番の証明と、ただの紙切れ 2 〜ラベルの付け替えと、砂粒の証明〜
2.
「……悪いけど、今日はもう店を開ける気にはなれないんだ。明日あたり、出直してくれないか……」
カイルの声は、地面に落ちた枯れ葉のように力なく乾いていた。
その声を聞いているだけで、周囲まで憂鬱色に染まってしまいそうなくらいに悲しげな声色だ。
扉に手をかけ、鍵を開けることさえ億劫だというように、その肩は深く落胆に沈んでいる。
隣に立つリナが、申し訳なさと悲しみが混ざったような瞳でコロを見つめ、小さく頭を下げた。
コロは無表情なまま、鞄の隙間から、黄金色の布に包まれた「それ」を、カイルの視線の先へ滑り込ませた。
「……追い払うかどうかはこれを見てから判断するといいよ」
「ん?買い取りかい……?今はそんな――」
「このキノコの『命』は、一刻ごとに減衰していくからね」
カイルの言葉を遮るようにしてコロがそう告げ、ゆっくりと包みを空けた。
その瞬間、カイルの視線が包みの隙間から漏れ出す淡い黄金の光に吸い寄せられた。
彼の瞳孔が、まるで暗闇で獲物を見つけた獣のように収縮する。
先程までの「この世の終わりを迎えた顔」が、驚愕によって塗り替えられ、次いで、理性的で丹精な職人の顔へと急速に再構成されていった。
「……っ! 陽だまり茸か……!?この光沢、この密度。その辺の標本室にあるものよりも、遥かに魔力価が高いな」
「でしょ。どう、目が覚めた?」
「ああ!覚めた!……よし、リナ、すぐに扉を開けよう!換気孔は閉じて、中鍋一つで湯を沸かしておいてくれ!」
「は、はい、カイル!」
カイルの口から飛び出したのは、淀みのない指示だった。
彼はリナから鍵を奪い取るようにして工房の扉を開けると、先程までのメソメソとした男と同一人物とは思えない機敏な動作で、店の中へと滑り込んでいった。
『……フン。やっとまともなツラになったな。さっきまでは死にかけのネズミのような匂いがしていたが』
ウルが、人類には「唸り声」にしか聞こえない低い声で鼻を鳴らした。
更に彼による辛辣な言葉は続く。
『色恋だの紙切れだのにうつつを抜かすから、頭の回転が鈍る。人類というのは、なんと非効率な生き物だ。そうは思わんか、コロ』
「……ちょっと黙っててよ。商談中なんだからね」
コロは、カイルに聞こえない程度の小声でウルを嗜めると、彼に促されるまま工房の奥へと足を踏み入れた。
嗜められたウルの尻尾は、どこか楽しげにゆらりゆらりと優雅に揺れている。
工房内は、外観からは想像もつかないほど精密な静寂に満ちていた。
カイルは白衣を羽織り、革の手袋をはめると、慎重にコロから黄金の包みを受け取った。
彼は拡大鏡を覗き込み、キノコの根元から傘の裏側までを、舐めるように観察していく。
「……素晴らしい。菌糸の一本一本が陽光を完璧に固定化している。これほどの個体、アルド王国の最高級薬草市場でもそうはお目にかかれないぞ。……お嬢ちゃん、これは『薬』の材料じゃない。それ自体が『奇跡』の結晶だ」
カイルはピンセットを置き、少しだけ冷静さを取り戻した様子でコロに向き直った。
その瞳には、先程の絶望の残滓はもうない。
「是非、買い取らせてくれ。僕が今出せる精一杯の価格は、アルド金貨で三十枚だ。これ以上の額を即金で用意できる店は、この街には他にないはずだ」
コロは、カイルの提示した数字を頭の中で素早く演算し始めた。
そしてすぐに小さく頷いた。
「うん。適正価格だね。……その額でいいよ」
「交渉成立だな」
カイルは手袋を脱ぎ、改めてコロを正面から見据えた。
その瞳には、先程までの弱々しさはなく、同業者、あるいはそれ以上の「腕を持つ者」に対する純粋な敬意が宿っているように見える。
「……お嬢ちゃん。いや、採取家と呼ばせてもらうよ。これは単なる『幸運』で見つかるものじゃない。仮に見つかったとしても、この鮮度とエネルギー価を維持したまま、人里まで運んでくるのは至難の業だ」
「そうだね。私もここまでのものを採ってこられたのは久しぶりだよ」
カイルは作業台の上の『陽だまり茸』を指差した。
「このキノコは、採取した瞬間から陽光成分の揮発が始まる。純度をこの状態で保つには、原生林の湿度と温度を疑似的に再現し続ける必要があるんだ。……君には、それができていた。紛れもなく、超一流の『腕』だ。偶然見つけてどうこうなる品質じゃない」
「……効率を考えれば、当然の処置だよ。腐らせたら、ただの菌類。価値がゼロになるものを運ぶのは、時間の無駄でしかないからね」
コロは表情を変えず、ただ淡々と事実を受け流した。
『ハッ、全くだ。こいつの腕は一流だからな。無駄を嫌うあまり、俺の食事の配分まで毎日変わらん始末だ』
ウルが退屈そうに尾を揺らし、人類には「低い唸り声」にしか聞こえない音で茶々を入れる。
カイルはそれには気づかず、確信に満ちた表情で言葉を続けた。
「……そこで、一つ頼みがある。これほどの『腕』を持つ君にしか頼めない仕事だ」
「話しを聞くよ」
「ここから数日戻った場所にある『アルド深部』のさらに奥……霧氷の谷にしか咲かない『凍て星草』を採取してきてほしい」
「……『凍て星草』?それはかなり高難易度の素材だね」
「ああ。僕も何度か傭兵や採取家に依頼したが、どいつもこいつも『ゴミ』か『ただの枯草』しか持ってこなかった。……だが、君なら完璧な状態で持ち帰れるはずだ。金貨は、今回の分とは別に五十枚用意する。……どうかな?」
コロはチラッと隣で座ったままのウルに視線を送った。
ウルは退屈そうに大きなあくびをしつつも、言葉を紡いだ。
『このままぼんやりしていると、眠くて死にそうだ。いいんじゃないか?俺は森のほうが好きだ』
「……いいよ。ちょうど、次の街へ行くための路銀に色を付けたかったところだしね」
コロが短く答えると、カイルは安堵したように息を吐いた。
「……助かる。この素材があれば、僕も薬師として……この街でさらなる実績を積める。そうすれば、いつか……」
カイルはそこまで言って、ふと作業台の隅に置かれた、あのクシャクシャの「婚姻届」に視線を落とした。
完成された薬師の顔に、再び「湿り気」のあるノイズが混じり始める。
彼の肩から力が抜け、先程までの凛とした空気は、一瞬にして役所の前で震えていた「紙切れに泣く男」のそれへと戻っていった。
「……ああ、でも。どんなに腕を磨いても、どんなに珍しい薬を作っても……。結局、僕は……リナを……。この街の『家族』として認めてもらうことすら、できないんだ。……たった一枚の紙に、判子がもらえないというだけで……」
カイルは再び、作業台に突っ伏して震え始めた。
『……おいコロ。またこの男が腐り始めたぞ。さっきの凛々しさはどこへ行った?人類の情緒というのは、穴の開いた水瓶のようだな。どれだけ注いでも、すぐに空っぽになる』
コロはウルの言葉に耳を傾けつつ、絶望の再発を起こしているカイルを、冷めた、しかしどこか見極めるような瞳で見つめていた。
ベルンの街を囲む分厚い石壁が、夕闇の中に沈んでいく。
城門を抜ける際、衛兵たちは再びウルの巨体に気圧されていたが、コロが全く気にもとめずに事務的な手続きを終えると、それ以上の追求はなかった。
この街を支配しているのは「法」だが、その法を円滑に回しているのは「効率」と「金」であるという事実を、コロは熟知している。
街の灯りが遠ざかり、街道の左右を深い針葉樹の影が支配し始めると、空気は一気に鋭さを増した。
『あの街の匂いは、どうにも鼻にまとわりついていかん』
ウルが大きな耳を震わせ、不快そうに鼻を鳴らした。
『石の冷たさと、紙の擦れる音。そして、あの女の首元で鳴っていた銀の鎖の音だ。……あの男は、あの紙切れが受理されれば「鎖」が消えると信じているようだが、俺にはそうは見えん』
「……『ラベル』の付け替えだね、それは」
コロは淡々と、しかし確実に凍りつき始めた地面を踏みしめながら答えた。
「奴隷という名のラベルを剥がして、家族という名のラベルを新たに貼る。……人類っていうのは、そうやって物事に名前を付けて、箱に分類しないと安心できない生き物なんだよ。実体がどうであれ、箱の書き換えさえ終われば、世界が変わったと思い込む。……最高に非効率な現実逃避だよ」
『……ハッ。番を番と呼ぶのに、誰の許可がいるというのだ。俺たちに言わせれば、隣にいて、共に獲物を食らっているという事実こそがすべてだ。それ以外の証明など、風に吹かれる砂粒ほどの価値もない』
「だね。……でも、あのお兄さんもお姉さんも、その砂粒がなければ、自分の指先さえ信じられないくらいに、人類の仕組みに浸食されている。奴隷を物として扱えない人は、奴隷なんて買ってはいけないと思うよ」
コロは、鞄の中で重みを増した金貨の袋を思い返した。
アルド金貨三十枚。
それは、この世界の基準で言えば、一人の人類が数ヶ月は遊んで暮らせるほどの重みだ。
けれど、カイルにとってその金貨は、婚姻届に押される「たった一つの印章」ほどの価値も持っていなかったようだ。
高度が上がるにつれて、風は徐々に鋭い冷気を帯び始めた。
それは、行く先にある『霧氷の谷』の厳しさを予感させるようにも思える。
『……なあ、コロ。一つ聞いていいか』
岩場を軽快に跳ねるように歩いていたウルが、ふと足を緩めて問いかけた。
『あの情けない男に頼まれた 『凍て星草』とやら。それは、あの男の手にかかれば一体どれほどの価値に化けるんだ?』
「『凍て星草』はね、極寒の静寂の中でしか育たない、純粋な『静止』の力を秘めているんだ。正しく抽出できれば、あらゆる命の腐敗を一時的に止める、至高の秘薬になる。例えば、死を待つばかりの深い傷さえ、丸二日間はその瞬間のまま留めておけるくらいにね」
コロは遠くの山嶺を見つめながら、その価値を脳内で弾いた。
「私たちが受け取る報酬の金貨五十枚。……その倍どころか、三倍以上の金貨を積んでも惜しくない代物になる。命を繋ぎ止めたい権力者なら、全財産を投げ打ってでも欲しがるはずだね」
ウルは鼻先に冷たい風を受け、フンと鼻を鳴らした。
『随分な大化けだな。……だが、それはあくまで「あの男」にそれだけの腕があればの話だろう?自分の番を守るのに、紙切れ一枚に縋ってメソメソと泣き喚くような脆弱なオスに、そんな真似ができるのか?』
「……腕だけは、多分、本物だよ」
コロは、遠くを見つめるその視線の先に、工房で観測した光景を反芻しているようだった。
寸分の狂いもなく並んだ瓶。
曇りのない蒸留器。
そして、素材を見極める瞬間、カイルの瞳に宿ったあの病的なまでの誠実さ。
「あのお兄さんの指先はね、自然界の理に対して一切の嘘を吐いていなかった。感情のノイズさえ入らなければ、間違いなく天上の薬を練り上げるよ。……皮肉だよね。あれほど正確に世界を捉えられる頭が、どうしてあんな紙切れ一枚で機能不全を起こすのか」
『力を持っているのに、行使すべき場所を間違えている。人類という生き物は、つくづく自分たちを縛るのが好きらしいな』
「……不具合。それも、致命的な。……だけど、あの不具合があるからこそ、お兄さんはあの僅かな成分変化にも気づけるのかもしれないね。一つのことに病的に執着する性質が、あの異常な精度を生んでいるんだとしたら」
コロは小さく苦笑いを浮かべた。
『全くだ。阿呆らしい。……まあいい、せいぜい冷たい草を拾って、その才能とやらを存分に振るわせてやろう。湿気った涙の匂いは、もう十分だ』
「賛成。……行こう、ウル。夜が深まる前に、少しでも高度を稼いでおきたい。……『凍て星草』の採取には、空気の揺らぎさえ凍りつくような、完全な静寂が必要だからね」
二人の足音は、凍てつく土を踏みしめる乾いた音へと変わり、暗い山道へと吸い込まれていった。
一人と一匹は、文明の灯りが消えかけた背後の街を振り返ることなく、白く凍てつく未知の谷へと、その歩みを加速させた。
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