規律の檻と、異理の職人たち 2 〜悪徳の毒草群と、滑稽な挨拶〜
2.
無機質な白亜の石畳が続く廊下を抜け、一人と一匹はルッカに連れられて、養成所の北棟地下に位置する『専属調合室』へと足を踏み入れた。
重厚なオーク材の扉を開けた瞬間、鼻腔を突いたのは、ツンとした刺激性のアルコールと、濃密に煮詰められた薬草の匂いだった。
石造りの広い部屋の壁際、床から天井まで届く棚には、無数の遮光瓶と乾燥素材の木箱が隙間なく並べられている。
部屋の中央に鎮座する作業台では、大小様々な魔導ランプの青い炎が揺らめき、ガラス製の複雑な蒸留器やフラスコから、シュルシュルと怪しげな湯気と薬液の滴る音が絶え間なく響いていた。
「うみゃー、散らかっててごめんにゃ!最近は本当に注文が殺到してて、片付ける暇もにゃかったんだにゃ」
ルッカは二股に分かれた尻尾を器用に揺らして散らばっていた書類を片付けると、作業台の奥から羊皮紙の束を引っ張り出してきた。
「さっそくで悪いにゃけど、これが取り急ぎ切らしてる『緊急のピックアップリスト』にゃ」
「ふーん、どれどれ」
「訓練で使う筋肉麻痺の溶剤と……あとは、おしゃべりにさせるための、ちょっと刺激的な苔の類にゃね」
手渡された羊皮紙を受け取り、コロは淡々と視線を落とす。
そこに記されていたのは、帝都周辺でも立ち入りが制限される険しい渓谷の岩肌や、魔物の巣食う深林の奥地にしか自生しない、極めて難度の高い希少素材の学名ばかりだった。
しかし、そのえげつない用途が透けて見えるリストを目にしても、コロの氷藍色の瞳は微塵も揺らぐことはない。
ただ黙って、フンフンと何度か頷くだけだ。
その時、調合室の扉がコツコツ、と規則正しく叩かれ、先ほどの事務管理官が軍靴の音を響かせて姿を現した。
契約の確認と、新参の異種族たちが妙な動きをしていないかの監視、あるいは彼なりの軍人としての管理指導の一環なのだろう。
しかし、コロとウルは事務管理官の登場など、まるで気にかける様子もないようだ。
「うん、こんな感じね」
『どうだ?泊りがけか?』
「歩けば泊りがけだし、ウルの背中に乗れば日帰りだね」
『それなら背中に乗れ。さっさと行くぞ』
「そうだね。お言葉に甘えちゃおうかな」
管理官は単眼鏡の奥の鋭い目を部屋の面々へと向け、厳格な声で告げた。
「――ルッカ、リストの伝達は済んだか?」
「にゃ、ちょうど今渡したところだにゃ!」
元気のよい返事とともに、二股に分かれた尾がピンと伸びる。
そんな可愛らしい姿にも関わらず、管理官は眉一つ動かさずに、神経質そうな表情を、コロへ向ける。
「ふむ。……お前たち、今回要求されている素材は、いずれも通常の山野で採取できるような生ぬるい代物ではない」
「普通の採取家ならそうだろうね」
「険しい崖の登攀や、毒性の強い胞子から身を守るための装備、あるいは護身の武器など、必要な備品があれば今のうちにルッカに申し出ろ。軍の備品庫から貸し出そう」
軍人らしく、危険な探索に向けた理にかなった配慮だった。
だが、その言葉を受けたコロは、リストを革鞄へと滑り込ませながら、小首を傾げてケロッと言い放った。
「装備?うーん……まぁ、この素材くらいなら、特別に必要なものなんて何もないかな」
「……何?」
「いつもの採取用の道具と、この鞄があれば十分だよ。余計な道具を持ち歩くと身体が重くなるからね」
危険な山岳採取をまるで庭先の草むしりか何かのように語る子供の態度に、管理官の眉間が深く刻まれた。
さらに、コロが渡された難解なリストに対して何も質問せず、ただ涼しい顔をしているのを見て、管理官は忠告するように少し語気を強めた。
「強がりは不要だと言っている。そこに書かれているのは、帝国の高位薬師でさえ目利きや扱いを違える特殊な素材だ。少しでも分からない学術名や採取の勘所があるのなら、素直に『分からない』と言って、専門家であるルッカに聞くようにしなさい」
子供が知ったかぶりをして不完全な素材を集めてきては、養成所の計画に支障が出ると危惧しての忠告だった。
だが――次の瞬間、調合室に響き渡ったのは、ルッカのあっけらかんとした笑い声だった。
「にゃははは!逆にゃ、逆にゃ、管理官!」
「逆……だと?」
「にゃにゃあ!僕から教えることなんて一つもにゃいにゃ!」
「……どういう意味だ、ルッカ」
「僕がまだ駆け出しの薬師だった頃にゃ。薬草の繊細な目利きや、細胞を傷つけにゃい採取の秘訣を僕に教えてくれたのが、そこにいるコロとウルだにゃ!僕にとって、この二人は『お師匠様』みたいにゃもんにゃよ!」
『俺は特に何も教えてないがな』
「ウルもその立派な鼻で、どこに生えているかを見つけてくれるじゃない」
熟練のケット・シーの薬師から飛び出した衝撃的な暴露に、管理官は息を呑み、単眼鏡を抑える指をピタリと止めた。
この養成所で早五年、軍の難解な要求に全て応え続けてきた腕利き薬師が、自身の「師」だと呼ぶ存在――それが、目の前にいるあどけない子供と、退屈そうにあくびをする魔狼だというのだ。
「ルッカの師、だと……?この子供が?」
「そうだにゃ!だから心配ご無用にゃ。コロとウルに任せておけば、僕がとやかく言うより一万倍確実な素材が届くにゃ!」
軍人の常識と規律の枠組みが再びガラガラと崩れ去り、管理官は納得と混乱の狭間で、ただイマイチ腑に落ちないような微妙な表情を浮かべるしかなかった。
そんな管理官の困惑をよそに、コロはリュックサックのフラップをパチンと留めると、足元で伏せていたウルへと軽く声をかけた。
「よし、行こうかウル」
『ああ、さっさと行って、さっさと美味い飯を食うぞ』
「だね。よし、それじゃあ、ルッカ。管理官さん。取り急ぎリストの分をパパッと摘んで……そうだね、夕食の時間までには戻ってくるよ」
「うみゃ!食堂には『血抜き前の新鮮にゃ家畜肉を用意するにゃ』ってお願いしておくから、楽しみにしててにゃ!」
『いい気の利かせ方をする。よし、少しは張り切って走ってやるとしよう』
ウルが喉の奥でご機嫌な低音を鳴らし、立ち上がる。
軍事帝国の厳格な管理官を完全に置き去りにしたまま、最強の傍観者と職人たちは、まるで夕方の散歩にでも出かけるかのような軽やかな足取りで、冷たい白亜の施設をフラリとあとにした。
ルッカの専属調合室をあとにし、夕食までの「簡単な採取のお仕事」へと向かうため、コロとウルは養成所の長い石廊下を抜けて屋外の中央広場へと出た。
雲の切れた空から差し込む午前の光が、塵一つなく掃き清められた白亜の石畳をまぶしく照らしている。
その広場の片隅や、棟と棟を繋ぐ通路のあちこちで、訓練の一環なのだろうか、真っ白な制服を着た見習い憲兵たちが何人かで向かい合い、奇妙な動作を繰り返していた。
彼らはすれ違うたびに足をピタリと止め、背筋を極端なまでに真っ直ぐに伸ばすと、右手を胸元から前に向かって、波を描くような独特のポーズで掲げ合っている。
ただ黙礼をするでも、軍人らしくかかとを鳴らすでもない。
どこか異様なほどの熱気を込めて、その特殊なサインと合言葉を忠実に交わし合っているかのように繰り返していたのだ。
その光景を横目でチラッと眺めながら、ウルが不愉快そうに鼻を鳴らした。
『なんの真似だ、あのヘロヘロ手を動かしている仕草は。ふざけているようには見えんが……』
「この国の憲兵の挨拶みたいなものじゃないかな」
『挨拶って……おい、あればかりしているぞ』
「別にずっと見てたわけじゃないしね。色々やってたうちの一つかもしれないよ」
『フン。挨拶などで治安が守れるなら、その辺のガキに金でも握らせてやらせればいいものを』
ウルの身も蓋もないシニカルな極論に、コロは歩きながら思わず吹き出し、クスリと笑った。
「ふふ、いちいち突っかかるなぁ」
『つ、突っかかってなどいない!フン、滑稽だと思っただけだ』
図星を指されたのか、ウルは少しだけムキになったように声を荒げ、太い尻尾をバサリと大きく揺らした。
現時点において、その独特な挨拶やポーズが、若者たちの心を縛り付け、仲間以外の者を排斥し密告させるための「洗脳のステップ」であることになど、一人と一匹はまだそこまで気がついていない。
ただの、人間族が群れをなす際によくやる「滑稽で少し変わった風習」の様子として、あっけらかんと受け流しているだけだった。
「まぁまぁ、何でもいいじゃない。私たちには報酬と美味しいご飯が待ってるんだから、さっさと必要な薬草を集めに行こう」
『フン、言われるまでもない。あんなくだらん踊りのような挨拶を見るよりは、山で草を毟っているのを見る方がはるかにマシだからな』
見習い憲兵たちが熱狂的に交わすサインを背に、一人と一匹は鉄格子の正門をくぐり、帝都郊外の秘境へと向かって軽やかに走り出した。
帝都の郊外に広がる、光すら容易には届かない人跡未踏の深い迷いの森。
頭上を覆う鬱蒼とした針葉樹の樹冠は、昼間の直射日光はおろか、夕暮れの斜光すら無情に遮り、地面には昼間であっても薄暗く冷たい湿気が重く滞留していた。
何百年と降り積もった腐葉土は歩くたびにジュクリと黒い水を滲ませ、風が通らない淀んだ大気の中には、独特の青臭いカビの匂いと、微かな毒性の胞子が浮遊している。
普通の人類であれば、一歩足を踏み入れただけで皮膚が粟立ち、生理的な恐怖で引き返したくなるような秘境の境地だ。
だが、そんな手つかずの暗黒の森を、一人と一匹はまるで裏庭の庭園でも歩くかのような平然とした足取りで進んでいた。
「――よしよし、あった。『蝕心苔』だね」
巨大な古木の根元、太陽の光を完全に避けるようにして群生する、どす黒い紫色の苔の束。
コロは革鞄から取り出したピンセットと専用の採取ハサミを使い、その不気味な脈動を思わせる苔を、細胞一つ傷つけない丁寧な手技で切り分け始めた。
『名前からして碌なものではない気がしてくるな』
「鋭いね。碌でもないよ」
『フン、どれだけ長いこと傍らで見てきたと思うんだ』
「ははは、長年見てるもんね。ちなみにこれはね、お湯に溶かして蒸気を吸わせると、脳の理性を掌る部分を徐々に溶かしていく効果がある薬のうちの一つだよ」
『案の定だ』
「恐怖心や抵抗する意志そのものを奪って、どんな屈辱的な命令でも喜んで従うような、思考の空っぽな人形にするための触媒だよ」
『……チッ』
その鼻を突く吐き気をもよおす甘い臭いに、ウルは耐えかねたように大きなマズルを皺寄せ、嫌悪を込めて低く唸った。
『さっき摘んだのは、神経を過敏にさせ痛覚を何倍にも跳ね上げる根っこ』
「『舌引きの毒根』だね」
『その前に収穫したのは、自白を誘う幻覚を見せる茸』
「うん、『蜘蛛の泡茸』ね」
『そして今は、思考を奪う紫の苔か。……奴らはいったい何がしたいのだ』
ピンセットを持つ手を止めたコロは、「うーん」と唸りつつも天を仰いだ。
視界の先にはこれでもかというほどに密集した針葉樹が広がる。
「どれもこれも普通の薬師ギルドじゃあんまりお目にかかれない、違法薬物になる素材のオンパレードだよね」
『治安を守る、正義の盾などと偉そうに抜かす側が、よりにもよって人類の裏社会で喜ばれるような陰湿な毒草ばかりを集めさせるとはな。とんだお笑い草だな』
ウルの金色の瞳には、人類の掲げる「正義」や「規律」という言葉への、底知れない嘲笑が浮かんでいた。
盗賊や悪党が自らの欲のために毒を使うのなら、まだ獣の本能として理解できる。
だが、街の平和を守るはずのエリート組織が、変な訓練で思考を縛り付け、精神を破壊するための毒を嬉々として蓄えているのだから、その偽善っぷりは悪魔すら呆れるほど滑稽に映るのかもしれない。
「ふふ、言えてるね。でも、あそこではそれが『正義』なんだよ。少しでも規律からはみ出した人類を、こういった違法な薬で誘導して、尋問して、従順な人形に作り変える」
コロは切り取った蝕心苔を手際よく特殊な布で包み、遮光性の高い瓶へと滑り込ませた。
そこには同情もなければ、帝国の悪を正そうとする正義感も微塵もない。
ただ要求された品質を最高級で揃える、徹底した職人としてのドライさだけがあった。
「ま、中身がどうなろうと、約束通り報酬と寝床と食事を差し出してくれるなら、私たちは違法でも合法でも何でもいいよ。よし、これでリストの分は完了だね」
『フン、その通りだな。ルッカだからこそ、平然とした顔で続けられるのだろうな』
「まあね。ケット・シー族は人類として扱われる事をうまく利用している節があるから」
『俺達と一緒だ。くだらん人類の裏事情など、腹を膨らませる足しにもならんと考えている。よし、さっさとあの箱庭に戻り、ルッカに肉の山を用意させるとしよう』
「用意するのは事務官さんだけどね」
暗い迷いの森の湿気を振り払うように、ウルが軽やかに身を翻す。
最高峰の採取技術で集められた「悪徳の毒草群」を携え、最強の傍観者たちは極上の賄い飯が待つ養成所へと、颯爽と帰路につくのだった。
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