規律の檻と、異理の職人たち 4 〜絶対零度の空白と、山の上の特等席〜
4.
あの凄惨極まる【自白薬】のオーバーキル実験から、数十日の時が流れていた。
コロとウルによる特殊素材の納品は、その後も遅延はおろか、指定された品質を一切下回ることなく完璧に続けられていた。
どんなに不気味な違法薬草を指定されようと、地下からどれほど陰惨な悲鳴が響いてこようと、余計な私情を挟まず、外部に漏らす気配すら微塵も見せない。
ただただ「報酬と食事と寝床」という等価交換のためだけに平然と職務をこなす一人と一匹のスタンスを、養成所の事務管理官はいたく気に入っていた。
規律と秘密を何よりも重んじる冷酷な軍人にとって、この「徹底して私情を挟まない異質さ」こそが、帝国で最も信頼できる性質だとすっかり気を許し始めていたのだ。
今や一人と一匹は、養成所内でも特等席と言える、広場を一望できる管理事務室へと定期的に招かれるようになっていた。
分厚いマホガニーの机の上には、コロが好む砂糖もミルクもない漆黒のコーヒーが用意され、ウルは絨毯の上で退屈そうに大きな尾を揺らしている。
「――現在、訓練を受けている隊は、いよいよ最終段階に入っている隊だ」
窓の外、砂埃の舞う中央広場を眺めるコロとウルの隣で、事務官がどこか嬉々としたトーンで詳しく解説を始めた。
「へえ、いよいよ大詰めってわけだ」
『くだらん挨拶の練習をしている連中も、いつかはああなるというわけか』
広場では、真っ白な制服を着た見習い憲兵たちが、異様な緊張感の中で互いを鋭い目つきで睨み合っている。
かつてはただのポーズだった独自の挨拶は、今や彼らを縛る絶対的な教条と化し、その規律の網からわずかでも零れ落ちた者を炙り出すための「相互監視の場」へと変貌を遂げていた。
「あの隊は今、『密告と自食』のフェーズに差し掛かっている」
「密告と自食?」
「ああ。昨日まで苦楽を共にした同期であっても、規律に微かな疑問を抱いた者は、容赦なく仲間によって密告され、地下へと引きずり込まれる。この段階で脱落し、精神を崩壊させるような者など、我が帝国の特別憲兵としては最初から不要なのだ」
これほど過酷で非人道的な洗脳システムを構築した自負からか、事務官の単眼鏡の奥には冷酷な選民思想の光が宿っていた。
だが、その説明をブラックコーヒーを口に含みながら聞いていたコロは、ふん、と窓の外へ視線を戻すと、ケロッとした顔で同意してみせた。
「だね。そして、自分たち同士でふるいにかけるわけだ」
「ふむ、理解が早くて助かる。彼らは個を捨て、完璧な歯車に――」
「まぁそもそも、こんなところで脱落しちゃうような人は、エリートとは呼べないもんね」
淡々とした声だった。
コロは、まるで手際の悪い職人を品評するかのように、氷藍色の瞳を窓の向こうへと向けたまま言葉を続ける。
「それに、ここがどんな場所で、裏で何をしているのかを知ってしまっているなら尚更。残念だけど元の生活には戻れるわけがない。外に出して生かしておいても、情報の不純物になるだけだし」
『負け犬の遠吠えというやつだな』
「そうだね。負け犬の遠吠えだよ。そういう連中ほど、よく吠えるんだ」
「……何?」
事務官の言葉がぴたりと止まる。コロは小首を傾げ、さも当然の真理を語るようにクスリと微笑んだ。
「密告されて吊るし上げられた人は、そのままルッカの薬を使って拷問でもして、最後は処刑しちゃうんでしょ?」
「ん?ああ、よく分かったな」
「なるほどね。そこまでの一連の流れをワンセットにして、生き残ったエリートの卵たちに『自分たちは選ばれた特別な存在だ』って自信をつけさせるわけだ。脱落者の始末と、生き残りへの教育が同時にできるなんて、なかなか考えられた効率のいい仕組みだね」
「っ……そのとおりだ」
事務官は思わず、喉の奥で小さく息を呑んだ。
その厳格な顔が、微かに引き攣る。
彼は帝国の正義のため、軍人としての冷酷さをもって若者たちを天秤にかけていた。
だが、隣にいるこの子供の思考は、そんな国家の都合すら超越していた。
コロという獣人の子どもに、同情という概念が存在しないのは知っていた。
だが、ここまで一切の悪意も躊躇もなく、「脱落した人間は元に戻れないから殺すのが最も効率的だ」と、まるで家畜の選別システムを感心して眺めるような視点でシステムを分析して見せるとは、夢にも思っていなかったのだ。
『フン。群れの統率のために身内を食わせ、肥え太らせるシステムか。人類の考えることは、どこまでも陰湿で合理的だな』
「だね。こういう仕組みを考えさせたら右に出る生き物はいないよ」
早々に飽きてしまったのか、絨毯の上で寝そべってしまったウルのシニカルな突っ込みに、コロは気取ったりする様子もなく、笑ってみせる。
事務官の背筋に、前回の実験の時とはまた違う、底知れない冷たい戦慄が走った。
この子供は、やはり「冷酷な軍人」の同類などではない。
ただただ、他者の命の価値に対して『絶対零度の空白』を持っているのだ。
どれほど完璧な規律でこの養成所を縛ろうと、目の前の一人と一匹を縛ることだけは絶対にできないのだと、事務官は引き攣った指先で単眼鏡の位置を直しながら、再び恐怖と共に思い知らされるのだった。
「……なるほど。そこまで冷徹にこの養成所の本質を見抜くか」
「見抜くってよりは、そう見えたからね」
事務官は引き攣った指先で単眼鏡の位置を直すと、ゴクリと喉を鳴らし、声音に宿る戦慄を必死に押し殺した。
この子供と魔狼は、国家の正義にも、人類の道徳にも、恐怖という感情にすら縛られない。
だが――だからこそ、これほど「裏切りのリスクがない、信頼に値する職人」も他にはいなかった。
事務官は小さく咳払いをすると、マホガニーの机に両手を突き、コロの氷藍色の瞳を正面から見据えて率直に切り出した。
「コロ」
「ん、どうしたの?」
「私はお前たちのその『徹底して私情を挟まない人となり』を、心から気に入った」
「そう?まぁ、赤の他人だし、私情なんて挟む必要がないしね」
「そこで帝国軍として正式に提案がある。――今後も、この養成所の専属採取家として、無期限でこの仕事を続けてはくれないだろうか。お前たちの望むだけの待遇は保証しよう」
冷酷な軍人からの、これ以上ない最大限の執着とスカウトの言葉。
普通の採取家であれば、帝国のエリート組織の後ろ盾を喜ぶか、あるいはその闇の深さに怯えて拒絶するかの二択だろう。
だが、コーヒーカップを机に置いたコロは、チラッとウルと視線を合わせ、全く気負うことなく、ケロッとした様子で指を折り数え始めた。
「無期限の専属?うーん……そうだね。ルッカの依頼はいつも分かりやすいし、報酬も相場よりずっと弾んでくれる。用意してもらった寝泊まりする宿舎の部屋もなかなか立派だし、毎日のご飯だって普通に美味しい。それに、指定される採取の範囲も、ウルの足ならそう遠くないしね」
『フン。俺も適度に身体が動かせるからな。気に入っているぞ』
「ふふ、ウルも今の仕事は身体が適度に動かせるから気に入ってるって」
『何より、用意される肉の質はたしかだからな。そこも評価してやってもいい』
「そうだね。さすが立派な帝国の帝都、肉の質もいいもんね」
絨毯の上で寝そべったまま、ウルが退屈そうに尾を床に叩きつける。
コロはウルの言葉に同意するようにクスリと微笑むと、事務官に向かって気楽に肩を竦めてみせた。
「それにさ、ここ最近、どこに行っても内戦だの戦争だのばっかりでしょ。行く先々で足止めを食らったり、難民に絡まれたり縋られたりするのは、旅としてちょっと面倒になってきたんだよね。……だから、今のまま居心地が良くて衣食住が保証されるなら、しばらくはここで働いてもいいよ」
「……旅が面倒、だからか」
「うん。それが一番の理由かな」
事務官は、そのあまりにも身も蓋もない「快諾の動機」に、呆気にとられて乾いた笑いを漏らすしかなかった。
彼らは帝国のために剣を振るうわけでも、正義のために規律を守るわけでもない。
ただ「旅の途中の雨風をしのぎ、美味い飯を食うための拠点」として、この血塗られたエリート養成所を選んだのだ。
「よかろう。動機が何であれ、契約が継続されるなら軍としては何も問題ない。……今後ともよろしく頼むぞ、最高の採取家諸君」
「うん、よろしくね、管理官さん」
差し出された軍人の無骨な手に対し、コロは握手を返すこともなく、ただパチリと瞬きをして微笑みかけるだけだった。
こうして、狂信的なファシズムの歯車を育てる白亜の箱庭の片隅で、誰の規律にも染まらない一人と一匹の、奇妙で最高に快適な「お仕事長期ルーティン」が正式に定着していくのだった。
養成所で結んだ「お仕事長期ルーティン」から、数年の月日が経過した。
定期的に珍しい薬草を採取し、ルッカのお手製薬液によって見習い憲兵たちが順調に『監視と密告の歯車』へと仕立て上げられていく。
そんな狂気のディストピアな日常は、意外な形で終わりを迎えることとなる。
ここ最近、養成所を包む空気が明らかに慌ただしくなっていた。
隣国との間で長年燻っていた国境紛争がいよいよ全面戦争へと発展し、帝国軍が前線で苦戦を強いられていたのだ。
戦況の悪化に伴い、軍の予算と物資はすべて最前線への軍備や兵糧へと回され、国内の思想統制や憲兵の特殊訓練などという「悠長な実験」に構っている余裕すらなくなっていたらしい。
そのあおりを受けて、ルッカのもとに舞い込む特殊な製薬の依頼も激減。
かつては徹夜続きだったケット・シーの敏腕薬師も、今や日中から耳を寝かせて欠伸をするほどに暇を持て余すようになっていた。
「うみゃあ、今日もいい天気だにゃあ!久々に外の空気を吸うと、尻尾の先まで生き返るにゃ!」
「たまにはこうやって、みんなで遠出するのも悪くないね」
『フン。俺の背中で気安くくつろぎやがって。ルッカ、爪を立てたら振り落とすからな』
「その辺の野良猫と一緒にしにゃいでほしいにゃ!」
そんなある日の平和な午後。
すっかり暇になったルッカを誘い、コロとウルは帝都から少し離れた山岳地帯の森へと、気楽な素材採取の遠征に出かけていた。
誇り高きアッシュウルフの広大な背中に、銀髪の獣人の子供と赤茶色のトラ模様の猫が仲良く相乗りする様は、養成所での陰惨な裏仕事からは想像もつかないほど平和で、どこか長閑なピクニックの様相を呈している。
数日間にわたる山の奥地での採取と、キャンプでの美味なるジビエ料理を堪能し終え、一行は足取りも軽やかに帝都ヴェルンハルトへの帰路についていた。
――だが。
帝都を一望できる高台の峠――鬱蒼とした木々の視界が開けた山頂の崖縁に差し掛かった瞬間。
軽快なリズムで駆けていたウルの足が、ピタリと静止した。
『……チッ。どうやら、少し目を離している隙に「宴」が始まっていたようだな』
「ん、どうしたのウル?」
「にゃにゃ?」
ウルの低い呟きに、背中にまたがっていたコロとルッカが顔を見合わせ、崖の向こう――遥か眼下に広がる帝都の盆地へと視線を投げる。
次の瞬間、二人の目に飛び込んできたのは、あまりにも壮絶で、あまりにも呆気ない巨大帝国の最期の光景だった。
夕暮れの斜光が差すはずの西の空は、今やどす黒い漆黒の死灰と、幾本も立ち昇る巨大な黒煙の柱によって無情に覆い隠されていた。
大陸でも有数の規模を誇った軍事帝国の都が、火の海に沈んでいた。
中央商業区からも、貴族街からも、そしてあの郊外にそびえ立っていた白亜の養成所からも、轟音と共に真っ赤な炎の舌が天を衝き、無数の魔法砲撃の閃光が街の骨組みを無残に砕き散らしている。
何より雄弁に敗戦を物語っていたのは、帝都をぐるりと囲み、何百年もの間外敵を跳ね返し続けていた『誇り高き灰色の二重城壁』だった。
堅牢を誇った巨大な壁は、すでに東西のあちこちで粉々に崩落しており、その裂け目から、隣国の勝者たちの軍勢がまるで黒い蟻の群れのように、怒涛の勢いで雪崩れ込んでいたのだ。
こうなってしまえば、実験の成果や憲兵の規律など、一切関係がなかった。
ただ単純に、外的な戦況の悪化と圧倒的な武力の衝突によって、軍事帝国ガルデニアは今、この瞬間をもって物理的に「陥落」したのである。
「うみゃあ…………こ、こりゃあ、えらいことににゃってるにゃ……!」
ルッカが二股の尻尾を毛虫のように膨らませ、両手で猫の口元を覆って絶句した。
「あの絶対に壊れにゃいって自慢してた大城壁が、ズタボロに崩れてるにゃ!」
「だね。やっぱりそう簡単に『絶対』なんてものはないんだね」
「にゃにゃあ。見る限り、城も街も完全制圧されてるにゃね」
「あーあ、本当だね。すごい火の手だよ」
崖の上に吹く風が、焦げた木屑と、血と硫黄の生臭い匂いを運んでくる。
だが、その地獄絵図を見下ろすコロの氷藍色の瞳には、動揺も、哀愁も、微塵も浮かんでいなかった。
ただ冷ややかに、まるで巣を潰された蟻塚でも観察するかのような、絶対零度の平静さが保たれている。
「ほら、見てよルッカ。私たちが拠点にしてたあの養成所も、北棟のあたりが真っ赤に燃えてるよ」
「本当にゃ!」
「あんなに綺麗だった白亜の広場も、瓦礫だらけになっちゃってるんじゃないかな」
「にゃ、本当にゃ。僕らの調合室も、いつも美味しいご飯を出してくれたあの立派な食堂も、これじゃあ全部パーにゃ」
「管理官さんも、あの性格だし最後まで書類や規律にこだわってそうだから、きっと逃げ遅れちゃっただろうね」
『フン。どれほど強固な石の塀で囲い、どれほど厳格な規律で群れを縛り付けようと……人類どもの作る箱庭など、結局はいつかこうして燃え落ちる定めか』
ウルが退屈そうに大きなあくびを一つし、鼻孔に残る焦げ臭い煙をふすりと吹き飛ばした。
『……おい、コロ。それからルッカ。どうするのだ。あの火の海と化した都に戻り、瓦礫の中から未払の報酬でも掘り起こしに行くか?』
ウルのシニカルな問いかけに対し、コロは一秒の躊躇もなく首を横に振った。
「ううん、別に大した額じゃないし、戻っても無駄だよ」
「同意にゃ!今からあそこに戻ったって、誰もお給料や美味しいご飯なんて出してくれにゃいにゃ!」
「そうだね。お給料が出ないどころか、下手したら隣国の兵士たちに捕まって、面倒な取り調べを受けたり火事の煙を吸いに行くだけだよ。私たち、ただの採取家と薬師なんだし、縁もゆかりも無い国と一緒に入水自殺に付き合う義務なんてこれっぽっちもないよ」
「うみゃ!等価交換が成り立たにゃくにゃった時点で、僕らの雇用契約はこれにて完全・自然消滅にゃ!あーあ、折角美味しい仕事だったけど、やっぱ人類なんてこんなもんにゃね。残念にゃ」
「だね。戦争、戦争。本当にウンザリするよ。仕方ないから次に行こうか」
「にゃ!」
数年間の拠点であり、数多の若者たちが洗脳され、管理官が誇りとしたディストピアの要塞。
その滅亡を目の当たりにしながらも、彼らはただの一度も「助けに行こう」とも「悲しい」とも言わなかった。
損得の計算だけを瞬時に弾き出し、あまりにも軽やかに、そして冷酷に「切り捨てる」という選択を下したのだ。
『フン。いい心掛けだ。負け犬どもの葬式に付き合ってやるほど、俺たちもお人好しではないからな。……では、次はどうするのだ?』
「そうだね。この山を下りれば、隣国とはまた別の西の交易路へと抜けられるから、とりあえずはそこかな」
『西か?』
「うん、そうだね。ねえルッカ。ここ最近はずっと山や森の薬草ばっかり採ってたし、次はどうする?もし行くあてがないなら、しばらく私たちと一緒に来る?」
「行くにゃ!大歓迎にゃ!」
ケット・シーの薬師は、燃える都へ背を向けるようにして、ウルの首元で嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らした。
「実はにゃ、西の海の向こうの港町で、すごく珍しい『海生魔物の薬用腺』が採れるって話を聞いてたにゃ!そこなら港の鮮魚もとびきり美味いし、海鮮料理が毎日食べ放題にゃよ!」
『ほう、海か。流石に森の獣肉には少々飽きが来ていたところだ。潮のにおいというのも悪くないな。よし、次の目的地はそこに決まりだ』
「あはは、いいかもね。海なんて久しく見てないしね。よし、しっかり掴まっててよ、ルッカ!」
「合点承知にゃー!」
タァンッ!!と、力強い跳躍音が峠の崖縁に響き渡る。
轟音と共に崩れ落ちていく巨大帝国の城壁と、立ち昇る黒煙。
かつて自分たちを縛ろうとし、そして勝手に自滅していった愚かな人類の狂乱を遥か後方の埃として置き去りにし、最強の傍観者と猫かぶりの職人たちは、次なる極上のグルメと自由が待つ新天地へと向かって、笑い声を上げながら軽やかに駆け去っていくのだった。
4.
あの凄惨極まる【自白薬】のオーバーキル実験から、数十日の時が流れていた。
コロとウルによる特殊素材の納品は、その後も遅延はおろか、指定された品質を一切下回ることなく完璧に続けられていた。
どんなに不気味な違法薬草を指定されようと、地下からどれほど陰惨な悲鳴が響いてこようと、余計な私情を挟まず、外部に漏らす気配すら微塵も見せない。
ただただ「報酬と食事と寝床」という等価交換のためだけに平然と職務をこなす一人と一匹のスタンスを、養成所の事務管理官はいたく気に入っていた。
規律と秘密を何よりも重んじる冷酷な軍人にとって、この「徹底して私情を挟まない異質さ」こそが、帝国で最も信頼できる性質だとすっかり気を許し始めていたのだ。
今や一人と一匹は、養成所内でも特等席と言える、広場を一望できる管理事務室へと定期的に招かれるようになっていた。
分厚いマホガニーの机の上には、コロが好む砂糖もミルクもない漆黒のコーヒーが用意され、ウルは絨毯の上で退屈そうに大きな尾を揺らしている。
「――現在、訓練を受けている隊は、いよいよ最終段階に入っている隊だ」
窓の外、砂埃の舞う中央広場を眺めるコロとウルの隣で、事務官がどこか嬉々としたトーンで詳しく解説を始めた。
「へえ、いよいよ大詰めってわけだ」
『くだらん挨拶の練習をしている連中も、いつかはああなるというわけか』
広場では、真っ白な制服を着た見習い憲兵たちが、異様な緊張感の中で互いを鋭い目つきで睨み合っている。
かつてはただのポーズだった独自の挨拶は、今や彼らを縛る絶対的な教条と化し、その規律の網からわずかでも零れ落ちた者を炙り出すための「相互監視の場」へと変貌を遂げていた。
「あの隊は今、『密告と自食』のフェーズに差し掛かっている」
「密告と自食?」
「ああ。昨日まで苦楽を共にした同期であっても、規律に微かな疑問を抱いた者は、容赦なく仲間によって密告され、地下へと引きずり込まれる。この段階で脱落し、精神を崩壊させるような者など、我が帝国の特別憲兵としては最初から不要なのだ」
これほど過酷で非人道的な洗脳システムを構築した自負からか、事務官の単眼鏡の奥には冷酷な選民思想の光が宿っていた。
だが、その説明をブラックコーヒーを口に含みながら聞いていたコロは、ふん、と窓の外へ視線を戻すと、ケロッとした顔で同意してみせた。
「だね。そして、自分たち同士でふるいにかけるわけだ」
「ふむ、理解が早くて助かる。彼らは個を捨て、完璧な歯車に――」
「まぁそもそも、こんなところで脱落しちゃうような人は、エリートとは呼べないもんね」
淡々とした声だった。
コロは、まるで手際の悪い職人を品評するかのように、氷藍色の瞳を窓の向こうへと向けたまま言葉を続ける。
「それに、ここがどんな場所で、裏で何をしているのかを知ってしまっているなら尚更。残念だけど元の生活には戻れるわけがない。外に出して生かしておいても、情報の不純物になるだけだし」
『負け犬の遠吠えというやつだな』
「そうだね。負け犬の遠吠えだよ。そういう連中ほど、よく吠えるんだ」
「……何?」
事務官の言葉がぴたりと止まる。コロは小首を傾げ、さも当然の真理を語るようにクスリと微笑んだ。
「密告されて吊るし上げられた人は、そのままルッカの薬を使って拷問でもして、最後は処刑しちゃうんでしょ?」
「ん?ああ、よく分かったな」
「なるほどね。そこまでの一連の流れをワンセットにして、生き残ったエリートの卵たちに『自分たちは選ばれた特別な存在だ』って自信をつけさせるわけだ。脱落者の始末と、生き残りへの教育が同時にできるなんて、なかなか考えられた効率のいい仕組みだね」
「っ……そのとおりだ」
事務官は思わず、喉の奥で小さく息を呑んだ。
その厳格な顔が、微かに引き攣る。
彼は帝国の正義のため、軍人としての冷酷さをもって若者たちを天秤にかけていた。
だが、隣にいるこの子供の思考は、そんな国家の都合すら超越していた。
コロという獣人の子どもに、同情という概念が存在しないのは知っていた。
だが、ここまで一切の悪意も躊躇もなく、「脱落した人間は元に戻れないから殺すのが最も効率的だ」と、まるで家畜の選別システムを感心して眺めるような視点でシステムを分析して見せるとは、夢にも思っていなかったのだ。
『フン。群れの統率のために身内を食わせ、肥え太らせるシステムか。人類の考えることは、どこまでも陰湿で合理的だな』
「だね。こういう仕組みを考えさせたら右に出る生き物はいないよ」
早々に飽きてしまったのか、絨毯の上で寝そべってしまったウルのシニカルな突っ込みに、コロは気取ったりする様子もなく、笑ってみせる。
事務官の背筋に、前回の実験の時とはまた違う、底知れない冷たい戦慄が走った。
この子供は、やはり「冷酷な軍人」の同類などではない。
ただただ、他者の命の価値に対して『絶対零度の空白』を持っているのだ。
どれほど完璧な規律でこの養成所を縛ろうと、目の前の一人と一匹を縛ることだけは絶対にできないのだと、事務官は引き攣った指先で単眼鏡の位置を直しながら、再び恐怖と共に思い知らされるのだった。
「……なるほど。そこまで冷徹にこの養成所の本質を見抜くか」
「見抜くってよりは、そう見えたからね」
事務官は引き攣った指先で単眼鏡の位置を直すと、ゴクリと喉を鳴らし、声音に宿る戦慄を必死に押し殺した。
この子供と魔狼は、国家の正義にも、人類の道徳にも、恐怖という感情にすら縛られない。
だが――だからこそ、これほど「裏切りのリスクがない、信頼に値する職人」も他にはいなかった。
事務官は小さく咳払いをすると、マホガニーの机に両手を突き、コロの氷藍色の瞳を正面から見据えて率直に切り出した。
「コロ」
「ん、どうしたの?」
「私はお前たちのその『徹底して私情を挟まない人となり』を、心から気に入った」
「そう?まぁ、赤の他人だし、私情なんて挟む必要がないしね」
「そこで帝国軍として正式に提案がある。――今後も、この養成所の専属採取家として、無期限でこの仕事を続けてはくれないだろうか。お前たちの望むだけの待遇は保証しよう」
冷酷な軍人からの、これ以上ない最大限の執着とスカウトの言葉。
普通の採取家であれば、帝国のエリート組織の後ろ盾を喜ぶか、あるいはその闇の深さに怯えて拒絶するかの二択だろう。
だが、コーヒーカップを机に置いたコロは、チラッとウルと視線を合わせ、全く気負うことなく、ケロッとした様子で指を折り数え始めた。
「無期限の専属?うーん……そうだね。ルッカの依頼はいつも分かりやすいし、報酬も相場よりずっと弾んでくれる。用意してもらった寝泊まりする宿舎の部屋もなかなか立派だし、毎日のご飯だって普通に美味しい。それに、指定される採取の範囲も、ウルの足ならそう遠くないしね」
『フン。俺も適度に身体が動かせるからな。気に入っているぞ』
「ふふ、ウルも今の仕事は身体が適度に動かせるから気に入ってるって」
『何より、用意される肉の質はたしかだからな。そこも評価してやってもいい』
「そうだね。さすが立派な帝国の帝都、肉の質もいいもんね」
絨毯の上で寝そべったまま、ウルが退屈そうに尾を床に叩きつける。
コロはウルの言葉に同意するようにクスリと微笑むと、事務官に向かって気楽に肩を竦めてみせた。
「それにさ、ここ最近、どこに行っても内戦だの戦争だのばっかりでしょ。行く先々で足止めを食らったり、難民に絡まれたり縋られたりするのは、旅としてちょっと面倒になってきたんだよね。……だから、今のまま居心地が良くて衣食住が保証されるなら、しばらくはここで働いてもいいよ」
「……旅が面倒、だからか」
「うん。それが一番の理由かな」
事務官は、そのあまりにも身も蓋もない「快諾の動機」に、呆気にとられて乾いた笑いを漏らすしかなかった。
彼らは帝国のために剣を振るうわけでも、正義のために規律を守るわけでもない。
ただ「旅の途中の雨風をしのぎ、美味い飯を食うための拠点」として、この血塗られたエリート養成所を選んだのだ。
「よかろう。動機が何であれ、契約が継続されるなら軍としては何も問題ない。……今後ともよろしく頼むぞ、最高の採取家諸君」
「うん、よろしくね、管理官さん」
差し出された軍人の無骨な手に対し、コロは握手を返すこともなく、ただパチリと瞬きをして微笑みかけるだけだった。
こうして、狂信的なファシズムの歯車を育てる白亜の箱庭の片隅で、誰の規律にも染まらない一人と一匹の、奇妙で最高に快適な「お仕事長期ルーティン」が正式に定着していくのだった。
養成所で結んだ「お仕事長期ルーティン」から、数年の月日が経過した。
定期的に珍しい薬草を採取し、ルッカのお手製薬液によって見習い憲兵たちが順調に『監視と密告の歯車』へと仕立て上げられていく。
そんな狂気のディストピアな日常は、意外な形で終わりを迎えることとなる。
ここ最近、養成所を包む空気が明らかに慌ただしくなっていた。
隣国との間で長年燻っていた国境紛争がいよいよ全面戦争へと発展し、帝国軍が前線で苦戦を強いられていたのだ。
戦況の悪化に伴い、軍の予算と物資はすべて最前線への軍備や兵糧へと回され、国内の思想統制や憲兵の特殊訓練などという「悠長な実験」に構っている余裕すらなくなっていたらしい。
そのあおりを受けて、ルッカのもとに舞い込む特殊な製薬の依頼も激減。
かつては徹夜続きだったケット・シーの敏腕薬師も、今や日中から耳を寝かせて欠伸をするほどに暇を持て余すようになっていた。
「うみゃあ、今日もいい天気だにゃあ!久々に外の空気を吸うと、尻尾の先まで生き返るにゃ!」
「たまにはこうやって、みんなで遠出するのも悪くないね」
『フン。俺の背中で気安くくつろぎやがって。ルッカ、爪を立てたら振り落とすからな』
「その辺の野良猫と一緒にしにゃいでほしいにゃ!」
そんなある日の平和な午後。
すっかり暇になったルッカを誘い、コロとウルは帝都から少し離れた山岳地帯の森へと、気楽な素材採取の遠征に出かけていた。
誇り高きアッシュウルフの広大な背中に、銀髪の獣人の子供と赤茶色のトラ模様の猫が仲良く相乗りする様は、養成所での陰惨な裏仕事からは想像もつかないほど平和で、どこか長閑なピクニックの様相を呈している。
数日間にわたる山の奥地での採取と、キャンプでの美味なるジビエ料理を堪能し終え、一行は足取りも軽やかに帝都ヴェルンハルトへの帰路についていた。
――だが。
帝都を一望できる高台の峠――鬱蒼とした木々の視界が開けた山頂の崖縁に差し掛かった瞬間。
軽快なリズムで駆けていたウルの足が、ピタリと静止した。
『……チッ。どうやら、少し目を離している隙に「宴」が始まっていたようだな』
「ん、どうしたのウル?」
「にゃにゃ?」
ウルの低い呟きに、背中にまたがっていたコロとルッカが顔を見合わせ、崖の向こう――遥か眼下に広がる帝都の盆地へと視線を投げる。
次の瞬間、二人の目に飛び込んできたのは、あまりにも壮絶で、あまりにも呆気ない巨大帝国の最期の光景だった。
夕暮れの斜光が差すはずの西の空は、今やどす黒い漆黒の死灰と、幾本も立ち昇る巨大な黒煙の柱によって無情に覆い隠されていた。
大陸でも有数の規模を誇った軍事帝国の都が、火の海に沈んでいた。
中央商業区からも、貴族街からも、そしてあの郊外にそびえ立っていた白亜の養成所からも、轟音と共に真っ赤な炎の舌が天を衝き、無数の魔法砲撃の閃光が街の骨組みを無残に砕き散らしている。
何より雄弁に敗戦を物語っていたのは、帝都をぐるりと囲み、何百年もの間外敵を跳ね返し続けていた『誇り高き灰色の二重城壁』だった。
堅牢を誇った巨大な壁は、すでに東西のあちこちで粉々に崩落しており、その裂け目から、隣国の勝者たちの軍勢がまるで黒い蟻の群れのように、怒涛の勢いで雪崩れ込んでいたのだ。
こうなってしまえば、実験の成果や憲兵の規律など、一切関係がなかった。
ただ単純に、外的な戦況の悪化と圧倒的な武力の衝突によって、軍事帝国ガルデニアは今、この瞬間をもって物理的に「陥落」したのである。
「うみゃあ…………こ、こりゃあ、えらいことににゃってるにゃ……!」
ルッカが二股の尻尾を毛虫のように膨らませ、両手で猫の口元を覆って絶句した。
「あの絶対に壊れにゃいって自慢してた大城壁が、ズタボロに崩れてるにゃ!」
「だね。やっぱりそう簡単に『絶対』なんてものはないんだね」
「にゃにゃあ。見る限り、城も街も完全制圧されてるにゃね」
「あーあ、本当だね。すごい火の手だよ」
崖の上に吹く風が、焦げた木屑と、血と硫黄の生臭い匂いを運んでくる。
だが、その地獄絵図を見下ろすコロの氷藍色の瞳には、動揺も、哀愁も、微塵も浮かんでいなかった。
ただ冷ややかに、まるで巣を潰された蟻塚でも観察するかのような、絶対零度の平静さが保たれている。
「ほら、見てよルッカ。私たちが拠点にしてたあの養成所も、北棟のあたりが真っ赤に燃えてるよ」
「本当にゃ!」
「あんなに綺麗だった白亜の広場も、瓦礫だらけになっちゃってるんじゃないかな」
「にゃ、本当にゃ。僕らの調合室も、いつも美味しいご飯を出してくれたあの立派な食堂も、これじゃあ全部パーにゃ」
「管理官さんも、あの性格だし最後まで書類や規律にこだわってそうだから、きっと逃げ遅れちゃっただろうね」
『フン。どれほど強固な石の塀で囲い、どれほど厳格な規律で群れを縛り付けようと……人類どもの作る箱庭など、結局はいつかこうして燃え落ちる定めか』
ウルが退屈そうに大きなあくびを一つし、鼻孔に残る焦げ臭い煙をふすりと吹き飛ばした。
『……おい、コロ。それからルッカ。どうするのだ。あの火の海と化した都に戻り、瓦礫の中から未払の報酬でも掘り起こしに行くか?』
ウルのシニカルな問いかけに対し、コロは一秒の躊躇もなく首を横に振った。
「ううん、別に大した額じゃないし、戻っても無駄だよ」
「同意にゃ!今からあそこに戻ったって、誰もお給料や美味しいご飯なんて出してくれにゃいにゃ!」
「そうだね。お給料が出ないどころか、下手したら隣国の兵士たちに捕まって、面倒な取り調べを受けたり火事の煙を吸いに行くだけだよ。私たち、ただの採取家と薬師なんだし、縁もゆかりも無い国と一緒に入水自殺に付き合う義務なんてこれっぽっちもないよ」
「うみゃ!等価交換が成り立たにゃくにゃった時点で、僕らの雇用契約はこれにて完全・自然消滅にゃ!あーあ、折角美味しい仕事だったけど、やっぱ人類なんてこんなもんにゃね。残念にゃ」
「だね。戦争、戦争。本当にウンザリするよ。仕方ないから次に行こうか」
「にゃ!」
数年間の拠点であり、数多の若者たちが洗脳され、管理官が誇りとしたディストピアの要塞。
その滅亡を目の当たりにしながらも、彼らはただの一度も「助けに行こう」とも「悲しい」とも言わなかった。
損得の計算だけを瞬時に弾き出し、あまりにも軽やかに、そして冷酷に「切り捨てる」という選択を下したのだ。
『フン。いい心掛けだ。負け犬どもの葬式に付き合ってやるほど、俺たちもお人好しではないからな。……では、次はどうするのだ?』
「そうだね。この山を下りれば、隣国とはまた別の西の交易路へと抜けられるから、とりあえずはそこかな」
『西か?』
「うん、そうだね。ねえルッカ。ここ最近はずっと山や森の薬草ばっかり採ってたし、次はどうする?もし行くあてがないなら、しばらく私たちと一緒に来る?」
「行くにゃ!大歓迎にゃ!」
ケット・シーの薬師は、燃える都へ背を向けるようにして、ウルの首元で嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らした。
「実はにゃ、西の海の向こうの港町で、すごく珍しい『海生魔物の薬用腺』が採れるって話を聞いてたにゃ!そこなら港の鮮魚もとびきり美味いし、海鮮料理が毎日食べ放題にゃよ!」
『ほう、海か。流石に森の獣肉には少々飽きが来ていたところだ。潮のにおいというのも悪くないな。よし、次の目的地はそこに決まりだ』
「あはは、いいかもね。海なんて久しく見てないしね。よし、しっかり掴まっててよ、ルッカ!」
「合点承知にゃー!」
タァンッ!!と、力強い跳躍音が峠の崖縁に響き渡る。
轟音と共に崩れ落ちていく巨大帝国の城壁と、立ち昇る黒煙。
かつて自分たちを縛ろうとし、そして勝手に自滅していった愚かな人類の狂乱を遥か後方の埃として置き去りにし、最強の傍観者と猫かぶりの職人たちは、次なる極上のグルメと自由が待つ新天地へと向かって、笑い声を上げながら軽やかに駆け去っていくのだった。
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