愛され妖精の秘密と、崩壊の足音 1 〜相場のズレと、準備運動〜
1.
どこまでも続く無骨な山脈を越え、一人と一匹が辿り着いたのは、鬱蒼とした未開の『大森林』にその大半をぐるりと囲まれた、辺境の木造都市だった。
町を覆う高い防壁の門前に立つと、すでに肌を撫でる風には、どこか甘く重い苔の香りと、濃密な樹木の湿気が色濃く混じり合っている。
普通の人類であれば生理的な圧迫感を覚えるほどの深遠な森の気配が、すぐ目の前まで迫っていた。
「はい、お嬢ちゃん。町への通行税は銀貨二枚だよ。その大きな魔狼も、ちゃんと監視が行き届くなら一緒に入ってよし!」
「うん、ありがとう」
門番の衛兵に税を支払い、手際よく許可証の木札を受け取ったコロとウルは、にぎやかな喧騒が漂う石畳の大通りへと足を踏み入れた。
町は、木材加工の職人や森からの恵みを扱う商人たちでそれなりに活気を見せていたが、コロが真っ先に足を向けて眺めに行ったのは、中央広場の片隅に建てられた巨大な掲示板だ。
無数の羊皮紙や木札が乱雑に張り付けられた板の前に立ち、コロは氷藍色の瞳を細めて一枚ずつ情報を追いかけ始める。
退屈そうに大きなあくびをするウルをよそに、コロの表情は、みるみるうちになんとも言えない違和感と、そして微かな興奮の色が浮かび上がっていた。
「……ん?」
『ん?』
「あれ?ウル、見てよこれ」
『文字など見ても分からんぞ』
「それは知ってるけどさ、ほら」
『どうした。またつまらん依頼か?』
「ううん、逆だよ。……この地方の森で採れる素材の買い取り価格、なんだか異常に高いんだ」
コロは掲示板に並ぶ「常設買い取り」の張り紙を指差した。
そこには、特別な魔物の討伐依頼ではない、ただの森に自生する薬用苔や、湿地帯に生える繊細な解毒の根、あるいは樹皮といった素材の学名が並んでいる。
しかし、その横に書き込まれた買い取りの報奨金が、コロがこれまで巡ってきた他の都市の相場と比べて、およそ二倍から三倍ほどという途方もない高額で設定されていたのだ。
「緑血の苔が一束で銀貨八枚?こっちの幽影のシダなんて、少し保存状態がいいだけで銀貨二十枚だって。……ちょっと私の相場感とズレすぎてて、逆に怖いね」
『ほう。薬草などをいくら摘んでも小銭にしかならんと常々思っていたが、ここの町は随分と景気がいいのだな』
「いや、大抵の薬草はウルの言うとおりだよ。これは理由が気になるね。……ほら、あそこでこの高額な常設の張り紙を出してる『緑風薬草店』とやらに行ってみよう」
『フン。好きにしろ』
圧倒的な高い買い取り価格に引き寄せられ、一人と一匹は広場から少し入った路地裏にある、古いレンガ造りの『緑風薬草店』へと向かった。
店内には、乾燥させた薬草の香ばしい匂いと、すり鉢で薬を調合する乾いた音が響いていた。
カウンターの奥で顔を上げた年老いた店主は、銀髪の子供と巨大なアッシュウルフという珍しい客の組み合わせに目を丸くしつつも、コロが掲示板の相場について尋ねると、ふう、と深い溜息を吐き出して厄介そうに頭を掻いた。
「――ああ、あの広場の高額買い取りの張り紙を見て来てくれたのかい」
「うん。だって、軒並み相場より買い取り価格が高いよ」
「……まあ、お嬢ちゃんの相場感が正しいよ。他の街の連中から見れば、うちの買い取り価格は確かに常軌を逸して高く見えるだろうさ」
「やっぱり。なんでこんなに高いの?」
「理由なんて一つさ。……誰も、この町を囲む『未開の大森林』の奥深くへは、命が惜しくて入りたがらないからだよ」
店主は声を潜め、店先の窓から見える深く暗い森の樹冠へとチラリと視線を向けた。
「ふーん。よその生息地から持ってきたんじゃ、薬効も台無しだしね。だから高いんだ」
「ああ。で、あの森にはね、昔からずっと『神隠し』の噂が絶えないんだよ」
「ん、神隠し?」
急に飛び出してきた胡散臭い言葉に、コロだけでなく、退屈そうにあくびをしていたウルの耳もピンと反応する。
「ああ。駆け出しの新米でも、腕の立つベテランでも、森の奥に自生する希少な薬草を狙って深入りした連中は、ある日突然、フッと煙のように姿を消して、二度と帰ってこなくなるんだ」
「なんだ。魔物にやられただけでしょ」
「いや、屍どころか所持品すら見つからない。争った跡もない。……そんな得体の知れない不気味な森だ、誰も奥地の素材なんて採りに行きたがらなくなるだろう?」
『フン。神隠し、か』
「ふーん……神隠し。変な話だね」
「な?だけどな、大病を治すための特効薬や、高位のポーションを調合するためには、どうしてもあの森にしかない希少な素材が必要になるんだ。需要はあるのに、採りにいく連中がいねえ……だから、背に腹は代えられなくて、うちの店じゃああして相場の何倍もの高値をつけてでも素材を募集してるってわけさ」
店主の語る不気味な『神隠しの裏事情』。
それは、普通の傭兵や採取家であれば「そんな危険な森ならやめておこう」と尻込みするのに十分すぎるオカルトな恐怖の怪談。
だが――その裏事情を最後まで聞いた瞬間、コロとウルは顔を見合わせ、まるで最高の好機を見つけたかのようにクスリと口角を上げた。
「なるほどね。理由がそういう類なら、まったく問題ないよ」
『くだらん話だ。要するに、森の奥に何らかの愚かな罠か魔物が潜んでいるだけのことを、人類どもは勝手に神隠しなどと呼んで怯えているというわけだな』
「そうだね。他の同業者が怖がって競争相手がいないなら、今の私たちにとってこれ以上ない最高の採取場だね。決定だよ、ウル。――私たち、しばらくこの町に腰を据えて、森の薬草で稼ごうかな」
『異存はない。俺たちを攫おうとする愚か者など、消し炭にしてくれる』
「消しちゃったら、同業者がみんな森に入ってきちゃうようになるよ」
荒稼ぎの決意を固めた一人と一匹は、薬草店の店主に「明日から大量に持ってくるから、小袋に銀貨をたくさん用意しておいてね」と言い残し、すぐさま町の中心街にある清潔で大きな宿屋へと向かった。
前金で金貨を積み、これから数週間にわたる中長期の「連泊の部屋」を確保する。
案内されたのは二階の角部屋で、大きなベッドと、ウルが存分に身体を伸ばして寝転がれるだけの十分な広さを持つ、悪くない部屋だ。
荷物を部屋の床に下ろし、コロは窓を開けて空を仰ぐ。
「よし、部屋の確保もできた。時間は――うーん、ちょうど真昼を少し過ぎたくらいかな」
『どうする?今日はこのまま、この快適な部屋で眠るか?』
「ははは、そんなまさか。もったいないよ。まだまだ日も高いし、今日のところは足慣らしに、森の『浅いところ』で軽く採取してみようかな。浅い場所の薬草だって、ここなら他の街の相場よりずっと高く売れるしね」
『フン。足慣らしという名の小銭稼ぎか。よかろう、夕飯の前の良い準備運動だ』
旅の装束を整え直し、愛用の採取ハサミを革鞄へと滑り込ませたコロと、喉の奥でご機嫌な低音を鳴らすウル。
まだ見ぬ『神隠しの森』をただの金儲けできる森としか見ていない一人と一匹は、真昼の穏やかな日差しの中、足取りも軽やかに未開の大森林へと向かって出発するのだった。
木造都市の城門を抜け、未開の大森林へと足を踏み入れた一人と一匹。
そんな一人と一匹を包み込むのは、外界の雑音を完全に遮断する深く濃密な静寂と、むせ返るような緑の息吹。
頭上を覆う巨大な広葉樹の枝葉が、昼間の強烈な日差しを優しく濾過し、苔生した林床に美しい木漏れ日の斑模様を描き出している。
空気はひんやりと涼しく、呼吸をするたびに、湿った土と植物の放つ空気が肺の奥まで満ちていくようだった。
「――うん、やっぱりいい森だね」
『人類どもがチョロチョロしていないというのも良いな』
一人と一匹の尻尾は機嫌良さそうに、右へ左へユラユラと揺れている。
辺りには遠くから聞こえる鳥の鳴き声と、ザクザクと落ち葉を踏みしめる音だけが響いていた。
「ん?まだ浅い場所なんだけどね。浅いところでもこれだけ立派な『緑血の苔』が綺麗に群生してる」
暫く歩いた後、コロは巨木の根元にしゃがみ込んだ。
愛用のピンセットやハサミを器用に使い分けながら、鮮やかな緑色をした肉厚の苔を手際よく切り出しては、斜め掛けの鞄に仕舞ってあった保存箱へと詰めていく。
「いいね。他の街なら銀貨三枚くらいにしかならないような平凡な苔だけど、この町で売ればこれだけで銀貨五枚だもんね。効率良く稼げるよ」
『フン。草刈りで銀貨がたんまり稼げるなら、それに越したことはないがな。……ん?』
退屈そうにコロの作業を眺めていたウルの耳が、ピクリと動き、鼻孔が周囲の風を鋭く捉えた。
木立の奥の茂みがガサリと揺れ、数頭の四足の影が、警戒と強い好奇心を交えながらゆっくりと姿を現す。
それは、普通のフォレストウルフに比べて体格が一回り以上小さく、成人男性の膝上ほどまでの背丈しかない狼の群れだった。
深い緑褐色に微かな灰色が混じった被毛は、森の苔やシダの影に完璧に溶け込む保護色となっており、足先が短く、鬱蒼とした樹木の根元や狭い獣道を機敏に駆け回ることに特化しているように見える。
この未開の大森林に独自の進化を遂げた地方特有の魔物であるモスウルフだ。
普通の人類であれば、即座に武器を抜いて戦闘警戒に陥る場面。
しかし、現れた苔影狼たちは、ウルの巨大な偉容と、その全身から放たれる『圧倒的な上位種』の気配を悟るやいなや、即座に敵意を納め、喉をグルル……と甘く鳴らして低姿勢に頭を垂れた。
それどころか、自分たちより遥かに高位の存在と、狼の匂いを纏う銀髪の獣人の子供に対し、恐れよりも強い好奇心を抑えきれないのか、短い尾をパタパタと揺らして少しずつチョロチョロと距離を詰めてくる。
『――ふむ。縄張りに勝手に入り込んですまなかったな』
「ごめんね。ちょっと草むしりをしていてね」
相変わらずマイペースに声をかけた一人と一匹。
『上位の同族の番かと思ったけど、へぇ……!気にしないで良いよ!』
『人類みたいなのに、人類じゃないんだね!不思議!』
『わぁ、強そう!角、カッコいいなぁ……!』
『絶対強いよ!すっごい!』
そんなモスウルフたちの純粋な眼差しを受け、退屈そうに地面にペタンと伏せっていたウルは、スッと立ち上がり、ぶるりと身体を震わせた。
コロは苔を切り取る手を止めずに、チラリと視線を向けて気楽に話しかけた。
「私たち、しばらくこの森で草むしりをさせてもらうから、よろしくね。あ、安心して。君たちの獲物や縄張りを奪うつもりは毛頭ないからさ」
『――そうなんだ!なら安心したよ!』
『草むしりなら自由にやっていいからね!』
『僕たちの縄張りは、その苔がいっぱいあるよ!』
「ありがとう。お言葉に甘えて、どんどんむしらせてもらうよ」
相変わらず無邪気に尾を振るモスウルフたちに、コロは感謝の微笑みを向け、革鞄を軽く叩いた。
群れは一しきりウルの角やコロの匂いに満足したのか、くるりと背を向けて森の奥へと戻りかけるが――そのうちのリーダー格のモスウルフが、ふと何かを思い出したように足を止め、振り返って告げた。
『あ、そうだ!一つだけ気をつけてね、強いお二人さん!』
「ん?なに?」
『あんまり森の奥深くまで行っちゃうとさ、帰ってこられなくなることがあるって言われてるんだ』
「帰ってこられなくなる?」
唐突に告げられた注意喚起に、思わず目を見合わせてしまう一人と一匹。
『うん!僕たちの群れでもね、森のずっと深いところへ行ったきり、気がついたらいなくなっちゃって、そのまま帰ってこない奴らがたまにいるんだ。だから、いくらお二人でも奥に行く時は気をつけてね!』
『ふむ……覚えておこう』
ウルがそう言ってバサッと尻尾を地面に叩きつけた。
『気をつけてねー!』
『バイバーイ!』
モスウルフたちは口々に注意喚起の言葉を残すと、苔生した斜面を軽やかな足取りで駆け上がり、鬱蒼としたシダの茂みの向こうへと消えていった。
「――だってさ、ウル」
『だな』
「どうやら『神隠し』の噂は、人類の勘違いってわけでもなさそうだね」
『間抜けたヤツが、奥に潜む何らかの魔物か罠に捕まって餌になっただけのことかもしれん』
「普通に考えたらそうだね」
『しかし、この話は何か引っかかる』
「やっぱり?根拠はないけど、私もちょっと引っかかるかな」
『うむ。考え過ぎかもしれんが、そんな簡単な話ではない気がする』
「そうだね。今日のところはこの浅いエリアで十分稼げたし、いったん町に戻って美味しい夕飯にしようかな」
『異存はないな』
「ま、尤もさ、ウルが居てくれれば余計な心配なんていらないよ」
『おい、油断はするな。これでまたデーモンだったらどうするつもりだ。痕跡もなく姿を消すなど、ちょっとやそっとの事ではないぞ』
「分かってるよ。人類からも、魔物からも、毎日ちょくちょく情報収集はしようかな。折角こんなに美味しい森だからね」
スッと立ち上がったコロが、背中のリュックサックを背負い直した。
ウルも湿気を吹き飛ばすように身震いすると、一人と一匹は街の方へと向かって歩き出した。
「それにしてもウル、凄く持て囃されちゃって、良かったね。あの子たち、目が輝いてたよ」
『フン、興味ない』
「素直じゃないなぁ。尻尾は素直なのにね」
『フン』
「私はウルが褒められると、すっごく嬉しいけどね」
『……無駄口を叩いてないで、さっさと帰るぞ』
「ふふ、そうだね。帰ってご飯だ」
相変わらず機嫌良さそうにユラユラと揺れている二本の尻尾が遠ざかっていく。
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