雷鳴の剣と、泥沼の聖遺物 4 〜初期の誤算と、蛇毒の滴〜
4.
昨夜の「捕食の宴」の余韻か、あるいは旧道の清涼な魔力のせいか。
コロの意識は、いつもより深く、鮮やかな純白の世界へと沈んでいった。
そこは、不自由な人類の器を脱ぎ捨て、ただの「魂」として女神の懐に抱かれる場所。
「……ふふ、お疲れ様。今回は随分と、賑やかな「お供」がいたようね」
鈴を転がすような女神の声が、白く穏やかな空間に響く。
コロは女神の膝の上に頭を預け、天井のない白い空を見上げた。
「本当に参っちゃったよ……。賑やか、というよりは、うるさすぎたね。自分の身の丈に合わない魔剣を、ただの着火具や草を狩る鎌だと思い込んでいる人類だった」
「雷鳴のバスチアン……だったかしら。あの魔剣の意思も、きっと嘆いていたと思うわ。「自分をただの棒切れとして扱うな」って」
「だろうね。でも、最後はラミアに捕食された。あの様子じゃ、どの道長くは生きられない個体だと思う。……剣は沼に沈めてきたよ。あれを私が持つと、ただの『標的』にしかならないからね」
コロは淡々と、けれど正確に進捗を報告していく。
女神は愛おしそうにコロの銀髪を撫でながら、「それで?」と先を促した。
「うん。そのラミアはね、恩人なんだ。ウルと出会う前、私がまだこの『器』の扱いに慣れていなかった頃のね」
女神がコロの身体を包みこんでいる中、コロの脳裏には、その頃の情景が浮かんでいた。
それは、まだコロが一人で旅を始めて間もない頃。
どこにでもある静かな森の昼下がりだった。
当時のコロは、今よりもずっと「人類の身体」というものの反応に無知だった。
彼女は焚き火で川魚を焼き、その脂でパサついた口内を潤しながら、付け合わせとして丁寧に摘み取った『銀縁草』を口にした。
銀縁草は、滋養強壮に富み、解毒作用もある薬草……のはずだった。
だが、魚の脂に含まれる特定の成分が、銀縁草の酵素と混ざり合った瞬間、それは人類の神経を焼き切るような強力な麻痺毒へと変貌したのだった。
「……あ、……れ」
指先から感覚が消え、膝が折れる。
コロは地面に突っ伏したまま、自分の身体が「ひっくり返った虫」のようにピクピクと震えるのを、どこか他人事のように観測していた。
心臓の鼓動が不規則になり、肺が空気を吸い込むことを拒否し始める。
(失敗した。……この『器』を過信していたな。これは……死ぬかな。死ぬね、これは……)
死の恐怖よりも、「計算ミス」への落胆が勝っていたその時。
背後の茂みが、音もなく割れた。
現れたのは、巨大な蛇の身体を持った、人類であれば息を呑むほど美しい女に見える魔物――ラミアだった。
『あら?美味しそうな人類が落ちていると思ったら、これは一体どういうことかしら……』
ラミアの黄金の瞳が、動けなくなったコロを見下ろす。
コロは、泡を吹く口を必死に動かし、喉の奥から絞り出すような声を出した。
「……もし、私を、食べ、るなら……内蔵、のあたりは……苦い、から……避けた、ほうが……いい、よ……」
ラミアは一瞬、呆気にとられたように目を丸くした。
「何か、が……混ざり、合って……毒、に、なって、いるん、だ……。血抜き、したほうが……い、い、かも、ね……」
今、目の前で転がっている人類は、人類の皮を被りながら、自分と同じ「魔物の匂い」をさせ、しかも死の間際に捕食者である自分へ、食べ方についてのアドバイスを送っている。
しかも、その人類と思しき存在は、自分たち魔物と流暢に言葉を交わしているのだ。
『……面白いわね、あなた。私たち魔物ではないけれど、人類でもない』
ラミアはくすくすと笑いながら、手近な薬草を摘み取り、自分の指先で軽く砕いてからコロの口内へと流し込んだ。
それが慈悲だったのか、あるいは「面白い玩具」を壊したくなかっただけなのかは、今でもコロには分からない。
「あの時は肝を冷やしたわ。まさか人類の身体がそんなに脆かったなんてね」
女神様がくすくすと笑う気配で、コロの意識がゆっくりと浮上していく。
「……食べ合わせの注意書きなんて、どこにも書いていないからね。人類はみんな、そういうことを口伝で伝えるんだ。もっとちゃんと人類と関わらないとなって痛感したキッカケだったよ」
「ええ、本当に。知識だけでは測れない、不自由だからこそ愛おしいのがその身体なの。……でも、もう大丈夫ね。今のあなたには、知識の行間を埋めてくれる、世界で一番頼もしい相棒がいるのだから」
「そうだね、本当にいい相棒に巡り会えたと思ってる」
「……さあ、夜が明けるわ。おやすみなさい、私の愛おしいコロ。明日もまた素敵な一日になりますように」
徐々にコロのまぶたが重くなっていくのと同時に、白い世界が夢に溶けていく。
※ ※ ※
コロが目を開けると、そこはラミアの遺跡の、冷たいけれど安らかな寝床だった。
隣ではウルが、すでに起きて毛繕いをしており、その黄金の瞳がコロと合った。
『……ん、お目覚めか。随分と幸せそうな顔で寝ていたな。「報告」は楽しかったか?』
「おはよう。まあ、私の「若気の至り」を共有しただけだよ」
コロは起き上がり、自分の指先が滑らかに動くことを確認している。
嘗てのラミアとの出会いを、改めて反芻しているのか、一瞬だけクスッと笑ってみせた。
「さあ、行こうか。今日は夕方までには次の村に行きたいかな」
コロは、かつて毒消しを流し込まれた喉元を一度だけさすり、寝床の先の朝日へと視線を向けた。
遺跡の朝食は、静かなものだった。
ラミアが夜のうちに捕らえておいた小鹿の肉を、コロは淡々と解体し、血抜きしないままの新鮮な肉をラミアとウルのために切り分けて渡し、自分は干し肉と、エゼルの街で買っておいた硬い黒パンを頬張った。
「……はい、ラミア。これもなかなか美味しいんだよ」
コロは保存のきくドライフルーツが入った包みをラミアへ差し出した。
人類の食べ物にさほど興味はないはずだが、ラミアはそれを面白そうに受け取り、長い指先で弄んだ。
『ふふ、ありがとう。……そうそう、これを連れていきなさい。また道端で泡を吹いて倒れられても困るわ』
ラミアが尾の先で差し出してきたのは、見たこともないほど深い緑色をした薬草の束だった。
『……それは、この辺りの奥地にしか生えない薬草よ。そのままだと猛毒だけど、正しく煎じて飲めばあらゆる麻痺毒を中和するわ』
「蛇毒草だね。これはとても貴重な薬草だよ」
『知っているなら話は早いわね。あなたの不自由な身体には、最高のお守りになるはずよ』
「うん、助かるよ。今度は食べ合わせを間違えないようにする」
コロはそれを受け取り、丁寧に布に包んで鞄の奥へと収めた。
かつての「計算ミス」を教訓に変える、これ以上ない実利的な贈り物だった。
『さあ、行きなさい。銀狼の彼、あまりその子を甘やかさないであげてね』
『善処しよう』
『ふふ。それじゃあまたね、コロ。次はもう少し、歯ごたえのある「お土産」を連れてくるのよ』
「……善処するよ」
ラミアの艶やかな笑い声に見送られ、一人と一匹は遺跡を後にした。
旧道に立ち込めていた深い霧は、朝日を浴びて嘘のように晴れ渡り、その先にはエルゲン王国へと続く鮮やかな緑の尾根が続いていた。
一人と一匹は、バスチアンのような「ノイズ」に煩わされることもなく、淡々と旧道を歩み続けた。
道中、コロの「若気の至り」について、ウルがニヤニヤしながら揶揄ってくるのを、コロが無表情で聞き流す。
そんな、いつも通りの静かな時間が流れていた。
旧道は険しいが、コロたちの「匂い」を察知しているのか、近寄ってくる魔物はいなかった。
時折、遠くでラゼル街道をゆく馬車の音が風に乗って聞こえてくる。
あちら側には、今頃「消えた英雄」を探して右往左往する人々がいるのかもしれないが、泥沼の底に沈んだ『召雷刀』が語ることはもう何もない。
「……さて。旧道はここまでだね」
旧道の終点。
深い緑に覆われた細い山道が唐突に途切れ、視界が開けた先には、太い血管のように大地を走る「ラゼル街道」が横たわっていた。
かつては王国の動脈として栄えたであろうその道は、馬車が二台並んで通れるほどに広い。
だが、石畳の隙間からは頑固な雑草が顔を出し、風が吹くたびに乾いた砂埃が舞う。
「……大きいけど、静かだね」
『ふん。かつての栄華の残り香だけが、石の間にこびりついているな。……あまり、生きている感じのしない道だ』
ウルの言う通り、街道の先にそびえ立つエルゲン王国の国境門は、見上げるほどに立派な石造りだったが、そこを守る兵士たちの数も少なく、行き交う馬車の姿も数えるほどしかない。
かつての主要路も、今では「過去の遺物」になりつつあるといった様子だ。
そんな淋しい空気が、この街道を支配している。
『……ふん。ようやく人里か。……次はどんな「嘘」が俺の鼻を刺激してくるんだろうな』
「とりあえず、路銀には困っていないし、それなりに過ごすつもりだよ」
コロはそう言って、国境へと続く緩やかな坂道を下り始めた。
一人と一匹は、特に足止めを食らうこともなく門を抜けた。
門をくぐってすぐの場所に広がるのは、国境の町トールだ。
旅人の滞在費を狙う宿屋と、使い古された馬具を扱う店、そして淀んだ空気が溜まった酒場。
そこには、他人の事情に深く踏み込まず、ただ「今」をやり過ごそうとする者特有の、気だるい活気が漂っていた。
「……まずは、ポーションを作ってもらおう」
『あのラミアが渡してくれたやつか』
「うん、その草。そのまま持っていると、折角の薬草が痛むからね」
コロは、かつて毒消しを流し込まれた喉元を一度だけさすり、街の広場から一本入った裏通りへと足を向けた。
辿り着いたのは、軒先に干された薬草が、まるで干からびた動物の死骸のようにぶら下がっている小さな店だった。
色褪せた看板には、判別不能な紋章が刻まれている。
コロが重い木製の扉を押し開けると、店内に充満していたのは、乾燥した土の匂いと、鼻を刺すような古い防腐剤の匂いだった。
『……おい、コロ。あまり良い匂いがしないぞ。……湿り気の足りない、淀んだ匂いがする』
「まあ……だね」
店内に一歩足を踏み入れるなり、ウルがマズルを顰め、低く唸った。
その視線の先、カウンターの奥には、瓶底のような分厚い眼鏡をかけた老主人が、不機嫌そうに帳簿をつけていた。
老人は扉の音に顔も上げず、しゃがれた声で吐き捨てる。
「……商売なら、並んでるもんから選べ。買い取りなら、そこの秤に置け。……ガキと犬の相手をしてる暇はねえ」
その言葉の裏には、ウルが指摘した通り、客の品を二束三文で叩こうとする強欲と、自分の知識を過信した慢心が、薄汚い煤のようにこびりついているように見える。
金になりそうとは思えない幼い獣人の少女の姿であるコロに対し、完全に興味をなくしている様子だ。
だが、コロはその「匂い」に表情一つ変えることはなかった。
彼女にとって、店主の人間性などは「道具の性能」と同じだ。
目的さえ果たせるなら、その中身がどれほど腐っていようと知ったことではない。
コロは無機質な足取りでカウンターへ近づくと、鞄の奥から丁寧に布に包まれた蛇毒草を取り出した。
「……精製をお願い。この蛇毒草を、ポーションにしてほしいんだ」
布を解いた瞬間。
退屈そうに帳簿をつけていた店主の手が、ピタリと止まった。
「……な、……おい、嬢ちゃん。これをどこで手に入れた?」
店主は帳簿を放り出し、震える指先で眼鏡のズレを直した。
先ほどまでの尊大な態度は消え、その瞳には「鑑定士」としての本能的な恐怖と、それ以上のぎらついた「強欲」が混じり合っている。
「霧の深い、一番静かな場所で手に入れたよ」
「……馬鹿な。蛇毒草は森深くにしか生えない「死を招く薬草」だぞ。しかもこれほど純度の高い個体は……。おい、これを俺に売れ。金なら出す、金貨二……いや、三枚だ!」
店主は身を乗り出し、カウンター越しにコロの鞄へ手を伸ばそうとした。
その刹那。
「そんなはした金じゃ売らないよ。それに、これは私の『お守り』だからね」
「くそっ、価値が分かっていやがったか……」
「それで食べてる旅人だからね。それでおじさん、腕はあるんでしょ?これを三本のポーションに精製してほしい。手間賃は銀貨で払うけど、もし中身を薄めたり、別の安物を混ぜたりしたら……その時は、この子の鼻を誤魔化せるかどうか、自分の命を賭けて試してみるといいよ」
コロは淡々と、脅しというよりは「単なる事実の確認」をするように告げた。
店主はウルの顔を見つめたまま額の汗を拭い、ウルの威圧感に気圧されながら、ようやく首を縦に振った。
「……けっ。……とんでもねえガキを相手にしちまった。……分かったよ、やってやる。その代わり、精製の間は、そのデカいのは大人しくさせておけよ」
その店主の言葉に、小さく微笑むコロ。
店の奥にある、煤けた調合室。
店主は先程までの強欲な顔を消し、熟練の薬師の顔で慎重に大釜を熱し始めた。
蛇毒草が投入されると、部屋の中に、甘く、けれど肺の奥が焼けるような紫色の煙が立ち込める。
コロはそれを、ウルの背中に手を置いたまま、じっと「観測」していた。
かつて森で死にかけた時、ラミアが自分の口に流し込んでくれたあの液体の匂い。
あの時、女神様から貰ったこの『器』がいかに脆いかを思い知らされた、あの苦い感覚。
数時間の後、カウンターに置かれたのは、親指ほどの小さな小瓶が三本だった。
中には、黒光りするほど深い、どろりとした緑色の液体が揺れている。
「……できた。正真正銘、最上級の毒消しだ。……これ一滴で、たいていの魔物の毒は中和できる。……ただし、嬢ちゃん。これは『毒』をもって『毒』を制する代物だ。……飲む時は、それなりの覚悟を決めな」
「……。ありがとう、おじさん。いい仕事だね」
「ああ、久しぶりに腕が鳴った」
コロは代金の銀貨を置き、小瓶を一本ずつ丁寧に胸元の内ポケットへと収めた。
かつての「若気の至り」を克服するための、確かな重み。
店を出ると、トールの街は夕暮れ色に支配されていた。
遠くで鳴り響く鐘の音。
人類の欲望が渦巻くこの街で、コロは一筋の「嘘のない保険」を手に、ウルの隣を歩き出した。
『……ふん。あの店主、腕だけは良いようだな』
「そうだね。それに、少しくらいは素材をちょろまかすかと思っていたんだけどね。……さあ、ウル。……お腹が空いたし、今度こそスープを美味しく食べたいから、どこか適当な宿でも取ろう」
街の中へと消えていく一人と一匹の影が長く伸びる。
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