と答える。
「今、鞄の中でキャベツを浸けている酢があるでしょ?あれ、そろそろ保存効果が落ちてきたから、新しいものに交換したかったんだよね。だから、お古の方はここで使い切っちゃうんだ」
『なるほど、捨てるには惜しいから俺の鼻を犠牲にするというわけか。たまらんな』
「犠牲だなんて人聞きの悪い。酢はね、川魚特有の泥臭さを完全に消してくれるし、骨まで柔らかくしてくれるんだよ。これを暖炉の火でじっくり焼けば、お古の酢が極上の調味料に変わるんだから」
コロは手際よく魚に串を打ち、ウルの横にある暖炉の火のそばへと立てかけた。
パチパチとはぜる薪の音に混じって、じゅわっ、と酢と魚の脂が焦げる音が鳴る。
最初は強烈だった酸の匂いも、火が入ることで徐々に香ばしく、食欲をそそる匂いへと変化していった。
『……ふむ。確かに、焼けてくると悪くない匂いになってきたな』
不貞腐れるようにして床に寝そべっていたウルが、わずかに顔を上げた。
そんな様子をチラッと横目に、コロは小さく微笑んでみせた。
「でしょ? 待ってて、あと少しで焼き上がるから」
ウルの尻尾が、床をパタンと一度だけ叩く。
その単調なリズムと、窓の外から絶え間なく聞こえてくる雨音だけが、部屋のBGMだった。
コロは魚の焼き加減を見守りながら、再び窓の外へと視線を向けた。
雨粒がガラスを叩き、街の景色をぼやけた水彩画のように歪ませている。
あの雨の下では、今も泥に塗れながら進むか留まるかの選択を迫られている旅人たちがいるはずだ。
「……旅人を殺すのに武器はいらん、雨の三日も降れば良い……か」
コロの口から、ポツリと、この世界で旅をする者たちがよく口にする格言がこぼれ落ちた。
雨は体温を奪い、路銀を削り、心を腐らせる。
強盗や魔物に襲われるよりも、静かに、そして確実に旅人を死へと追いやる自然の暴力。
その静かな呟きを聞きつけたのか、ウルが暖炉の前から呆れたように鼻を鳴らした。
『……馬鹿言え。しばらく雨が降ろうが、お前さんがそんなに路銀に困っている姿など、俺は一度も見たことがないぞ。死ぬどころか、こうして一番いい部屋で、呑気に魚を焼いているじゃないか』
「ははは。ウルと出会ってからは、そうだね」
コロは、いつもより少しだけ感情の乗った、珍しく柔らかな笑い声をこぼした。
そして、魚の刺さった串をくるりと回しながら、降り続く雨に向かって語りかけるように言葉を紡ぐ。
「でもね、初めのうちは、雨が続くとヒヤヒヤしたもんだよ。……宿代を払えばご飯が食べられなくなる。野宿をすれば、この不自由な人類の器はあっという間に熱を出して動けなくなる。何もかもがどんどん悪い方向に向かっていくようなあの感覚は、あんまり良いものじゃなかったな」
串に刺さった魚の表面が黄金色に色づき、チリチリと脂が弾ける心地よい音がピークに達した頃。
「よし、焼き上がったよ。……どう?この匂い」
コロは串から魚を慎重に外し、用意していた大きな平皿に盛り付けた。
酸特有の刺すような匂いは完全に飛び、代わりに食欲を暴力的に刺激する、香ばしくも深みのある香りが部屋の中に満ちていた。
先程までマズルにシワを寄せていたウルも、たまらないといった様子でのっそりと立ち上がり、皿の前に顔を近づける。
『……ふむ。確かに、先程の腐敗臭が嘘みたいだな』
「でしょ?骨まで柔らかくなっているから、丸ごと食べて大丈夫だよ」
『俺はもともと、柔なくなくとも平気だ』
「まあまあ、とにかく食べてごらんよ」
コロの言葉を待っていたかのように、ウルは大きな口を開け、まずは一匹を丸ごとパクリと咥え込んだ。
『……ほう』
一度咀嚼しただけで、ウルの黄金の瞳が驚きに見開かれた。
古い酢に漬け込んだ効果は絶大だった。
川魚特有の泥臭さは完全に消え去り、火が通ったことで酸味がまろやかな旨味へと変化している。
岩塩のシンプルな塩気が、ホロホロと崩れる柔らかな身の甘みをこれ以上ないほどに引き立てていた。
『……美味いな、これ』
「でしょ」
コロが少し得意げに胸を張る間にも、ウルの口の動きは止まらない。
最初は「俺の鼻を犠牲にする気か」と文句を言っていたのが嘘のように、あっという間に二匹、三匹とペロリと平らげていく。
小骨が喉に引っかかる様子もなく、本当に丸ごと噛み砕いてしまった。
『……たまには魚も悪くないな。いや、あの酸っぱい水が良い仕事をしているのか』
ウルは皿を綺麗に舐め上げると、心底満足そうに鼻を鳴らし、口の周りをペロリと舐めた。
「これが発酵の力だよ。人類の知恵も、たまには役に立つでしょ」
コロも自分の分の魚をほぐし、ゆっくりと口に運ぶ。
口の中に広がる香ばしさと旨味を噛み締めながら、時折、木製のコップに入ったポスカで喉を潤す。
胃袋が温かい食べ物で満たされていく感覚は、雨の日の沈んだ空気を確実に和らげてくれた。
食事を終え、食器を隅に片付けると、部屋には再び静かな時間が戻ってきた。
満腹になったウルは、暖炉の前で前足を伸ばし、まるで溶けたようにリラックスしている。
コロはその大きな背中の横に座り込むと、鞄の中から使い込まれた獣毛のブラシを取り出した。
「……よし、ウル。少し毛並みを整えようか」
『ん? ああ、好きにしろ』
ウルが目を閉じたまま短く応えると、コロは彼の首元から背中にかけて、ゆっくりとブラシを滑らせ始めた。
――シャッ……シャッ……
銀色の長く美しい毛並みが、ブラシを通るたびに滑らかに揃っていく。
窓を叩く不規則な雨音と、コロが毛を梳く規則正しい音だけが、薄暗い部屋の中で重なり合う。
コロの手つきは丁寧で、決してウルの皮膚を傷つけないよう、絶妙な力加減でブラシを動かしていた。
特に、雨の湿気で少しだけ絡まりやすくなっている首回りや、前足の付け根のあたりを念入りに解いていく。
銀糸のように細い毛が、暖炉の光を反射して艶やかに光った。
――シャッ……シャッ……
無言のまま、ただひたすらに続くブラッシングの時間。
コロの表情は普段と同じく淡々としているが、その手つきからは、この巨大な相棒に対する確かな信頼と、隠しきれない愛着が滲み出ているように見える。
しばらくそうして毛を梳かれていたウルが、ふと薄目を開けて、背中で手を動かすコロを見上げた。
『……おい、コロ。そんなに念入りにしなくてもいいぞ。せっかく雨でゆっくり出来るというのに、お前、あれだ……疲れるだろう』
それは、彼なりの不器用な気遣いだった。
本来、強大な魔物である彼にとって、自分の毛づくろいを他者に任せるなどあり得ないことだ。
だが、コロの手によるこの行為だけは、彼にとってすでに「日常」の一部として受け入れられている。
コロはブラシを動かす手を止めず、ウルの背中にぽつりと答えた。
「ううん、疲れないよ。……それに、私はこれが好きでやっているんだから」
『……好きで、か』
「うん。ウルの毛並みが綺麗に揃っていくのを見るのは、すごく気分が良いんだ」
コロの素直な、けれどどこか理屈っぽい言葉に、ウルは小さく息を吐いた。
『……そうか』
ウルはそれ以上は何も言わず、再びゆっくりと目を閉じた。
コロの指先が、ブラシ越しにウルの温かい体温を感じ取る。
雨に濡れる心配もなく、敵の気配にウンザリすることもない。
ただ、暖炉の火と静かな雨音に包まれた空間。
『……たしかに、たまにはこんな過ごし方も悪くないな』
目を閉じたままのウルが、ぽつりと、少しだけデレたような低い声で呟いた。
コロはその言葉に答えず、ただ微かに口角を上げると、再びリズミカルにブラシを動かし始めた。
――シャッ……シャッ……。
雨の宿場町。
足止めを食らった一人と一匹の時間は、どこまでも穏やかに、そしてゆっくりと流れていった。
ブラッシングを終え、ウルの毛並みがひとしきり滑らかな銀色の輝きを取り戻した頃。
コロとウルは再び窓辺に寄り添い、ぼんやりと雨に沈む街並みを眺めていた。
外では時折、頭からすっぽりとマントを被った者が、足早にぬかるみの中を駆けていく姿を見かける程度で、あとは人の往来は皆無と言っても良かった。
しばらくすると、コンコン、と控えめだが芯のあるノックの音が部屋の扉から響いた。
ウルの耳がピクリと動き、鼻を鳴らすが、警戒の色はない。
コロも扉の向こうから特に害意を感じなかったのか、迷うことなく立ち上がり、ノックに応えて扉を開けた。
「……はい」
「ごめんよ、お嬢ちゃん。寛いでいるところにお邪魔して」
そこに立っていたのは、自分の背丈ほどもある大きな籠を背負った、人間族の恰幅の良いおばちゃんだった。
籠には雨除けの油布がすっぽりと被せられているが、隙間からは干し肉や保存食、生活雑貨の匂いが微かに漂ってくる。
「私は行商人でね」
「へえ、行商人」
「ああ、こういう雨の日はさ、皆が宿から出られなくて退屈したり、小腹を空かせたりしているから、一番の商機だと思って来たんだ」
にかっと笑うおばちゃんは、部屋の奥に鎮座する巨大な銀狼――ウルの姿を目にしても、怯えるどころか商売人特有の鋭い光を瞳に宿した。
「さてさて、お嬢ちゃん。その立派な相棒に、新鮮なご馳走はどうだい?実はこれ、これから血抜きして干し肉にしようと思ってた獲りたての肉なんだけど、その子がいるなら、血抜きしない生のままのほうが喜ぶだろうと思ってね。さ、どうだい?」
おばちゃんが油布をめくって見せたのは、まだ生々しい血の匂いを残した、赤身の塊肉だった。
途端に、興味がなさそうにして、窓辺にいたウルの黄金の瞳がスッと細められ、視線が肉に釘付けになる。
先ほど焼き魚を三匹も平らげたばかりだというのに、彼の胃袋と本能は全く別の反応を示しているらしい。
「……なるほどね。商売が上手だね」
コロは小さく感心したように息を吐いた。
彼女の商売の巧さと、何よりあの肉を見つめるウルに新鮮なものを食べさせてやりたいという想いから、コロは迷うことなく頷いた。
「だろう?伊達に長年、この商売をやってないよ」
「それ、全部もらうよ。あと、その籠の隅に見える保存の効く硬いチーズも少し切り分けて」
「毎度あり!お嬢ちゃんは気前がいいねぇ!」
「ふふ、おばちゃんが商売上手だからだよ」
ホクホク顔のおばちゃんが手際よく肉を包み、チーズを切り分けている間、コロの傍らに寄ってきたウルが、彼女にしか聞こえない声で小さく唸った。
『……おい、コロ』
「ん?なに?」
『よく知らんが、相場より高いんじゃないのか?足元を見られている気がする』
コロの路銀を気遣うウルの言葉に、コロは肩を竦めつつ「そりゃそうだよ」と小さく笑う。
「そんな心配しなくていいよ。……ウルが喜ぶなら、適正な経費だからね」
『……ふん。お前さんがそう言うならいいが』
ウルが少しだけバツが悪そうにマズルを逸らした。
そんな一人と一匹のやり取りを見ていたおばちゃんが、不思議そうに首を傾げる。
「おや、その子がなにか言っているのかい?」
「うん。このお肉、相場よりも高いんじゃないのって心配しているみたい」
そんなコロの言葉に、おばちゃんは一瞬、目を丸くした。
しかし、すぐに豪快に笑い始めた。
「あはは!こりゃ驚いた。銀狼ってのはそこらの魔物よりずっと賢いって聞くけど、財布の紐まで心配してくれるなんて、本当にいい相棒じゃないか!」
おばちゃんは豪快に笑いながら、包んだ肉とチーズをコロに手渡した。
コロが銀貨を数枚手渡すと、おばちゃんは満足そうにそれを懐にしまい込む。
「いやぁ、いい買い物をしてもらったお礼だ。お嬢ちゃんたち、この先はどこへ行く予定だい?」
「この雨が上がったら、街道を南へ向かうつもりだよ」
「そうかい。で、テーブルに置いてあるその仕事道具。さては採取家だね?」
「うん、大正解」
コロが答えると、おばちゃんは声を潜め、有益な情報をこっそりと教えてくれた。
「それなら、少し先の『ロンド』って街に寄るといいよ」
「ロンド、へえ……」
「最近ね、あの辺りで『火見草』って薬草が飛ぶように売れてるって話だよ。それに、ロンドへ向かう旧街道は最近『泥這い蟲』が出るって専らの噂でね、腕に自信のない採取家はみんな近寄らなくなってるんだ。……その賢くて強い相棒を連れたお嬢ちゃんなら、逆に狙い目だと思うよ」
「……なるほど。競争相手がいないなら、効率よく稼げそうだね。教えてくれてありがとう」
「どういたしまして! 旅の空だ、お互い気をつけていこうね!」
おばちゃんは笑顔で手を振り、次の客を求めて廊下の奥へと歩き去っていった。
扉を閉め、部屋に再び静寂が戻る。
コロは早速、買いたての血の滴る肉をウルの前の皿にドンと置いた。
『……では、遠慮なくいただこう』
ウルは待ちきれなかったように肉に噛みつき、幸せそうに喉を鳴らしながら、新鮮な血の味を堪能し始めた。
その食べっぷりを眺めながら、コロは自分の分の硬いチーズを少しだけ齧る。
「……相場より少し高かったけど、美味しいご飯と、南の薬草の独占情報が手に入ったんだ。……すごく、いい取引だったよ」
コロの独り言のような呟きに、肉に夢中なウルは短い唸り声で応えた。
雨はまだ止む気配はないが、一人と一匹の小さな部屋には、確かな満足感と次なる旅への期待が、暖炉の火と共に静かに燃え続けていた。
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