蜜貨の甘味と、内臓の街 1 〜悪質な蜜と、腐敗の連鎖〜
1.
ラゼル街道の乾いた砂埃にも慣れてきた頃。
一人と一匹の視界の先に、なだらかな丘に沿って築かれた石造りの街並みが見えてきた。
「……ようやく見えてきたね。あの町が「ルム」だよ」
コロは歩みを止め、眩しそうに目を細めて街を眺めた。
どうやら手元の古い地図と、頭の中にある記憶を照らし合わせているようだ。
「確か特産品は、高品質な『ルム織の白布』だったかな。水が綺麗で、漂白技術が優れているから、王都の貴族もここのシーツを愛用しているって聞いたよ。それ以外は、まあ……これといった特徴のない、平凡で静かな町のはずだよ」
『……ふん。平凡か。……だが、少しばかり風向きが悪いな』
隣で歩くウルが、不快そうに鼻を鳴らした。
風下から流れてくる空気は、本来なら川の清涼な匂いや、織物を乾かす糊の香りがするはずだった。
だが、ウルの優れた嗅覚が捉えているのは、それとは全く異なるもののようだ。
「……?どうしたの、ウル」
『いや、……まだはっきりとは分からん。だが、あまり質の良くない甘い匂いが混じっている』
「甘い匂い?どこから?」
『分からん。街の方角ではあるが……』
ウルの言葉を受け、コロはピタリと歩みを止めた。
前を歩くウルも立ち止まり、コロを振り返ることなく、スンスンと鼻を鳴らしている。
『花や果実のそれではないな。……何かが腐り落ちる寸前の、嫌な甘さだ』
「うーん……特産が変わったのかな?」
再び歩みを進めるコロは、ウルの背中にポンと手をおいた。
街に近づくにつれ、コロの目にも「違和感」が形となって映り始めた。
まず、街を囲む立派な白壁だ。
遠目には美しく見えたが、近づけばその表面は黒ずんだシミで汚れ、手入れが放棄されているのが一目で分かった。
さらに、門の外には奇妙な「出窓」のような粗悪な木造の小屋やテントがいくつも乱立していた。
本来、城壁の外に広がる町というのは、活気に満ちた市場や旅籠があるものだ。
だが、ここにあるのは、ボロを纏った人々が力なく地べたに座り込んでいる、活気とは無縁の「溜まり場」だった。
「……あんなに外に人が溢れているなんて。ルム織の景気が良すぎて、貧しい人が街に入り切らなくなったのかな」
『いや、違うな。あいつらの瞳を見てみろ。獲物を探す獣ですら、もっとマシな光を宿しているぞ』
ウルの指摘通り、門の周辺にたむろする人々の瞳には、生気というものが一切欠落していた。
彼らは一人と一匹が通りかかっても、銀狼という珍しい存在に驚くことすらしない。
ただ、力なく虚空を見つめ、時折、何かに耐えるように自分の腕を掻きむしっている。
「……嫌な予感がするね。でもここを素通りできるほど、食料は豊富じゃないからね」
『つくづく面倒な器だな』
「仕方ないよ。さあ、さっさと入って、さっさと出よう」
ため息混じりの苦笑いが、コロの口から漏れる。
門の検問所には、長い列ができていた。
だが、その列は不自然なほどに静かだった。
誰も喋らず、ただ前へ、前へと、吸い込まれるように進んでいく。
ようやくコロたちの番が回ってきた。
検問所に立つ衛兵は、重厚な鎧を纏ってはいるものの、その隙間から見える肌は土気色で、ひどく不健康そうだった。
「……通行料だ。一人と従魔一匹、800セスタだ」
衛兵の声はガラガラに掠れていた。
コロは言われた通り、鞄からこの国の大銅貨8枚を取り出し、カウンターに置いた。
――その時だった。
衛兵は受け取った銅貨をすぐに懐へ入れることはせず、それを目の高さまで持ち上げた。
そして、あろうことか、自分の舌を突き出し――ペロリと大銅貨の表面を舐め回す真似をしたのだ。
「…………ねえ、何それ」
コロは、引き攣った笑みすら浮かべずに問いかけた。
「この街は、入る前にお金を舐めなきゃいけないの? ……それとも、私の大銅貨に何かついていた?悪いけど、そういう宗教とか趣味には付き合えないかな」
衛兵はコロの言葉など耳に入っていない様子だった。
彼は「フリ」とはいえ、舐め取った「何か」の味を確かめるように、じっくりと、恍惚とした表情で唾液を飲み込んだ。
その直後、衛兵の濁っていた瞳が、一瞬だけ鋭く、異常な光を放った。
「…………よし、問題ないな。中毒者ではないようだ」
どうやらその一連の異様な行為は、衛兵の演技だったようだ。
彼は冷たく言い放つと、銅貨を乱暴に引き出しの中へ放り込んだ。
「すまんな、これは『踏み絵』だ」
「踏み絵?」
「ああ……。お嬢ちゃん、この街で『甘い音』を聞きたくなければ、余計なものには手を出さないことだ。……さあ、行け。後ろがつかえている」
「一体何が――」
コロが聞き返そうとした、その時。
後ろに並んでいた身なりの良い商人が、衛兵の「舐める仕草」を見た瞬間に、獣のような咆哮を上げた。
「あああ!ああ、あああっ!た、頼む!それだ!その蜜貨を、一口、一口だけでいい!貸してくれ、いや、売ってくれ!金ならあるんだぁぁぁっ!」
男は泡を吹き、白目を剥いて衛兵に飛びかかろうとした。
だが、脇に控えていた別の衛兵が、慣れた手付きで男の腹を槍の石突きで突いた。
「はぁ……またか。連れて行け。外の『ゴミ捨て場』へ放り込め」
のたうち回り、地面の土を舐めようとする男を、衛兵たちは無造作に引きずっていく。
門の外にいた生気のない人々は、その光景を眺めながら、自分たちの腕をさらに激しく掻きむしった。
コロはウルに促し、街の中へと歩みを進める。
「……ねえ、ウル。今の、見た?」
『ああ、酷いものだ。……あの男が狂ったのは、衛兵の芝居を見た瞬間だ』
「だね。ちょっとビックリしたよ」
『あれは金そのものに狂ったんじゃないな。……あの「動き」に対して反応していやがった』
「認識を書き換えないといけないね。……特産品は、白布じゃない。……もっと、ずっと、悪趣味な『蜜』みたいだ」
コロは、自分の指先に残る銅貨の冷たさを確かめつつ、街を歩いている。
街の通りに並ぶレンガ造りの家々は、かつては入念に漆喰が塗られていた形跡がある。
だが、今はその表面が鱗のように剥がれ落ち、露出した下地には赤黒い湿ったシミが、まるで浮き出た毛細血管のようにこびり付いていた。
窓から垂れ下がっているのは、泥と正体不明の黄色い粘液に汚れた布の束だ。
かつて王都の貴族が愛した「ルム織」は、今や道端で横たわる中毒者の顔を覆う、ただの不潔なボロ布に成り下がっている。
『特産という割には、織機の音がしないな』
ウルの指摘は正確だった。
この規模の街なら、本来なら家々から小気味よい木製の音が響いているはずだ。
だが、聞こえてくるのは、路地裏から響く「ガリッ、ガリッ」という爪が皮膚を裂く音。
そして、熱に浮かされたような、粘り気のある喘ぎ声だけだった。
「……生活の音が、全部「これ」に塗り替えられてる。この街は死に向かっているんだね」
『死んでいる、の間違いだろう』
「……だね。死んでいる」
コロは感情を交えず、ただ「生物の活動」が停止している事実だけを拾い上げた。
本来であれば活気があるはずの市場。
しかし、市場としての機能はすでに崩壊していた。
「……おい。見慣れない顔だな。旅人か」
荷車にわずかな家財を積み込んでいた男が、作業の手を止めてコロに声をかけた。
その頬はこけ、眼窩は深く落ち込んでいる。
だが、路地裏でうずくまっている連中に比べれば、まだその瞳には「逃げ出す」ための光が残っていた。
「……そうだね。補給に来たんだけど、失敗だったみたいだ」
コロが淡々と答えると、男は自嘲気味に鼻で笑い、周囲を警戒するように視線を走らせた。
「補給?冗談はやめな。この街にはもう、まともなパン一枚、水一杯だって残っちゃいねえよ。あるのは、人を腐らせる『甘い音』だけだ」
男は荷車の隙間に無理やり毛布を突っ込むと、忌々しげに門の方を指差した。
「お嬢ちゃん、悪いことは言わねえ。日が沈みきる前に、その従魔を連れてさっさと出ていきな」
「そうした方が……いいかもね」
「……いいか?この街に流れてる大銅貨……『重銅』は、もう金じゃねえ。ありゃあ『蜜貨』だ」
「蜜貨……?」
「ああ。見た目は百セスタの大銅貨そっくりだが、頭の中を溶かす蜜が仕込まれてる。一度でもその甘みを知れば、最後はその辺のヤツらみたいに、蜜貨じゃねえ重銅を舐めしゃぶるだけの抜け殻になるのさ。……この街は、その蜜に食い殺されたんだよ」
「だけど、なんでまた大銅貨そっくりに作ったんだろうね?」
「そりゃアレだ。毎日のように見るからな、大銅貨は」
「そうか……刷り込みだ。忘れられなくしたんだ」
「だろうな。売人どもの賢さには脱帽だな……。ま、さっさと出ていけよ」
男はそれだけ吐き捨てると、重い荷車を引きずり始めた。
『……自力で逃げ出す足があるうちは、まだマシなんだろうな』
「だね」
遠ざかる荷車の轍の音を聞きながら、コロは自分のポケットにある「本物の硬貨」の冷たさを指先でなぞった。
『……蜜か。……どうりで、死臭に混じって不快な甘さが鼻につくわけだ』
ウルが不機嫌そうに牙を剥く。
コロは、男が去った後の静まり返った市場を一瞥した。
露店に並んでいるのは、蝿が群がった黒ずんだ果実と、持ち主が「蜜」のために手放したであろう高級な毛皮や銀食器だ。
それらは等しく、埃を被って放置されている。
パン一枚の価格を尋ねる者はおらず、中毒者たちは自分の指に絡みついた刺繍糸を一本ずつ解き、それを「何か」と交換しようと、泥の中で指を這わせていた。
「本来ならもっともっと価値があったはずの物を、ただ舐めしゃぶるためだけのゴミに変えて、本物の大銅貨を麻薬だと思い込んで拾い集める……。もう、あとは領主がいつ街を粛清するか、時間の問題だね」
街の中央にある広場も、同様だった。
かつて清涼な水を噴き出していたはずの噴水は、とうの昔に枯れ果てているようで、底に溜まっているのは水ではなく、茶色く濁った沈殿物と、無数に捨てられた「本物の大銅貨」だ。
それらの要素がまるで墓標のように積み重なり、夕陽を浴びて鈍く光っている。
『……コロ。あそこの女を見ろ』
ウルの視線の先。
一人の女が、大銅貨の縁を、血が出るまで自分の舌で執拗に擦っていた。
金属の味がするはずのそれを、彼女は「世界で一番甘いもの」であるかのように、恍惚とした表情で舐め続けている。
「……行こう、ウル。……ここには、私たちが食べるものは何一つ残っていない。……この街そのものが、すでに大きな消化器官の中みたいだ」
コロは鞄のベルトを締め直し、足元に転がってきた大銅貨を無機質に蹴り飛ばした。
夕陽を浴びて赤黒く染まった街路は、さらに濃度を増した「嫌な甘さ」を伴いながら、一人と一匹を奥へと誘い込んでいく。
「……ウル、あっち。裏門から出よう。正門に戻るよりは早いし、何より、あの『舐める仕草』をもう一度見るのは効率が悪い」
『同感だ。……しかし、この街の人類共が喉を鳴らす音を聞いていると、俺の爪まで痒くなってくる』
マズルを顰めて小さい唸り声を上げるウル。
市場を後にし、裏門へと向かう路地。
一人と一匹は、先ほど荷車を引いていた男と再び合流する形になった。
「……見てみな。どいつもこいつも、もう手遅れだ」
男が顎で指し示した路地の暗がり。
一人の男が、狂ったように自分の胸元や腕を掻きむしっていた。
爪は剥がれ、皮膚からは血が滲んでいるが、本人はその痛みすら感じていない様子だ。
ただ、喉の奥から「あ……あ……」と、熱に浮かされたような喘ぎを漏らしている。
「何かの良くない症状が出ているみたいだね」
「ああ、あの『蜜貨』の蜜はな、一度でも舐めれば、切れた時に地獄を見る。全身の皮の下を無数の虫が這い回るような、焼けつくような痒みと痛みが襲うらしい」
男は忌々しげに唾を吐き捨てた。
「その地獄を止める方法は、たった一つ。……また『蜜貨』を舐めることだ」
男の言葉を裏付けるように、路地裏の中毒者が、震える手でどこからか取り出した「新しい大銅貨」を口に含んだ。
その瞬間、激しい痙攣はピタリと止まり、男の顔には聖者のような安らかな、しかし感情の死に絶えた笑顔が浮かんだ。
「……なるほどね。あの麻薬が生み出した苦痛を和らげる唯一の手段が、あの麻薬そのもの、というわけだ」
コロは、その光景を塵でも見るかのような無機質な目で見つめていた。
「『渇きを癒す塩水』っていうんだったかな。一瞬の安らぎのために、さらに深い渇きを買い込んでいる。……その先には、完全な破綻しか待っていないのに」
『……救いようがないな。自分で自分の尾を食う蛇と同じだ』
ウルが不快そうに鼻を鳴らす。
男はコロの言葉を聞き、力なく首を振って荷車を引きずり始めた。
「……全くだよ、お嬢ちゃん。……だが、そう言えるだけの『足』を持ってるお前さんが、今は一番羨ましいよ」
「おじさんはこれからどうするの?」
「まだマトモな連中と別の町に行くさ。この町では高級品がゴミのように転がっているからな」
男は力なく笑い、牽いている荷車に視線を送った。
よく見れば、たしかに家財道具の中に、家財道具とは釣り合わない、上等な布や銀食器などが数多く含まれている。
「なるほど。とても賢い選択だね」
「元々貧乏だったお陰で、俺は蜜貨に手を出せなかっただけだけどな。まぁ、俺はあそこにいる連中と固まって出発する。お嬢ちゃんたちはどうする?」
「私には頼りになる相棒がいるからね。こんな街道くらいなら平気」
コロはそう言って、隣を歩くウルの首元にポンと手をおいた。
ウルは「フン」と小さく鼻を鳴らし、そっぽを向いてしまったが、それでも尻尾は優雅に揺れていた。
男と別れ、門を出る際、再び背後で誰かの悲鳴と、それを嘲笑うような粘り気のある甘い嬌声が風に乗って響いてきた。
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