女傑の盤面と、旅人たち 2 〜豪華な馬車と、二十年越しの自己紹介〜
2.
「お願いよ、お嬢さん、ワンちゃん!是非とも私のお屋敷へ来て頂戴!積もる話もたくさんあるの!」
領都の目抜き通りのど真ん中。
オルブライト伯爵夫人は護衛の騎士たちが目を白黒させるのも構わず、大真面目な顔でコロの手を握らんばかりの勢いで嘆願していた。
だが、すっかり立派な最高級のドレスをまとい、周囲に畏怖されるほどの地位を得ているマリーに対し、コロはすっと表情を『お貴族様用』のそれに切り替え、どこか胡散臭い中途半端に丁寧な口調で応じ始めた。
「いえいえ、滅相もございません、伯爵夫人様。私たちのようなしがない自由民の旅人が、高貴なるオルブライト伯爵家のお屋敷に足を踏み入れるなど、それこそ畏れ多いこと極まりないわけでして。お気持ちだけありがたく頂戴して、私たちはこの辺りの手頃な安宿へと失礼させていただきたく」
『フン、またその気持ちの悪い喋り方か。面倒だな』
そう唸って鼻を鳴らしたウルなど、視界に入っていないかの如く、コロはジッとマリーの足元を見つめている。
「そんな事をおっしゃらないで!畏れ多いだなんて絶対に認めないわ。私の大切な恩人に対して、不敬だなんて言う者がいるわけがないでしょう!ほら、良いからとにかく乗って!」
マリーはかつての世間知らずな令嬢の面影を残したまま、しかし二十年で培った圧倒的な貴族としての権力と行動力を遺憾なく発揮し、半ば強引にコロの背中を押し、ウルの巨体を豪華な馬車の扉へと誘導した。
コロの遠慮というか面倒臭さよりも、高位貴族の「ゴリ押し」の方が物理的に早かった。
これ以上騒ぎになるのは良くないと判断したのか、大人しくマリーに誘導されるコロ。
結局、一人と一匹は断るタイミングを完璧に失ったまま、ふかふかの革張りの座席が設えられた豪華な馬車の密室へと押し込められる羽目になったのだった。
パカパカと軽快な蹄の音を立てて馬車が走り出すと、車内は外の秋風を遮った上質な温もりに包まれた。
スプリングの利いた座席に小さく収まるコロと、コロの隣を全て埋め尽くすようにドスンと座り込むウル。
その対面に、マリーは嬉しさを隠しきれない様子で背筋を伸ばして座っている。
ウルは退屈そうに鼻孔を蠢かせ、車内に漂う上質な香水の匂いとマリーの気配を改めて確かめるようにふすりと息を吹き出した。
『フン。いつぞやの狭い馬車で嗅いだ時のような、あの無様な腐敗臭はせんな。少しは身の程を知った匂いになったというわけか』
相変わらずの容赦のない辛辣な品評。
コロはすまし顔のまま、無言で小さくウルの胴体に肘打ちを入れる。
当然、マリーにはウルの言葉など伝わっていないはずだった。
――しかし、ウルのその言葉を聞いた瞬間、マリーは瞳を輝かせ、クスッと楽しそうに口元を抑えて笑ったのだ。
「ふふ!その、耳を少し伏せて、マズルをほんの僅かに顰める呆れたような表情……!ワンちゃん、やっぱり、凄く辛辣なことを言っているときの表情だったのね!」
『……ぬ?』
「どう?私、もう腐敗臭はしないでしょ?」
『……ぬぅ……』
図星を突かれたウルが、金色の目を丸くしてわずかに硬直する。
マリーは二十年前の「たった一日」の旅の中で、ウルの表情の癖や態度を驚くほど鮮明に記憶し、それを今日まで大切に胸に抱き続けていたようだ。
しかも、テイマーとしての勉強もしっかりと身に付けたうえで。
「ほら、ウル。どこで誰が聞いているか分からないから、お貴族様の前でそういう不敬な品評は控えたほうがいいって、いつも言っているでしょ」
コロはいつもの平坦な声で小言を言うと、ウルの分厚い脇腹に向かってゴツンと容赦のない肘打ちを叩き込んだ。
『フン……知らん。人類の観察眼など知ったことか』
バツが悪そうにフイとマズルを背けたウルは、巨大な頭の向きを変え、馬車の窓の外を流れる石造りの街並みを面白くなさそうに見つめ始めた。
そんな一人と一匹の、二十年前と何一つ変わらない息の合ったやり取りを目の当たりにして、マリーは今度は声を上げてカラカラと嬉しそうに笑うのだった。
馬車は領都のなだらかな坂道を滑るように登っていく。
車輪が石畳を叩くリズミカルな振動と、二頭の駿馬が引く安定した速度は、並の馬車とは比べものにならないほど快適だった。
窓枠を彩る精緻な銀細工や、座席の背もたれに施された最高級の羊革のステッチ、そしてマリーの羽織る良質な冬毛皮が、彼女の歩んできた二十年の歳月の重みと豊かさを無言で証明している。
車窓の外には、黄金色に色づいた街路樹と、北国特有の灰青色の石材で組まれた美しい家並みが緩やかに後方へと流れていき、坂を登るにつれて、眼下には活気あふれる領都の全景が箱庭のように広がり始めていた。
ひとしきり笑ったマリーは、少しだけ名残惜しそうにウルの横顔から視線を外すと、改めて対面に座る銀髪の少女へと向き直った。
「本当に不思議ね」
「そうでしょうか」
「ふふ!もうっ!あのときみたいに喋ってほしいわ!」
『ほれ、その薄ら寒い言葉遣いなどサッサと辞めて、お言葉に甘えろ。ゾワゾワする』
ウルは相変わらず面白くなさそうに町並みを眺めながら、吐き捨てるようにそう言った。
「……それじゃあ」
「よろしい!街が変わり、私がこうして年を重ねても、あなたたちはあの日と何一つ変わっていない。まるで時間の流れそのものが、あなたたちの周りだけ止まっているみたいだわ」
「普通の人なら薄気味悪くてさ、近寄らないところだよ」
「お嬢さんくらいの年頃でね、人里に滅多に姿を見せない上位種のアッシュウルフをテイミングするなんて、天地がひっくり返っても人類には無理だわ。そもそも狼の魔物の上位種であるアッシュウルフをテイミングしたなんて話は聞いたことすらないわ。しかも、テイミングした魔物特有の従順さが全く見受けられない。その時点でね、お嬢さんとワンちゃんが普通じゃないことくらい分かったわ」
いたずらっぽく胸を張るマリーに対し、コロだけでなく、ウルさえもマリーの顔をジッと見つめた。
「……これは驚いた。凄く努力したんだね」
『ほう、見違えたな。あの頭の中が花畑になってた小娘が……ふむ』
一人と一匹の反応に満足したのか、マリーは嬉しそうな笑顔のまま肩を竦めた。
「あの日、あんな薄汚れたドレスでね……お嬢さんに徹底的に夢を粉砕されて、元の道へ突き戻されたとき、私は本当に絶望したわ」
『言い過ぎだったようだな』
「ごめんね。うーん、言い過ぎちゃったかな?」
『何を言ったかまでは忘れたが、ボロクソに言っていた気はする』
「……反省するよ」
今度はコロがバツが悪そうな顔をして、窓の外を流れる町並みに視線を送る。
ウルはここぞとばかりに、身体をボフッとぶつけてみせた。
「なんて冷たくて、可愛げのない子供なんだろうって思ったわ」
マリーは自嘲気味に微笑みながら、膝の上で重ねた自分の手を見つめた。
あの頃の、何も知らなかった真っ白な手ではない。
今では多くの書類を裁き、時には現場の土に触れてきた、伯爵夫人としての威厳と経験が刻まれた手だ。
「でもね、お屋敷の自分の部屋のベッドに戻って、泥のついた手鏡を眺めながら、あなたの言った言葉を何度も何度も思い返したの。……『愛はお金がかかる』『あなたが花園だと思っている場所は、誰かが維持している人工的な場所だ』って。本当にその通りだったわ。私があの画家の卵だった青年と夢見た荒野には、ドレスを泥から守ってくれる水も石鹸もなくて、明日食べる肉を捌く知識も、冬を越すための薪を割る力も、何一つなかった。籠の中の鳥が憧れだけで野に放たれた先に待っているのは、自由なんかじゃなくて、ただの惨めな地獄と死だけだったのよ。お嬢さんの言う通り」
静かに語るマリーの言葉を、コロとウルは遮ることなく、ただ淡々と聞き続けている。
豪華な車内には、時折響く馬の蹄の音と、静かに流れるマリーの落ち着いた声だけが満ちていた。
その凛とした佇まいは、かつて冷たい現実を前にただ涙を流すしかなかった少女の面影を、美しくも完全に上書きしていた。
「だから私は決めたの。もう二度と、頭の中にお花畑を作って夢を見るのはやめようって。夢から覚めるのは早いほうがいいと言ってくれたあなたの言葉を胸に、私は籠の中から逃げ出すんじゃなくて、この籠の中で、誰よりも強く賢く生きてやろうって誓ったわ」
マリーは顔を上げ、氷藍色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳には、二十年分の揺るぎない自負が満ちていた。
「それからは悔しくて悔しくて、とにかく必死で勉強したわ。同年代の令嬢たちが社交に精を出している傍ら、領地経営の書物を漁り、税の仕組みを学び、机の上の学問だけじゃ足りないからって、実際に自ら足を使って領内の農村や薬師ギルドの現場を見て回った。職人や採取人たちの泥臭い生の声を直接聞いて、どうすればこの土地が本当に豊かになるのかを泥まみれになって考えた。テイミングの技術も学んで、森にいる魔物たちから意見を聞いたこともあるわ」
『ほう、見上げたものだな』
「だね。普通の貴族令嬢どころか、貴族はそこまでしないよ」
当然、おべっかでも何でもなく、ただ純粋に感心してしまう一人と一匹。
「……すべてはね、いつかまた、どこかでばったりあなたたちに出会えたときに、『今の私は、あの日よりずっと綺麗で、胸を張って生きているわ』って言えるような女になりたかったからよ」
そこまで一気に語り尽くすと、マリーはふう、と深く息を吐き出し、少女のような悪戯っぽい笑顔に戻った。
「ふふ、どうかしら。今の私の点数は?合格点を貰えるかしら、お嬢さん」
マリーの二十年間の執念とも言える想いを聞き届け、コロは膝の上に置いた自分の小さな手を一瞥し、相変わらず抑揚のないフラットな声で言葉を返した。
「……なるほどね。ふかふかのベッドや、美味しいご飯の恩恵には預かっているけどね。それでも私は文句なしの合格だと思う。薬師ギルドの仕組みを聞いたときにね、こんなに頭の良い伯爵夫人もいるんだってびっくりしちゃったもん。まだまだ功績はあるだろうけど、今の時点で合格かな」
『フン、文句なしの合格だ』
どこかドライで、しかしマリーの歩みを確かに受け止めるようなトーンのまま、コロは言葉を継いだ。
「それとさ、マリー」
「ええ」
「さっきから私たちのことを『お嬢さん』とか『ワンちゃん』って呼んでいるけど……。よく考えたら、二十年前のあの時は名前も名乗っていなかったね」
その言葉に、マリーはハッと息を呑んだように目を丸くした。
言われてみれば当然だった。
あの時は若すぎる夢に溺れかけ、更に生きるか死ぬかの現実を突きつけられ、もとの鳥かごへ送り返されるまでの目まぐるしい時間の中で、自己紹介などという人類の社交的な手順を踏む余裕などどこにもなかったのだ。
「あ……!そうだわ、本当にそうね!ふふ、あの頃はそんな余裕なんて無かったもの」
「あの時は成人したてでしょ。普通の貴族令嬢なら、ただの自由民の子どもに名前なんていちいち尋ねないと思うよ。でも、これからお屋敷にお邪魔するわけだし、案内してもらう手前、さすがに不便だからさ。一応、名乗っておくよ」
コロは氷藍色の瞳を真っ直ぐにマリーへと向け、ごく淡々と自身の名を口にした。
「私はコロ。で、こっちの態度が悪くて太々しいアッシュウルフがウル。これが私たちの名前だよ」
『フン。不愉快な紹介だ』
名前を呼ばれたウルが、窓の外を向いたまま尾の先をパタパタと座席の床に打ち付け、億劫そうに鼻を鳴らす。
「コロ、と……ウル……」
マリーはその二つの響きを、まるで二十年前に失くした大切な宝物の名前を見つけたかのように、愛おしそうに、何度も噛み締めるように小さく呟いた。
「コロに、ウルね。素敵な名前……」
「私も気に入っているんだ」
「やっと、やっとあなたたちの名前を呼ぶことができたわ」
感極まったように目元を少しだけ潤ませながら、しかし今度はしっかりと前を向いて微笑む伯爵夫人。
やがて馬車は滑らかに速度を緩め、領都の最も高い丘の上にそびえ立つ、オルブライト伯爵家の豪奢な白亜の邸宅の正門へと滑り込んでいく。
左右に開かれた巨大な鉄製の門扉をくぐると、丹念に手入れされた前庭と、そびえ立つ尖塔を持った壮麗な本邸の姿が視界を埋め尽くした。
かつての名前なき傍観者たちと、その理を胸に生き抜いてきた令嬢の轍は、二十年の時を経て、いよいよその完璧な幸福の城へと至るのだった。
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