平和な余暇と、変死事件 1 〜平和な国のご飯と、対象外の注意喚起〜
1.
鬱蒼と茂る緑の樹海と、湿った土の香りが支配していた大森林をあとにした一人と一匹。
戦利品である妖精の鱗粉や希少な薬草類を売り捌きつつ、街道を旅すること数日。
やがて、戦争の気配を一切感じさせない、豊かで平和な王国の王都へと辿り着いた。
高い白亜の城壁を抜けると、そこに広がっていたのは、澄み渡る青空の下で眩い光を反射する、整然とした石畳の目抜き通りだった。
道行く市民たちの表情は明るく、通りに並ぶ建物の数々は、赤煉瓦と白い漆喰で美しく意匠が凝らされている。
広い目抜き通りを行き交う荷馬車の鈴の音が軽やかに響き、あちこちから吟遊詩人の奏でる陽気なリュートの音色や、子供たちの笑い声が風に乗って漂っていた。
直前まで訪れていた辺境の木造都市や、妖精が人類や魔物を巧みに騙して養分とする薄暗い森とは無縁の、まさに絵に描いたような平穏な都の情景である。
「相変わらず広いし綺麗な街だね。良かった、前来たときと変わらず、街全体の空気がすごく穏やかだよ」
『来たことがあるか?イマイチ覚えていないな』
「え?うーん、それだけウルも不平不満が少なかったってことじゃないかな」
『む。おい、それではまるで、俺が不平不満を募らせた場所しか覚えていない、陰険なやつみたいな物言いではないか』
「ふふ、そう?」
『フン。とにかく、あの失礼極まりない羽虫どもや、焦げ臭い煙の匂いから離れて、ようやくまともな風が吸えそうだ』
「風だけじゃなくて、街全体の魔力の気配もすっきりしてるね。如何にも人類が集まりそうな魔力をしてる」
『だな。この辺りの魔力は、魔物が好んで縄張りにしない薄さをしている。退屈だが、鼻は楽になる』
コロは氷藍色の瞳を輝かせながら、楽しげに街並みをぐるりと見渡した。
その隣で、アッシュウルフであるウルも、街の清浄な空気を胸いっぱいに吸い込み、ふすりと満足げな息を吹き出す。
今回の旅の成果は、間違いなく最高のものだった。
斜め掛けの鞄の中には、妖精の里の長から口止め料として受け取った最高級の『妖精の鱗粉』や、手つかずの群生地から採取した希少薬草を売却して得た、途方もない重さの金貨と銀貨がずっしりと収まっている。
素材的に大金が転がり込むのは必至。
すぐに魔結晶を買っておこうと言っていたコロだったが、コロのお眼鏡にかなうような品質の魔結晶が見つからず、結局そのまま大金を持って旅を続けていた。
「ま、今回は本当にたんまり稼いだし、お金の心配なんてしばらく一切いらないからね」
『さっさと魔結晶と交換するんだろう?ここまでデカい街なら、お前も納得する品質のものが手に入るだろう』
「……うん、決めた。さすがに今回は、この王都で思いっきり『のんびり』しようかな」
『では早速、店――ん?……ん?』
「いやいや、たまには働かないでさ、のんびりしようって」
『ほう。珍しくお前から休養の言葉が出たな。魔結晶はもういいのか?』
堅実なコロから、そんな言葉が出てくるとは思っていなかったウルが、珍しくコロを二度見した。
そんなウルの仕草に、クスッと笑いながらもコロは小さく頷いた。
「だって、折角久しぶりに平和そうな国に来たのに、働き詰めじゃもったいないじゃない。私たち、ここ数年、ずっと働きっぱなしだったよ」
『たわけ。お前の趣味の一環だろうが』
「まあね。でもさ、美味しいものを食べて、綺麗なベッドでたっぷり寝て、贅沢に過ごそうよ」
『異存は全くない。あのような不快な羽虫どもがフケを撒き散らして飛び回る中を歩かされたのだ、相応の休養と補給があって然るべきとも思う』
「もう、フケじゃなくて鱗粉だってば。あれで凄く儲かったんだからね」
『フン。これで鱗粉が金にならんかったら、引き返して、森を灰に変えていたかもしれん』
「怖いこと言うなぁ」
完全に一致した休養の決意に、一人と一匹の尻尾は機嫌良さそうに、右へ左へユラユラと揺れていた。
「しばらくは絶対に働かない」という硬い決意を胸に、王都の目抜き通りを散策しつつ、歩みを進める一人と一匹。
通りは昼を少し過ぎたばかりの時間帯で、石畳の両脇には市場の屋台がずらりと立ち並び、胃袋を猛烈に刺激する芳醇で香ばしい匂いが漂っていた。
石窯から出されたばかりの、ふっくらと膨らんだ白パンの甘い小麦の香り。
鉄板の上でジュージューと豪快な音を立て、脂を弾けさせている肉厚の香草ソーセージ。
そして、絞りたての果汁をふんだんに使った焼き菓子のバターの風味が、商人たちの活気ある声と混じり合って通りを満たしている。
『……フン。この肉の串焼き、なかなか悪くない味付けだ』
「あはは、悪くないって割には、もう立て続けに三本も食べてるよ。でも本当、この街はご飯の質も高そうだね」
『うむ。ただ柔らかいだけの肉ではなく、香辛料と塩の利かせ方が絶妙だ。及第点だ』
「尻尾は『満点だ』って言ってるみたいだけどね」
『ぬぅ……いちいちうるさい』
巨大な魔狼が屋台の串焼きを器用に食べる姿に、周囲の市民や商人たちも最初は驚きで目を丸くしていたが、ウルがあまりにも堂々と、そして美味しそうに平らげるものだから、すぐに「お嬢ちゃん、その大きな魔狼さんもおかわりどうだい!」と陽気な声が飛んでくる。
「今日の宿はね、この街で一番質が高そうで、美味しいご飯が出てきそうなところを張り切って選んじゃうからね」
『露店でこの品質だ。これは宿の方も期待できそうだな』
「だね。ご飯が美味しい国は、それだけ平和な国って証拠。逆に言えば、これだけ平和そうなんだから、ご飯は相対的に美味しくなる」
『馬鹿言え、そんなものただの偶然だろう』
「いや、これが偶然じゃなくて、ちゃんと理由があるんだよ」
『ん?そうなのか?無関係そうに思えるが……』
「戦争や紛争がない国ではね、農家が安心して作物を育てられる。それに物流が安定しているから、新鮮な食材が痛む前に市場へ届く。戦争も紛争もないから、食を追求する余裕もあるんだよ」
『さもありなん、だな』
「本当のことだからね」
そんな他愛のない雑談を交わしながら、一人と一匹は街の中心街にある、広大な中央広場へとやってきた。
広場の中心には、美しい白亜の女神像が掲げられた大噴水が水しぶきを上げており、その片隅には、この王都のあらゆる情報や依頼が集約される、見上げるほど大きな木製の『中央掲示板』が建てられている。
それを見た瞬間、「しばらくは一切働かない、のんびりする」と宣言していたはずのコロの足が、まるで強力な磁石にでも吸い寄せられるかのように、くるりと掲示板の方へと向いてしまったのだ。
『……おい、コロ。休むと宣言していながら、なぜまた当然のような顔で掲示板の前に立っているのだ』
「あ、あれ?本当だ。嫌だなぁ、無意識に足が向いちゃってたよ」
コロはポリポリと頬を掻きながら笑うが、その氷藍色の瞳はすでに、板に張られた無数の羊皮紙や木札を、慣れた手つきで素早くスキャンし始めていた。
『案の定だ。おかしな事を言い始めたと思いきや、やはり仕事は趣味の一環ではないか』
「いやぁ、ほら、見るだけ。見るだけだよ。この街の薬草や素材の相場感がどれくらいなのかなって確認したり、市場の動きを見たりするのは、もう長い旅の『職業病』みたいなもんだからさ」
『はぁ……お前のその難儀な癖も大概だな。呆れたやつだ』
ウルは心底面倒くさそうに深い溜息をつきつつ、掲示板の前の石畳にドスンと腰を下ろし、退屈そうに大きなあくびを一つ浮かべた。
迷子になった飼い猫の捜索依頼。
隣街まで商店の護衛。
貴族の主催する夜会への食材調達。
建設現場の労働者募集。
平和な王都らしく、掲示板に並ぶのはどれも穏やかで日常的な依頼の数々だった。
「『隣街までの商店護衛』……護衛の報酬がたったの銀貨二枚だってさ」
『移動の足代わりの護衛だろうが。タダで乗せてもらえるのに金まで出ると考えれば、それくらいではないのか?』
「それはそうだけどさ。うーん、まあ、王都の周辺の街道は、騎士団の掃討が行き届いていて安全だし、そんなもんかな」
『マトモな頭を持っていない魔物が近寄ってくるのが関の山だろう』
「他にはね――『夜会用の高級果実の採取』なんかも、森の奥深くの採取じゃなくて近郊の農園の収穫手伝いだね。……うん、やっぱり平和すぎて私たち向けの稼ぎ場はなさそうだよ」
小さく肩をすくめてため息をついたコロ。
「うーん、それに、やっぱり大森林の辺境都市と比べると、薬草の買い取り価格はどこもごくごく普通の相場だね。平和な証拠なんだけど、あっちの異常な高値を見た後だと、なんだか少し物足りなく見えちゃうな」
『だから言っただろう。そもそも金なら既に働く必要などないほどあるのだから、そんなつまらん板切れなど見ていないで、さっさと宿を探しに行くぞ』
ウルに促され、コロが「そうだね、行こうか」と踵を返そうとした、まさにその時のことだった。
掲示板の端の方――他の依頼札よりも少し高い位置に、ひときわ分厚い羊皮紙に、赤い太いインクで物々しく記された『注意喚起』の張り紙があるのに気づいたのだ。
「……ん? なんだろ、これ」
『む、なんだ?』
「注意喚起、だってさ」
『何の注意喚起だ』
一人と一匹はピタリと足を止める。
コロはその張り紙の文字を小さく声に出して追い始めた。
「えっとね……『王都内における、夜間の怪死事件に関する重大な注意喚起』……?」
『夜間……怪死』
物騒な単語に、地面に伏せていたウルの耳がピクリと反応する。
「どれどれ――『ここ数週間、王都の路地裏や人通りの少ない夜の通りにおいて、女性ばかりを狙った怪死事件が多発している。被害者はいずれも目立った外傷や争った跡がなく、全身から血が抜かれた状態で発見されている。市民、特に若い女性は夜間の単独行動を厳に慎むこと』……だってさ」
『……全身から血を抜かれた状態、だと?』
ウルの金色の瞳が鋭く細まり、鼻孔がマズルにシワを寄せるように不快げに蠢いた。
目立った外傷もなく、全身の血液だけを痕跡すら残さず綺麗に吸い尽くす手口。
そして若い女性だけを執拗に狙うという、人類らしく偏った嗜好と人類離れした手法――それは、ただの暴漢や盗賊の類などではなく、人類社会の闇に深く潜む碌でもない輩の仕業であることを、歴戦の魔狼の本能が即座に嗅ぎ取ったのだ。
「みたいだね。ふーん……」
『ただ殺すのではなく、雌の血だけを執拗に選んで、か。効率の悪い、いけ好かない捕食の仕方だ』
「だね。年寄りや男の人じゃなくて、女の人だけを選り好みしてるんだ。人類らしい気もするね」
『……フン、変態だ。しかも闇夜に、単独で動くか弱い雌を狙って、だ。戦争もなく、せっかく平和な街で美味い肉を食って静かに寝ようという時に、とんだ鬱陶しい蚊のようなゴミくずが潜んでいるものだ』
ゲンナリとした顔で鼻を鳴らすウル。
万が一にも厄介ごとに巻き込まれるくらいなら、今すぐこの街を出て別の場所で休んだ方がマシではないか――ウルの目がそう語っていたが、張り紙を読み終えたコロは、気楽にクスリと笑ってみせた。
「まあ、ちょっと不気味な事件だけどさ。でも、生憎。私には関係ない話かな」
『ん?おい、なぜそう言い切れる。お前も一応は若い雌だろうが』
「一応は余計だよ。私は確かに女性だけどさ、どう見ても『若い女性』って年じゃないでしょ」
『それは……ふむ』
「ね?これはちょっと、若すぎるっていうか、完全に子供の見た目だよ」
コロは自分の小さな身体を指差して、おどけたように肩を竦めた。
「相手が発情した変態だろうと、血を吸うような変な魔物だろうと、子供にしか見えない私は完全に『対象外』だよ。だから、わざわざ私たちが街を出ていく理由なんてないね」
『……フン、なるほど。悪食の蚊にとっても、お前のような色気のない小娘など端から眼中にはないというわけか』
「言い方はなんか引っかかるけれど、そういうことだね。それに万が一、私を狙うような目の見えないおバカさんがいたとしても……私には、こんなに頼もしくて強いウルがいるから、全然平気だしね」
『当然だ。俺の隣を歩くお前を狙うような愚行を犯す輩がいれば、相手が何者であろうと、即座に喉笛を噛み砕いて消し炭にするだけのことだからな』
コロの全幅の信頼を込めた言葉に、ウルの尻尾がわずかに誇らしげに揺れる。
『尤も、そんなコソコソと卑怯な手を使う輩だぞ。俺が隣にいるにも拘らず、手を出すわけがなかろう』
「そういう事が出来ないからこそ、夜中に一人でいる女の人を狙うんだろうしね。私たちは過度に心配しないで、のんびりと美味しいご飯と余暇を楽しもう」
『うむ。無用なトラブルに関わる義務など、俺たちには一切ないからな。行くぞ、コロ。腹が減った』
「え?もう?さっきあんなに串を食べたのに」
『美味いものを食ったから、食欲が刺激された』
「ははは、難儀だなぁ。まあ、行こうか」
そう言って、掲示板をあとにした一人と一匹。
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