愛され妖精の秘密と、崩壊の足音 4 〜滅びゆく森と、夜明け前の脱出〜
4.
隠蔽魔法の結界に守られた妖精の里。
里の夜は外界の夜よりもいっそう深く、不気味な薄緑色の発光植物が盆地のあちこちで怪しく明滅していた。
蔦の天幕で用意された宿舎の部屋。
その中央に、器のように精巧に編まれた巨大な葉が置かれ、その中には、月光を反射してキラキラと夜光虫のように眩く輝く、最高品質の『妖精の鱗粉』が山盛りに詰め込まれていた。
『これは、先ほど我が里の若い衆が大変な無礼を働いたことへの詫び、そして……里の場所についての口止め料ということで、どうかお納めください……』
一人と一匹の前に平伏し、細い頭を深く下げたのは、全身の羽が皺枯れた薄い皮のようになり、長い髭を蓄えた年老いた里の長だった。
ウルの咆哮と黒雷の一撃を耳にし、這うようにコソコソと現れた長は、目の前の魔狼がどれほどの化け物か、そして隣の子供がどれほど異質かを本能で正確に察知していた。
差し出された極上の輝きを放つ山盛りの鱗粉を見つめ、コロは満足げに口角を上げると、手際よく鞄の保存箱へと移し替えていく。
「心配しなくても、私たちはこの辺りの薬草や苔の価値が下がるようなことをわざわざ他人に言うわけがないから、安心してよ。独占市場の秘密を守るのは商売の基本だよ」
『ほ、本当でございますか……!』
「うん。それにしてもこの品質、また別の街へ行ったときに、高品質な魔結晶と交換できそうだね」
『フン。賢明な判断だな、老いぼれの羽虫よ。最初からそのように話の通る長がいれば、無駄に雷を落とす必要もなかったというものだ』
ウルがドスンと顎を前足に乗せ、鼻孔からふすりと満足げな息を吹き出す。
『若い衆にも、この森で見かけない魔物――特にそちらの気高き高位の魔狼様のような魔物には、今後決して干渉するなときつく言い聞かせました。二度とこのような不手際は……』
長が冷や汗を流しながら平身低頭に言葉を続けていた、まさにその時だった。
宿舎の蔦の隙間から、チチチチッ!と、酷く慌ただしい羽音を鳴らして数匹の妖精たちが飛び込んできた。
彼らは長の元へと直接駆け寄ると、青ざめた顔で声を震わせた。
『長!大変です!』
『なんだ?客人の前で騒々しい……』
『それが、昨日の朝から、ボロルたちのグループが里に帰ってきていません!』
『森のどの採取場にも、彼らの姿も魔力の気配も一切ないんです!』
その報告を聞いた瞬間、老いた長の顔色がみるみるうちに土気色へと変わっていった。
『……よもや、奴ら……本当にあの無謀な真似を……』
「ん?何かあったの?」
コロが鱗粉をそっと仕舞った保存箱の蓋をパチンと閉め、不思議そうに尋ねる。
長は長い髭をがたがたと震わせ、観念したように深い絶望の溜息を吐き出した。
『……実は、その帰ってこないボロルという若い連中は、以前からこの里から独立し、自分たちの派閥の里を新しく作りたいなどと無軌道なことを抜かしていたのです』
「へえ、独立ね」
『ええ。しかし、奴らの言っていることはあまりに具体性に欠ける荒唐無稽な計画でしたので、ついこの前、私の方からきつく説教をしたところだったのです。……ですが、ひょっとすると奴ら、手っ取り早く里を大きくするための強引な手を使って……手頃なところで人類を攫いに行ったのかもしれません……』
「新しく里を作るとなると、生かさず殺さずの『生命力』が、まとまった数だけ一気に必要になっちゃうもんね。……で、その手頃なところって、まさかあの麓の街のこと?」
コロの淡々とした、けれど核心を突いた問いに、長は力なく小さく頷いた。
その話を黙って聞いていたウルが、スッと巨大な頭を持ち上げ、その金色の瞳に冷徹な光を宿して静かに告げた。
『フン。愚か極まるな。……人類は弱い。単体や少数という単位で見たとき、あいつらは笑えないくらいに脆弱で、簡単に捕食できる、不味い家畜の群れだ』
ウルの声が、夜の静寂を切り裂くように低く響く。
『だが……奴らは群れで動く生き物だ。そして、ひとたび群れで動いたとき、この大陸で最も執念深く、最も厄介なのもまた人類という種族だ』
「まぁ……そうだね。ウルの言う通りだよ」
コロは保存箱をそっと撫でながら、まるで遠い過去の歴史でも思い返すかのように、冷めた瞳で最深部の闇を見つめていた。
「人類は、まともな神経をしていたらまず挑まないような、圧倒的な暴力を持つ強大なドラゴンや、上位のデーモン相手であってもね……巧みに戦術を練って、あの手この手で何世代にも渡って、それこそ国や街をいくつも潰されながらも、確実に『攻略法』を編み出して、本当に最後には倒してしまう、とんでもない生き物だよ」
コロの口から紡がれる、人類という種の持つ「執念」と「合理性」の恐怖。
「だからこそ、彼らには絶対に『種や仕掛け』を悟られてはいけないし、彼らの生存本能の逆鱗に触れてはいけないんだ」
『そうですな。まさに、同じようなことを口酸っぱく言い聞かせたのですが……』
「折角人類相手にも魔物相手にも、『妖精は気さくな隣人』みたいな植え付けに成功していたみたいだけど、もしこの里の若い妖精たちが、本当にまとまった数の人類を一度に誘い出すような目立つ真似をしたんだとしたら――」
コロがそこまで言いかけたとき、長はボソリと、乾いた声を漏らした。
『……もう、この森はダメやもしれませんな……』
いつの間にか、宿舎の蔦の壁の隙間や天井の陰には、里中の大勢の妖精たちが音もなく集まり、一人と一匹の会話を息を呑んで見つめていた。
数時間前まで、コロたちを「化け獣人だ」「野蛮な狼だ」とズケズケと小馬鹿にし、ひょうきんに図々しく笑い合っていた彼らの姿は、どこにもなかった。
妖精たちはただただ恐怖に押し黙り、自分たちの築いてきた「愛され擬態の楽園」に忍び寄る、人類という名の巨大な破滅の足音に、震えながら耳を傾けていることしかできなかった。
「かもね。人類は想像以上にずる賢い。覚悟しておいた方がいいかもしれない」
『少なくとも、今朝まではあの街には何事もない平穏な空気が流れていたがな』
「だね。入れ違いになったかな」
コロは小さく肩を竦め、ウルも『フン』と鼻を鳴らした。
押し黙る妖精たちの間を、沈痛で不気味な沈黙だけが支配していた、まさにその時だった。
――ズドォォン……!
遥か遠く、大森林の木々の群れをいくつも隔てた先。
街の方向から、重い地鳴りのような爆発音が微かに響き、蔦の天幕を微細に揺らした。
「……ん?今の音……」
『魔法の炸裂音……か。危惧していた通りのことが起きたかもしれんな』
ウルが鼻孔を鋭く動かし、夜風に混じる僅かな『焦げ臭さ』を捉える。
その直後だった。結界の入口方向から、まるで死ににらまれた蟲のように、狂乱した羽音を立てて一匹の妖精が転がり込んできたのだ。
それは、長が斥候として密かに街の周辺へと偵察に出していた妖精だった。
『はぁっ、はぁっ!た、大変だぁぁっ!!』
『どうした!息を整えて報告しろ!』
『や、やっ、やっぱり奴ら、やりやがった……!人類どもの里の近くで強力な鱗粉を一斉に撒いて、ゴッソリまとめて誘拐しようとしやがったんだ……!』
斥候の妖精は、恐怖で涙と鼻水を撒き散らしながら、言葉を継いだ。
『でも、完全に失敗した!』
『……!!』
長の顔色が一気に悪くなる。
『人類どもは幻術に対抗するための薬を飲んでやがった!ボロルの奴ら、まんまと罠にはまって、幻術にかかってねえ人類どもに、不意打ちで全員生け捕りにされてたんだよ……!』
『な、なんだと……!?』
『それだけじゃない!人類ども、火の魔法と鉄の道具を使って……あの馬鹿どもを捕まえて、すぐに拷問しやがったんだ!あいつら、痛みに耐えかねて、この里の場所から結界の入り方まで、全部ペラペラ喋ってたぞ!!』
――ペラペラ喋っていた。
その致命的な一言が轟いた瞬間、薄緑色の発光植物が照らす里の盆地は、一瞬の静寂ののち、耳を突き破るほどのパニックの大悲鳴に包まれた。
『ひ、ひえぇぇっ!おしまいだぁ!』
『人類どもが火を持って攻めてくるぞ!』
『結界の仕掛けまでバレたんじゃ、もうここには隠れていられない!』
ひとたび「仕掛け」が割れれば、人類の数の暴力と執念の前には手も足も出ない――先ほどコロとウルが語った人類の恐怖が、最悪の現実となって目の前に突きつけられたのだ。
老いた長は、顔面を蒼白にさせながらも、生き残るための決断を瞬時に下した。
『――里を捨てる!即刻撤退じゃ!!』
長の悲痛な怒声が響き渡る。
『檻の家畜どもなど一切構うな!各自、最低限の食糧だけを持って、今すぐ森の最奥――さらなる未踏の渓谷へと分散して逃げろ!わずかでもここにとどまれば、人類どもの復讐心と欲望で森ごと裸にされるぞ!』
バタバタと、無数の羽音と叫び声が飛び交い、先ほどまでののんびりとした隠里は、一瞬にして凄まじい大混乱の修羅場へと変貌を遂げた。
「……見事なほどのパニックだね」
『だな。蜂の巣を突いたような騒ぎだ』
「でも、長の判断は正しいよ。一刻も早く里を捨てて逃げるのが、妖精たちが生き延びる唯一の正解だと思う」
『フン。自業自得とはいえ、哀れな羽虫どもだ』
大騒ぎで荷物をまとめ、空へと飛び去っていく妖精たちの群れを眺めながら、コロとウルはすでに帰り支度を完璧に整えていた。
斜めがけの鞄やリュックサックには、長から口止め料として受け取った最高品質の鱗粉と、手つかずの群生地から刈り取った極上の薬草がずっしりと収まっている。
「さてと。まだ真夜中だけどさ、私たちも早めにここを出ようか。このままここに残って、本気になった人類の部隊と鉢合わせたりしたら、面倒な取り調べや火事の煙に巻き込まるだけだしね」
『異存はない。愚か者どもの葬式に付き合ってやる義務など、俺たちにはないからな』
コロは、震えながら里の撤退指揮を執っていた老長のもとへと歩み寄り、軽く片手を上げて声をかけた。
「じゃあ、長さん。色々あったけど、私たちも逃げるよ。素晴らしい鱗粉、ありがとうね」
『あ、ああっ……!旅のお二人も、どうかご無事で……!我らはもう、この里を捨てて逃げまする……!』
「うん、逃げ足が速ければ、普通に生き延びられるだろうから頑張ってよ。ちなみに、まだまともに喋れる家畜は口封じしておいたほうがいいと思うけど……」
『ん、ああっ……!そ、そうですな……!』
何の執着も未練もなく、コロは軽やかに身を翻すと、すでに姿勢を低くして待ち構えていたウルの広大な背中へと、ひょいとまたがった。
「よし、ウル。しっかり掴まったよ」
『――行くぞ、コロ。舌を噛むなよ』
「今まで噛んだことないでしょ。お願い」
『フン』
タァァンッ!!大森林の闇夜を切り裂くように、力強い跳躍の音が響き渡る。
ウルの強靭な四肢が薄緑色の盆地を蹴り上げ、隠蔽の結界を一瞬で突き破り、鬱蒼とした未開の樹海の上空へと飛び出した。
頭上には、木々の隙間から冷たい月光が降り注いでいる。
真夜中の月明かりの下。
ウルの優美な銀色の毛並みと、コロの氷藍色の瞳が、夜闇の中で月明かりを浴びて閃光のように輝いている。
「風が気持ちいいね、ウル」
『夜風が心地良いな』
「よし、適当なところで歩いて、明け方くらいに街に着くように調整しようかな」
『フン、しっかり掴まっていろ!』
背後で混乱に沈む妖精の里と、遥か遠くから迫り来る人類の松明の火の手。
そのすべてを風の彼方へと置き去りにし、最強の傍観者コンビは、大稼ぎした宝物を胸に、夜の森林の枝葉を軽やかに蹴り渡りながら、一目散に駆け去っていくのだった。
※ ※ ※
深い夜闇の樹海をウルの背に乗って駆け抜け、適度な距離で足を緩めて、やがて一人と一匹は時間調整のために、夜明け前の静けさに身を委ねて、適当な大樹の下で腰を降ろし、目を閉じた。
現実世界のひんやりとした大森林の湿気や、遠くから微かに漂っていた火薬の焦げ臭さ、そして人類の騒々しい喧騒が、まるで水面に溶けるインクのように綺麗に消え去っていく。
代わって満ちてきたのは、鼻腔をくすぐるような、甘く清らかな白い花の蜜のような香り。
重力も時間も存在しない、ただ純白の光の粒子がどこまでも渦巻く、無機質で圧倒的に美しい真っ白な空間。
その中心で、空気に溶けるような白いドレスを揺らし、漆黒の長い髪を流して微笑む絶対的な存在が、優しく両腕を広げて待っていた。
「おかえりなさい、私の愛おしいコロ」
「うん、ただいま。女神様」
現実世界では徹底して冷徹な観測者である銀髪の子供は、この空間に足を踏み入れた瞬間だけは、すべての防壁を解いた純粋な子供へと戻る。
コロは自ら進んで女神の豊かな胸の中へと飛び込み、その柔らかな膝の上に頭を預けて、愛おしそうに目を細めた。
女神の白く細い指先が、コロの銀髪を優しく梳き上げ、愛おしそうに頬を寄せて額へと甘いキスを落とす。
「ふふ、今回も、随分と面白いものを見てきたようね」
「そうなんだ。急展開。例の『神隠し』については話したでしょ?」
「それね。まったく、本当に失礼な話よ。私がいちいち人類や魔物なんて攫うわけなんてないのに」
女神はわざとらしく頬をプクッと膨らませてみせる。
コロはクスクスと笑いながら、女神の膨らんだ頬へ人差し指を押し当てる。
「原因はね、森に住む妖精だったんだ」
「あら、そういうことだったのね」
「うん。高度な幻術を使って、人類や魔物を里へ誘き寄せては、生かさず殺さずの家畜みたいに飼育していたってオチだったんだ」
女神の膝の上で、今日観測した人類と妖精の非合理な生態を淡々と報告するコロ。
女神は愛らしい我が子の言葉を「まあ、まあ」と微笑みながら聞き流し、その漆黒の瞳には絶対零度の無関心と、コロへの狂気的なまでの全肯定の熱だけを宿していた。
「人類はね、その妖精たちのことを『人類が大好きで、遊びたがる素敵な隣人』だなんて、おめでたいプロパガンダを完璧に信じ込まされていたんだ。魔物たちまで似たような事を言っちゃって、頭の中をお花畑にされていてさ」
「あらあら、随分と戦略的なのね」
「だよね。感心しちゃったよ。でも、里の若い妖精たちが欲をかいて、街からまとまった数の人類を一斉に誘拐しようとして、失敗して捕まっちゃったみたいなんだ」
「ふふ、滑稽で哀れね。捕まってどうなったのかしら。人類のことだから、見世物にでもするのかしら」
女神の声は、どこまでも透き通っていながら、下界に対して一片の慈悲も持たない冷酷さに満ちている。
「それが、捕まった妖精たちはね、人類から拷問を受けてさ、あっさりと屈して、里の場所も隠蔽結界の入り方も、全部ペラペラ喋っちゃったんだって」
「まあ!呆気ないわね」
「それを聞いた本家の妖精たちは、大パニックになって一瞬で里を捨てて森の奥へ逃げ出していったよ」
「当然の帰結ね。人類という生き物は、単体では弱く愚か。だけれど、群れを成した時の執念だけは、群を抜いてしぶといわ」
「だね。そこは素直に凄いなって思う」
「そうね。一度『種や仕掛け』を暴かれた妖精たちは、人類の復讐心と数の暴力の前には、森ごと灰にされるのを待つだけですもの。生き延びたかったら逃げるのが唯一の正解ね」
女神はコロの頬を優しく撫で、その氷藍色の瞳をじっと見つめつめ返した。
「そんな愚かで醜い争いの最中で、コロは誰の手も取らず、誰の都合にも染まらず、ただ最高品質の鱗粉と手つかずの希少な薬草だけを完璧に回収して、何事もなかったかのように立ち去ったのね」
「ふふ、女神様ってば、全部見てたんじゃない」
「コロの口から直接聞きたいの」
女神は優しい笑みを浮かべ、チュッとコロの後頭部に唇を落とした。
「……ああ、なんて賢くて、美しく、真理を見つめているのかしら、私の可愛いコロは」
「流石に褒めすぎだよ。でも女神様に褒められるのは嬉しい」
女神の狂気的なまでの溺愛の温もりに包まれ、コロの精神は現実世界の泥臭さや毒から完全に切り離され、真っ白にフラットな状態へとリセットされていく。
心地よい充足感の中で、コロの意識がゆっくりと幸福な微睡みへと沈んでいく。
「ありがとう、女神様……」
「おやすみなさい、私の愛おしいコロ。明日も、嘘のない最高の価値ある一日を始められますように」
女神の甘美な祝福の言葉とともに、真っ白な空間の光の粒子がゆっくりと溶け、現実世界の穏やかな朝の光へと繋がっていくのだった。
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