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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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平和な余暇と、変死事件 3 〜真夜中のお花摘みと、切り札〜

3.


噴水広場での宣言通り、怪死事件の話など一切関与せず、高級宿『銀の月桂樹亭』で昼間から自堕落な余暇を貪っていた一人と一匹。


その夜。

一人と一匹は美味しい料理でお腹を満たし、三階の広い角部屋にある天蓋付きのふかふかなベッドで、死んだように深い眠りに落ちていた。


深夜――日付が変わってどれくらい経った頃だろうか。


王都の街灯の明かりも落ち、宿屋の石造りの建物全体が、寝静まった重い静寂と冷たい夜気の中に包まれていた時のこと。


「……んゆ、……うーん」


シーツの中でコロがモソモソと寝返りを打ち、小さくあくびをして目を覚ました。

夕食の際に美味しい特製スープや紅茶を普段より多く飲んだせいか、下腹部にささやかな尿意を覚えたようだ。


コロは眠い目をこすりながらベッドから抜け出し、羽織ものを肩にかけてぺたぺたと部屋のドアへと歩き出す。

その小さな足音と気配に、ベッドの横の絨毯で体を丸めて寝ていたウルが、ピクリと片耳を動かして金色の細い目を開けた。


『……ん、おい。夜中だぞ、コロ。どこへ行く』

「あ、ごめんごめん、起こしちゃった?ちょっとおしっこだよ。お花摘み」

『フン。仕方ないな、俺もついて行くか』


ウルがのっそりと巨大な頭を持ち上げ、前足を伸ばして立ち上がろうとする。

だが、コロはドアノブに手をかけながら、軽い調子で首を横に振った。


「え?流石に良いよ。ただ部屋の外の化粧室に行くだけなんだからさ」

『む……そうか?』

「うん。サッと行って、パッと済ませて戻ってくる」

『まあ、この宿の中なら妙な輩も入ってこんか。すぐ戻ってこいよ』

「うん、すぐ戻るよ」


ウルは大きなあくびを噛み殺し、ドスンと再び絨毯の上で目を閉じた。


コロもまた、ここ数日の完全な安全圏での生活にすっかり警戒心を解き、何の疑いも持たないまま、部屋のドアを静かに閉めて廊下へと足を踏み出した。




真夜中の『銀の月桂樹亭』の廊下は、昼間の華やかさとは打って変わり、魔法ランプの光が絞られて薄暗く、ひんやりとした静寂が満ちていた。

磨き上げられたマホガニーの床に、コロの柔らかい室内履きの音が「パタ、パタ……」と微かに吸い込まれていく。


「ふぁあ……やっぱり夜は少し冷えるね。さっさと済ませて、あの暖かいお布団に戻ろう……」


一人と一匹が泊まっている部屋の真反対に位置する、長い廊下の突き当たりにある、大理石で美しく仕立てられた共同の化粧室。

そのドアへと向かって歩いていたコロの目が、ふと、廊下の角――大きな飾り窓のすぐ下の床に、黒っぽい灰のような粉の山がこんもりとまとめられているのを捉えた。


「おっと!ん……?なんだろ、これ。灰……?」


コロは少しだけ歩みを止め、小首を傾げてその灰の山を見下ろした。

高級宿とはいえ、夜間や早朝に暖炉の掃除を行うことは珍しくない。

職人気質で、庶民感覚の強いコロは、「掃除の手順が少し粗いな」くらいの感想しか抱かず、すぐに興味を失う。




手早く用を済ませ、桶に張られていた水で手を洗って廊下へと戻る。


早くあのふかふかで暖かい布団に戻ろうと、再びあの飾り窓の横――床にこんもりと積まれた灰の山の前を通り過ぎようとした、まさにそのタイミングだった。


――サラサラサラッ……


背後で、微細な砂が風に舞うような音が響いた。

風など通るはずのない室内で、床に積まれていた黒っぽい灰の山が、まるで自らの意志を持つ生き物のように、音もなく一瞬で宙へと巻き上がったのだ。


コロが違和感に気が付き、歩みを止めて視線を向けた時には、渦巻いた黒い灰はすでに人の形をとっていた。


そこに立っていたのは、仕立ての良い黒い外套をまとい、シルクハットを被った男――昨晩、外でのディナーの帰りに路地裏へと消えていくのを目撃した、あの随分と良い身なりの紳士風の男だった。


声を発する隙すらなかった。


背後から伸びてきた蒼白く冷たい手首が、コロの小さな身体を後ろから軽々と抱きすくめ、もう片方の手がその首元へと這い寄る。


突然の不意打ち、カッと目を見開いただけで、パニックを起こすことはなく、コロはあくまで平坦で冷静な声を出した。


「これは驚いた。ただのゴミの山かと思えば、あなたは昨夜に路地裏で見かけた人だ。珍しいね、バンパイア族かな。若い女性ばかりを狙う変死事件の犯人はあなたというわけだ。でも、見れば分かると思うけど、私はそんな年頃じゃないよ」


淡々と事実を告げるコロに対し、人類社会の闇に隠れ住むバンパイア族の男は、赤黒く濁った瞳を怪しく輝かせ、コロの首筋に顔を寄せて深く息を吸い込んだ。


「もうお喋りに満足したか?若い女の血など、もうとっくに飽き飽きしていたのだ……。念のための口封じをと思って張り込んでいたが、どうだこれは。お前、一体何者だ?」


男の声は、極上の美酒を目の前にした歓喜で微かに震えていた。


「ただの獣人族の少女だよ。それ以外、別の何かに見える?」

「その辺にいるただの獣人とは思えんほどに甘美で、とてつもなく濃密な血の匂いがする……。お前の身体から漂うこの芳香、たまらないぞ……」


男はバンパイア族としての鋭い嗜好のせいか、コロの器が持つ異質な極上さを正確に嗅ぎ取っていた。


「ここでお前の血を一滴でもこぼすのは惜しい。我が城館で、余すことなくゆっくりと味わわせてもらおうか」

「さてと。そろそろ叫ぼうかな」

「あの世でか?」

「参ったね。血を味わうのに生死は問わず、か」

「鮮度に関わる。極力生きたまま味わいたいものだな」

「そうなんだ。じゃあ大人しくしていようかな」

「その舐めた態度も、いつまで保つことか」


男はコロを小脇に抱え込むと、廊下の突き当たりにある大きな飾り窓へと向かって跳躍した。


――ガシャアアァァンッ!!


夜の静寂を切り裂き、窓ガラスが豪快に粉砕される鋭い音が廊下に轟く。


男は破片を散らしながら窓枠を蹴り飛び、そのまま月明かりが照らす王都の夜空へと一瞬にして飛び去っていった。


その直後だった。


静まり返っていた宿の廊下に、木材が砕け散る豪快な破壊音が轟いたのは。


――バキィィッ!!


三階の角部屋の分厚い扉が、内側から丸ごと突き破られ、銀色の閃光が廊下へと飛び出してきた。

ガラスの割れる異音と気配に即座に反応したウルである。


『――コロッッッ!!』


ウルの金色の瞳が、散乱する窓ガラスの破片と、そこに残された匂いを正確に捉える。


不快な男の体臭と、遠ざかっていくコロの気配。


マズルを獰猛に顰め、低く唸り声を上げたウルは、一瞬の躊躇もなく、ガラスが散らばる窓枠を力強く蹴り上げた。

夜空へと飛び去った黒い外套の影を追って、巨大なアッシュウルフが、王都の闇空へと真っ直ぐに跳躍したのだった。




静まり返っていた王都の夜空に、二つの影が激しく交錯していた。


一つは、背中から展開した漆黒のコウモリの翼を羽ばたかせ、月明かりの夜空を自在に滑空するバンパイア族の男。

そしてもう一つは、王都の赤煉瓦の屋根から屋根へと強靭な四肢を蹴り立て、凄まじい跳躍力で空の敵へと食らいつこうとする、巨大な魔狼ウルの銀色の影である。


『――グルルルッッ!!虫けらが!俺のコロを離せッッッ!!』

「くくっ、アッシュウルフか!なんと素晴らしい忠誠心と跳躍力だ!だが、空を統べる私に、地を這う獣如きが届くと思ったか!」


男は嘲笑を浮かべながら、巧みに高度を上げてウルの鋭い牙と爪をすり抜けていく。


「あ、ウルの言葉が分かる類の人だ、あなたは」

「だからどうした?」

「いや、ただただ若い女の人ばかり狙う変態ってわけじゃないんだなって」

「死にたいのか?」

「あなたの屋敷に到着するまで私は死なないんでしょ?それに、死にたくないと言ったら解放してくれるの?」

「口の減らない小娘だ」

「口が減って解放してくれるなら黙っているけどね」


信じられないほどに冷静で肝の座っているコロに、バンパイア族の男はペースを乱されているようだ。


しかし、本来であれば、これほどの距離など、ウルの腹の底から放たれる衝撃波か、大気を焦がす『黒雷』を一発放てば、バンパイア族の男ごと消し炭にできるはずだった。


だが――男は、ウルのその圧倒的な破壊力を警戒し、事あるごとに小脇に抱えたコロの小さな身体を、盾にするようにウルの射線へと突き出していたのだ。


『チィッ……!!』

「どうした!自慢の雷を放たないのか、アッシュウルフ!この極上の匂いを纏う獣人の小娘ごと、灰にしてしまうのが怖いか!」


バチバチとマズルに黒い稲妻を走らせるものの、コロを巻き込む恐れがある以上、ウルは力技をぶつけることができない。

万が一、黒雷を直撃させずに仕留められたとしても、魔法の余波や衝撃でコロが気を失えば、この高空から石畳の地面へと叩きつけられ、命を落とす危険性がある。


ウルの攻撃の手が鈍ったのを見透かした男は、勝ち誇ったように翼を強く打って、さらなる高空――王都の城壁すら遥か眼下に見下ろすほどの高い空へと舞い上がっていった。


地を蹴る屋根すら届かない高度にまで達し、男は満足げにコロの首元へと冷たい手を這わせる。


「さて、邪魔な狼の届かぬ場所へ来た。極上の血を、まずは一口味わわせてもらおうか」

「……ん、そうだね。じゃあその前にひとつだけ、あなたを褒めてあげようかな」

「何……?」


男の牙が首筋に迫るその瞬間。

高空の風に銀髪を揺らしながら、コロは相変わらず平坦で冷静な声を明瞭に響かせた。


「私が、その辺にいるただの獣人じゃないってピンと来たことだよ。人類の割には、鼻の効きだけは凄く良かったみたいだね」

「何が言いたい」

「簡単なお話だよ。そんな優秀な鼻を持っているのにね、どうしてあそこにいる私の相棒だけが、アッシュウルフだと思い込んだのかなってこと」

「……は?」

「私からあの子と同じ匂いがするとは思わなかった?」

「……何が言いたい?さては時間稼ぎのつもりか?」

「惜しい。まだ分かんないか、残念。私はね、獣人ではあるんだけど、相棒と同じアッシュウルフなんだよ。アッシュウルフの獣人なの」


その言葉の意味を男の脳が理解するよりも早く、コロの小さな身体の奥底から、信じられないほどの高密度な魔力が爆発的に膨れ上がった。


――バチバチバチィィッッ!!


漆黒の夜空を白夜のように照らし出し、大気を焦がすオゾンの異臭が弾け飛ぶ。

それは、地上から狼狽えて見上げるウルですら一度も目にしたことのない――コロという少女の小さな身体から放たれた、高純度の『アッシュウルフの黒雷』だった。


「な、ん――ッ!? ぎ、ぎあぁぁぁっっ!!」


ゼロ距離。

まさに肌と肌が触れ合う腕の中で、高圧の黒い稲妻を全身に浴びた男は、叫び声を上げる隙すら与えられなかった。

人類の希少種として誇った強靭な肉体も、自慢のコウモリの翼も、アッシュウルフの破滅的な魔力の前に、一瞬にして真っ白な灰へと消し炭に変えられていく。

先ほどの身を隠していた時のような黒っぽくない、暖炉のなかにあるような真っ白い灰。


「さようなら。所詮は人類ってとこかな」


サラサラと、夜風に吹かれて散っていく白灰。

足場を失ったコロの小さな身体が、重力に引っ張られ、月明かりの夜空から真っ逆さまに落下し始める。


「――ウルっ!!」

『――フン!!』


だが、地上で睨みを利かせていたウルは、一瞬の遅れもなく完璧なタイミングを見計らっていた。


王都で最も高い時計塔の屋根を強靭な後脚で力強く蹴り上げ、銀色の流星となって夜空へと跳躍する。

風切り音と共に急上昇したウルの広大な背中に向かって、落下してくるコロが両腕を伸ばし、その温かく分厚い毛並みへとしっかりと抱きついた。


「――っよし!ふぅ、助かったよ」

『平気か?怪我はないか?』

「うん、平気」


――タァァンッ!!


衝撃を殺すように隣の建物の屋根へと軽やかに着地した一人と一匹。


夜風が吹き抜ける屋根の上で、ウルは首を巡らせ、背中に乗る小さな相棒を、どこか信じられないといった様子で見つめた。


『……おい、コロ』

「だから平気だって」

『いや、あれだ。……お前、あのような『雷』が使えたのか?俺は全く知らんかったぞ』


困惑気味のウルに、コロはクスッと笑ってみせた。


「あれ?ははは、言ってなかったっけ?」

『聞いてない。見たこともない』

「ウルと出会ってからは……ああ、そうかもね。うん、そうだ。私の器(からだ)はね、女神様謹製の器(からだ)だよ」

『それは知っている』

「その辺の犬や狼の獣人じゃなくてね、あくまでアッシュウルフの獣人なんだ」

『……そんな種族、聞いたことがないぞ』

「それはそうだよ。女神様謹製だから他にはいないよ。だから一応ね、あれくらいならできるんだよ」


コロはペタリとウルの背中に伏せながら、どこか気まずそうにポリポリと頬を掻いた。


「でもさ、これ、効率が悪すぎてね。本当に最後の最後に使う奥の手なんだ。射程なんてあってないようなゼロ距離だしね、一度使うと魔力がすっからかんになって、数日間はお腹が減ってしばらくマトモに動けなくなるんだよ。ほら、もうお腹がペコペコで目が回りそう」

『……そんな不便な技だから、今までずっと隠していたというわけか』

「ん、それだけじゃないよ。理由はもう一つある」

『なんだ』


コロはウルの銀色の耳元へと顔を寄せ、愛おしそうにその毛並みを優しく撫でた。


「だって、私にはね、こんなに強くて頼もしいウルがいるもの」

『……ふむ』

「私のことを全力で守ってくれるウルがいるのに、私がそんな進んで、燃費の悪くて疲れる黒雷を、わざわざ使う必要なんてないじゃない」

『…………フン』


相棒からの最大級の全幅の信頼と、決して揺るがない絆の言葉。

ウルはマズルを微かに背き、どこか気恥ずかしさを誤魔化すように、ふすりと鼻孔から温かい息を吹き出した。


『……それでも、今回、俺は油断してしまった』

「あはは、今回は完全に『お花摘みの油断』だったね。私もさすがに反省。一人でフラフラ出歩いちゃ駄目だって痛感した。……ほらウル、本当にお腹すいちゃった。あのふかふかのベッドの部屋に戻って、明日の朝はたっぷり食べよう」

『フン、俺の分を合わせて破産するかもしれんな』

「蓄えはいっぱいあるからね。別に平気だよ」


王都を脅かしていた連続変死事件の夜は、誰に知られることもない高空の閃光とともに、あっけなく幕を閉じた。


「ありがとうね、ウル」

『……お前が無事で何よりだ』

「凄く嬉しいよ」

『そうか』


最高の切り札を披露しつつも、いつもの調子を全く崩さない最強の傍観者コンビは、月明かりが照らす石畳の屋根を蹴り、自分たちの温かい高級宿のベッドへと、軽やかに帰っていくのだった。


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