番の証明と、ただの紙切れ 1 〜森の奇跡と、ただの綺麗な発行体〜
1.
ルムの街を離れてから、数週間の時が流れた。
鼻腔にこびりついていたあの粘り気のある甘い匂いは、今や街道の彼方に置き忘れられた古い記憶にすぎない。
代わりに一人と一匹を包んでいるのは、原生林が吐き出す濃密な酸素と、湿った土が醸す生命の匂いだった。
ここはアルド王国の深部。
見上げるほどの巨木が列柱のように並び、シダ植物が足元を青々と覆うその森は、外の世界の時間から切り離されたような静寂に満ちている。
時折、茂みの奥でリスが木の実をかじる音が響き、驚いた野ウサギが白く小さな尾を跳ねさせて通り過ぎていく。
それらは決して静寂を壊すノイズではなく、むしろこの森の平穏を構成する一部のようだった。
ウルもまた、鋭い牙を隠したまま、その微かな生命の鼓動をただ静かに受け流している。
「……これは、当たりだね。想定以上の個体だよ」
コロは歩みを止め、苔むした巨大な倒木の前で膝をついた。
頭上の梢から漏れる陽光が、天然のスポットライトのように一点を照らしている。
その光の中に、まるで小さな太陽を閉じ込めたかのような、淡い黄金色の光を放つキノコが身を寄せ合うように生えていた。
『……ふむ。ただの菌類にしては、少々主張が激しすぎないか?』
ウルが銀色のマズルを寄せ、スンスンと匂いを嗅ぐ。
黄金の瞳には、キノコから放たれる微かな光が反射していた。
「主張が激しいのは、それだけ純度が高い証拠だよ。これは陽だまり茸。特定の条件下で、数十年分の陽光を蓄積した倒木にしか発生しない、森の奇跡みたいなものだね」
コロは背負い袋から、手入れの行き届いた小さなナイフと、吸湿性の高い乾いた布を取り出した。
その手付きは、まるで精密なガラス細工を扱うかのように正確で、一切の迷いがない。
「これ一株でね、まともな宿の最上室に一ヶ月は泊まれるかもしれない。それどころか、ウルの大好物の肉だって、市場にある最高級の部位を山ほど買い占めることだってできるよ。……まあ、この価値が正しく理解されれば、だけど」
コロは言葉を続けながら、キノコの根元を傷つけないよう、土ごと慎重に掘り起こしていく。
湿度が周囲よりも濃密なこの環境で、キノコの内部に蓄えられた陽光のエネルギーを逃がさないよう、手早く、それでいて極上の宝物を扱うように布で包み込んだ。
『フン。随分と魅力的な提案だが、その価値に見合うだけの金が払える人類が、この先の街にいればの話だがな』
ウルは退屈そうに視線を空へと投げ出した。
彼にとって、金貨の山よりも、今この森を吹き抜ける涼やかな風の方が、よほど価値があるように思えるらしい。
コロはクスッと小さく笑ってから、包みをリュックサックの中へと仕舞い込む。
「払えるか、払えないか。あるいは、払う度量があるか。……それが問題だね。もし誰も買えないなら、私たちがそのままスープの具にして食べちゃおうか。贅沢すぎて、一晩中体が光るかもしれないけど」
冗談めかして口角を上げたコロに、ウルは呆れたように喉を鳴らした。
『夜闇でそれほど光ってみろ。魔物どもに「ここに獲物がいます」と触れ回るようなものだ。朝まで不速の客を捌き続ける、さぞかし「忙しい」野営になりそうだな』
「だね。魔物の肉があり余ってしまいそうだね」
採取を終え、コロは立ち上がって衣服についた泥を払った。
黄金のキノコを収めた鞄は、先程よりも心なしか重みを増している。
「さて、それじゃあ行こうか。……このキノコの『輝き』が失われないうちに、麓の街『ベルン』まで。期待はしてないけど、せめてまともな審美眼を持った人類がいることを祈ろう」
二人は深い森の陰を抜け、朝日が降り注ぐなだらかな下り坂――麓へと続く長い街道へと、再び足を踏み出した。
深い森を抜け、標高が下がるにつれて、空気の密度が変わっていく。
原生林の濃密な酸素は薄れ、代わりに乾いた街道の砂埃と、遠くから漂う煮炊きの煙――人類の生活圏特有の匂いが鼻をくすぐり始めた。
「あそこだね。アルド王国北部の物流拠点、学術と商売の街『ベルン』だよ」
コロが指差した先には、強固な石造りの城壁に囲まれた街が、午後の陽光を浴びてそびえ立っていた。
いつぞやに立ち寄った、麻薬にしゃぶり尽くされたルムの街ような退廃的な湿り気はない。
そこにあるのは、規則正しく積み上げられた石と、定められた法に従って動く、退屈なほどに「正しい」社会の気配だった。
『石と鉄の匂いか。あの森に比べれば、随分と息苦しい場所だな』
ウルが不快そうに鼻を鳴らす。
城門をくぐる際、衛兵たちはウルの醸し出す威圧感に腰を抜かしかけた。
震える手で槍を構え直す彼らに対し、コロは怯えもせず、かといって挑発もせず、ただ事務的に通行税の銀貨を差し出した。
彼女の瞳は、衛兵たちを「自分たちの通行を阻害する非効率な障害物」あるいは「そこらに転がっている石ころ」としてしか認識していないように見える。
そのあまりに堂々とした、人間離れした無関心さに気圧され、衛兵たちは結局、通行税を確認する「金属の擦れる音」だけを響かせ、無言で道を開けた。
「まずは、このキノコの価値がわかる場所を探そう。……まともな薬草店を選び出さないと。この輝きを『ただの綺麗な発光体』だとしか思わない無知な商人に捕まるのは、時間の浪費だからね」
ベルンの大通りは、ルムの退廃とは無縁の活気に満ちていた。
天秤の重りが触れ合う音、羊皮紙にペンが走る音、そして規律正しく舗装された石畳を叩く馬車の音。
すべてが計算され、秩序立っている。
だが、そこには森にあったような「命の脈動」はなく、代わりに「数字と理屈」の冷たさが通りの端々にまで浸透している。
『……ふん。嗅ぎ分けるのは、嘘の香りと、金の香りか。薬草店ってやつはどこもかしこも乾燥した草と防腐剤の匂いが充満していて、俺の鼻は使い物にならん。俺を当てにするなよ』
歩きながら、ウルは軽くボスっと大きな体をコロに預けるようにぶつけてきた。
「こんな窮屈な場所には長居したくない」という彼なりの不満の表明であり、同時に、この石の迷宮において信頼できるのは隣の少女だけだという、無骨な親愛の情の裏返しのように見える。
「ははは、わかってるよ。ウルの鋭すぎる鼻には、あの中和剤の匂いは刺激が強すぎるよね」
コロは小さく微笑み、ウルの硬い毛並みに一瞬だけ手を添えた。
コロの視線は、立ち並ぶ店の看板や、出入りする人類たちの服装、そして店頭に干された薬草の「処理の精度」を素早く見極めていく。
「処理が甘い店は客層が荒い。高級すぎる店は、見た目だけの飾りに金を払わせる。……狙い目は、店構えは古くても、裏手から『正しい温度で薬を煎じている匂い』がする場所だね」
二人は喧騒を避け、学術区へと続く少し静かな路地へと足を踏み入れた。
そこは、街を支配する「法」を司る役所と、真理を追求する「薬師」たちの工房が背中合わせに並ぶ、この街で最も理屈っぽい一角だった。
そこでコロの耳に、規則正しい街の音を乱す、ひどく不規則で絶望に満ちた「紙を丸める音」と「嗚咽」が届いた。
建物の隙間、ひび割れた石壁が作り出す深い影の中に、その声の主はいた。
人間族の若い男が、この世の終わりが来たかの如き絶望に満ちた様子でワナワナと震えている。
「……また、受理されなかったの?」
震える声で問いかけたのは、ロングスカートにチュニックを着た人間族の女だった。
その少女の首元には、細いが冷徹な光を放つ銀の首輪がはめられている。
それが彼女が「人」ではなく、誰かの「所有物」であることを無慈悲に証明していた。
「ああ、無理なんだ……。何度書き直しても、あのお役人たちは『前例がない』『奴隷や自由民の婚姻は法の範疇外だ』としか言わない。……リナ、すまない。僕は、君を僕の家族にしてあげられないんだ……!」
青年は、指先をインクで真っ黒に汚し、何度も書き直された形跡のある婚姻届の紙を握りしめていた。
その紙は、彼の涙と手の汗で無残にふやけ、今にも千切れそうだ。
コロとウルは足を止め、無機質な瞳でその光景を眺めた。
『……随分と湿っぽいな。まるでこの世の終わりが来たような嘆き方だ』
「生憎、世界は明日も明後日も無事だろうけどね」
コロはそう吐き捨てると、青年たちの絶望にこれ以上の興味を示すことなく歩き出した。
彼女にとって、解決策を持たない嘆きに付き合うのは、底の抜けた器に水を注ぎ、満ちるのを待つような不条理な反復でしかなかった。
「……行こう。他人の情緒不安定に付き合って、このキノコの鮮度を落とすのは割に合わないよ」
『フン、全くだな。石と鉄の街の次は、涙と鼻水か。どうにも人類の居住地というのは湿気が多くていかん』
ウルは大きな尻尾を一度だけ振って、コロの後に続いた。
それから暫くして、コロは学術区のさらに奥、目立たない路地の突き当たりにある一軒の店の前で、その足を止めた。
看板には古びた文字で『ジェイコブス薬草工房』と彫られている。
「……見つけた。ここだ」
『ほう。他の派手な店より、随分とくたびれているように見えるが』
「見た目はね。でも、看板の古さと、道具の手入れのされ方が釣り合っていないよ」
コロは無機質な瞳で、閉ざされた工房の窓を透かし見た。
店内に火は灯っておらず、排気口からの匂いも今は絶えている。
だが、窓越しに見える棚には、寸分の狂いもなく整列した保存瓶と、微塵の曇りもなく磨き上げられた蒸留器が並んでいた。
「見て、あの乾燥棚。風通しを最大化するために、季節外れの今の時期でも、効率的な傾斜を保って固定されているように見える。……今は動いていないけれど、ここで扱われている素材は、この街のどの店よりも純度が高いと思う。残滓として漂う匂いの中に、不純物の混じった『焦げ』が一つもないね」
ウルはチラッと窓の向こうに視線を送るが、すぐに興味をなくしたのか、空を仰いで大きな欠伸をひとつしてみせた。
コロは確信を持って扉へ近づいたが、そこには【取り込み中】と殴り書きされた木札が無造作にぶら下がっていた。
「……主は不在、か。困ったね。絶対にここだと思ったんだけど」
『どうする。適当な宿でも探すか?』
「いや、いいよ、ここで待つ。これだけ徹底した管理をする職人だもん、そう長くは持ち場を離れないんじゃないかな。……ウルの毛並みを借りて、少し器を休ませようかな」
『賛成だ。朝から平穏が続いていたせいか、やけに眠くてな』
再び大きなあくびをしたウルの首元に、コロはそっと手を置く。
そして一人と一匹は、路地の端にある、陽の当たらない石段に腰を下ろした。
ウルもまた、退屈そうに前足の上に顎を乗せて、大きな体を丸める。
「……ねえ、ウル」
『なんだ』
「さっきの紙切れ……『婚姻届』だったかな」
『ん?ああ、あの「湿気の発生源」のような番か?』
「うん、そう。あんな紙がないと家族になれないなんて、やっぱり理解できないね。一緒にいたいなら、ただ一緒にいればいい。……物理的に隣にいるという事実以上に、確かな証明なんてこの世界のどこにあるんだろうと考えちゃう」
コロの言葉に、ウルは伏せた姿勢のまま「フン」と小さく鼻を鳴らした。
『それが人類という生き物の「法」という名の呪縛なんだろう。……俺たちには、ただの紙屑にしか見えんがな』
「だね。そういう制度があるんだっていうのは知っているし、制度に従わないと人類は集団の中で生きていけないっていうのも知ってるけどさ、それでもあんなに嘆き悲しむのは……ははは、人類っていちいち面倒臭いね」
『阿呆だな、阿呆』
「ああいうのを見るとね、「ああ、ここもハズレだな」って思うよ」
『だな。こんなところで長年暮らしていたら、イライラし過ぎて頭の中があの紙屑みたいになりそうだ』
一人と一匹がそんな、冷めた世間話に興じていた時だった。
路地の入り口から、力のない二組の足音が近づいてきた。
石畳を力なく引きずるような、重苦しくて、不規則なリズム。
「……ごめんね、リナ。せっかく店を閉めてまで役所に行ったのに、結局何も変わらなかった」
「いいのよ、カイル。……あなたが私のために、あんなに一生懸命になってくれた。それだけで、私は……」
聞こえてきたのは、先程の路地裏で聞いたのと全く同じ、湿っぽくて重苦しい声。
一人と一匹が顔を上げると、そこには目を腫らした青年と、銀の首輪をはめた女が、寄り添うように歩いてきていた。
「まさか――」
『……その「まさか」じゃないか?』
予想は的中したようで、カイルとリナの二人は、店の前に佇む一人と一匹を認めると、その足を止めた。
カイルの目は赤く腫れ、精神的な疲労は隠しようもなかったが、染み付いた職人の習性が辛うじて彼を動かしているように見える。
目の前にいるのが「異様な威圧感を放つ少女」と「巨大な銀狼」であっても、今の彼にとっては単なる『来客』という記号に過ぎなかった。
コロは、その無表情な仮面の裏で、小さくため息をついているようだった。
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