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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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平和な余暇と、変死事件 2 〜路地裏に消えた紳士と、余所者たち〜

2.


掲示板の物騒な張り紙を「私たちには関係ない」とあっさり受け流した一人と一匹。

宣言通り、王都の中心街にある、宿泊費が比較的高めな『銀の月桂樹亭』へと足を踏み入れた。


そこは、王都を訪れるそれなりの商人や下級貴族などが定宿とする、丁寧に切り出された石材と、磨き上げられたマホガニーの木材で設えられた、なかなか品のある清潔な宿屋だった。

鞄を膨らませた金貨の重みに物を言わせ、三階の広い角部屋と、最高の夕食コースを惜しみなく前金で確保するコロ。


そしてその夜――宿の一階にある重厚な食堂の個室で、一人と一匹を待っていたのは、まさに「泰平の都」の粋を集めた至高のごちそうだった。

なお、この食堂に関しても、エール片手にガハガハと笑うような下品な輩は一人もおらず、片隅で吟遊詩人が静かでしっとりとした音色を奏で、控えめに食器がカチャカチャとこすれ合う音だけが聞こえてくる。


『うむ、美味い。やはり屋台の串とは肉の質が格段に違う。客の質もその辺の安宿とはまるで異なる』

「たまにはこういうところも良いね。値段と品質が一番釣り合っているところを狙って選んだけど、大正解だったね」


ウルの目の前に運ばれていたのは、王都近郊の牧場で丹念に肥育された上質な牛の塊肉を、香草と赤ワインの特製ソースでじっくりとローストした骨付きの特大ステーキだ。

ナイフを入れるまでもなく、ウルの鋭い牙が噛み締めると、口の中へと濃厚な肉汁がじゅわっと溢れ出し、芳醇な脂の甘みが広がっていく。

用意された肉の山を、ウルは周囲の雰囲気に合わせているのかゆっくりと、幸せそうに平らげていく。


『堪らん。美味い。堪らん』


一方のコロの目の前にも、季節の野菜を香ばしくグリルした温かいスープや、近海の港から速達で運ばれた白身魚の香草蒸し、そしてサクサクのパイ生地にベリーをふんだんに敷き詰めたタルトが、銀の食器に乗って美しく並べられていた。


「この魚もふっくらしてて美味しいよ」

『魚か。肉もいいが、明日は魚も悪くないな』

「ふふ、どっちも頼めばいいよ」

『ん、随分と甘いことを言うな』


僅かな上目遣いでコロの顔色を伺うウル。

しかしコロは小さく微笑みつつ、肩をすくめてみせた。


「それくらい当然だよ。ウルがいてくれるからこそ、こんなに楽に旅ができているんだから」

『じゃあお前の気が変わる前に、遠慮せずに食うとする』

「ふふ、そうしてよ。ほら、これも野菜の甘みがすごく優しいよ。……うん、やっぱりお金を惜しまずに良い宿を選んで正解だった」

『まあ当然だ。ここ暫くずっと、働くか旅をするかだったんだ。これくらいの贅沢はあって然るべきだからな』


お腹がはち切れそうになるまでとびきりの料理と甘いお菓子を堪能した一人と一匹は、部屋に用意された、雲のようにふかふかの天蓋付きベッドへと潜り込む。


清潔なシーツの洗いたての香りと、羽毛の柔らかさに包まれながら、コロとウルは久方ぶりの完全な安心感の中で、死んだように幸福な泥の眠りへと落ちていった。




それからの数日間、一人と一匹はまさに王都の余暇と贅沢を骨の髄まで満喫して過ごした。


朝は太陽が昇るまでふかふかのベッドで眠り、起きたら街の美しい通りを適当にブラブラと散策する。

お腹が空いたら評判のカフェで甘い焼き菓子と濃い紅茶を楽しみ、昼下がりには広場の噴水のそばで、日差しを浴びながらウルの広い腹に寄り添ってのんびり昼寝をする。


素材の採取もなければ、泥臭い交渉も一切ない、完全無欠の『のんびり休暇』である。


「はあ……極楽だね。平和な国でさ、何も考えずにぼーっと過ごすのって、本当に最高だよ」

『メリハリも重要ということだな』

「だね。永住とまでは言わないけど、案外、これくらい人が多い場所の方が気楽に暮らせるのかもしれないね」

『却下だ。人類が多すぎる』

「多いからこそ、私たちにも関心が向かないんだよ。いい意味で無関心なんだ」

『ジロジロ見られるよりは良いがな、でも却下だ』

「ふふ、それくらい分かっているよ。大丈夫、この国の国民じゃないから永住する権利を得るにもお金が掛かるし、この辺りは稼げそうな森も少ないし、兎に角お金が掛かって仕方ないよ」


そんな会話を交わしながら、暖かな日の光を浴び、身体が蕩けそうになっている一人と一匹。




そんな平和な休暇が数日続いた、ある日の夜のこと。


この日、一人と一匹は宿の食堂ではなく、王都の貴族街の近くにある、少し離れた有名レストランまで足を伸ばして極上のディナーを堪能していた。


すっかり夜の帳が降り、街灯の魔導ランプがオレンジ色の光を灯す石畳の大通りを、お腹を揺らしながら連れ立って帰っていた時のことだ。


「――ん?」

『……む?』


大通りの喧騒から少し離れた、建物の間を縫う薄暗い路地裏。

その入口付近を歩いていたコロとウルの視線が、ふと、ある一人の人物の「背中」に同時に引き寄せられた。


それは、仕立ての良さそうな黒い上質な外套を羽織り、頭に高価なシルクハットを被った、いかにも『随分と良い身なりの紳士風の男』だった。


男は、賑やかな大通りから外れ、街灯の光すら届かない真っ暗な路地裏の奥へと、まるで足音を一切立てないような滑らかな歩様で、スッと影に溶けるように消えていったのだ。


「……ねえ、ウル」

『フン。良い身なりの男だったな。どうせ夜遊びか、人目につかない場所で何か後ろ暗い取り引きでも行う、貴族のお忍びといったところだろう』


ウルの鼻孔が微かに蠢き、その外套の裏に隠された不自然な『冷たさ』を感じ取ったようだったが、すぐに興味を失ったように視線を外した。


「まあ……だね。王都の貴族にも色々あるんだろうね。私たちには関係ないかな」

『うむ。あのような路地裏で何が起ころうが、俺たちが干渉する理由はつま先ほどもない。行くぞ、コロ。夜風が冷えてきた』

「うん、帰ろう」


男の背中にほんの一瞬、なんとなく視線を送っただけの一人と一匹。


特に深く言及するわけでも、興味を持って追いかけるわけでもなく、彼らはただの街の日常の一コマとしてあっさりと素通りし、そのまま温かい高級宿のベッドへと帰っていったのだった。




そして――異変は、翌日の朝になって起きた。


いつものように怠惰な目覚めと、遅めの朝食を終え、市場の露店通りをブラブラと散策しようとやってきたコロとウルの前に広がっていたのは、ここ数日の平穏で長閑な空気とは一変した、ひどく物々しく、殺気立った街の様子だった。


甲冑を鳴らした王都の衛兵たちが血相を変えて小走りで行き交い、市場の市民や商人たちは、仕事の手を止めて顔を寄せ合い、不安げな声でヒソヒソと噂話を囁き合っている。


「あれ?なんだか今日、街全体の空気がすごく騒がしいね。何かあったのかな?」

『フン。衛兵どもがチョロチョロ走り回っているな。面倒なトラブルか』


不思議に思ったコロは、この数日で果物や串焼きを買ううちに顔馴染みになった、一番角の露店を営む恰幅のいいおばちゃんのところへと歩み寄った。


「おはよう、おばちゃん」

「ああ!おはようさん!獣人のお嬢ちゃんに格好いい魔狼さん」

「今日、街の人たちがすごく騒いでるけど、何があったの?」

「お嬢ちゃんたち、まだ知らなかったんかい!まーた出たんだよ、あの恐ろしい事件がさ!」


おばちゃんは、いつもは陽気な顔を青ざめさせ、周囲を警戒するように声を潜めて身を乗り出してきた。


「また、昨日の夜遅くにね……若い娘さんの『血を抜かれた死体』が見つかったんだよ!今度のは、この市場の裏手を少し行ったところにある、大通りから一本入った路地裏でさぁ!ほれ、そこ」


大通りから一本入った、路地裏。

おばちゃんが指差したその方向と、語られた場所の条件に、コロとウルの目がほんの一瞬、ピタリと止まった。


「……えっと、その事件があった場所って、もしかして……あの角のパン屋と、仕立て屋の建物の間にある、薄暗い路地裏のこと?」

「そう!まさにそこだよ、お嬢ちゃん!よく分かったねぇ。昨晩の夜半頃、あそこで帰り道の若い女中さんが、全身の血をすっかり吸い尽くされて死んでいるのが見つかったって話でさ!」


露店のおばちゃんが語る悲惨な事件の現場。

それは他でもない――昨晩、外でのディナーの帰り道に、コロとウルが『随分と良い身なりの紳士風の男』の後ろ姿を偶然目撃し、なんとなく視線を送ってスルーした、まさにあの路地裏だったのだ。


「いやぁ、若くも美しくもないおばさんで良かったなんてさ、こんなに感謝したことはないよ!若い女の子は気が気じゃないだろうねぇ」

「私も若すぎるし、無関係かな。条件に合致する女の人は戦々恐々だ」


コロの言葉にカラカラと笑い声をあげたおばちゃん。


「ははは!尤も、お嬢ちゃんにはそんな強そうな相棒がいるじゃないのさ!キッと睨みを利かせてりゃ、誰だって手を出そうなんざ思わないよ」

『フン。分かっているようだな。おい、追加で串を買え』


矢鱈とウルを褒めるおばちゃんに気を良くしたのか、ウルがドサクサに紛れておかわりを要求し始めた。

コロは小さく肩をすくめ、おばちゃんに追加の肉串を注文するのだった。




おばちゃんから買い足した熱々の香草ソーセージの串焼きを片手に、一人と一匹は市場の騒動を背にして、広大な中央広場へと戻ってきた。


白亜の女神像が美しい水しぶきを上げる噴水のそば、日当たりの良い木製ベンチに腰を下ろすと、コロは小さく溜息をつきながら冷めた紅茶の入った水筒を取り出した。


『本当に美味いな。これはアレか?俺でも嗅ぎ分けられない、何か良からぬ薬でも入っているのか?美味すぎる。妙な中毒性を感じる』

「ははは、別にありふれた香草が入っているだけだよ。美味しいのは、このソーセージを作っている職人の腕がいいからかな」

『毎日でも食いたい』

「毎日食べてるじゃない。もうバッチリ常連客だよ」

『これからも未来永劫、だ』

「大袈裟だなぁ、どうせすぐ飽きちゃうよ」

『フン。で? どうするのだ、コロ』


串焼きを手際よく平らげたウルが、マズルを微かに動かしてコロへと問いかける。


「ん?何を言っているの。未来永劫なんて買えるわけないでしょ」

『馬鹿者、違う。あのソーセージが言っていたことだ』

「ははは!そんな呼び方、あんまりだよ!あのおばちゃんのことね?」

『うむ。場所と時間は、昨晩、俺たちがレストランの帰りに通りかかり、あの貴族のような身なりの男を目撃した路地裏の状況と完全に一致しているぞ?』

「まぁ……だね」

『……お前のことだ、まさか衛兵どもに「怪しい男の背中を見た」などと、ご丁寧に報告しに行ったりはせんよな?』


ウルの釘を刺すような問いに、コロは呆れたように首を横に振った。


「あはは、まさか!そんな自ら厄介ごとの渦中に飛び込むようなバカな真似、絶対にするわけないじゃない」


コロは水筒の蓋を閉め、石畳を駆け回る無邪気な街の子供たちを眺めながら言葉を継ぐ。


「いつぞやの『人肉屋』の事件のときみたいにさ、下手に関わって『目撃者だ』なんて知られたら、口封じに狙われたりして面倒なことになるだけだしね。そもそも、あの薄暗い路地裏で後ろ姿をチラッと見ただけで、顔だって一切見てないんだから、証言としても大した価値はないよ」

『フン、賢明な判断だ。あの『人肉屋』の時も、あの変な力を持つ人類のせいで無駄に骨が折れたからな。まぁ、『人肉屋』が俺たちを誘き出すためにとった宿は、飯も寝床も悪くなかったが……』

「でしょ?毎回、犯人が最高級の宿に誘き出してくれるなら報告してあげてもいいけど。それに私たち、そもそもこの平和な王国の国民でも何でもない、ただの余所者の旅人だからね。市民の安全を守るのは、私たちみたいな浮草の自由民じゃなくて、あの立派な甲冑を着た衛兵さんたちの仕事だよ」


正義感も感傷も一切挟まない、徹底した余所者としての切り捨て。


「犯人が何者であろうと、私たちが『目撃者』だってことすら向こうは知らないんだから。ほら、私たちは一切関与せず、のんびりと残りの休暇を楽しまなきゃ損だよ」

『うむ。異存は全くない。美味い飯を食って、高いベッドで寝る――今の俺たちに必要なのは、それだけだ』


完全に一致した『絶対に関与しない・報告しない』という決意を胸に、ベンチで大きく背伸びをする一人と一匹。


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