番の証明と、ただの紙切れ 4 〜至高の純度と、見えない鎖〜
4.
数日後、ベルンの街。
再び訪れたジェイコブス薬草工房の扉は、前回の「取り込み中」という投げやりな札ではなく、店主が中にいることを示す静かな気配を湛えていた。
「……戻ったよ、お兄さん」
コロが短く告げて工房の奥へ進むと、そこには憔悴しきったカイルと、その背後で彼を支えるように控えるリナの姿があった。
カイルの目は幾度も擦ったのか赤く腫れ、作業台には以前と同じようにあの「婚姻届」が力なく置かれていた。
だが、コロが鞄から二重構造の保存箱を取り出した瞬間、ひどく落ち込んでいたはずの彼の鼻腔が、プロとしての本能を刺激されたようにピクリと動いた。
「……まさか、本当に持ち帰ったのか?あの魔物と罠の吹き溜まりから」
コロは何も答えず、カウンターの上を滑らせるようにして箱をカイルへと差し出す。
するとカイルは弾かれたようにカウンターの下から使い込まれた革手袋を取り出し、両手にはめた。
先程まで絶望で震えていたはずのその指先は、手袋を通した途端に一寸の狂いもない『職人の手』へと切り替わり、ひどく慎重な手つきで箱の留め金を外した。
蓋が開いた刹那、工房の少しばかり煤けた空気が、凍てつくような、それでいて清冽な魔力の波動によって一変した。
「……っ!」
カイルが大きく息を呑み、リナもまた、背後からその美しい紺碧の輝きを拝むように見つめている。
そこにあるのは、採取された瞬間の鮮度を完全に維持した、完璧な形状の『凍て星草』だった。
「……信じられない。結晶構造の剥離が、一箇所も見当たらない。……リナ、拡大鏡を! それと光屈折計だ!」
「はい!」
カイルの声は、もはや「絶望に沈む男」のものではなかった。
リナから素早く手渡された器具を震える手で操り、花びらの端から茎の断面までを舐めるように観察していく。
「……素晴らしい。通常の採取方法では、どんなに手際が良くても、ここへ持ち込むまでに霊素の三割は揮発して失われるはずだ。だがこれは……」
カイルは拡大鏡の奥で目を血走らせ、微かな魔力の揺らぎすら見逃すまいと息を詰めている。
彼の長年の薬師としての経験と知識が、目の前の草が『奇跡的な純度』を保っていることを告げていた。
魔力の減衰は、わずかな目減りすらなく、彼の頭の中にある「理論上の極限値」に達しているようだ。
まるで、採取されたあの瞬間のまま、時が完全に止まっているかのような品質だった。
「……お嬢ちゃん、君は一体どんな魔法を使ったんだ?これは単なる採取じゃない。この草が持つ『静止の力』を、時間の流れから完全に切り離して持ってきたようなものだ。王都の最高級薬師ですら、ここまでの品質の凍て星草は拝めないぞ……!」
カイルは拡大鏡を置き、熱に浮かされたような瞳でコロを見据えた。
その顔には、専門家として至高の素材を目の当たりにした時の、嘘のない驚嘆と畏敬が混ざり合っている。
しかし、コロは最大限の称賛を浴びても表情を変えることなく、淡々と口を開いた。
「……これで食べているからね。手順通りにやっただけだよ」
「そのアッシュウルフが居るだけでも、ただ手順を知っているだけでも、この品質は叩き出せない」
そう言いつつ、カイルの熱を帯びた視線は、コロの隣で大人しく座るウルへも向けられた。
だが当のウルは、人類からの称賛など欠片も興味がないとばかりに、バフンと大きな尻尾で床を叩く。
コロはそれ以上の説明を省き、約束の「対価」を促すように視線をカイルの手元へと落とした。
「……ああ、分かっている。約束だ。アルド金貨、五十枚」
カイルはリナに目配せをし、店の奥からずっしりと重い革袋を持ってこさせた。
コロがそれを受け取ると、中身を一つ一つ確かめるまでもなく、手首を軽く上下させ、小さく頷いた。
手首に伝わるその「重み」だけで適正な報酬であることを理解したようだ。
『……フン。これであの蜘蛛どものシマを荒らした甲斐もあったというものだ。少しは目が覚めたか?』
ウルが、人類には「大きな唸り声」にしか聞こえない音で、皮肉げに鼻を鳴らした。
コロは小さく肩を竦めたが、カイルはその威圧感に一瞬身をすくませ、手元の凍て星草を見ると、再び陶酔したような笑みを浮かべた。
「……これがあれば、これまでのどの薬師も成し遂げられなかった品質の『魂の定着剤』が作れる。そうなれば、僕の実績は揺るぎないものになる。……そうなれば……!」
だが、その時だった。
カイルの視線が、不意に作業台の隅……あのクシャクシャの紙切れへと戻ってしまった。
途端に、専門家としての熱気が急激に冷えていくのが分かった。
コロとウルは微かに視線を交わしたが、特段の言葉も仕草も見せなかった。
「……そうなれば、あの役人たちも、僕のことを無視できなくなるはずだ。……リナを、僕の『妻』として認めるしかないはずなんだ……。……なのに、どうして……あいつらは……」
カイルの肩が、再び「湿り気」を帯びて震え始める。
コロはそれを見て、ふっと無機質な溜息を吐いた。
至高の素材を前にしてもなお「紙切れ」の呪縛から逃れられない人類の不可解な不具合。
どうやらコロもウルも、このすぐにメソメソしてしまうカイルに対し、心底呆れているようだった。
コロは、カイルの肩の震えを静かに見下ろしてから、無機質で、けれどひどくよく通る声でその停滞を断ち切った。
「ねえ、お兄さん」
「……ん、なんだい?」
「その薄っぺらい紙切れが、そんなに大事なの?」
カイルがびくりと肩を跳ねさせ、赤く腫れた目でコロを見上げる。
その顔に浮かんでいたのは、痛いところを突かれた怒りと、それを年端もゆかない少女にぶつけていいものかと迷う、ひどく不器用な葛藤だった。
「……大事に決まっている!これが受理されないと、リナはいつまでも『物』のままだ! 僕の妻だと、誰にも認めてもらえないんだぞ!?」
「誰に?この街の、お兄さんたちの事情なんてこれっぽっちも知らない役人たちに?」
カイルの悲痛な叫びを、コロは小首を傾げてあっさりと受け流す。
そして、呆れたように周囲の棚や作業台を指差した。
「この店に並んでいる薬の純度。完璧に手入れされた蒸留器。お姉さんだって適当なお手伝いじゃないよね、さっきも、お兄さんの指示に的確に答えていた。そして何より、あの『凍て星草』の品質を一瞬で見抜いた、お兄さんの薬師としての腕前。……それだけのものを持っていながら、どうしてこの『ベルン』っていう窮屈な箱庭のルールに、わざわざ自分から縛られにいっているの?」
「え……」
その言葉を受け、カイルは呆然としたままコロの醒めた瞳を見つめている。
それは傍らに立ったままのリナも同じで、二人はただただ、自分たちを雁字搦めに縛り付けていた『見えない鎖』の存在を初めて突きつけられたような顔をしていた。
これまで彼らを絶望させていた重厚な扉が、実は最初から鍵などかかっていなかったとでも言わんばかりの、無機質で、残酷なほどの正論だった。
「お姉さんの首輪だってそうだよ。こんな国さっさと出ていって、どこか別の国の腕のいい鍛冶屋にでも行って『悪いやつに捕まって無理やり首輪をされたから外してくれ』って適当な嘘をついて金貨を握らせれば、そんな物理的な鉄の輪っか、すぐに切り落としてもらえると思うよ」
カイルも、そして背後のリナも、雷に打たれたように目を見開いた。
「国を……出る……?」
「私の首輪を、壊す……?」
彼らにとって、それはこの街の常識を根底から覆すほどの暴論だったのだろう。
だが、コロにとっては「Aの手段が駄目ならBのルートを行く」という、ごく単純な演算上の選択に過ぎない。
カイルは震える唇を必死に動かし、どうにか自分を繋ぎ止めるための反論を絞り出した。
「だ、だけど……!この工房は、死んだ親父から受け継いだ大切な店なんだ!ここでジェイコブスの看板を守り抜いて、この街の連中に認められなきゃ……親父に顔向けが……!」
「……お兄さんのその腕前は、親父さんの看板や、この建物の外に出たら消えてなくなるようなものなの?今のそのメソメソした顔なら親父さんに顔向けできるの?」
「っ……それは……!」
コロの静かな、だが的確な問いに、カイルは言葉を詰まらせた。
技術は彼自身の内にある。
場所を変えたところで、その腕が鈍るわけではないのだと、他ならぬ彼自身が一番よく分かっていたからだ。
「一番大事なのは、赤の他人の認識とか、国が発行する紙切れの証明じゃないでしょ。……お兄さんには、本物の価値を見極められる『職人の目』があると思うんだけど」
コロの視線が、カイルから、彼を心配そうに見つめ続けているリナへと移る。
「だったら、その草を見た時と同じその濁りのない目で、本当に見るべき『事実』を見なよ。最高品質の魂の定着剤を手土産に別の国へ行けば、諸手を上げて歓迎されると思うんだけどね」
コロの言葉にウルが、喉の奥で地響きのような笑い声とも聞こえる唸り声を鳴らした。
眼の前の少女の口から飛び出す容赦のない、けれど一切の嘘がない真理を突いた言葉。
カイルは手元のクシャクシャになった「婚姻届」と、自分の背中をずっと支え続けてくれているリナの温もりを、ゆっくりと交互に見つめた。
その日の夜。
ベルンの街の裏通りにある、手頃な宿の一室。
コロとウルは、いつものように寄り添い合うように眠りにつく準備をしていた。
『……やれやれ。至高の草を前にしておきながら、最後までたかが一枚の紙切れに振り回されるとはな。人類の思考回路というのは、本当に奇妙なものだ』
ウルがベットに大きな身体を横たえながら、呆れたように鼻を鳴らす。
コロもまた、同意するように小さく息を吐いた。
「そうだね」
『あの泣き言を、本気で……心の底から言っていたぞ?』
「……でも、仕方ないのかもしれないよ。人類っていうのは、単体で生き抜くにはあまりにも『弱い』生き物だからね」
コロは天井の木目をぼんやりと見つめながら、淡々と独自の分析を口にする。
「弱いからこそ、国だとか、法律だとか、ああいう薄っぺらい紙切れみたいな『見えない鎖』に、どうしても自分から縛られたがる嫌いがあるんだと思う。そうやって群れのルールに組み込まれていないと、不安で立っていられない作りになっているんだよ」
『そうか?まぁ……そうだな。草食動物みたいなものか』
「……私たちからすれば、呆れるほどどうでもいいことだけど」
『ふん。自ら鎖を望んで安心を得るとは、つくづく滑稽で不自由な生き物だ。まあ、あいつらがこの先どういう決断を下そうが、俺たちには全く関係のない話だがな』
「うん。私たちの仕事は終わったし、路銀も十分に稼げた。……でも、あのお兄さんには『職人の目』がちゃんと残っていたから。きっと、最後には正しい選択ができると思うよ」
コロはシーツを首元まで引き上げ、目を閉じた。
「おやすみ、ウル」
『ああ。……良い夢を。女神によろしくな』
「うん」
ウルの低い唸り声を聞きながら、コロの意識は深く、静かな底へと沈んでいった。
※ ※ ※
気がつくと、そこは音のない「白い場所」だった。
全てを包み込むような柔らかな光の中、黒い髪をなびかせた女神様が、いつものように穏やかな微笑みを湛えて立っている。
コロは迷うことなく歩み寄り、女神様の足元に座り込んだ。
「……ただいま、女神様」
『おかえりなさい、コロ。今日は随分と、実入りのいい一日だったようね』
鈴を転がすような女神の声に、コロはこくりと頷き、そのまま女神様の温かい膝の上に頭を預けた。
「うん。約束のものを届けて、適正な報酬をもらったよ。……あと、見えない鎖に縛られてメソメソしているお兄さんに、少しだけ『事実』を教えてあげた」
『ふふ、そう。あなたがそうしたのなら、きっと彼らにとって、一番必要な言葉だったのでしょうね』
女神は愛おしそうに、コロの銀色の髪をゆっくりと撫でる。
その心地よい感触と、一切の嘘がない絶対的な安心感の中で、コロはほうっと小さく息をついた。
「どうなるかは分からないし、興味はないけれどね。……でも、私にはもう関係のないことだよ」
『それはコロの親切心だったのではないかしら?』
「そんなつもりじゃないよ。すごく馬鹿馬鹿しいことでメソメソしていたから、呆れてつい口が出ちゃったんだ」
『ふふ、そういうことにしておきましょう』
「……そういうことだよ」
女神の温かな手と、自分を全肯定してくれる優しい抱擁。
その幸福なまどろみの中で、コロの意識はゆっくりと溶けていく。
「……明日も、嘘のない一日になるといいな」
『ええ。おやすみなさい、私の愛おしいコロ』
女神の微笑みと共に、コロの静かな夜が更けていった。
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