白雪の国境関所と、悪党たち 1 〜崩壊の足音と、雪原を爆走する金の亡者〜
1.
王都イヴァノフスクを発ってから、すでにかなりの日数が経過していた。
雪深いこの王国では、もはや乗合のソリのような呑気な移動手段など、どこを探しても見当たらなかった。
見当たらない理由は明白。
例の学院の毒殺事件によって、地方貴族たちを従わせていた「人質」である子息や息女たちが一晩にして全滅した影響は、すさまじい速度で国中へと波及していたのだ。
大事な子息や息女を失った地方領主たちの悲痛な怒りと疑心暗鬼は、そのまま王家への反旗へと変わった。
立ち寄る小さな町や寂れた村々で耳にする噂は、日を追うごとに血生臭い真実味を帯びていく。
――どこどこの地方領主が王家に反旗を翻して兵を挙げたらしい。
――跡取りを失った貴族が、子どもが無事生還した貴族を疑って、領地で殺し合いを始めたらしい。
――ついに王都の正規軍と、子どもを失った地方領主たちの連合軍で本格的な戦火が上がったらしい。
ついこの間までの秩序はあっという間に音を立てて崩壊。
権力者同士が血を洗う内戦の深みへと突入していく中、コロとウルが選んだのは、これ以上面倒な戦乱の泥沼に巻き込まれる前に、さっさとこの国を出ていくことだった。
しかし、足としては徒歩を選ぶほかない。
凍てつく北風が吹き荒れる中、膝まで埋まる深い雪をラッセルし、十数日もの過酷な旅路をただ黙々と歩き続ける。
吐く息は一瞬で白く凍りつき、睫毛には白い霜が降りる。
『……チッ。肉代は十分に稼いだが、この雪の深さと寒さは厄介だな』
「本当だね。この冬は先生のところで楽して堅実に稼ごうと思ったのが裏目に出たよ」
『俺は脚の感覚がなくなってきたぞ』
「本当だね。でも、内乱で潰し合ってる戦場の国とはいえ、ウルの背中を借りるほど切迫しているわけじゃないし、道中で薬草も手に入るし、我慢だね」
『いよいよとなったら、俺の背中に乗れ。一気に一山、二山くらいは超えてやる』
「その時はよろしくね。今はウルの温存の意味も込めて、こうして足が棒になるまで歩く方が賢明だね。ほら、ウル、見て。ようやっと見えてきたよ」
コロが手袋をはめた指先で吹雪の先を指し示す。
白く煙る雪原の向こう、険しい峡谷の合間に、頑強な石造りの砦――隣国へと続く、この国最後の『関所』がようやくその姿を現していた。
さっさと関所を抜けて隣国へ行こう。
そう息を巻いて歩を進めようとした、その時だった。
風の音を切り裂くように、背後からシャン、シャン、という賑やかな鈴の音と、ザザザッ! と分厚い氷雪を鋭く蹴立てるソリの音が響いてきた。
『……ん?』
ウルが耳をピクリと動かし、鋭い眼光を後ろへと向ける。
「どうしたの?」
『む?いや……しかしこの臭いは』
「臭い?」
雪煙を上げて猛烈なスピードで迫って来るのは、どこで手に入れたのか、オオカミのように屈強で大きな毛皮を持つ犬たちが牽く、数台の大型犬ゾリの隊列だった。
立派なソリの荷台には山のような物資が積まれ、先頭を走るソリの御者席で、分厚い毛皮に身を包んだ男が立ち上がり、ちぎれるほどに大きく手を振っている。
「おーい!!そこをトボトボ歩いてるお嬢ちゃんに、犬っころォッ!!オレだよ、オレ!! 生きてたか!!」
寒さで頬を赤くしながら、下品なほどに明るいダミ声を張り上げていたのは、コロとウルのよく知る人物――利益のためなら崩壊寸前の国にも平然と飛び込む悪徳商人、カシムだった。
「あ、カシムさんだ」
『……相変わらず生き汚いヤツだな』
「ははは、まだお金の臭いを嗅ぎつけてやったきたとは限らないよ」
『馬鹿言え。内乱で崩壊寸前の国を、満面の下卑た笑みで駆け抜けているんだぞ。金の匂いにつられてやってきた以外に何がある』
「……ないね」
犬ゾリの隊列は一人と一匹の目の前でザザッ!と見事な手際で急停止する。
犬たちの荒い息遣いと白煙が舞う中、カシムは荷台から飛び降りると、凍えそうな寒さの中でも手放さない算盤をカチカチと鳴らしながら嬉々として駆け寄ってきた。
「いやぁ、まさかこんな崩壊寸前の国の関所の手前で会えるとはな!」
「久しぶりだね、カシムさん。元気そうで何よりだよ」
「おう!元気も元気!王都のあの事件の後、各地で反乱の火の手が上がってよぉ、「こりゃ金の匂いがプンプンするぞ!」とピンと来てな、金になる代物をかき集めて、このカシムさんが馳せ参じたところだ!」
二イッと満面の笑みを浮かべるカシム。
コロは小さく肩を竦めながら「うん、知ってた」と答えた。
「で、お嬢ちゃんと犬っころはこんな物騒な国で何してたんだよ?」
「王都のイヴァノフスクで割の良い仕事があってね、本当は春まで滞在しようと思ってたんだ」
「あーあ、そりゃ大変だったな!」
「まあね。私たちが王都を出た後も、あちこちで戦火が上がってるみたいだね。私たちは徒歩でここまで逃げてきたんだよ。にしてもカシムさん、その立派な犬たちとソリ、どこで手に入れたの?」
「俺の恋人は金だからな!愛するヤツの動きなんざ、手に取るように分かる!ってな!各地で反乱が起きてパニックになった交易商が手放しそうになってた犬ゾリ隊を、底値の底値でごっそり買い叩いてやった!」
カシムは得意げに鼻を鳴らす。
ウルはその調子のいい商人を冷めた目で見下ろし、喉の奥で低く唸った。
『フン。人の死地を商機に変える嗅覚だけは、相変わらず魔物以上に優れているようだな。これでは死肉に群がるハゲタカだ』
当然、テイマーではないカシムにウルの『言葉』そのものは理解できない。
だが、死線を幾度も潜り抜けてきたこの悪徳商人は、魔狼の呆れたような視線と間合い、そして微かな鼻息のトーンだけで、なんとなくそのニュアンスを察知してしまうようだ。
「へへっ!犬っころも『最高の仕入れの手際だ、さすがは最高の商人カシムだ!』って褒めてくれてるみたいで光栄だぜ!報酬はねえけど、褒め言葉として受け取っとくぜ!」
『おい、誰もそんなことは言っていない。コロ、コイツは馬鹿だ』
「でもカシムさん、どっかの領都とかじゃなく、こんな国境の関所に向かって、何をとんでもなく急いでるの?」
コロの疑問に、カシムはギョロリと目を輝かせ、声のトーンをひそめて商売人の顔つきになった。
「いいかお嬢ちゃん、各地の反乱から逃げ出そうとしてるお貴族様たちが、今、我先にと隣国へ逃げ出そうとしてる。その大半が、あの門のすぐ先にある関所の峠で雪崩と大雪と混乱に阻まれて立ち往生してんだよ。関税も機能しちゃいない、まさに無法地帯の特売会場さ!」
「へえ、並んでたわけじゃなくて、あの関所でみんな詰まってるんだね」
「そこでだ!お嬢ちゃんの腕なら、この雪山に生えてる『氷苔』をゴッソリ集められるだろ!?良いところまで乗せてってやるからよ、今すぐそれを徹底的に採取してこいよ!そうすりゃあ、あそこの関所辺りで、お貴族様どもの財布を空っぽにするくらい大儲けできるぞ!!」
カシムの提示したあまりにも明確で鮮やかなビジネスチャンスに、コロは氷藍色の瞳をパッと輝かせた。
「氷苔を?なんでそんなものが大儲けに繋がるの?この辺の雪国ではありふれた薬草だよ」
「甘え!百聞は一見に如かずだ!国外脱出しようとしてるくらいだ、どうせ暇だろ?」
「まあ、忙しくはないね」
「な?よし、ほれ、うちのキャラバンの後ろを見てくれよ!」
カシムに促されるまま、犬ゾリの隊列の中央にある、分厚い幌に覆われた大型の荷馬車――ソリ仕様に改造されたその荷台を覗き込んだコロとウルは、室内に漂う異様な空気に思わず眉をひそめた。
幌の中は、外の極寒の世界とは別天地だった。
魔導具の火のバーナーがゴウゴウと熱気を吐き出し、ツンと鼻を突く刺激的な薬草の香りが充満している。
だが、それ以上に強烈だったのは、狭い車内にモウモウと立ち込める、紫煙の独特な匂いと――きつい酒の臭いだった。
「おい、そこ!風を入れるな、温度が下がる!次の雪を入れな、ほれ、早く!」
低くハスキーな、しかしどこか鈴の音を思わせる艶やかな声が響く。
作業台の上、フラスコや蒸留器の立ち並ぶ真ん中で、太い葉巻を口の端に咥えて紫煙を吐き出していたのはフェアリー族の女だった。
背中の半透明な羽をイライラとした様子で微かに震わせ、目にも留まらぬ手さばきで作業を続けている。
その整った顔立ちの右半分には、まるで呪文か幾何学模様のような、奇妙で魔術的な入れ墨が青黒く刻まれており、妖艶な容姿に裏社会の危険な凄みを持ち合わせていた。
「ほれ、姐さん。注文通りのラム酒ですよ。これ、めちゃくちゃ酒精が高いやつだから気をつけてくださいよ……」
「遅いよマイク!喉が渇いて魔力が鈍るところだったじゃないさね!」
チェルシーと呼ばれたフェアリー族の薬師は、キャラバンの下っ端らしき人間族の若い男――マイクの手から無骨な酒瓶をひったくるように受け取ると、グラスに注ぎもせずにラッパ飲みで豪快に煽った。
「なあ、姐さん?まだ昼間なのにその瓶でもう三本目ですよ……。いくら何でもペースが早すぎませんかね?」
「カーッ!女みたいにいちいちうるさいねぇ、アタシの魔力は酒と葉巻で回ってんだよ!ほら、次! 灰が落ちるだろ、灰皿を近くに寄せな!」
「あ、葉巻の灰ですか?はいはい、今やりますよ。灰が気になるなら吸わなきゃいいのに……」
この如何にも『ならず者』なフェアリー族のチェルシーが放つ、圧巻の気迫と鋭い眼光に完全にアゴでこき使われ、甲斐甲斐しく灰皿や雪を運んでいる若造の姿に、コロは思わず目を丸くした。
「すごいね……なかなか強烈な薬師がいたもんだね」
『……フン。あの男、完全に個としての格付けと気迫で負けているな。情けない若造だ』
ウルが呆れたように鼻を鳴らす中、チェルシーは再び作業台に向かい、ソリの周囲からかき集めた『その辺の適当な雪』を大きな銅鍋に放り込んだ。
瞬時に不純物を沈殿させると、隣に積まれた『氷苔』の繊維をすり鉢で荒く潰し、顔の右半分の入れ墨を微かに発光させながら絶妙な魔力調整を施し、次々と透明で青く輝く液体――高品質な『耐寒ポーション』へと精製し続けていく。
「うわぁ……でも、すごい手際だよ」
その驚異的なスピードと抽出の美しさに、プロの採取家であるコロは再び感嘆の声を漏らした。
ただの適当な雪の水と、あまり質の良くない氷苔から、酒を煽って葉巻を燻らせながらここまでの高純度な薬効を引き出す手技は、その辺にいる薬師どころか、王宮などで召し抱えられる一流の薬師たちにすら匹敵――いや、それ以上かもしれない。
「凄い人がいるもんだね……。こんなその辺の適当な雪と質の良くない氷苔から、この純度のポーションを、こんなひどい環境で、これだけのスピードで精製するなんて」
『お前がそういうくらいだ。余程なんだな』
「うん。……でも、これ程の凄い人が、なんでまたカシムさんのこんな悪徳キャラバン隊にいるんだろうね」
『……弱みだな。顔の妙な刻印といい、王宮の追手にでも追われているのかもしれん。酒と葉巻の現物支給で釣られているだけという可能性もあるがな』
「まぁ、弱みを握らてはいるんだろうけどね」
コロの率直すぎる感想に、カシムは「人聞きの悪いこと言うなよ!」とガハハと笑いながら算盤を弾く。
「おいおい、そこの不躾なガキンチョのお嬢ちゃん!アタシの手際に惚れるのは勝手だが、このカシムのド悪党と同列に語るんじゃないよ。アタシはただ、この男の方が『話が早かった』からここにいるだけさね」
チェルシーは、葉巻を口に咥え直すと、顔の右半分の入れ墨を歪めるように不敵に笑い、マイクに指示を出しながら、精製したばかりのポーションを別の液体で手際よく薄め始めた。
「……あ、薄めてる」
「へへっ、そうなんだよお嬢ちゃん!このチェルシー先生はな、腕が良すぎるが故にな、前の職場じゃあ最高品質のポーションを精製しちゃあ、それを薄めて普通の品質にして納品し、掠め取った最高品質の特級品を勝手に闇市で売り捌いて個人的に懐に入れてやがったのさ!」
『とんでもない悪癖だな。ただの泥棒ではないか』
ウルの呆れ顔を「最高の褒め言葉」と受け取ったカシムは、胸を張って算盤をパチンと叩いた。
「だがよぉ、組織の金をチョロまかすその度胸と、バレずに最高品質を薄めるその技術、俺は最高にシビれたね!だから前の組織にバレて追われそうになってた先生を捕まえて匿って、こう言ってスカウトしてやったのさ!『どうせ売り捌くなら、そこいらのケチな闇市じゃなくて、商売のプロの俺が倍以上の値をつけて売り捌いてやるから来いよ!酒も葉巻も、専属の雑用係も用意してやる!』ってな!」
「あはは!さすがカシムさん、発想が普通の商人と全然違うね」
組織の横領犯を、さらに大きな利益を生むためのパートナーとして大歓迎する。
その常軌を逸した金の亡者っぷりに、コロは思わず吹き出してしまった。
対するウルは、完全に呆れたようでため息をついた。
チェルシーはニヤリと口角を上げながら、咥えていた葉巻をプッと外に吐き捨てた。
「そういうこった。お陰でアタシはバレないようにする手間を減らして、思う存分最高品質を作って薄められるし、この男がアタシの望む通りの大金を運んでくる。ウィンウィンの関係ってやつさね。……おい、マイク!突っ立ってないで、アタシがポーションを詰めるための遮光瓶を並べな!」
「へいへい、ただいま!」
チェルシーは満足げに葉巻の煙を吐き出し、クスクスと鈴を転がすように笑う。
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