女傑の盤面と、旅人たち 4 〜最高の道と、完璧な投資〜
4.
互いの実利と野心から始まり、今や誰よりも深く結びついた両親の堂々たる愛の形に、子供たちは気恥ずかしそうにしつつも、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。
だが、十五歳になる長女のセリアだけは、不思議そうに瞬きをしてマリーへと問いかけた。
「……お母様。お父様がお母様の才覚を見出し、育て上げたのは分かりました。でも、どうしてお母様は、そこまで狂ったように頑張れたのですか?」
「ええ、僕も不思議です。いくら心を入れ替えたとはいえ、誰の助けもない中で領地経営や税の勉強にのめり込むなんて……並大抵の精神力じゃできません」
長男のルークも、姉の疑問に深く頷く。
自分たちと同じ年頃の時にすべてを失い、社交界の笑い者になりながらも、どうしてそこから這い上がることができたのか。
その純粋な子供たちの問いかけに、マリーはテーブルの上に置かれた黒ずんだ手鏡をそっと両手で包み込んだ。
「そうね。馬車の中ではコロたちにも少し話したけれど……」
マリーは懐かしむように目を細め、静かな声で語り始めた。
「あの日、お屋敷の自分の部屋のベッドに戻って、泥だらけのドレスとこの手鏡を眺めながら、コロの言葉を何度も何度も思い返したの。……『あなたが花園だと思っている場所は、誰かが命懸けで維持している人工的な場所だ』『泥を掘ることも、冬を越すための薪を割る力もない白い手』って。本当に、痛いほどその通りだったわ」
マリーは自嘲気味に微笑みながら、自分の手を見つめた。
あの頃の、何も知らなかった真っ白な手ではない。今では多くの書類を裁き、現場の土に触れてきた経験が刻まれた手だ。
「ドレスを洗う水の冷たさも、石鹸の値段も知らない。籠の中の鳥が憧れだけで野に放たれた先に待っているのは、自由なんかじゃなくて、ただの惨めな地獄と死だけ。コロの言う通りだったわ。私は驚くほど何も知らなかった。だから私は決めたの。もう二度と、頭の中にお花畑を作って夢を見るのはやめようって」
マリーは顔を上げ、氷藍色の瞳で静かにこちらを見つめているコロへと視線を向けた。
「夢から覚めるのは早いほうがいいと言ってくれたコロの言葉を胸に、私は鳥かごの中から逃げ出すんじゃなくて、この鳥かごの中で、誰よりも強く賢く生きてやろうって誓った。もうまともに社交界でやっていけないという思いもあったにはあった。……でも、すべてはね、いつかまた、どこかでばったりコロとウルに出会えたときに、『今の私は、あの日よりずっと綺麗で、胸を張って生きているわ』って言えるような格好いい女になりたかったから……ただそれだけよ」
母親の口から語られた、二十年間の凄まじい執念の源泉。
それは、国家への忠誠でも家門の誇りでもなく、ただ一人の得体の知れない旅人へ「合格点」をもらうための、意地と誇りの戦いだったのだ。
「……人生には、本当にあらゆる道があるわ。いくつにも枝分かれしていて、右や左、あるいは全く別の方向へと進むことができる。人はみな、そんな複雑な道を手探りで進んでいるのよね」
マリーは手鏡をそっとテーブルに置き、慈しむような目でコロとウルを見つめた。
「そんな無数にある選択肢の中で……私は、『マリー』という一人の人間に用意されていた道の中で、間違いなく一番最高の道を選ぶことが出来たわ。今、私が歩んでいるこの道は、あのまま温室で育っていたら絶対に気が付かないような……そもそも、道には見えないような険しい道だった」
マリーの瞳に、静かな涙が込み上げてくる。
それは後悔でも悲壮でもない、自らの人生を誇り高く歩み抜いた者だけが流せる、純度の高い涙だった。
「でも、『ここに道があるよ』って……冷たくも正しい現実で、私に背中で教えてくれたのがコロとウル、あなた達よ。本当に……ありがとう」
ハンカチで顔を覆い、感極まってさめざめと泣くマリー。
レオンハルトが優しく彼女の肩を抱き、子供たちが温かい笑顔で母親を慰める中、コロはいつもの抑揚のないフラットな声で言葉を返した。
「……そっか。大正解の道を選べて、本当に良かったね」
『フン。ピーピー喚くな、騒々しい。腹が膨れたせいもあってか益々眠くなる』
感動の再会だろうが何だろうが、どこまでもブレない一人と一匹。
そんな飾らないドライな態度に、涙を拭ったマリーはふふっと吹き出し、柔らかな笑顔を取り戻した。
「ごめんなさいね、騒々しくて。……そういえば、コロたちは今、どうやって生計を立てて旅をしているの?馬車に同乗したあの日は、たしかただ宛てもなく旅をしていただけだったわよね」
食後の温かい茶を一口飲み、マリーが純粋な疑問として問いかける。
コロは食後の果実水が入ったグラスを傾けながら、あっけらかんと答えた。
「私はずっと採取家一本でやっているよ。普通のものから希少なものまで、お金になる素材を採って、各地の薬草店や薬師ギルドに売って旅費を稼いでるんだ。時折専属でやったりね。マリーが作ったここの薬師ギルドの買い取り制度、凄く良くできているからさ。明日からガンガン薬草を採取して、大儲けさせてもらおうってウルと話していたところだよ」
その言葉が、広大な大食堂に落ちた瞬間だった。
「……採取家?」
先ほどまで妻を優しく慰めていたレオンハルトの金褐色の瞳が、スッと細められた。
同時に、涙ぐんでいたはずのマリーの表情から「母親」や「かつての家出娘」の顔が消え去り、極めて冷徹で計算高い『伯爵夫人』の顔へと一瞬で切り替わったのだ。
二人の間には言葉もない。
ただ一瞬の視線の交錯だけで、夫婦の脳内に全く同じ『莫大な利益の算段』が弾き出されていた。
それまでの温かく感動的な家族の空気は、一瞬にして消し飛んだ。
食堂を包む重厚な静寂の中、魔導ランプの黄金色の光が、ワイングラスに落ちる夫婦の鋭い視線を怪しく照らし出している。
子供たちが突然の雰囲気の変貌に呆気にとられる中、レオンハルトは手にしていたグラスを「トン……」と重厚な木製テーブルの上に静かに置いた。
「……なるほど。アッシュウルフを伴えば、人類では踏み入れることの出来ない危険地帯すら容易に行けると」
「そうだね。ウルの背中を借りれば、谷底から山頂まで、結構な距離も行けるかな。長年旅しているからね、腕には自信があるよ」
「ふむ、我が領内で本格的に採取活動を行う、か……」
低く、しかし恐ろしいほどに冴えわたった声。
レオンハルトの頭脳の中では、すでに莫大な経済的価値と領地の利益が弾き出されているようだ。
「コロ。君がその気なら、我がオルブライト伯爵家から一つ、極めて実利的な提案をさせてもらいたいのだが……構わないか?」
「うん?なに?」
パイのくずを指先で払うコロに向かって、今度はマリーが極上の微笑みを向けながら身を乗り出した。
「コロ、あなたさえ良ければ……我がオルブライト伯爵家の『専属採取家』として、しばらくここで腰を落ち着けてみないかしら?」
「専属?」
「ええ。あなたが採ってくる素材は、ギルドの最高提示額にさらに二割の奨励金を上乗せして全量買い取るわ。もちろん、領内のどの危険区域への立ち入りも完全フリーパス。さらに、この屋敷で寝泊まりして、ご飯と、それに必要な道具類の一切合切を、オルブライト伯爵家の全額負担で保障するわ」
間髪を入れずに提示された、あまりにも破格で、あまりにも至れり尽くせりな条件。
普通なら誰もが裏を疑うような豪奢な提案だが、コロは氷藍色の瞳を少しだけ丸くしたあと、わずかに口角を上げた。
「へえ……いいね、それ。実はさ、最近はこの大陸もあちこちで小さな戦争だの紛争だのが増えてきてさ。街道の治安も悪くなって何かと面倒だし、どこかで安全に腰を落ち着けて、のんびり稼ぎたいなって思っていたところなんだよね」
コロのあっけらかんとした快諾に、長女のセリアと長男のルークが目を丸くする。
「え、いいんですか……!?そんなに簡単に決めてしまって……」
「だって、凄く条件が良いもの。美味しいご飯とふかふかのベッドがタダで手に入って、採った薬草は最高値で買い取ってもらえる。断る理由なんてどこにもないよ。……ウルはどう?」
振り向いたコロに対し、ウルの巨体はすでに満腹感からドスンと床に沈み込んでいた。
『フン。美味い肉と静かな寝床、それに無駄な邪魔が入らん保証があるなら、俺は一言も文句はないぞ。どこで草をむしるか俺の知ったことではない』
「だってさ。好きにしろって言ってる。じゃあ決まりだね」
コロが手持ちの果実水が入ったグラスを軽く掲げると、レオンハルトとマリーもまた、満足げな笑みを浮かべて自らのワイングラスを持ち上げた。
「交渉成立だな。ようこそ、オルブライト家へ。我が領地を存分に活用し、大儲けしていくといい」
「ふふ、嬉しいわ。最高の特級採取家が我が家にやってくるなんてね」
カチン、と清らかな硝子の音が大食堂に響き渡る。
感動の再会から一転、互いの実利と圧倒的な合理性によって結ばれた新たな契約。
だが、そんな大人たちのあまりにも早すぎる即決劇に、長男のルークは困惑したように声を上げた。
「あ、あの……お父様、お母様」
「何かしら?ルーク」
「コロさんたちが凄い方々なのは分かりますが……一人の採取家を、どうしてそこまで破格の条件で専属に抱え込むのですか?確かに危険地帯の薬草は高く売れるでしょうけれど、お屋敷での寝泊まりや食事、道具の全額負担までするとなると、伯爵家としての利益はそれほど大きくないのでは……」
まだ若いルークの真っ当な経済感覚からの疑問。
それに対し、レオンハルトはグラスを置き、どこか楽しそうに口角を上げた。
「ルークよ、物事は一面だけを見ていてはならん。マリー、この子に領主としての『投資の基本』を教えてやりなさい」
「ええ、もちろんよ」
マリーは優雅に微笑むと、子供たちに向けて、極めて冷徹な伯爵夫人としての顔で語り始めた。
「いい?確かに、コロたちが採ってくる薬草の売却益だけを見れば、莫大な利益にはならないかもしれない。でもね、私たちの本当の狙いはそこじゃないの。……コロとウルの存在を完全に秘匿した上で、コロが採ってきた圧倒的に希少な素材を『ギルドの新制度の成果』として市場に流通させ、制度の有用性を裏からぶち上げることよ」
「存在を秘匿して、新制度の成果にする……?」
「そうよ。コロたちがお屋敷から直接動いてくれれば、誰が採ってきたかギルドの一般窓口を通さずに済むでしょう?今、あの買い取り制度のおかげで乱獲は減ったけれど、まだ本当に優秀な腕を持つ採取家たちの間では『細かくて面倒な制度だ』と敬遠されている部分もあるの。でもそこに、突然桁違いの希少な素材や極上ほ素材が大量にギルドに並び始めたら、世間はどう思うかしら?」
マリーの言葉に、長女のセリアがハッと息を呑んだ。
「……『オルブライト領の新しい制度が素晴らしいから、こんなにも凄い素材が集まるようになったんだ!』って……勘違い、する……?」
「その通りよ、セリア。誰か特定の凄い採取家がいる、なんて個人の武勇伝にしちゃダメなの。あくまで『制度の勝利』として徹底的に印象操作するのよ」
マリーは氷藍色の瞳を持つ少女を、誇らしげに見つめた。
「そうすれば、『あの制度を利用すれば、あんな極上のルートに乗れて大金が稼げるのか』と信じ込んだ優秀な採取家たちが、どんどんこの領地に集まってくる。最高品質の素材を求める一流の薬師や商人たちも、莫大な資金を持ってこの地に集まるようになるわ。コロという最強の『都合のいいダミー』を使って、領地全体の経済と流通を爆発的に活性化させるための、これはほんの安い初期投資よ」
母親の口から語られた、あまりにも強かでスケールの大きい印象操作と領地経営の戦略。
子供たちはその圧倒的な知略を前に、ただ呆然と口を開けるしかなかった。
「……なるほどね。私たちの素性を隠すのは、無用なトラブル避けの他に、制度の宣伝に使うためってわけだ。うん、とても合理的だね。そういう考え方は好きだよ」
『ある意味『職人』だな。見違えた』
コロはパイの最後の欠片を口に放り込みながら、純粋な感心の声を上げた。
ウルも感心しつつ鼻をフンと鳴らし、尻尾を優雅に揺らしてみせた。
自分たちの成果が制度の手柄にすり替えられることなど、名誉や見栄に興味のないコロにとっては痛くも痒くもない。
自分たちの実入りが確定していて、静かに暮らせるのだから、誰がどれだけ裏で儲けようと知ったことではない。
それがコロの徹底した「等価交換の理」だった。
「お互いに損のない、完璧な契約だね。本当に立派な伯爵夫人になったんだね」
「ふふ、ありがとう。コロとウルにそう言ってもらえるのが、何よりの褒め言葉だわ」
腹を探り合うでもなく、ただ純粋な実利と互いへの敬意で結ばれる笑顔。
二十年前の「たった一日」から始まった不思議な縁は、こうして北方の白亜の邸宅にて、最も美しく、そして最も現金な形で、新たな轍を刻み始めたのだった。
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