女傑の盤面と、旅人たち 5 〜極上の成果と、穀潰しの憂鬱〜
5.
翌日の夜。
領主としての実務を取り仕切るレオンハルトの執務室は、魔導ランプの静かな光と、運び込まれたばかりの強烈な薬草の香りに満たされていた。
重厚なマホガニーの執務机の上に広げられているのは、コロが今日一日で領内の危険区域から採取してきた成果物の数々だ。
磨き上げられた重厚な机の上には、幾つもの魔導ランプの光を浴びて、深い青や鮮やかな緑を放つ希少な薬草類が所狭しと並べられていた。
部屋全体に漂うのは、鼻腔の奥を心地よく刺激する清涼な香りと、危険地帯から摘み取られたばかりの濃厚な生命の匂いだ。
オルブライト伯爵家のお抱え薬師である年配の男はルーペを片手に、まるで国宝級の宝石でも検分するかのように慎重な手つきでそれらを仕分け、その一枚一枚の葉脈に至るまで狂いがないかを確かめていた。
しかし、その検分が進むにつれて老薬師の呼吸は目に見えて荒くなり――
「――な、なんという……。これは、本当に今日一日で採ってきたものなのですか……!?」
長年、領内のあらゆる最高級薬草を鑑定してきた専門家である彼の手は、今や見たこともないほどの武者震いで激しく震えている。
「どうした、エドワード。品質に何か問題でもあるのか?」
書類から目を上げたレオンハルトの問いに、老薬師は狂乱せんばかりの勢いで首を横に振った。
「滅相もない!逆でございます、閣下!」
「ん……逆?」
「え、ええ!この『氷結晶の抱擁草』を見てください!葉の先の一片に至るまで霜が完璧に残っている!乾燥の手順どころか、採取した瞬間の魔力管理が常軌を逸している証拠です!さらにこの『地脈の根塊』……普通なら掘り起こす際にどうしても細根が千切れる最高難度の薬草ですが、まるで土の方が自ら避けたかのように、髭根の一本すら傷ついておりません!査定規約のボーナス項目をすべて満点を超越しております!」
老薬師は額の汗を拭いながら、すまし顔で果実水を飲んでいるコロと、その足元で退屈そうに尾を揺らしているウルを恐る恐る振り返った。
「閣下、奥様……!二割の上乗せなどという事前の契約では、これほどの神業に対する報酬としてはあまりにも過少、いや、侮辱と言っても過言ではない品質です!後学のために申し上げますが、この品質であれば、少なくとも『四割』は上乗せして支払わねば、割に合いませぬ!」
専門家としてのプライドから、慌てて増額を進言する老薬師。
しかし、その横で当のコロは、グラスを傾けながらケロッとした顔であっけらかんと言い放った。
「んー、別に増額なんてしなくていいよ」
「な、なんですと……!?」
「昨日出してもらった食事も、今日の朝食も凄く美味しかったし、お昼に食べるお弁当まで用意して貰っちゃったんだ。ね?ウル」
『ん?ああ、美味かったな。どれも美味い』
「だね。部屋のベッドもふかふかで最高に快適だよ」
『だな。寝心地が良かった』
「こんなに居心地が良くて美味しいご飯が出てくるお屋敷で寝泊まりさせてもらってるんだから、これ以上の増額なんて必要ないよ。最初の二割増しでも十分だよ」
『フン。俺の取り分の肉が減らされんのであれば、金などいくらでも構わんからな』
「払いすぎて早々に契約を打ち切られる方が困るかな」
あまりにも一般の金銭感覚から逸脱した、しかしコロたちにとっては極めて合理的でブレない生存基準。
その言葉が室内に響いた瞬間、レオンハルトとマリーは一瞬だけ目を丸くし――直後、夫婦そろってこの上なく満足げな、極上の笑みを浮かべた。
「ははは!なるほど、『鳥かご』の居心地の良さがそのまま君の報酬の価値になるわけか。素晴らしいな。分かった、君がそう言うのであれば、契約通り二割の上乗せで全量買い取らせてもらおう」
「ふふ、ありがとう、コロ、ウル。あなたたちが我が家のシェフの腕を気に入ってくれて本当に良かったわ。明日からはもっと豪華なディナーを用意させるから、安心してガンガン稼いできてちょうだいね」
老薬師が「信じられん……」と頭を抱える中、超優秀な為政者夫婦と、最強の傍観者たちの利害は、またしても完璧なまでの等価交換として成立したのだった。
完璧な契約が結ばれてから、数日後の昼下がり。
オルブライト伯爵邸の南側に広がる前庭は、秋の柔らかな陽光が全面に降り注ぎ、青々と手入れされた芝生がまるで高級な絨毯のようにどこまでも広がっていた。
周囲の木々は鮮やかな黄金色に染まり、時折吹き抜ける北国特有の冷たい風が、カサカサと乾いた葉の音を心地よく響かせている。
庭園の端に設えられたレンガ造りの噴水からは、絶え間なく清らかな水音が響き、風に運ばれた水飛沫が日光を浴びて細かな虹のきらめきを作っている。
時折、空を高く回遊する渡り鳥の影が芝生の上を横切る以外、そこには争いも飢えも存在しない、徹底的に管理され洗練された平和だけが満ちていた。
あの日、マリーを突き戻した人工的な『花園』の極致とも言えるその完璧な美しさの中で、しかし一人と一匹は、その格式高い景観に完全に逆らうかのように、文字通り、完全に暇を持て余して寝転んでいた。
「はぁ……。流石にマリーに『いくらなんでも短期間に最高級の薬草が流れ込み過ぎる』って、休暇を押し付けられちゃったね」
コットンの乾いたシャツに身を包んだコロは、芝生の上に大の字になり、流れる白い雲を見上げながら抑揚のない声で呟いた。
そのカバンの中には、ここ数日で叩き出した、普通の採取家が見たら腰を抜かすような額の買取証明書が眠っている。
『フン。お前が朝から晩まで、狂ったように草むしりをしたからだ。これまで滅多になかった類の薬草の、それも品質が良いものが急激に増えたら不自然だろう。俺だってそれくらい分かる』
ウルの銀色の巨体は、暖かな日差しを浴びて芝生の上に丸くなっていた。
時折、耳の後ろを後ろ足で器用に掻きながら、大きくて温かい息をふすりと吐き出す。
「だってさ、あの制度本当に面白いんだもん。丁寧に根を残して、採取した時間ごとに分けて袋に入れるだけで、どんどん査定額が跳ね上がっていくんだよ?職人として、あんなにやり甲斐のある盤面はないって」
『完全にただの仕事中毒だ。俺は美味い肉を食ってここで寝ていられるなら、一歩も動きたくはないがな』
「ウルだって、山を駆けるときは結構楽しそうにしてるくせに」
そんなブレない一人と一匹の他愛もない雑談が、静かな庭園に溶けていく。
あまりの居心地の良さに、コロが再び瞼を閉じようとした、その時だった。
パタパタと、芝生を踏みしめる小さな、しかし軽快な足音がこちらへ向かって近づいてきた。
「あ……!ワンちゃんと、おねえちゃん!」
乳母や数人の侍女たちを少し後ろに従え、フリルのついた可愛らしいドレスの裾を揺らしながらトテトテと駆けてきたのは、マリーの次女である八歳のクロエだった。
彼女はウルの巨大な銀色の身体の数歩手前でピタリと足を止めると、恐怖心よりも圧倒的な好奇心に瞳を輝かせ、小さな指をウルのふかふかの毛並みへと伸ばしかけていた。
おずおずと、しかし期待に満ちたクロエの小さな白い手が、ウルの分厚い鼻先へと触れた。
『……』
本来ならば、人類の子供などに気安く触れられることを良しとするようなウルではない。
だが、ウルは面倒くさそうに片目を細めただけで、逃げることも牙を剥くこともせず、ドスンと芝生に寝転がったまま大人しくその小さな手のひらを受け入れていた。
「わぁ……!すっごくふわふわ!おっきくて、あったかいねぇ!」
絹糸のような極上の銀毛の感触に、クロエは満面の笑みを浮かべてウルの首元を両手でわしゃわしゃと撫で回し始めた。
その後ろでは、万が一の事態を恐れる侍女たちが「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げて顔を覆っていたが、当のウルはされるがままになっている。
コロは芝生に寝転がったまま、そんなウルの様子を横目でジッと見つめていた。
『むぅ……なんだ、その目は』
「え、別に?まだ何も言ってないよ」
『うるさい。これも、あの極上の肉と居心地の良い寝床を提供してくれている雇い主の娘を、愛想よくあしらうという重要な仕事の一環だ。それ以上でも以下でもない』
小さな唸り声の、どこかバツの悪そうな言い訳。
コロはクスッと笑って、「はいはい、偉いね、ウルは」とだけ返した。
「ねえねえ、おねえちゃんたちはお仕事お休みなの?」
ひとしきりウルを撫でて満足したのか、クロエが不思議そうにコロの顔を覗き込んできた。
「うん。ちょっとハイペースで薬草を採りすぎちゃってね。クロエ様のお母さんに『急に高級な薬草が集まりすぎだ』ってお休みを貰っちゃったんだ」
「ふーん……。お休み、つまんないね」
「まあゆっくりできるけど、別に楽しくはないね」
「クロエもね、お外に遊びに行きたいのに、ダメって言われててつまんないの」
「お外?お屋敷の庭じゃなくて?」
「うん!あのね、街の大きな通りに行ってみたいの。甘い匂いのするお菓子とか、綺麗なガラスの飾りがたくさんあるって、メイドのアンナが言ってたから!」
無邪気に街への憧れを口にするクロエ。
しかし、その後ろに控えていた年長の侍女が、困り果てた顔で慌てて一歩前に出た。
「クロエ様、いけません。旦那様も奥様も、クロエ様が街へ出られることを固く禁じておいでです」
「えー、どうしてー?」
「……オルブライト家は、今やこの領地のみならず、他領の商会からも注目されるほどに潤っております。だからこそ、その富や権益を妬む敵も多いわけでして。万が一、クロエ様の身に何かあれば取り返しがつきません」
侍女の言葉は極めて真っ当な危機管理だった。
領地が豊かになればなるほど、恨みや妬みを買うのは為政者の宿命である。
分かっているのか分かっていないのか、口をとがらせるクロエ。
「そっか。まあ、お貴族様の子供なんて、身代金目的の誘拐犯からしたら歩く金貨の山みたいなものだからね」
コロは芝生からヒョイと上半身を起こし、頭についた草を払いながらあっけらかんと言った。
そして、しょんぼりと肩を落とすクロエと、慌てる侍女たちを交互に見比べた。
「でも、暇だし私とウルが一緒に行こうか?私たちが護衛につけば、その辺の誘拐犯どころか、魔物の群れが来ても指一本触れさせないよ」
「えっ!?そ、そのような勝手なことをされては、私どもが奥様に何と叱られるか……!」
「あら?私は別に構わないわよ」
侍女たちが青ざめて止めに入ろうとしたその時、庭園のテラスの方から、マリーの凛とした、しかしどこか楽しげな声が響いた。
いつの間にか侍女の一人から伝言を受けていたのか、ふわりとしたショールを羽織ったマリーが、数人の護衛の騎士を伴ってこちらへと歩いてくる。
「わぁ!お母様!」
「ふふ。……まあ、コロとウルが傍に居てくれるなら、領軍の一個小隊を引き連れて歩くよりも遥かに安全ね」
『フン。好戦的なドラゴンか上位のデーモンが現れでもせん限りは、な』
「そんなものが出たらどの道、領都フェルゼンは壊滅ね。何かあった時の調整役として騎士を連れて行くといいわ」
「奥様!?し、しかし……!」
「良いのよ。この領地がどれだけ活気づいているか、たまにはクロエにも見せてあげないとね。またとない機会よ」
マリーが細い指先でパチンと軽く指を鳴らすと、控えていた近衛の騎士たちは即座に無言で一礼し、街へ出るための私服の手配と、極秘の警備動線を整えるべく音もなく散っていった。
かつてはただ連れ戻されるだけだった無力な家出娘が、今やその細い腕一つで、領主の城の全機能を完璧に、かつ淀みなく動かしている。
その見事な統率力と周囲の機敏な動きは、彼女がこの二十年でどれほど強固な地盤を自らの力で築き上げてきたかを如実に物語っていた。
そして、女主人の鶴の一声で、あっという間に街へのお忍び外出が決まってしまった。
クロエは「やったー!」と両手を上げて喜び、ウルの分厚い前足に抱きついている。
『……チッ。おい、コロ。何でそんな面倒なことを進んで提案するのだ。俺はここで寝ていたいと言ったはずだが』
ため息交じりに鼻を鳴らすウルに対し、コロは膝についた土を払いながら、心底不思議そうな顔をして首を傾げた。
「だってさ、いくら昨日まで稼いだとはいえ、今日一日何もしてないのにご飯だけ食べるなんて、なんだかただの穀潰しみたいな気分になるんだもん。護衛の仕事でもしておけば、今夜の夕食も胸を張って美味しく食べられるでしょ?」
『……お前のその、損得勘定の基準は本当にイカれているな』
貧乏性の裏返しとも言える、コロの徹底したワーカホリックっぷり。
そのブレないやり取りを聞きながら、マリーは声を上げてカラカラと笑うのだった。
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