雷鳴の剣と、泥沼の聖遺物 3 〜消えた叙事詩と、蟻の執着〜
3.
「はっはっは!見ろお嬢さん、火打ち石ってのはこうやって、手首のスナップを利かせて打つもんなのさ。ほら!……ん?ほら――」
「もうちょっと火花が下に行くようにしないとつかないよ」
堪りかねたのか、火をつけることに悪戦苦闘しているバスチアンに向けて、コロが口を挟む。
そんな少女からの指摘に、彼は罰が悪そうな表情を浮かべてしまう。
「わ、分かっている!この火打ち石は、あまり良いものではないな……!」
「火花はちゃんと出ていると思うんだけどね……」
暗い森の広場。
バスチアンは、コロから奪い取るようにして借りた火打ち石をカチカチと鳴らし続け、ようやく火口に小さな火を熾すことに成功した。
「くそっ……あっ!ほら、ついた!」
先程、薪を爆破してクレーターを作ったことなど、彼の脳内からはすでに「英雄の失敗は上書きされる」という都合の良い機能によって消去されているらしい。
「よーしよしよし。今夜はこの『雷鳴のバスチアン』が、王都の宮廷料理人直伝の特製スープを振る舞ってやろう!王都辺りじゃあ、俺の料理を食うために列ができたもんだぜ」
バスチアンは鼻歌まじりに、自身の鞄の中から取り出した干し肉を雑に鍋へ放り込んだ。
その傍らでは、ラミアが、焚き火の光にその端正な横顔を照らされながら、ニコニコと微笑んでバスチアンの話に相槌を打っている。
「……すご、い。……バスチアン、さま。……ほんとう、……えいゆう、……みたい」
「そ、そうか?うはははっ!乙女にそう言われちゃあ、悪い気はしねえな!巨人の首をはねた時の話も聞きたいか?」
「はい……!ききたい……!」
ラミアから持ち上げられ、益々盛り上がるバスチアンの独壇場。
だが、その数メートル先で、コロとウルは石の上に腰を下ろし、まるでお通夜のような静寂の中にいた。
一人と一匹はバスチアンの「創作武勇伝」など一文字も耳に入れていない様子。
ただ、パチパチとはぜる火の粉を、感情の失せた瞳で見つめ続けている。
『……おい、コロ』
ウルが、バスチアンに聞こえないほどの低周波で、隣のコロに問いかけた。
その黄金の瞳は、楽しげに笑うラミアの「喉元」をじっと捉えている。
ウルの鼻は、彼女の肌の下でうねる、人類とは決定的に異なる「重厚な粘膜の匂い」を嗅ぎ取っているかのように、鋭い視線を送っている。
『……いいのか?あの道化、完全に「おやつ」だと思われているぞ。……というか、今この瞬間に、あのラミアの食道はもう受け入れ態勢に入っている。……本当に、助けなくていいんだな?』
コロは火を見つめたまま、小さく、誰にも気づかれないほど微かに首を縦に振った。
彼女の瞳には、バスチアンの笑顔も、ラミアの微笑みも、等しく「自然現象」として映っているようだ。
ウルはその意図を汲み取ると、納得したように尻尾をポフンと地面に叩きつけ、大きな頭を前脚の上に載せた。
『……そうか。まあ愚問だったな。なら、俺も火が消えるのを待つとしよう。……あいつの歌声で、少し胃がもたれてきたところだ』
「……そうだね。……早くスープ、できないかな」
『食べられるものならいいな』
「もちろん、味付けは直すよ」
コロの呟きは、バスチアンが語る「ドラゴンの心臓を貫いた話」の熱狂にかき消された。
英雄を自称する男が、自分の人生で最も「美味しい」瞬間を迎えようとしていることに、当の本人だけが気づいていない。
火は赤々と燃え、鍋からは美味しそうな湯気が立ち上る。
それが、バスチアンにとって最後の、そして最も華やかな「舞台装置」になるとも知らずに。
ラミアの微笑みは、徐々に「捕食者」のそれに変わってゆく。
「さあ、お嬢さん!まずはこの俺様特製のスープを飲んでくれ。冷えた体にはこれが一番だぜ!」
バスチアンが、最高潮の得意げな顔で、木のスプーンをラミアへと差し出した。
火光に照らされた彼の瞳は、自分を「助けを求める乙女を救う騎士」だと完全に信じ込み、歪んだ欲望と自己満足で満たされている。
「……うれしい。……バスチアン、さま。……いただきます」
「ああ、構わん。好きなだけ食べてくれ!」
ラミアが細い指先でスプーンを受け取ろうとした、その瞬間だった。
バキリ、と。
焚き火のはぜる音を塗りつぶすような、重苦しい「肉の裂ける音」が響いた。
「あ――?」
バスチアンが最後に発した音は、驚きですらなかった。
ラミアの、あの端正だった顔の下半分が、耳元まで裂けるような巨大な「顎」へと変貌していた。
――ドチャッ、ゴリッ。
次の瞬間には、バスチアンの右肩から頭部にかけてが、その巨大な口内へと吸い込まれていた。
彼の鎧など紙細工のようにひしゃげ、彼の語っていた「叙事詩」は、喉の奥で押し潰された湿った音と共に永遠に途絶えた。
ただ、ゴリゴリという、ラミアの咀嚼音だけが辺りに響き渡る。
数メートル先。
コロは、ラミアの長い尾がバスチアンの胴体を軽々と持ち上げ、ゆっくりと「嚥下」していく様子を、ただ無表情で見守っていた。
『……ふん。最後まで気が付かなかったか』
「やっぱり「ナントカさん」、ダメだったね」
『あいつの叙事詩とやらは、どうやらラミアの胃袋の中で完結するらしい』
ウルが、退屈そうに鼻を鳴らす。
目の前で行われているのは凄惨な殺人ではなく、ただの「捕食」という自然現象。
それを止める理由など、この一人と一匹には一欠片も存在しなかった。
「……ウル、火が弱まってる。適当に枝を見繕ってきて」
『ああ、分かった』
コロは、主を失って転がった木のスプーンを拾い上げると、焚き火のそばに居座った。
ラミアは最後の一口――バスチアンのブーツの先までを飲み干すと、満足そうに喉を鳴らし、元の美しい「美女」の姿へと戻っていった。
『……ふぅ。ごめんなさいね。お久しぶりね、コロ』
「うん、お久しぶり。元気そうで何よりだよ」
『ちょっと前置きが長すぎたわね。段々面白くなっちゃって』
ラミアは口元の汚れを細い指で拭うと、先程までのたどたどしさが嘘のような、落ち着いた大人の女性の声で微笑んだ。
「それにしても相変わらず、一口が大きすぎるね」
コロは鞄の底から、エゼルの街で買った琥珀色の酒瓶を取り出し、ラミアへと差し出した。
ラミアは目を丸くしたかと思うと、ニッコリと微笑んで酒瓶を受け取った。
「これ、手土産だよ。人類の街で一番いいお酒だって聞いたから。……あなたの好きな味だといいんだけど」
『あらあら、まあまあ……!覚えていてくれたのね。嬉しいわ、コロ」
ラミアは酒瓶を、愛おしそうに目を細めて見つめる。
『お世話になった人……なるほどな。通りで落ち着いているわけだ』
何本かの枝を咥えたまま森の奥から帰ってきたウルは、そう言ってコロの隣に腰を降ろした。
『随分と頼もしい「番」と巡り会えたのね』
「番……まぁ、そうだね。とっても頼もしいんだ」
コロは隣に座ったウルの首元をそっと撫でる。
照れくさそうにそっぽを向いてしまうウル。
「偶然近くに立ち寄る用事が出来たから来たんだけどね、その「ナントカさん」に絡まれちゃって……。ちなみに、その「ナントカさん」は手土産ではないからね」
『あら、そうだったの?ふふ、でも人類の中でも若い人間族の男って大好き。欲望が服を着て歩いているみたいで、とっても美味しいの』
『あの道化、ラミア相手に鼻の下を伸ばしていたぞ?馬鹿だろう。魔物と人類の区別もつかんのか……』
呆れた様子でマズルをしかめるウルに、ラミアは愉快そうにコロコロと笑う。
『ふふっ!たとえ区別がついていてもね、人類の若い男って馬鹿なの。ああして人類の言葉を適当に言うと、その瞬間だけ私は美しい人類のメスになれる。とっても便利な合言葉』
「冷静な人類なら、ラミアを人類としては絶対に扱わないよ。捕食者の知恵ってやつだね」
コロはそう言いつつ、先程までバスチアンが作っていたスープの鍋を覗き込み、すぐに肩を竦めた。
「ああ、ダメだこれ。あの人の血が混ざっちゃってるから、もう食べられないや」
『私もお腹いっぱいだから、そんな人類の料理なんていらないわ』
『アイツの血肉が混ざっていると思うと不快だ。捨てろ』
そんな結論を受け、コロは何のためらいもなく、地面にバシャッと中身を捨ててしまう。
『……ねえ、コロ』
焚き火に新しい薪を放り込み、夜の闇を押し返しながら、ラミアが不意に口を開いた。
その視線は、バスチアンの「一部」だったものが散らばる地面を、一瞥だけして通り過ぎる。
「何、ラミア?」
『……あなた、「こっち側」の匂いもするけど、一応、人類の姿をしているでしょう?こうして同族が食べられるのを止めるという選択肢はなかったの?』
ラミアは、空になった鍋をひょいと手に取りながら、不思議そうに小首を傾げた。
コロは小さく肩を竦めてみせた。
「ん、どうして?強い者が弱い者を喰らう。それはこの世界で一番『嘘のない熱』だよ。……ネズミが猫に、ウサギが狼に喰われるのを止める必要がないのと同じ。あの「ナントカさん」は、自分で光を撒き散らして、自分から腹をすかせたラミアの顎の前に座ったんだ。それはもう、彼が完成させた一つの生態系だよ」
コロの言葉に、鍋を放り投げ、酒瓶を傾けていたラミアが「ふふっ」と艶やかに笑った。
『相変わらずね、コロ。あなたは昔からそう。……あの時、あなたが毒草を食べて死にかけていた時も、私の前で『もし私を食べるなら、この部位は苦いから避けたほうがいい』なんて、淡々と解説していたものね』
『……毒草?コロ、お前、そんなマヌケな真似をしたのか?』
ウルの黄金の瞳が驚きに見開かれる。
コロは少しだけ気まずそうに視線を逸らし、足元の枝を拾って、焚き火の火を突いた。
「……あれは、まだ旅慣れてない頃だったしね、計算外だったんだよ。銀縁草と岩魚の脂が混ざると、あんな毒に変わるなんて。……でも、ラミアが私の『魔物の匂い』に気づいて、気まぐれで毒消しを飲ませてくれた。……あそこで私が死ななかったのは、正義があったからじゃない。ただ、ラミアが私を『なんだか面白そうな奴だ』と思ったという、生存の確率が味方しただけ」
『そう。だから私は、今でもあなたを食べていない。同族の匂いもするし……何より、面白いものはご飯にするより生かしておいたほうが、こうして美味しいお酒を持ってきてくれるものね』
ラミアは上機嫌で立ち上がると、長い尾をしなやかにくねらせた。
『……さあ、こんな焦げ臭い場所はもうおしまい。私の寝床へ行きましょう。この辺では「ちょっとした顔」だから、ゆっくり眠れるわ』
「ありがとう。助かったよ。良かったね、ウル」
『ああ、感謝する。今日はよく眠れそうだ』
すっと立ち上がったウルの尻尾は、ゆったりとゆらゆら揺れていた。
「……さて。ラミア、その剣を片付けるのを手伝ってくれるかな。重たくて、私一人じゃ運ぶのが面倒なんだ」
コロが指差したのは、主を失ってなお地面で空しく紫色の放電を繰り返している『召雷刀』だった。
持ち主が消えても、剣に宿る魔力は行き場を失い、周囲の草木を焦がし続けている。
コロにとっては、これこそがこの森の静寂を乱す最も耳障りな「ゴミ」だった。
ラミアの長い尾が、地面で虚しく放電を繰り返す『召雷刀』を無造作に持ち上げた。
紫色の火花が湿った空気を焼き、バチバチと耳障りな音を立てている。
『これ、本当にいらないの?私たちにとっては雷魔法が使える玩具みたいだけれど、人類の街へ持っていけば、結構良いお金になるでしょうに』
ラミアが不思議そうに首を傾げた。
手練れであるラミアやウルにとってみたら、『召雷刀』は玩具程度の扱いのようだ。
しかし、その剣に宿る雷は、無視できないほどの輝きを放っている。
コロは汚れを拭ったばかりの火打ち石をポケットに収めると、一度も剣を振り返ることなく首を振った。
「いらないよ。そんなものを持っていたら、私が『ナントカさん』を殺したと思われてしまう。森で拾ったといえば、ぞろぞろと人類がやってくる。……人類っていうのはね、個体で見れば弱いけれど、とにかく数が多いからね。一人が消えれば、百人がその理由を探しにやってくる」
コロは暗い森の奥、霧に包まれた泥沼の方を指差した。
「それに、もし人類たちが『英雄の行方』を本気で追い始めて、この場所を特定してごらん。ラミア、あなたはもうここには住めなくなる。……人類は大概弱い。でも、弱いなりに徒党を組んで、知恵を使って追い詰める『頭を使った狩り』は、どの魔物よりも得意だよ。……私は、自分の恩人の寝床を、そんな雑音で汚したくないんだ」
『……ふん。群れをなす蟻の執着心ほど、厄介なものはないからな』
ウルが同意するように鼻を鳴らした。
コロにとって、『召雷刀』は「富」ではなく、平穏な観測を阻害する「特大な看板」でしかなかった。
「……『ナントカさん』は最後まで、自分の身の丈に合わないものを抱えていた。その歪みが、一番美味しい瞬間にラミアを呼び寄せたんだね。さあ、それを沼の底へ沈めて。誰の目にも触れない、一番深い場所に」
『いいわよ、私もいらないし。それにしても、あなたは本当に『彼ら』をよく見ているわね』
「勉強熱心なんだ」
ラミアは感心したように目を細めると、尾を一振りして魔剣を泥沼の深淵へと放り込んだ。
――ドボォンッ!
激しい水音と共に、伝説の輝きが泥の中に消えていく。
一瞬だけ沼全体が青白く発光したが、やがてその光も、冷たい泥の重みに押し潰されるようにして消滅した。
後に残ったのは、焦げ臭さをかき消すような、深い森の土と苔の匂いだけだった。
「……よし。これでようやく、静かになったね。同じ理由で、この鞄もいらないね」
コロは満足げに呟くと、バスチアンの残したバッグの中に大きな石を入れ、ヒョイと掴んで沼の方へと放り投げた。
『召雷刀』とは逆に、トポンという静かな音とともに、沼の奥深くへと沈んでいく。
「……ウル。その馬、紐を解いてあげて」
『ふん、承知した』
ウルが鋭い牙で繋ぎ目を噛み切ると、重い荷物から解放された馬は一度だけ大きく嘶いた。
それは、長い間耐え続けてきた「バチバチ」というノイズからの、真の意味での解放だったように見えた。
馬は振り返ることもなく、夜の森の奥へと力強く駆けていった。
コロとウルは、ラミアの後に続いて歩き出した。
金貨も、宝石も、叙事詩も。
彼女にとっては、今夜の「嘘のない静寂」よりも価値のあるものなど、この森には存在しなかった。
ラミアの住処である遺跡の周囲では、森に住む草食動物たちが静かに休んでいた。
どうやら、厄介な捕食者が近寄ってこない、このラミアの遺跡は、彼らにとっての安全圏なのかもしれない。
遺跡の奥には、冷たい石造りの外見とは裏腹に、不思議な安らぎが満ちていた。
ラミアが用意してくれた柔らかい枯れ草の寝床に身を投げ出し、コロは深い溜息をついた。
『さあ、ゆっくりおやすみなさい。明日はゆっくりお喋りでもしましょう』
「……うん、そうだね。おやすみ、ラミアもウルも」
『ああ。今日は女神様に報告するネタに困らなくて済むな』
「別にいつだって困ってないよ」
ウルの皮肉に、コロは微かに口角を上げた。
不自由な「器」を心地よい疲労感に委ね、彼女は深い眠りの底へと沈んでいった。
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