規律の檻と、異理の職人たち 3 〜地下監獄の地獄絵図と、異質の証明〜
3.
窓の向こうの空が、茜色から深い藍色へと沈み始めた夕暮れ時。
養成所・北棟地下の専属調合室の扉が開き、宣言通り「夕食の時間」きっかりに、コロとウルが涼しい顔で戻ってきた。
「ただいま、ルッカ」
「にゃにゃあ!おかえりにゃ!」
「お願いされてた素材、全部採ってきたよ」
『フン。つまらん森だったが、約束の時間を守ってやったぞ。おいルッカ、肉はできているんだろうな』
「勿論にゃ!そっちも期待通りの品質のものを採ってきたかにゃ?」
「ふふふ、いい意味で期待を裏切るかも知れないよ」
コロが革鞄の中から取り出した遮光瓶と特殊な包み布を、オーク材の作業台へとズラリと並べていく。
それを待ち構えていたルッカは、二股に分かれた長い尻尾をブンブンと激しく揺らし、目を輝かせて戦利品へとのめり込んだ。
「うみゃあぁっ!!こ、これは凄い、凄すぎるにゃあ!看板に偽りにゃいどころか、僕の記憶よりずっと上の特上品質にゃ!」
ルッカの器用な長い指先が、切り出されたばかりの『蝕心苔』の束を優しく撫でる。
「根元の細胞が一個も潰れてにゃい!劣化も始まってにゃい!それにこの濃密な紫の胞子……!帝国の一流ギャザラーが三日かけてもこんな鮮度と品質では持ってこれないにゃ!」
「まあ人類が簡単に入れるような場所には、ここまで立派なものは自生してないしね」
「本当に助かるにゃあ、コロ!」
「ふふ、ルッカにそう言ってもらえると、採ってきた甲斐があったよ」
『言葉ではなく、肉で感謝の意を伝えろ』
「勿論にゃ!あとでちゃんと提供するにゃ!」
歓喜するケット・シーの薬師の傍らで、同席していた事務管理官は、単眼鏡を抑えながら絶句していた。
本当に、このわずか数時間の夕方だけで、あの人跡未踏の暗黒の森からリスト通りの極秘素材を、それも一切の傷もなく完璧に揃えてきたというのか。
軍人の常識では考えられない速度と技量。
管理官の額に嫌な冷汗がにじむ。
目の前で退屈そうにあくびをする魔狼と、涼しい顔で服の埃を払う銀髪の獣人の子供は、ただ「腕が立つ」などという言葉で収まる存在ではない。
間違いなく、人智を超えた『只者ではない怪物』だと、管理官の軍人としての直感が確信に変わっていた。
「よーし!素材がこんなに最高にゃら、僕の腕の鳴らしがいがあるにゃ!さっそく今回の主役『蝕心苔』を使った特製の自白薬を仕立てるにゃ!」
「あ、それ見たいかな」
『おい、何を言っている?俺は腹が減ったぞ』
「ちょっとくらいいいじゃないの。久しぶりにルッカの調合の手際が見てみたいし」
「うみゃ!お師匠様たちの前で、特上の塩梅を見せてやるにゃ!」
ルッカは即座にすり鉢と蒸留器を組み上げ、目にも留まらぬ高速の手技で素材の抽出を始めた。
紫の苔がアルコールと熱によって溶け合い、不気味に発光する濃紺の液体へと精製されていく。
その手際と美しさは、まさに一流の職人そのものだった。
そんなルッカの後ろ姿をじっと見守っている一人と一匹。
――やがて。
「完成にゃ!よし、さっそく出来栄えをテストするにゃ!管理官、地下の駒を借りるにゃ!」
振り向きざまにそう言って、満面の笑みを浮かべるルッカ。
一行が向かったのは、調合室からさらに深い石段を下りた先――養成所の最深部に位置する『地下監獄・特殊観察室』だった。
そこは、少しの光も届かない冷たい石造りの空間で、空気は地下特有の重い湿気と、染みついた古い血、そして恐怖による尿や脂汗の臭いが濃密に立ち込めている。
ウルの鼻腔が微かに不快そうに動いた。
観察室の壁には分厚いマジックミラーのような特殊な小窓が嵌め込まれており、そこから隣の「尋問室」の内部を安全に覗き見ることができる構造になっていた。
小窓の向こう、鉄の椅子に拘束されていたのは、帝国の機密を盗み出そうとして捕らえられた重罪人の男だ。
何日も拷問を受けたのか、その顔は腫れ上がり、虚ろな目で息を喘がせている。
「それじゃ、若い憲兵たちに、今作ったお薬を飲ませてもらうにゃ」
ルッカの指示を受け、尋問室の内部で待機していた白装束の見習い憲兵が、罪人の顎を無理やりこじ開け、濃紺の『自白薬』を数滴、舌の上へと垂らした。
その効果は――あまりにも、劇的かつ壊滅的だった。
薬が粘膜から吸収された数秒後。
罪人の男の目が、かっと見開かれた。
最初は自白剤特有の、思考の自制心が外れた「恍惚とした表情」を浮かべかけた男だったが、すぐにその顔つきが異様な方向に歪み始めた。
「あ……が、ぐ……ぁ、あ、ア、アア…………」
男の口から漏れ出したのは、秘密の自白でも、許しを乞う言葉でもなかった。
意味を成さない舌の震えと、壊れた楽器のような不快な音の羅列。
「……あぐぁ……れれ、れれれれ……れぁ……」
すぐに眼球は白目を剥くように左右に激しく泳ぎ出し、口元から大量の涎がダラダラと垂れ流されていく。
本来なら「理性を鈍らせて質問に答えやすくする」はずの自白剤が、脳の思考回路そのものを完全にドロドロに溶かし去り、言語機能と精神構造を一瞬にして破壊し尽くしてしまったのだ。
それだけではない。
男の胸の上下が急激に鈍くなり、自発的な呼吸すら維持できなくなった身体は、大きく痙攣したかと思うと、ガタンッ!!と鉄の椅子ごと冷たい石床へと転げ落ちた。
「ひっ……!?お、おい!どうした、何が起きた!?」
「自白薬を数滴落としただけだぞ!?な、なんだこの痙攣は……おい、しっかりしろ!吐き出せ!」
尋問室の内部は、一瞬にしてエリートたちの規律が吹き飛ぶほどのパニックに包まれていた。
白装束の見習い憲兵たちは、昨日まで叩き込まれたマニュアルのどれにも載っていない重篤な症状に顔面を蒼白にさせ、床に転がった罪人の体を力任せに揺さぶる。
「喋れ!機密はどこだ!頼むから何か言葉を……っ、だめです!完全に白目を剥いてます!脳が焼き切れてる、意思の疎通が全くできません!」
「馬鹿な、ルッカ先生の薬はいつもなら数分で大人しく喋り始めるはずだろ!?おい、早く中和薬を持ってこい!」
「そんなものありません!今回のは先生の『完全な新作』で――待て、呼吸が、自発呼吸が完全に止まったぞ!脈が、心臓が細動を起こしてる!」
「蘇生術!早く治癒魔法をかけろ!死なせるな、機密を聞き出す前に死なせたら始末書ものだぞ!!」
尋問室の若者たちが悲鳴のような怒声を上げ、血眼になって罪人の胸を押し、蘇生魔法の光をパチパチと狂ったように炸裂させる。
その、地獄絵図のような大騒ぎをマジックミラー越しに見つめていた観察室の事務管理官もまた、血の気を完全に失い、単眼鏡が床に落ちてガラスが砕ける音にも気づかないまま、小窓に両手を突いて吠えていた。
「ルッカ!!これはどういうことだ、説明しろ!!」
管理官は、普段の神経質な冷静さを完全に失い、青筋を立てて猫の薬師の胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄る。
「思考を誘導して口を軽くする薬だとお前は言ったはずだ!これでは尋問はおろか、ただの極悪な『即死性の神経毒』ではないか!帝国の大切な『駒』を、何一つ吐かせぬまま一瞬で毒殺してどうする!どんな調合ミスをすればこんな、脳みそを消し炭にするような化け物染みた毒薬が出来上がるんだ!!」
「うみゃー!やっぱりやっちゃったにゃ!」
怒髪天を衝く勢いで激昂する管理官の横で、ルッカは胸ぐらを掴まれそうになってもどこ吹く風で、頭の毛をぼさりと掻きむしり、あっけらかんとした声を上げた。
「ちょっと張り切りすぎちゃったんじゃないの?」
「にゃにゃ!コロが採ってきた『蝕心苔』の品質が、あまりにも良すぎたんだにゃ!」
『フン、品質が良いのは当たり前だな』
「にゃにゃあ!普段の感覚で成分を抽出しちゃったから、薬効が強すぎて一瞬で頭がパアになっちゃったみたいにゃあ!」
「あー、やっぱり。少し色が濃すぎるなって思ったんだよね」
コロは、石床でピクピクと死の瀕死に喘ぐ罪人の姿を小窓から見下ろしつつ、まるで失敗した料理の味見でも評価するかのように、淡々と小首を傾げた。
「でも、これでどれくらいの塩梅で作ればいいのか分かった?」
「にゃ!次からは抽出の時間を半分にして、水で三倍に希釈すればちょうどいい『おしゃべり薬』になるにゃね」
「ふふ、良かった。私の素材で張り切ってくれる薬師の姿を見るのは好きだよ」
『フン。人類とは本当に脆い生き物だな。数滴の汁を舐めただけで、あんなボロ屑のように壊れるとはな』
「脆いのはしかたないよ。だからこそ徒党を組んで生きているんじゃないの」
そこに広がっていたのは、究極の異常空間だった。
目の前でひとりの人間が精神を破壊され、死の淵を彷徨っているというのに――猫の薬師も、銀髪の獣人の子供も、巨大な狼も、誰ひとりとして男の心配などしていなかった。
罪悪感はおろか、動揺の欠片すらなく、「次の製品作りのための良いデータが取れた」と、心の底から純粋に喜んでいたのだ。
その異様なほどの冷酷さと、あまりにも日常的な会話のトーンに、管理官の背筋にゾッとするような氷の刃が突き刺さった。
「お、お前たち……!」
管理官は、軍人としての気丈さを必死に保ちつつ、震える声を振り絞ってサラッと尋ねた。
「……目の前で、人がひとり壊れて死にかけているのだぞ。気にならないのか……?」
その問いに対し、コロとルッカは不思議そうに顔を見合わせると、まるで「なぜそんな当たり前のことを聞くのだろう」と言わんばかりに、ケロッとした顔で振り返った。
「にゃにゃ?薬効について、にゃ?」
「まぁ、確かにちょっとルッカは張り切りすぎたかなとは思うね」
「もうちょっと耐えられると思ったにゃけどにゃあ。やっぱやり過ぎだったにゃ」
「買い被りすぎだね」
管理官の目の前にいる、人類の姿をした『何か』たちは、微塵も被験者の心配など本気でしていなかった。
背中に冷や汗が伝う想いを押し殺しつつ、管理官は口を開いた。
「そ、そちらではない。アイツが死にかけたのだぞ?」
「でもすぐに治癒魔法をかけたから、一命は取り留めたんじゃないかな、ほら」
「にゃ。本当にゃね。あとであの駒のための治療薬を作る手間が増えたにゃ!」
「まぁ……治療薬があったとしても、この先、まともに生きられないかもだけどね」
「にゃにゃあ?平気にゃ!どうせ最後は始末されちゃうにゃ!」
「あ、それもそうか。釈放されるわけないよね」
あくまで自分たちのペースで会話を続けるコロとルッカ。
ウルに至っては先ほどから何度も欠伸をしている。
「……そうでもない。結果は結果でも、あの罪人がどうなるかとかだな……」
咳払いをしつつ、事務官がそう補足すると、コロもルッカも小さく肩を竦めてしまった。
「罪人が?なんで?私の仕事は、『注文通りの良い素材を採ってくること』までだよ。そこから先、作られた薬が誰にどういう使い道で使われるかなんて採取家の仕事じゃないよ」
「そうだにゃ!だいたい、こうにゃるかもしれないってリスクを想定していたからこそ、まずはどうでもいい末端の構成員だった罪人を被検体にしてテストしたにゃろ?無事に生かす必要なんてないにゃ」
「少し張り切りすぎて、薬の品質が良すぎちゃったのは兎も角、次からは完璧に作れるってルッカも言ってるし、応急処置もなかなかの手際だったし、このあとルッカが別途、治療薬を作るって言ってるし……結果として問題なんてないと思うけどね」
『おいルッカ。つまらん見世物はもう終わりだ。早く俺の肉を出せ。肉が腐り始めていたらお前の尻尾を一本食うぞ』
「うみゃみゃっ!これで大体分かったから、もうテストはいいにゃ!今すぐ食堂に行くにゃ!治療のための薬はご飯のあとにゃ!」
あっけらかんと笑いながら、一行は観察室に背を向け、肉の待つ地上へと歩き出す。
残された事務管理官は、その後ろ姿をただ呆然と見送ることしかできなかった。
――こいつらは、人類ではない。
人類の皮を被り、人類のコミュニティの中で生き、人類の言葉を喋ってはいるが……その本質は、道徳や正義といった『人類の倫理観』とは完全に切り離された、『まったく別の理』で生きている化け物たちなのだ。
地下の尋問室から漏れ聞こえる罪人の死に絶えそうな喘ぎ声と、楽しげに食堂へと向かう『化け物たち』の足音。
帝国憲兵の厳格な管理官は、初めて自分が、とてつもなく恐ろしい「本物の異質」をこの養成所の中に招き入れてしまったのだと、冷たい石床の上でひとり思い知らされるのだった。
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