蜜貨の甘味と、内臓の街 2 〜収穫の夜風と、蜜の残滓〜
2.
ルムの裏門を抜けて数時間。
街を包んでいたあの反吐が出るような「嫌な甘さ」は、夜風にかき消されて久しい。
街道は月明かりに照らされ、乾いた土の匂いと、冷ややかな夜の空気が支配していた。
ルムという名の『消化器官』から脱け出すための強行軍は、気づけば予定の行程を大幅に超過させ、辺りはすでに濃い夜の闇に飲み込まれていた。
「……ウル、もう少しだよ。この先に水場があるはず。地図によれば、このあたりでまともな水が手に入るのはそこだけだね」
コロは薄暗い夜道を、淡々と歩み進める。
ルムでは水一杯すら「毒」に汚染されている懸念があったため、水の補給も後回しにしていたのだ。
その言葉にウルは「フン」と小さく鼻を鳴らした。
『ようやくか。……だが、先客がいるようだぞ』
「そのようだね」
『……鼻を突くような、上等な酒と肉の匂いがする』
ウルの言葉通り、街道の先に焚き火による明かりが見えてきた。
大きな馬車が三台ほど停まっており、周囲には武装した私兵が数人、警戒に当たっているのが、遠くからでも視認できる。
『どうする、コロ。断りを入れてあそこで一晩明かすか?それとも別の場所を探すか?』
「このあたりで水場はあそこだけだし、見たところ商人か何かの移動キャンプだろうから、断りを入れようかな。……夜道で無理をして、この『器』を摩耗させるのも非効率だしね」
コロはそう答えると、躊躇いなく焚き火の明かりの方へと足を踏み入れた。
焚き火を囲んでいたのは、ルムの住人とは対照的な、血色の良い男たちだった。
中心に座る太ったエルフ族の男は、上等なワインを煽り、香草を添えた肉の燻製を贅沢に頬張っている。
「……一晩、端の方で休ませてもらってもいいかな。水場を借りたいんだ」
コロが声をかけると、私兵たちが一斉に剣の柄に手をかけた。
だが、彼らの動きはすぐに凍りついた。
少女の隣に佇む、銀色の巨大な暴力――ウルの黄金の瞳が、彼らの生存本能に「動くな」と命じたからだ。
「……おやおや、珍しい旅人だ。……お嬢ちゃん、そのデカい狼を連れて夜歩きかい。……いいぜ、場所ならいくらでもある。どうだい、お近づきの印に、『蜜貨』を一粒。あっちから来たってことは、ルムから来た口だろう?」
男が手のひらで転がしたのは、あの異常な光沢を放つ大銅貨だった。
コロはそれを一瞥し、興味なさそうに視線を逸らす。
「ううん、いらないよ。……おじさん、その荷馬車。積んでいるのは、ルム織の布じゃないよね。今、積んでいるものだって、これから仕入れる物が何なのか、大凡の察しが付く」
コロの視線は、布で覆われた馬車の荷台、その隙間から覗く「重い鉄の鎖」と、大量の「粗末な保存食」に向けられていた。
「ルムから来たというより、これなら向かう方かな?……これほどの大規模な商隊が、あんな死に体の街にこれから向かう」
その言葉には、誰一人として反応を示さない。
ただ、焚き火のパチパチという暖かそうな音だけが響く。
コロは静かに言葉を続けた。
「それも、空の檻と鎖を連れて。……普通なら『仕入れ』とは呼ばないよ、それは。……もうすぐ地図から消える街に、一体何を期待しているの?」
事務的な、けれど急所を正確に射抜く言葉。
エルフの男の目が、鋭く細められた。
彼は手に持った肉を噛み切るのを止め、じっとコロを、そしてその隣で低く唸る銀狼を見定めた。
悪党は、得体の知れない強者に対しては、下手に隠し事をするよりも「自分たちがいかに合理的か」を誇示して、衝突を避けようとするものだ。
やがてエルフの男は「参った」と言わんばかりにため息をひとつ吐いてから口を開いた。
「……はは!察しがいいね。……いや、お嬢さん、あんた『こっち側』の人類か?それとも、どこぞの国の視察員か何かか?」
男は、コロの「収穫」という言葉選びと、ウルという強力な護衛、そして何よりその冷徹な瞳から、彼女を「同業者」あるいは「プロの調査員」だと誤認したようだ。
下手に隠すより、共通の言語で話した方がリスクが低いと判断したのだろう。
男は自分を納得させるように肩をすくめた。
しかし、コロは首を横に振ってみせる。
「どっち側でもない、ただの旅人だよ。どの国にも、誰にも縛られない、勝手気ままな旅人」
「……ふむ、そうか」
「逆に言うと、おじさんたちは『そっち側』の人類ってことかな」
コロの言葉に、太ったエルフの男が肩を竦めた。
「まあ、そのとおりだ。そんなとこで突っ立っててもなんだ。適当に座りなよ」
「そうさせてもらおうかな。ウル、座ろう」
『だな』
ただの幼い獣人の少女にしか見えないコロと、テイマーとして、どれ程の才能や実力があればテイミング可能なのかと息を呑んでしまうアッシュウルフの組み合わせ。
それに、コロが醸し出す『どこか達観したような様子』に、男たちは緊張が解けないままでいた。
一方、コロとウルはそんな空気などお構いなしに、適当な岩の上に腰を下ろし、ウルはコロの直ぐ側で行儀よく座る。
そこから、エルフの男はコロに対し、ポツリポツリと質問をぶつけた。
コロはその問いに素直に答えるが、まるで『のれんに腕押し』のような、アッサリとした答えばかり。
やがて、その場にいた男たちも『コイツは本当にどこかの回し者ではないな』と感じたのか、張り詰めていた空気も、すっかり緩みきっていた。
「……俺たちは、もう少ししたらルムに行くんだ。ルムの連中も、ただ野垂れ死ぬよりはマシな役目を与えてもらえるのさ。……上の連中――『風見鶏』の旦那衆も、近頃は話が早くて助かる。あの方々の蜜貨には『痛み』が出ないから、あの痛みを何も知らないと来た」
エルフの男は懐から、一際輝きの強い大銅貨を取り出した。
それは貴族たちに配られる「副作用のない蜜」かもしれない。
「旦那衆は、自分たちが賢く立ち回って、人身売買で得た金で、自分の領地を近代化させていると本気で信じてやがる。……実際は、自分の足元の石を剥がして、俺たちに蜜と交換させているだけだってのにな。……領民を売るのを『資産の現金化』だとか、戦場への『労働力の提供』だとか、綺麗な名前で呼んで喜んでやがる」
「……副作用がないから、自分の器がいつ壊れるかも気づかずに、嘘で自分を飾り立てているわけだ。……非効率の極みだね。そんな風に『在庫』を吐き出せば、数年後には税を納める人間すらいなくなるのに」
「数年後?はは、そんな先のこと、蜜を舐めてる旦那衆が考えると思うか?旦那衆の頭はとっくに『パー』になってるんだぞ?」
その言葉に、コロは小さく首を横に振った。
「まぁ、考えるとは思わないね。考えてたらおじさんたちを締め出しているはずだもの」
「手厳しいな!はは、しかしおっしゃる通り、だな!」
「でもね、あの街の人はもうマトモに働くことなんて出来ないと思うよ。みんな魔物のアンデッドみたいになっていた」
「ふふん、そいつは違うな。……あいつらは、一滴の蜜のためなら笑って火薬を背負って敵陣に突っ込んでいく。……最高に安上がりで、最高に忠実な『使い捨ての駒』だ。西の戦線じゃあ、これが飛ぶように売れるんだよ」
コロは、男が語る「人類をパーツとして使い潰すシステム」を、感情を挟まずに分析した。
そこにあるのは、救いようのない悪意ではなく、徹底した「収穫効率」の論理だ。
「なるほどね。それなら納得かな。ちなみにね、海千山千の悪人さんなら、一目見ただけで相手の『人となり』くらい察することができると思うけど、どうやら私は、おじさんたちの商売を邪魔するような『面倒な正義感』は持っていないようだよ。だから安心していいと思う。私が、義憤に駆られるような厄介そうな顔をしてると思う?」
「……はは、違いない。ま、お嬢さんのような『旅人』には、二度と会いたくないもんだがね」
エルフの男は苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
そして、その場にいる仲間たちに視線を送ってから言葉を続けた。
「……さて。俺たちはそろそろ出発だ。夜通し馬車を走らせて、夜明け前にはルムの『収穫場』に顔を出さなきゃならねえからな」
エルフの男は最後の一口を飲み干すと、脂ぎった手を布で拭い、重い腰を上げた。
彼の合図で、周囲の私兵たちが手際よく馬車の準備を始める。
積み荷の中では、空になった蜜貨の瓶や、これから「駒」を縛るためであろう鎖が、不吉な金属音を立てて触れ合った。
「……火と、この薪の残りはそのまま置いていく。わざわざ消して回るのも手間だし、お嬢ちゃんたちが火を起こす手間も省けるだろ。お互いに『効率的』だ、そうだろ?」
男はニヤリと下卑た笑みを浮かべ、コロを試すように見た。
コロは焚き火の端に座り直し、爆ぜる火の粉を無機質な瞳で見つめたまま、短く頷く。
「そうだね。ありがとう、おじさん。有効に活用させてもらうね」
「……はは、最後まで可愛くねえガキだ」
「よく言われるよ」
「だろうな!はは、楽しかったぜ。あばよ!」
男は吐き捨てるように言うと、御者台へと飛び乗った。
やがて馬車が動き出し、車輪が砂利を噛む音と、男たちが闇夜に溶け込むようにして遠ざかっていく。
彼らはこれから、あの死にゆく街へと向かい、残された「在庫」を回収しに行くのだ。
『……ようやく行ったか。……肺の奥まで蜜の匂いに犯されるかと思ったぞ』
ウルが大きな欠伸をしながら、コロの隣にドサリと横たわった。
街道の先へ消えていく馬車の明かりは、やがて夜の闇に飲み込まれ、完全に見えなくなった。
あとには、売人たちが残していった焚き火の爆ぜる音と、森の奥で鳴く虫の声だけが残った。
「嫌な匂いは、もう風が連れて行ってくれたよ。……ねえ、ウル」
『ん、なんだ?』
「今回の事は、とても興味深かったと思わない?」
コロの言葉を受け、ウルはパチパチと燃える焚き火に視線を向ける。
『……人類はずる賢いなと、改めて感じたな』
「ずる賢い……そうだね。人類の集団は、最も賢いとされる者から先に、嘘で自分を食いつぶすことがある。それと、毒は時として、死ぬよりも残酷な再利用の手段に使われる」
ウルは「ふん」と鼻を鳴らし、目を閉じた。
『つくづく面倒臭い生き物だな、人類というものは。……さっさと寝ろ、コロ。明日の朝は、あいつらの残した腐った肉の匂いじゃなくて、まともな草の匂いで目を覚ましたいからな』
「そうだね。おやすみ、ウル」
コロは焚き火に新しい薪を一本くべた。
売人たちが残していった「負の遺産」であるはずの火は、今はただ、一人と一匹を寒さから守るための、純粋な熱源として静かに燃え続けていた。
焚き火の火が、爆ぜる音を小さく響かせる。
コロは売人が残した薪を一本、火のなかに滑り込ませると、ウルの柔らかい首元の毛に体を預けるようにして横たわった。
『……なあ、コロ』
暗闇に溶け込んだウルの黄金の瞳が、パチパチと燃える火の粉を追うように動く。
『救わなくて、良かったのか?』
「救う?」
コロは目を閉じたまま、言葉の意味を咀嚼するように繰り返した。
『そうだ。……お前の知識なら、あの中毒症状を中和する薬草の配合くらい、ちょっと調べれば作れただろう。そのへんで摘んだ薬草と、市場の隅にあった、まともそうな薬草店の素材を使えば、な』
「……そうだね。長年、薬草の知識を積み上げているからね。薬師の真似事くらいの知識ならあるし、何を作ればあの『蜜』の疼きを消せるのかも、知っていると思う」
コロは淡々と答える。
彼女は嘘をつかないし、自分の能力を過小評価もしない。
彼女は確かに、あの街を一時的に「静か」にする力を持っていた。
一陣の夜風が吹き抜け、火が一度大きく揺れた。
少しの間を置いてから、コロは静かに言葉を継いだ。
「でもね、ウル。……中毒症状を、一時的に改善しただけじゃ、何の意味もないんだよ」
『ほう?』
「仮にあの器が綺麗になってもね、……頭が、甘さを忘れられないんだ。どれだけ洗浄しても、記憶の奥にこびりついた快楽までは消せない。麻薬でズタズタになっている脳が垂らす涎を、心だけで止めるのは、難しいんじゃないかな」
コロはゆっくりと目を開け、暗闇の中で淡く光っているウルの横顔をジッと見つめた。
「一舐めくらいなら、大丈夫。……その考えが、次は二舐めに、その次は四、八……。一度壊れた天秤は、もう二度と水平には戻らない。人類の心ってね、私たちが想像している以上に、脆くて、弱い」
『なるほどな。……その場で治したとしても、奴らは次にまた大銅貨を見る度に、またあの地獄へ自分から飛び込むというわけか。……それでは死んでいるのと変わらんな』
ウルが不快そうに鼻を鳴らす。
その鼻先に、売人たちの残していった「蜜」の甘い残滓が、まだ微かに触れた気がしたのか、マズルを顰めてみせた。
「彼らを本当に救えるのは……きっと、死神だけだろうね」
コロの言葉は冷酷だったが、同時に、救いようのない人類に対する彼女なりの「敬意」のようにも聞こえた。
余計な慈悲を与えて、より深い絶望の中で生かし続けることこそが、彼女にとっては「非効率」な残酷さに映るのかもしれない。
「もう寝よう、ウル。……明日の朝は、もっと『真っ当な』街を目指そう」
『……そうだな。死神の仕事に口出しするのは、俺たちの領分じゃないな』
ウルは重い頭をコロのそばに横たえ、深く息を吐いた。
「でもね、あの人達の気持ちも、分からないでもないよ」
『そうか?』
「うん。だってね、ウルの匂いや温かさ……これを取り上げられたらね、私は一日と我慢できそうにない。……執着の対象が『毒』か『相棒』か。それは、紙一重の差でしかないのかもしれないね」
『……ふん。勝手に俺を猛毒扱いにするなよ。……さっさと寝ろ、コロ』
「ふふ。おやすみ、ウル」
夜の静寂が、水場を、そして一人と一匹を優しく包み込んでいく。
赤々と燃えていた焚き火は、やがて穏やかな熾火となり、夜明けを待つ旅人たちの夢を、静かに見守り続けていた。
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